ワインと星と緑のインク

秋色

Green Letters

 高層マンションのその部屋のインテリアは、白を基調としていた。そしてその部屋に入った時、かつての会話が心の中に再現された。


「杏奈、大人になったらどんな家に住みたい?」


「私は何もかも白で揃えるの」


「ロマンチック。私はね……」


「分かった! りっちゃんはピンクで揃えるんでしょ?」


「まさか! 私は木目の家具で揃えるの」


 それは高校時代の会話。あれから十三年が経とうとしている。






「すみませんね。立夏さんにこんな事をお願いして。でも杏奈が突然いなくなって、理由も行き先もまるで分からないんです。高校時代の友人の立夏さんに相談するのもご迷惑かと思ったのですが。何しろ彼女は友達が少なくて」


「正直、戸惑っています。私、杏奈とは、十三年振りに最近、電話で話をして、お互いの近況報告をしたばかりなんです。学生時代以来の一時間を超える長電話ではあったんですが、大人になってから彼女と話したのはその一回きりで……」


 杏奈の夫は、初老の女性がソファに掛けているリビングルームへと私を案内した。

「僕の母です。心配してこちらへ来ていて……」


 挨拶をすると、息子によく似た穏やかで優しい感じの女性も控えめに挨拶を返した。


 スマホの向こうの杏奈のはずんだ声を思い出す。


 ――ウチの旦那さんのお母様ってとても素敵な人なのよ。私みたいに頭に血が上ったりしないし、誰の話もじっくり聞いてくれるの――


 杏奈の夫は続ける。

「ご迷惑かとは思ったのですが、杏奈がよく言ってたんです。高校の時の親友の立夏さんがどんなに賢かったかって。いつも自分が忘れ物や落とし物をした時、その在り処を当ててたって」



 ☆



 私達は十三年間、音信不通だった。それ自体はよくある事かもしれない。十三年前、それはガラケー率のまだ高かった時代。私達は十六才で、当時スマートフォンでなく、ガラケーしか持っていなかった。親の買ってくれた子ども向けの可愛い絵柄のもの。私はその後、買い直した時に、電話番号も変わっていたし、彼女もそうだと思っていた。


 でもそれ以前に連絡を取りづらい事情が私達にはあった。高一の秋から私達は距離を置き始め、そのうち杏奈は親の転勤のため、県内の遠方の高校へと転校していった。

 転校先の女子高を自主退学したと同級生の噂に聞いたのは、大学に入って初めての帰省の夏だった。


 高校に入学し、私は中学時代から仲の良かった杏奈と同じクラスになれて本当にうれしかった。二人で飛び上がるくらい喜んで、私達は「あんりつコンビ」と呼ばれるくらい、いつも一緒だった。学校を離れても私達は一緒だった。週末、一緒にショッピングモールへ行き、買い物の後、夕暮れ時の観覧車に乗った。


 そして夏休み。私達は一緒にファミレスで短期バイトをして、バイトが終わると一緒に海に行き、アイスを食べた。好きな人の事を相談し合ったり。楽しかった夏。


 私達の仲に変化が起きたのはその秋だった。杏奈が、私の片思いの相手の大野君と別館の図書館の裏で話し込んでいたという噂が瞬く間に校内で広がった。その様子は、目撃した同級生の仔細な説明と杏奈から何も聞いていないという事実により、当時、私の心を大いに傷付けた。さらに、杏奈はモテる子だったし、秀才タイプの私はその逆だったし、クラスで一気に同情される立場になった私はいたたまれなかった。

 クラスの子達は私に同情すると同時に、杏奈を非難し始めた。元々彼女を気に入らないと思っていたクラスメート達の暴走もある。考えた事をポロッとすぐ口に出してしまう、無邪気だけど人に合わせない杏奈を苦手だと思う子が多かったのだ。

 文句の一つを言おうにも、杏奈は学校に来なくなったし、電話しても、ボンヤリした感じの「具合が悪くて今は学校に行けない。しばらくしたら行けると思う」という言葉を聞くだけ。

 高二に進級し、私達は違うクラスになった。違うクラスだから校内で会わないだけかと思っていたら、やはり杏奈は高校に通学しないままだったらしく、そのうち親の転勤を理由に県内の別の地方の女子高へと転校していった。

 私自身もあの秋から卒業まで、まるで気の抜けた炭酸水のような高校生活をおくった。いつも誰かの姿を探しているような。

 私の十代の頃の今でも心がヒリヒリする思い出。



 ☆


 そんな杏奈が実家の固定電話に、「立夏さんはいますか?」と電話をかけてきたと親から聞いたのは、今年の、桜が散り始める四月初めの事だった。

 私がすでに結婚して、近くに住んでいる事、今度会ったら電話があったと伝える事を話すと、杏奈は自分の電話番号を伝えたと言う。その番号は、高校時代のガラケーと変わっていなかった。


「声の調子もしっかりとした大人っぽいハキハキした感じになっていて、『ご無沙汰しています』ときちんと挨拶したのよ。大人になったのね、あの子も」

 母は感心していた。


「母さんったら、私達、一体何才になったと思ってるの?」


 私は懐かしい気持ちと戸惑いと入り混じった複雑な感情で、彼女の電話番号を押した。発信中の文字が出てきた時、自分の胸のトックンという鼓動を聞いた気がした。

 久し振りに聞く彼女の声が発したのは「うれしい」という素直な言葉だった。

 彼女から聞いたこれまでの出来事に一つ一つその当時の彼女を思い浮かべて、自分の見えないアルバムを埋めていく。あの後、転校先の女子高が合わなくて辞めた事。その後、自由な校風で知られる、広く落ちこぼれの生徒達を受け入れている高校で新たな友人を得た事。そしてバイトを主に店員の仕事をしたのち、今年の初めに十才年上の人と結婚し、初めての春を一緒に桜を見ながら過ごしている事。見かけは少女時代の理想とはかけ離れているかもしれないけど、温かくて側にいるだけで幸せな気持ちになれる人だという事も。


