第三章(左手の過去)3

三.

ホテルのレストランは、西洋料理を中心に、日本料理も提供していた。日本料理は外国人観光客が好んで食べた。西洋料理は、フランス料理、イタリア料理、そして、ビーフステーキにハンバーグもあれば、お子様ランチもあった。客からの注文の比率は、価格の反映も含めて、フランス料理より、イタリア料理とその他の料理の比率が高かった。つまり、ホテルに勤めるコックにとってフランス料理を作る機会は多いとは言えなかった。すなわち、フランス料理を学ぶ機会が多いとは言えなかった。それだけに、了治は、関元からフランス料理を学べることに大きな期待を抱いていた。そして、ある日の午後、

「安森君。遅くなったけど、今夜、第一回の料理指導をやるから」

と言われた。


了治は、助手になってから、まだ一カ月も経たないのに関元から信頼されていた。理由は、抜け殻のようになっていた関元を了治が立ち直らせたからだった。関元は、心に脆いところがあり、ふとしたきっかけで、そのような状態に陥ることがあるのだった。その場合、沈んだ気持ちが自然に回復するまで待つしかなかった。本人にも周囲の人間にも、どうすることもできなかった。それを、了治が、ショック療法として発した言葉で、すぐに立ち直らせた。まるで手品のように心の状態を改善した了治のことを、関元が頼るようになったのは自然のことだった。


忙しい一日を終えて、調理台の前で了治は関元が来るのを待っていた。

「待たせてしまって、すまない。今日も会議が長引いて」

と言いながら、関元は食材を手にして厨房に入ってきた。関元が用意した食材は、野うさぎだった。関元は調理台に野うさぎを置いた。了治は、白い毛の小さな野うさぎを見て、食材というより、亡骸という印象しか持てず痛々しかった。

「副主任。大変申し訳ございませんが、私が野うさぎの料理を作る機会なんて、この先、あるのかどうかも分かりません。そう思うと、もう少し一般的な料理のほうがいいように思うのですが?」

と尋ねた。

それに対して関元は、こう言った。

「日本で一般的と言えば、牛、豚、鶏だが、安森君は、その動物たちを料理していて、命を奪っているという実感が湧くだろうか? 慣れてしまっていて、あくまでも、食材としか思わないだろう。今、この野うさぎを見て、君はどう思った?」

「亡骸だと思いました」

「そうだ。命を奪われた野うさぎの亡骸だ。この野うさぎは北海道から入手した。つまり、この野うさぎは北海道の野原で生きていた。まさか、今、都会の真ん中にあるホテルの調理台に自分が置かれているとは思っていないだろう。動物を食べるためには必ず動物の命を奪う必要がある。安森君。僕らはそういう仕事をしているんだ。分かるかね?」

「はい。今、この野うさぎを見て、痛感させられました」

「その気持ちを、これからも忘れないように。そして、我々の仕事は、常に命と向き合っている仕事だということを自覚して欲しい。野菜だって同じ命だ。料理はとかく、美味しいもの、美しいものを創造する仕事だと思われがちだ。でも、根本にあるのは、命と向き合う仕事だということを、常に忘れずに謙虚であって欲しい」

関元はそう語った。それを聞いて、了治は、関元とは、精神性の高い人であり、心の脆さも、そういうところに起因している気がした。


それから、実際に、野うさぎの背肉のロティを作った。野うさぎの背肉に豚の背脂を注入してオーブンで焼き上げる料理だが、出来上がるまでの工程は複雑で、その調理は、了治の手に負えるものではなかった。だから、大部分を関元が調理した。白い毛のついた皮はきれいにはぎとられ、背肉からスジを取り除く包丁さばきは、あくまでもスムーズだった。そして、関元はこう言った。

「安森君が、料理を本当に上手くなりたいと思うなら、上手くなろうと思わずに、命と真摯に対話するんだ。それができれば、君は必ず、料理が上手くなる」


了治は、寮に帰って、ベッドに入ってからも頭が冴えて眠れなかった。了治は、この日、関元を初めて知ることができた。精神性の高さとともに、関元の高い技術は、生涯をかけても、了治が追いつけるものではないと思った。だからこそ、了治は、この日から、関元を深く尊敬するようになった。


