第三章(左手の過去)

一.

高校を卒業して安森了治は都会に出た。そして、ホテルに就職した。そのホテルはレストランで有名だった。そこにコックとして勤めて、修業を積んで一流の料理人になることが了治の夢だった。了治は高校生の時、近所のレストランでアルバイトをして料理に目覚めた。ホテルのことは、その時、知った。そして、高校三年生の時、故郷から電車に乗って都会にあるホテルに向かった。レストランの総料理長に会い、「俺は、まだ料理について何も知りません。でも、これからの人生をかけて料理の全てを知りたいと思っています。そして、それができるのは、このレストランしかないと思っています。だから、ここで働かせてください」と言った。その意気込みを買われ採用が決まった。簡単に従業員を雇わないことで有名なレストランでは、異例のことだった。


それから歳月が流れ、了治がホテルに勤めて六年目、彼が二十五歳の初夏のことだった。総料理長の宗田の部屋に了治は呼ばれた。部屋には副料理長の田本もいた。

宗田が言った。

「安森君も知っての通り、多賀君がホテルを辞めてから、副主任助手の席が空いたままになっている。四月に就任させなければならなかったのに決まっていない」

了治の勤めるホテルの厨房には、調理場主任と調理場副主任がいた。総料理長と副料理長は、対外的な仕事が多いため、調理場主任が、実質的なリーダーだった。石村というベテランが担当していた。調理場副主任は関元という同じくベテランが担当していた。副主任助手は多賀というコックが担当していたが、突然、退職した。

次に、田本が話し始めた。

「多賀君の後任を決めなければならないのだが、その話をすると、皆、断るんだ。副主任助手になることが嫌だからではなくて、多賀君がホテルを辞めた今、副主任助手になるのが嫌だって言うんだ」

了治は田本の話を聞きながら、先輩コック達が、副主任助手の話を断る気持ちが分かった。田本は肝心なことに触れていない。皆が嫌がっているのは、今の関元副主任から指導を受けるのが嫌だと言っているのだった。


副主任の関元愁は、五十代半ばの男だった。関元が現在、就いている副主任とは、単純に主任の次席ではなく、指導者の育成という役割が含まれていた。関元は、人材育成にも長けていた。人材育成とは長期的には、将来のリーダーの育成であり、短期的には、厨房で若手の指導を行うなど、現場での即戦力としてのリーダーの育成のことだった。副主任助手は、関元から、二年から三年の短期間でリーダー教育を施され、次のコックに交代するシステムになっていた。そして、このシステムは順調に運用されていた。ところが、多賀が問題を起こした。多賀は優秀だった。二年で次のコックに交代することになっていた。だが、交代する直前、多賀は友人に誘われて、フランス料理の店を共同経営すると言って、突然、ホテルを辞めた。多賀の友人も、他のホテルで働いていた優秀なコックだった。宗田も田本も、多賀の突然の独立に立腹したが、それ以上は追及せず諦めた。料理の世界において独立の問題は常にあることで、最終的には、本人の意志を尊重するしかなかった。多賀もホテルとの人的物的交流を失うことを覚悟で独立した。多賀にも相当な損失があった。そう考えるしかなかった。主任の石村もそう考えた。だが、関元は違った。当初、多賀を罵った。その後、落胆して、抜け殻のような状態になり、それが三カ月も続いていた。関元の致命的な弱点だった。彼には生来、心に脆いところがあった。ふとしたことがきっかけで、彼の脆い心が壊れることがこれまでにも度々あった。ただ、今回のように三カ月もその状態から脱することができないことはなかった。その意味では、今回は重症だった。関元はアルコールにも頼っていた。いつも彼が使う調理台の引き出しにはウイスキーの小瓶が入っていて、時々、口にしていることは皆も知っていた。だが、関元自身も酔うほどの量は飲まないようにしていた。でも、今回は違った。明らかに酔っていた。先輩コック達が、今の関元に近づきたくないのは当然だった。


宗田は、黙って関元のことを考えている了治に言った。

「今の関元君は、多賀君の突然の独立に落胆している。でも、副主任助手に就かせる対象の三十代というのは、どのホテルでも、コックが独立するのが多い年代だ。三十代半ばから四十歳ぐらいの間だ。だから、今度も、従来通り、多賀君と同年代のコックを副主任助手に就かせると、再び、独立する可能性がある。たとえ、今、独立開業しないという確約を取っても、二年後、三年後にはどうなっているか分からない。関元君は頭がいい。それだけに、常に先回りして考えてしまう。今、彼がひどく落ち込んでいるのは、多賀君のことだけではなく、これからも同じことが繰り返されるんじゃないかという恐れなんだ。そこで、二十代の君を副主任助手に就任させることにより、関元君に安心感を与えてやりたいと考えている。それで、もし、君が二年後に独立したいと言い出したら、その時は、どうしようもないが、堅実な君が、そんな危険を冒すとは思わない。そして、芯の強い君なら、今の関元君の助けになり、君自身も、しっかりと彼から料理とは何かを学び取ることができると私は思う。どうだろう? やってみないか?」


