第二章(露見)5

五.

幸崎さんは、自らが口にした社内身分制度について説明を始めた。

「私が入社したV証券会社には、ハイクラス社員とレギュラー社員の二つが存在しました。ハイクラス社員とは上流階層、金持ち階層の出身者で構成されていました。レギュラー社員とは中流階層の出身者で構成されていました。ハイクラス社員は全てコネ入社でした。優秀な人材もいれば、とても、その証券会社には入れないような人材もいました。私は、これは身分制度であり、出自による差別ではないかと憤りました。でも、会社の内情を調べもせずに入社した私にも大きな責任がありました。それに、私は、その証券会社しか入るところがありませんでした。ここでやるしかないと覚悟しました。


「それでも、入社してから三年は、ハイクラス社員、レギュラー社員にかかわらず、全国の営業所で仕事を覚えさせられました。私は頑張りました。三年が経ち、私は優秀社員賞を会社からもらいました。三年で、この賞をもらったのは私が初めてでした。私は、身分制度なんて関係ないことを証明してやったと思いました」


「三年の研修を終えると、本社に私の同期社員が集められました。研修を終えた私たちに、もう一段階上の課題を与えるということでした。課題は個人投資家の発掘を行うことでした。証券会社では、いつの時代でも課題とされていることであり、つまり、それだけ難しい問題だということです。三年の研修を終えたばかりの我々に、こんな難しい課題を与えても、徒労に終わるだけだと思いました」


「でも、この課題によって、私は社内身分制度の意味を思い知らされました。個人投資家の発掘という難作業において、私を含めレギュラー社員のできることは、ひたすら足で稼ぐ方法しかありませんでした。住宅街を歩いて一軒一軒セールスをして回りました。株の話を聞いてくれる人などほとんどいませんでした。チャイムを鳴らしても、玄関のドアを開けてくれることすらなく、無駄に時間が過ぎるだけでした。思った通り、徒労に終わりました。但し、徒労に終わったのは、我々レギュラー社員だけでした」


「大手一流証券会社にコネで入社してきたハイクラス社員は、その他にも、沢山の有力なコネクションを持っていました。彼らは身内の誰かに電話をします。そして、株をやっていない知り合いを探してもらいます。ほとんど大部分の知り合いが、株をやっているのですが、中には、興味はあるけど、まだやったことがないというような人物がいます。その人物を紹介してもらい、ハイクラス社員は株を始めさせ、自らの実績にしていきました。しかも、ハイクラス社員の知り合いです。初めて株を買う額が、五百万円、場合によっては、一千万円でした。私は、社内身分制度とは、単純に出自により、社員を区別している訳ではないことを知りました。実利が大きく絡んでいるのだと」


「でも、会社にとってのハイクラス社員の有益性は、この点に尽きました。他は弊害ばかりでした。最大の問題は仕事ができないことでした。今、話したことは、そういう金持ちの知り合いさえいれば、レギュラー社員でも、同じ結果が出せます。逆に、日常的な業務、煩雑な業務ができてこそ、仕事というのは回っていくものですが、ハイクラス社員には、この点を軽視する者が多くいました。あるいは、単純にできない者もいました。にもかかわらず、出世していくのはハイクラス社員ばかりでした。そして、それが、V証券会社の揺るぎない信念でした。幹部は全てハイクラス社員から起用する。現場は全てレギュラー社員に任せる。その理由を会社は、はっきりとは言いませんでしたが、ハイクラス社員は、生まれ育ちが良いのだから、頭脳も優秀である。対して、レギュラー社員は、庶民出身なのだから、打たれ強く現場に向いている。適材適所だ。そう考えていたようです。明らかな偏見と出自による差別でした」


「私は三十半ばになっていました。入社以来、優秀社員賞を三回受賞していました。でも、役職は、お客さま相談室の室長補佐でした。同期のハイクラス社員の一人は、その時、証券業務企画部の係長でした。そして、その人物は、凡庸な男でした。私は差別されることへの憤りと自分の実力を発揮できない苛立ちに襲われていました。それに、ハイクラス社員への激しい嫉妬……。その時だったのです。父が知らない街のアパートの一室で死んでいたことを知ったのは。私は、転機が訪れたと思いました。父の働いていた料理の世界に行こうと思いました。そこには、身分制度はない。理不尽な人間関係に煩わされず、料理の腕だけで勝負できる。私はそう思ったのです。でも、一年で独立したことは、今更ながら、早すぎたと私も後悔しています。安森さん。私は、今度こそ、逃げません。料理の道一筋に生きます。ですから、是非、私にご指導をお願いします」