了治が副主任助手に就任してから、あっという間に日が過ぎ十一月になった。その間、関元の助手として、日々の業務に従事し、週に一度のペースで料理指導を受けた。了治は、充実した日々を過ごしていた。羽津恵との未来にも明るいものを感じていた。関元も、了治という助手を得たことによって、タフになった。関元にとって了治が精神的支柱の役割を果たしていたからであった。関元の心の脆さを支える了治という助手を得て、関元は、勢力的に仕事に取り組むことができるようになった。了治は、一匹狼型の人間だから、ボスを持たない。だから、右山のように、関元を神様と仰ぐこともない。もちろん、関元のことは、これまで出会ったどの人物よりも尊敬しているが、その関元であっても、自らのボスとは見做さない。料理人だけに師匠というべきであれば、師匠とは見做さない。了治は、常に自分が一番だった。そして、常に自分が一番と思える了治が、関元には頼もしかった。

了治は、関元の助手以上の存在として皆から信頼されるようになった。

「関元君の今の活躍は安森君がいなければない。このことは、安森君への評価として我々も捉えている」

総料理長からの言葉だった。

「関元さんは、副主任なのに助手の了治君に頼りきりだって。接客係のみんなが言ってるわ」

この前、二人で映画を見に行った時に、羽津恵からも、そう言われた。


だが、了治が助手になったことによる関元の変化が、良い結果をもたらしたのは、ほんの僅かの間だけのことだった。関元の変化とは、了治の存在によって彼の心の脆さが無くなったことであったが、それは、関元が強い人間に変わったことも意味していた。そして、それが問題の始まりだった。


これまでの関元は、後輩コックの泣き言も愚痴も聞いた。キャリアのある関元からすれば、どうでもいいような話でも聞いた。このことにより、多くのコックが救われてきた。そして、精神的に不安定なところがあり、アルコールの助けまで借りている関元であっても、皆から大きな信頼を得ていた。それが変わった。後輩コックの話を聞かなくなった。愚痴も泣き言も言うなと叱責するようになった。皆、関元に失望した。そして、職場の人間関係がギスギスしたものになった。


更に、皆が驚いたのが、右山に冷たくなったことだった。厨房で、右山の味方は了治と関元しかいなかった。了治は同期であるだけだが、関元は副主任だった。右山にとって自分を守ってくれる最大の保護者だった。その関元が、右山を疎んじ始めた。デミグラスソースについては引き続き作らせた。ホテルの味を守るため、しっかり指導した。だが、関元が右山と接するのはその時だけになった。以前は、右山が厨房で孤立しているのを見ると、すぐに声をかけていた。関元とは、そういう優しさの持ち主だった。それが変わった。


ある日、了治が調理台の掃除をしていると、椅子に座った関元が呟いた。

「安森君。私が、いつまでも、副主任っていうのはどうかと思うだろ?」

了治は、聞こえなかったふりをしてその場を去った。

了治は、勢力的に働く関元を見て感じていたことが、たった今、言葉になったと思った。関元は、人間的に強くなるに従って俗欲が出てきたのだ。心が脆い時の関元は、自らに精神的な限界があるため、世俗的な欲望を抱くことなどなかった。彼は諦めていた。そして、関元は、上を見るのを諦めた視線を下に向けた。後輩の泣き言、愚痴に耳を傾け、右山を憐れんだ。心に脆さがあるからといって、誰もが、関元のように視線を下に向ける訳ではない。関元だから弱い者に目を向けたのであり、これこそが関元の本質だった。真に優しい人だった。それが野心を持った結果、下を切り捨て、上を目指すようになったのだ。

了治は、関元の呟きを聞き、反射的に、右山は、これからどうなるだろうと彼のことを思い浮かべた。そして、急いで厨房に行くと、右山は、つまらなそうにピーラーで大量のニンジンの皮をむいていた。了治に気づくと、

「助手は楽しい?」

と聞いた。

了治は、何も言えなかった。


仕事が終わってから、料理指導を受けている時だった。その日は、仔羊のコートレットを作っていた。この料理は、石村が過去に何度か作っているところを了治も見たことがあった。その時だった。関元は了治にこう言った。

「安森君にも、デミグラスソースを作ってもらう」

「でも、デミグラスソースは右山が?」

「右山君には引き続き、デミグラスソースを作ってもらう。もう一人、作れる人材を育成しようと、私が会議で提案したんだ。宗田さん始め、皆が賛成してくれた」

正式な決定があってのこととはいえ、了治は気が重かった。デミグラスソースを作るのは右山だけでいい。デミグラスソースを作ることは、右山を支える唯一のプライドだ。俺が作ってはいけない。もし、誰かが作るとすれば、

