呼吸

@skrymsn

呼吸

 板の上に4人で立っている。ただそれだけのことだ。全身の力を抜いて、舞台に根を張る。目を閉じると感じる、ホールの広さと天井の高さ、照明の熱さ。緊張感。空気は以外にも張り詰めず、穏やかに私たちの周りを流れる。目を開けると、感じていた聴衆の気配とは裏腹に、闇。この景色を、4分半で変えなければ。闇に眼を凝らすとやはり彼はいた。控えめに光る非常口灯の走る彼に挨拶。今日も君と、君が向かうドアの奥まで届くように歌うから。どうか今日は足を止めてこちらを向きますように。過信と妄想が許される今だから、いろいろなことを考える。「『歌』の語源は『訴え』だ」と紹介したドラマがあったが、これは様々な説のうちの一つに過ぎない。私の訴えを聞いてほしいなど、そんなおこがましいことは思わないし、もし訴えがあるなら、メロディーに乗せずとも、自らの言葉で叫べばよいのだ。歌とは、言葉にできない思いだ。言葉にできないから、メロディーに乗る。言葉にできない深い熱い思いだから、和音になるのである。人前に立って、誰かの思いを代弁する。言葉にできないそれを、どうにか届くようにと願いながら語る。ただ、誰でもない誰かの思いが、ここにいる誰でも良い、誰かに、少しだけ届けばそれでよいのだ。三時間後には、私たちの歌に金、銀、銅の色がつく。どんな色に塗られようが、誰かひとり、ひとりだけでいいから、なんかちょっと好きかもって、思ってもらえればそれでいい。

 覚悟を決め横を向くと、心強い顔たち。そして、見慣れた制服。うなずきあって口角をあげると、あれ、ここって、部室?いや、今日でこの歌を歌うのは最後だ。今日の歌は、今日しか生まれない。今日の思いは今日の演奏にしか乗らない。明日、何かの魔法で突如として歌唱力・表現力が上がったとしても、今日の歌を超えることは二度とない。無機質に静かに響くハーモニカの音が、始まりの合図だ。目が慣れ、退屈そうな観客の顔が薄ら闇に浮かぶ。人の気配という圧に押しつぶされ下を向きそうになるけど、少し上に目をやれば、非常口の彼が待っていてくれる。

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