幸崎さんはそう言うと、立ち上がって父に頭を下げた。


父は、しばらく黙っていた。それから、こう言った。

「そんな考え方では料理の世界でも上手くいかない。確かに、料理の世界に身分制度はない。でも、私が勤めていたホテルのレストランだけを考えてみても、複雑な人間関係に一番苦労しました。そして、それは、証券会社でも、料理の世界でも、どんな世界でも同じだと思います。このアーケード商店街の中にも複雑な人間関係があります」

父の最後の言葉に、ふと甚田功造さんのことを僕は思い出した。江美香を見ると父の言葉に頷いていた。江美香の祖母は父の言葉にうつむいていた。

それから父は、自分自身のことについて話した。

「皆さんは、私が料理をせずに居間でレコードを聴いていた理由を、左手が自由に使えなくなったからだと思っているはずです。そのために、料理を上手く作れなくなった自分に絶望したからだと。でも、違うんです。妻と私だけが本当の理由を知っています。誰にも話していません。商店街の皆さんが想像して、いつの間にか、そうなっていました。でも、そのほうが、私たちにとって都合が良かったんです。だから、私も妻もあえて訂正しないまま今日まで来ました。そして、これからも、本当のことは誰にも話さないつもりでいました。長原会長にも、魚迅の大将にも、甚田さんにも。でも、今、幸崎さんの話を聞いて、話すべきだと思いました」

父は幸崎さんを見た。そして、話を続けた。

「幸崎さんの話を聞いていて思いました。幸崎さんは子どもの頃にお父さんがいなくなって以降、苦労をした中で、世の中には善か悪しかない。金持ちか庶民しかない。後者については、幸崎さんに責任はありませんが、運悪く、そういう会社に入ってしまったことで、常に、二つに一つ。幸崎さんが言うところの二元論で物事を考える習慣がついてしまったんだと思います。細かなことに気遣いをすると、それだけ傷つくことも多くなる。だから、そういったことには無意識に目をつぶって、自分を守るために、大枠で世の中を見るようになったのだと思います。でも、私が、ホテルに入社して経験したことは、二元論では割り切れないことばかりでした。私は若かったこともあり、料理とは人と人との葛藤からこそ生まれるものなのだ。そんな風にすら考えていました。ホテルには、そんな考えを若い私に抱かせるほど難しい人間関係がありました。そして、それが幸崎さんが避けている現実の社会です。でも、もう現実を見ることを避けていてはいけません。美味しいハンバーグを作って、それを商売として成り立たせるためには、現実を直視する強さが必要だからです。だから、今から私は自分が経験したことを幸崎さんに話します」

父の話を聞いて、幸崎さんは驚いた。

「どうして、私のことがそんなに分かるんですか?」

「私も、ある時期、幸崎さんと同じものの捉え方をしていたからです。だからこそ、そこから抜け出さなければいけないということが分かるんです」

「確かに、物事を単純化して見る傾向は良くないと自分でも思っています。ただ、今、願っていることは、安森さんが言った通り、美味しいハンバーグを作りたいという本当にシンプルなものです。それ以上のことは、私には、やりたくてもできません。私は素人同然です。その私が、料理の世界の複雑な人間関係について聞いても、難しすぎて何も参考にならないと思います」

幸崎さんが不安そうに言った。

「そんなに難しい話じゃありません。私の修業時代の思い出話です。それに、私の話すことはどこの世界にも共通することです。幸崎さんが勤めていた証券会社も同じだったと思います。ハイクラス社員、レギュラー社員だけではなく、もっと複雑なことが沢山あったはずです。それに気づかなかったのは、幸崎さんが無意識に見ないようにしていたからです」

