第三章(左手の過去)2

二.

厨房の奥の少し離れた場所に関元が使う専用の調理台があった。その場所で、了治は、関元に挨拶をした。関元は笑顔が印象的な男だった。とても優しい笑顔であり、同時に、繊細さを感じさせる笑顔だった。

「料理とは、人が作り、食べた人が喜んで初めて完結するものです。そして、私は、作り手を育てる役割を担っています。大変重要な仕事です。同時に、私にしかできないことがあると自負しています。若い安森君が新しい副主任助手となったことにより、私は、自らの職責の重さを、改めて、感じています。安森君。ともに頑張りましょう」

了治を前に関元は、こう話した。本来なら、含蓄のある話だったが、関元からアルコールの匂いがしたため説得力がなかった。


了治も副主任助手としての業務に従事した。先輩コックばかりの厨房で若手の了治が指示を出すのには気を遣った。それに、通常は、関元が様々な指示を出して、その補助をするのが了治の役目だった。多賀がいた時はそうだった。だが、多賀が辞めて以降、関元は自分の調理台のところに座って何もしようとしない。

「安森。悪いが、お前から関元さんに、ちゃんと指示を出すように言ってくれ。石村さんは会議で抜けることが多い。多賀が辞めてから、ずっと指示がなくて、困ってるんだ」

先輩コックの一人に言われた。

了治は「分かりました」と関元のところに向かった。でも、実は、了治は関元とほとんど話をしたことがなかった。副主任助手就任の挨拶の時が初めてだったかもしれない。それだけに、了治は緊張した。

「関元副主任。厨房で指示が欲しいと皆、待っています。お願いします」

と、了治は関元に言った。

「すまないが、どうも力が湧かなくて。もう少ししたら行くと伝えておいてくれないか」

関元はそう答えると、そのままぼんやりしていた。

酷い脱力感に襲われていることが了治にも分かった。多賀の独立がそれだけショックだということも分かった。だが、了治はこう言った。

「みんな困ってるんです。厨房も困っています。石村主任も困っています。総料理長と副料理長も困っています。それに、右山だって、デミグラスソースを作りたくても、関元さんの指導の下じゃないとできません。そして、俺も困っています。副主任助手の仕事なんて何をしたらいいのか分かりません。それに、助手になれば、関元さんから直接、フランス料理の指導をしてもらえるはずが、まだ何も教えてもらっていません。関元さん。多賀さんが独立したことでショックを受けていることは分かりますが、ぼんやりしている時間はありません」

了治は、かなり大きな声で関元に言った。だから、厨房にいる人間にまでその声が聞こえた。そして、皆、了治があまりにも直接的な抗議をしたことに驚いた。

関元も驚いた。そして、言った。

「多賀君が、突然、独立したことのショックが、どれほど大きいか。君に分かるはずがない。彼の将来に口出しはできない。でも、私は裏切られたとしか思えないんだ……」

「副主任の気持ちは分かる気がします。でも、分かったところで、副主任の心に空いている穴を俺に埋めることはできません。俺だけでなく誰にも埋めることはできません。副主任が自分で自分の心の穴を埋める以外ありません」

関元は、その言葉に思わず了治の顔を見た。

「そんなことは分かっている。別に君に埋めてくれなんて頼んでいないよ」

「それなら、早く心の穴を埋めて厨房に来てください。業務が滞っています」

関元は呆れた顔で了治を見ていたが、諦めたように立ち上がった。

そして、

「今の君の言葉で、私の心の穴はもう埋まったよ。傷口に塩を塗り込まれすぎると、どうやら痛みも忘れるようだ。お望み通り、厨房に行くよ」

と、了治に向かって皮肉を言うと厨房に向かった。


その日から、関元は、再び仕事をするようになった。了治の言葉が効いたのだろう。関元に向かって意見のできる人間は、厨房にはいない。石村や宗田、田本は意見できるが、関元は人の話を聞かないところがあった。だから、了治の言葉で関元が動いたことは驚かれた。だが、了治は関元に意見を言える人がいないことを知っていた。だから、ショック療法の意味で、あえて、厳しいことを言ったのだ。ただ、関元を怒らせて助手をクビになる可能性もあった。それでも、ああ言うしかなかった。関元が立ち直らないと、了治は助手になった意味がないからだった。了治は今回の助手抜擢にそれだけかけていた。

「関元さんには、バシッと言ったほうがいいんだな。俺にはできないけど」

「若さは偉大だ。怖いもの知らずだから。安森、変に大人になるなよ」

先輩コック達が言った。

関元は、厨房に手早く指示を与えると、右山に、後でデミグラスソースを作ることを命じた。すると、それまで笑っていた先輩コック達が嫌な顔をした。

「安森も腹が立つだろ? お前のほうが優秀なのに、何で右山だけにデミグラスソースを作らせるのか?」

「別に腹は立たないですが、俺も教えて欲しいとは思います」

先輩コックと了治がそんな会話をしている間、右山は嬉しそうに茹でたじゃがいもの皮をむいていた。


関元が、副主任として元通り働くようになってから、一週間ほど過ぎた。この日は、昼から一階の大広間で披露宴があった。そのため、厨房も忙しかった。了治がホテルに勤めていた頃は、同じような大きな規模の披露宴がよくあった。結婚式と披露宴は行うものという社会認識が強かった時代だった。それに景気が安定していたことも関係していたかもしれない。