実は、了治は、自分がこの部屋に呼ばれた理由について、既に知っていた。副主任助手の候補に了治が挙がっていることは周知のことだった。だから、驚かなかった。それにしても、さすが、宗田は総料理長を務めているだけのことはあると思った。普段は、接する機会も少ないから知らなかったが、よくここまで関元の心のうちを読み取れるものだと思った。長いつき合いとは言え、関元が、将来のことで悩んでいるとは、おそらく宗田しか気づいていない。了治は、宗田の話を聞いて、副主任助手の話を引き受けようと思った。その理由は、宗田の話に興味を持ったこともあるが、何よりも、自分のためだった。入社して六年目になる今、了治は、頭打ちになっていた。料理はしっかりと覚え、毎日の仕事にも真面目に取り組んでいる。だが、この日々がこれからもずっと続くのかと思うと、了治は、気持ちが停滞することがあった。どこかで、それを打破したいと思っていた。この若さで副主任助手になることなど普通はない。だからこそ、チャンスだと思った。これを機会に、俺は飛躍してやる。了治は、そう決めた。そして、総料理長と副料理長に向かって、「副主任助手の件お引き受けいたします」と頭を下げた。


了治は社員寮の自分の部屋でエルモア・ジェームスのブルースを聴いていた。ベッドに寝転んで、昼間のことを思い出していた。了治が働くホテルは都会にあり、それに相応しい洗練された建物だった。だが、ホテルから少し離れた裏通りにある社員寮は、古い軽量鉄骨の二階建てのアパートだった。了治の入っていたのは男子寮だったが、当時、既に交際していた羽津恵の入っていた女子寮も同じだった。

そこに隣の部屋の右山が入ってきた。

「了治。お前、助手になるのか?」

右山一巳は、了治と同期入社の男だった。歳は二つ上だった。右山は、都会に生まれ育った、一見、垢抜けした男だった。だが、実際は違った。愚鈍だった。分かりやすく言えば、ドジだった。このホテルに勤める前に、あるレストランで働いていたが、上手くいかずに辞めた。職場でいじめに遭ったらしい。そのレストランのオーナーシェフが責任を感じて、昔からの友人である総料理長の宗田にこのホテルで右山を働かせてやって欲しいと頼んできた。宗田は断れずに、仕方なく右山を採用した。右山の働きぶりを見ていると、誰もが、右山が前の職場でいじめに遭っていたことを納得せざるを得なかった。いじめた側を擁護するつもりはなかったが、あまりの要領の悪さに苛立ちを感じてしまうのだった。


右山は擦り切れたカーペットの上に仰向けに寝転んだ。

「関元さん。今は絶不調だけど、本当にいい人だぜ」

「お前に、デミグラスソースを作らせてくれるもんな」

関元は、ホテルが創業以来、味を守り続けているデミグラスソースを右山にも作らせている。本来、デミグラスソースを作ることを許されているのは、関元以外には、宗田、田本、石村しかいない。それほど大事なソースだった。右山にデミグラスソースを作らせることなど、考えられないことだったが、関元は作らせた。宗田、田本、石村の三人を始め、皆が反対したが、作らせてみると右山は見事にこのホテルのデミグラスソースの味を再現できたので、誰もが納得せざるを得なかった。

「関元さんが、いなかったら、俺はこのホテルでも、いじめられて追い出されてたよ。あの人は、俺にとって神様みたいな人だ」

右山は天井を眺めながら、そう言った。

了治にも、その気持ちは分かった。現実に、デミグラスソースを作ること以外は、右山は何も出来ない。あまりにも出来ないので、了治は、つい助けてしまう。それが、右山にとって本当に良いことなのかどうかは分からなかったが、そうしてしまっていた。


了治は、開け放たれたままの二階の窓から外を見た。少し離れたところの暗闇に女子寮の建物がぼんやりと見えた。了治は、羽津恵のことを考えた。彼女には故郷がない。彼女を待つ人もいない。詳しくは話したがらないから聞かないが、お盆も正月も、寮で一人過ごしている。俺は、故郷に帰れば両親がいる。骨董屋と不動産業の二つを営んで、のんびり暮らしている。二人とも贅沢はしないが裕福だ。俺はそんな二人に何不自由なく育てられた。俺には彼女の悲しみは分からない。でも、彼女が今のままでいいとは思っていないことは、俺にも分かる。俺は、今が大きな勝負の時だ。それは、俺以上に、彼女のためだ。


了治が、窓の外を見ていると、エルモア・ジェームスの「ザ・スカイ・イズ・クライング」が流れていることに気づいた。了治は、しばらく耳を傾けた。それから、右山の声がしないので、彼を見ると、仰向けになったまま寝ていた。了治は、彼を起こさずに、もう一度、窓の外を見た。空を見上げると闇夜に星が一つだけ見えた。了治は、じっとその小さな光を見つめた。何か願いを込めるようなことはしなかった。ただ、その光をじっと見ていた。


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