「俺も右山と同期です。キャリアの浅いものばかりじゃなく、先輩にやってもらったほうがいいと思うのですが?」

と提案した。

「安森君。先輩達を馬鹿にしてはいけない。彼らは皆、作れないんじゃなくて、作ってはいけないと言われているから、作らないだけだ。皆、材料も知っている。作り方も知っている。一流ホテルに勤めるコックだ。離れたところからでも、デミグラスソースを作っているのを見ていれば、自然と覚える。だから、作り方を知らない君を選んだんだ」

了治は関元の説明に返す言葉がなかった。

しばらく沈黙の後、了治は尋ねた。

「では、改めて、お聞きします。俺だけじゃなくて誰もが疑問に思っていることです。関元さんは、何故、右山にデミグラスソースを作らせることにしたんですか?」

関元は、煩わしそうな表情をして答えた。

「右山君は、何も出来ない。このままではホテルをクビになる。でも、デミグラスソースの作り方を覚え、その係にすれば、クビにされることはないと思ったからだ。彼は、いささかドジだが、味覚は良い。だから、一人前になるまでの時間を確保してやるつもりで、デミグラスソースを作らせることにしたんだ」

「その話を聞いて、ほっとしました。俺はよく仕事中に右山を助けることがあります。でも、そのことが本当に右山のためになるのかと疑問に思っていました。それが、今の副主任の話を聞いて、俺のしていることは間違っていないと思えました。仕事だからといって、助けることを遠慮することはないんだって」

「もうその話はいい。君の話しをしよう。右山君がデミグラスソースを作っているのに、同期の君までソースを作り始めたら、彼のプライドが傷つくことを君は心配しているんだろう。その気持ちは分かるが、安森君、君はそんな甘いことを考えていられる立場なのかな? 副主任の私が右山君に同情するのと、同期の君が右山君に同情するのでは意味が違う。君は少し仕事ができるからと自惚れているんじゃないのか? このホテルには一体、何人のコックがいると思っているんだ。そして、そのほとんどが、君よりキャリアも技術も上なんだ。君はこの厳しい競争の中を勝ち抜いていかなければならない。その君が、同期のために、デミグラスソースを作るのをやめる? 安森君。君の言っていることは正しいのかな?」

関元は、いつから、こんなシビアなことを言うようになったのかと了治は驚いた。だが同時に、彼の言っていることは正しいと思った。競争に勝ち抜かねばならない。でなければ、右山も言っていたように生き残れないからだ。

了治の表情の変化を見た関元は、こう言った。

「分かってくれたようだね。右山君と同じデミグラスソースを作ることについては、こう考えてくれればいい。もし、彼が病気になった時など、不測の事態に備えて、君もデミグラスソース作りを覚えるんだ」

「俺はそう思えたとしても、右山が傷つくことには変わりません。それに、関元さんの話は、何か違う気がします」

「安森君。貪欲になれ。今までの君はもっと貪欲だったじゃないか。デミグラスソースの作り方を覚え、その係になれば、右山君と同じで、君のこのホテルにおけるポジションは確固たるものになる。そして、君なら、それを足掛かりに、副主任、そして、主任、更には、将来、総料理長も目指せる。君にはそれだけの才能がある。考えてもみろ。総料理長と副料理長が、ただ若いというだけで、君を私の助手に選んだと思うか? 若くて、なおかつ、才能があるから、君はその若さで私の助手に抜擢されたんだ。そして、今、私と二人三脚のようにしてお互い活躍しているじゃないか? 私は、プライベートな話はしない主義だが、あえて言う。君はもうすぐ結婚するんだろう? 接客係の女性とともに家庭を持ち、子どもを授かることになるはずだ。子どもの養育費、そして、将来、大学に進学する場合も、全てにお金がかかる。少しでも多くお金を得るためには出世しなくてはならない。これだけの話を聞いて、それでも、デミグラスソースは作りませんと君は言えるか?」

了治は思った。まるで脅迫じゃないかと。だが、またしても、彼の話は否定できない事実を語っていた。了治は、圧倒的な事実を語る関元の前に屈するように言った。

「分かりました。俺もデミグラスソースを作ります」

最後に、了治は関元に尋ねた。

「関元さんは、今でも、右山のことを守ってやりたいと思っていますか?」

関元はしばらく考えてから、こう答えた。

「安森君。人間は上を見て生きるのが自然なんだと、この歳になって、私はようやく気づいた。もっと若くに気づいていればと思ったが、まだ間に合う。私はそう信じている」

了治は、関元にした質問を愚問だと後悔した。関元は別人になったのだ。了治はそう思うしかなかった。


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