と父は答えた。幸崎さんは何も言えなくなった。

そして、幸崎さんは深く頷くと、隣に座る会長に話し始めた。

「安森さんの言う通りです。私は自分に都合の良いように世の中を見て来ました。でも、これからも、商売を続けていくためにはそれを変えなければならないと気づきました。そのために、安森さんのお話を聞こうと思います。ただ、その前に、ずっと会長を始め商店街の人たちに申し訳なく感じていたことをお話します。アルバイトに来てくれている長原君と安森君にもお詫びしなければならないことです。それは、私が、商店街の人たちとの交流を避けていることです。今、私は物事を単純化すると言いました。行き詰って、上級肉を使い始めてからのことは別にして、開店当初の成功は、物事を単純化する私にとっては “成功”イコール“勝者”となったはずです。だとすれば、私は意気揚々と商店街を歩いていたはずです。でも、実際には、私は商店街に出ないようになりました。それは、証券会社時代、私がハイクラス社員に激しい嫉妬の感情を抱いてきたことと関係があります。私は、長い年月、嫉妬心を抱くことに苦しめられてきました。そのために、私は、嫉妬の感情に対して、とても敏感になりました。私は店が流行ってすぐに気づきました。私が商店街の人たちから嫉妬されていることに。そして、その嫉妬を解消するためには、私が商店街に出て行って皆さんと仲良くしなければならないと思いました。でも、それを実行するには、私は、まだ証券会社時代の心の傷が癒えていませんでした。正直に言いますが、嫉妬心を抱いた商店街の人たちの姿を見ると、過去の自分を見ている気がして耐えられなくなりました。私は、決して、商店街の人たちを嫌っている訳ではありません。でも、どうしても、できませんでした。長原会長。お願いします。このことを、商店街の皆さんに伝えてください」

幸崎さんの話を聞いた会長は驚いた。勿論、皆、驚いた。長原と僕も驚いた。そして、商店街平和大使として幸崎さんを散歩に連れ出しさえすれば、後は何とかなると考えていたことを僕らは恥ずかしく思った。

会長は尋ねた。

「幸崎さん。あなたが、肉辰、せがみ、魚迅の三軒しか利用しないのは、そういうことだったんですか?」

「会長。すみません。もっと早くお話するべきでした」

「私は、幸崎さんの行動に矛盾があることを、あなた自身に原因があると思っていました。私は、商店街会長として恥ずかしい。問題は、商店街住人の我々にあったのに。住人の嫉妬の感情にどう対応するか苦慮した結果、幸崎さんの行動は矛盾したものになった。 “成功”したのに“敗者”のような振る舞いになったのは、商店街住人に原因があった。それを幸崎さんは一貫して矛盾しているなどと捉えた私は自分が情けない。幸崎さん。本当に申し訳ありませんでした」

長原会長は、幸崎さんに謝罪した。その後、会長は江美香の祖母に言った。

「甚田さん。申し訳ありません。甚田功造さんに対する我々商店街の人間の過ちを、また繰り返すところでした。幸崎さんが、我々の感情を敏感に察知したから、何とか避けられましたが、私たちは過去から何も学んでいませんでした」

すると、江美香の祖母が話した。

「そのためにも、安森さんの話を聞きましょう。私たちは商店街しか知りません。でも、安森さんは違う世界を知っています。そこから何かを学ぶことができるかもしれません」

そして、再び黙った。

「そうですね。安森さんの話を聞くべきですね」

長原会長は頷くと、改めて、父を見てこう言った。

「安森さん。是非、お話を聞かせてください。ただ、その前に、私には確認しておきたいことがあります。ずっと居間でレコードを聴いていた理由が、我々が考えていたこととは違うと安森さんは言いました。それと同様、我々商店街の住人は、安森さんがヤクザと喧嘩をして、左手の指二本が使えなくなったと思っています。でも、それも本当は違うのでしょうか? 幸崎さんのことで自分勝手な考えをしていた私には、そのことが気になっています」

長原会長の最後の質問に、父は頷いた。

「はい。違います。皆さんは、私がカッとなってヤクザと喧嘩をして、左手の指二本を潰されたと思っていますが、そうではありません。確かに、私の左手の指は、ヤクザに潰されました。でも、私はヤクザと喧嘩などしていません。そんなことをしたら、どうなるかは、若い頃の私にも分かっていました。私はそんなに短絡的な人間ではありません。でも、私の左手の指がヤクザに潰されたのは事実です。そして、この左手に、私のホテル時代の全てが残っています」

父は真っ直ぐなままの左手の指二本を見つめながら、そう話した。父の顔を見ると、その時の記憶が鮮烈に蘇っているのが分かった。僕は漠然と喧嘩をした結果だと思っていた父の左手の二本の指に、もっと複雑な過去があることを知った。長原会長、魚迅の大将、そして、江美香の祖母も父を見ていた。

父は僕らのテーブルにいる母を見て、

「羽津恵。昔のことを話そうと思う。本当は二人だけの秘密にしておくつもりだったけど、話すべき時が来たと思うから」

と言った。

母は何も言わず頷いた。だが、よく見ると母の体が小さく震えているのが僕には分かった。そして、父は左手の過去を話し始めた。


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