夕方にようやく少し休憩時間があった。休憩室では、コック達がコック服を脱いで、汗に濡れたTシャツを着替えて、冷たい飲み物を飲んでいた。

「関元さん。今、右山とデミグラスソースを作ってるのか?」

「ああ。何であんな奴、あんなに可愛がるんだろう? 出来の悪い子ほど可愛いっていうのと同じ感じなのかな?」

「そうなんじゃないのか。見ていると可哀そうになるんだろう。そこが、関元さんの良いところでもあり悪いところでもある。優しいというか、甘いというか」

先輩コック達がまた右山のことを言っていた。

「安森。お前のほうが何でもできるんだぜ。副主任助手になったんだから、僕にもデミグラスソースを作らせてくださいって直訴しろよ」

了治には、先輩コックが自分の気持ちを彼に仮託して言っているのが分かった。でも、了治は、右山の立場で考えてしまうので、何と答えていいのか分からず困っていた。すると、知らぬ間に、話題が、新しくオープンしたイタリアレストランの話に移っていた。まだ誰も行ったことがないにもかかわらず、あれこれ批評していた。了治は、話には加わらず、休憩室を後にした。


休憩の間に、分からないことを質問しておこうと、関元のところに向かった。厨房に入ると、右山がデミグラスソースを作り、関元が指導していた。もうソースが完成していると勘違いしていた了治は、自分の気持ちが急いていることに気づいた。「そんなに早く出来るはずがないか」と了治は呟いた。そして、入り口のところから、二人の後ろ姿を見ていた。右山の横顔が見えた。その横顔は、いつもの右山とは違った。真剣だった。了治は、その真剣な表情から、右山が、デミグラスソース作りにかける意気込みを知った。他に何もできない右山にとって、このソース作りが、全てなのだということが分かった。同時に、隣にいる関元を見て、右山にデミグラスソースを作らせている理由は、やはり、何もできない右山への同情なのだろうと了治も思った。彼は、デミグラスソースを作っている二人に声をかけず、黙ってそのまま厨房を出た。


夜、ベッドに横になって、ドラマティックスのアルバムを聴いていると、右山が入って来た。右山は部屋の真ん中に座ると、

「何で覗いてたんだよ? デミグラスソースを作るところ、隠れて見てただろう」

と、了治をにらんだ。

了治はすぐに、

「副主任に聞きたいことがあって、厨房に入ったんだ。デミグラスソースを作っていることを忘れてた。すまない」

と謝った。

だが、右山は、

「だったら、すぐに厨房を出て行けばよかっただろう。安森。お前、しばらく見てただろ?」

と追及をやめなかった。

ベッドに座って右山の話を聞きながら、了治は、こう言った。

「右山と関元さんの二人を見てたら、これが師弟関係なんだなって思ったんだ。ちょっと羨ましくなったんだ」

途端に、右山は笑顔になった。

「師弟なんて大袈裟だぜ。それに、師弟っていえば、お前だって、助手になったんだから、同じ師弟じゃないか。何で羨ましがるんだよ」

右山は、子どものように喜んで言った。

そして、機嫌の直った右山に了治は、

「デミグラスソースを右山にだけ作っていいって関元さんが言うのは、やっぱり、お前に見込みがあるからだろうな」

と尋ねてみた。

すると、右山はこう打ち明けた。

「それが俺にも分からないんだ。お前も覚えていると思うけど、一年半ぐらい前だった。急に関元さんが、俺を呼んで、私の指導の下、これから、お前にもデミグラスソースを作らせる。しっかりやるように。こう言われただけで、理由とかは何も分からないんだ。了治には正直に言うけど、結局、出来の悪い俺を、関元さんが、可哀そうに思って作らせてくれてるだけなんじゃないかな? 本当は、先輩達のほうが、相応しいんじゃないかって不安に思うことがある」

了治はその話を聞きながら、右山の気持ちがよく分かった。今の了治も同じだった。先輩コック達が、助手になるのを断ったから、自分が助手にならざるを得なかったとはいえ、この若さで副主任助手になった事実を重圧に感じない訳にはいかなかったからだ。

「右山。大変だけど、大きなチャンスだ。お互い頑張ろう」

了治の言葉に右山は頷いた。そして、

「生き残らないとな」

と、これまで聞いたことのない切実な言葉を口にした。

「俺も同じだよ」

了治も言った。


右山が自分の部屋に戻ってから、了治は、先ほど、右山と話したことを改めて考えた。そして、副主任助手に抜擢された自分より右山のほうが、厳しい立場に置かれている気がした。了治は、多賀の件があったため、あえて若手のコックを副主任助手にするという方針の下、正式に辞令が出た。そのことを不愉快に思っている先輩コックがいても、ホテルが決めたことだけに従わざるを得ない。でも、右山の場合は、あくまでも関元の優しさだけで、デミグラスソースを作っている。そこに、明確な根拠はない。了治は、今日、休憩室で、先輩コック達が、右山のことをしきりと話していたのを思い出し、その気持ちが、ようやく理解できた。それは、妬ましいという気持ち以上に、不公平であることへの苛立ちだった。了治のように辞令が下りた訳でもなく、関元の憐れみだけで、右山がデミグラスソースを作らせてもらっていることは、先輩コック達から見れば、えこひいきでしかない。了治は、関元の優しさが、かえって、右山を苦しめているところもあるのではないかと思った。業務命令で動く了治は調理場でも堂々としていられる。それに対して、関元の優しさだけを頼りにデミグラスソースを作っている右山は、常に、肩身の狭い思いをしている気がした。

「優しさか。危ういものだな」

了治は、一人呟いた。

そして、それが関元の人間性そのものだと思った。

つまり、関元の優しさは、常に、公平性を欠くということだった。


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