「まだコロナも完全終わってない時期だったし、近い親戚だけ集めての小っちゃな会をしただけなの。昔、話してたよね。お互いの結婚式に呼び合おうねって。実現できなくて気になってたの」


「いやそんな。私、三年前に何も気にせず結婚しちゃってごめん。って言うか、私もコロナ禍で、披露宴とかあげてないんだ。お互い、ウェディングドレス着ない事になるなんて、十代の頃は想像しなかったよね」


「あの頃は、いっぱい夢みてたね」


「杏奈は、あれから色んな事、あったんだね」


「うん。私ね、ずっと気になってたんだ。あの頃りっちゃんをすごく傷付けたんだよね」


「そんな事、気にしないで。大野君は元々、杏奈を好きで、杏奈と仲良くなりたくて私に近付いてきたんだ。あの頃も何となく分かってた。卒業して何年後かに同窓会があって、当の大野君から謝られたんだよ。友達関係を変にしちゃってごめんって。杏奈、あの時、私を傷つけまいとして、あえて言わなかったんだよね。図書館に呼び出された事」


「……うん」


「バカだね。いや、私の事。その同窓会の後、ずっと杏奈に連絡取りたくて、でも連絡先分からないと思ってた。携帯の番号、変わってなかったんてね。ね、また会おうよ。お互い会える時に会っておかなくちゃ」


「うん、会いたい! でも会える時に、なんて、もしかして赤ちゃん生まれる予定があるとか?」


「それが全然なの。今度、産婦人科に行って診てもらうつもり。ガン検診の案内が来てたからついでに。いや、そっちの方が本命なんだけどね」


「そういや、うちにも届いてた。私も行こうかな。もう私達、そんな年齢に、なったんだね。ホント、でも良かった。昔の事、気になってて謝りたかったから」


「もお。私こそ、杏奈が悪者みたいになって、まじで学校がイヤだったんだよ。私はあの後、本当に自分を好きになってくれる人を見極めようと思うようになったから、結果、良かったのかな」


 そう言って何度も今度会おうと約束し、また、共通の友人の近況に話が及んだりしながら、電話はお互いの時間の許すギリギリまで続いた。切った後で、あの事を話さなかったな、と気が付いた。彼女が不登校だった頃、二人で乗った事のある観覧車にあの子が一人で乗ってたって目撃情報がクラスであった事。


 ☆

 

 杏奈の夫は言う。

「当の杏奈から『今は一人で考えたいので探さないで。しばらくしたら帰れるから』とラインメッセージが入っているので、警察も取り合ってはくれなくて。様子を見ましょうと言うんです」


「そうでしょうね」

 私は言いながら、どこかで聞いたような言葉だと思った。


「杏奈が出て行って、いくつか変わった事に気が付きました。新婚旅行として行った九州でワイン工房に寄り、自分達の名前をラベルに入れてもらったんです。毎年、結婚記念日に一杯ずつ飲もうねって言ってたのに、なぜか開けられて何口か飲んでいたんです」


「そんな記念のワインを?」


「はい。何十年後に飲み干すか、数年後には空になってるか……なんて話していたのに。それからほら、彼処に」

 指した方向に、ロフトの黄色の袋があった。「ふだんスマホがあるから、手書きなんてしないのに、なぜか緑色のインクとガラスペンが買ってあって、ケースは開けられないまま置いてありました。それから……」


「それから?」


「家出の前、知らない番号から彼女のスマホに着信が何度かありました。男の人です」戸惑うように彼は言った。「もちろん家族でも勝手にスマホを見てはいけないと分かってます。でも最近急に無口になった妻が心配で、テープルの上に置きっ放しになっていたスマホの画面を見ずにはいられなかったんです。そうしたら名前の登録をしていない携帯の番号からの着信が何度もあって……」


「どうしてその番号が男の人の携帯番号だって分かったんですか?」


「悪いけど、番号をメモに書き取って、家の固定電話からかけ直してみたんです」


「じゃあ相手と電話で話をしたんですね」


「いや、相手が男とも分からず衝動的にかけてしまったので男の声が聞こえて、慌てて切ってしまったんです」


 私は思わず心の中で溜息をついた。確かに杏奈が言っていた通りの温かな感じの人。でも決断力にいまいち欠けるのかもしれない。いや、自分にもそれは言えてしまう。長い間、彼女と音信不通になっていた間、何度か今度こそ真剣に連絡先を調べようと決心し、スマホを見つめていた。


「私、杏奈に電話をかけてみます。普通に出てくれたら、いつ帰るのか、今、元気で大丈夫な状態なのか、聞いてみます」


 杏奈の夫と義母の両方から安堵の溜息が漏れた。

「そうして頂けると助かります。本当は、私達は立夏さんにその事をお願いしたくて。でも久し振りに最近話をしただけの貴女にそれを言いづらくて。音信不通だったのにはそれなりのご事情があったのだと思いますし。ただ立夏さんに電話したという日、杏奈さんがこれまで見た事ないくらい幸せそうな笑顔で話していたから」

 これは義母の言葉。


 ああ、この家族から杏奈は本当に愛されているんだな。と思った。私は、もう迷っている場合ではないと、杏奈の番号に電話をした。呼び出し音の後、彼女のか細い声が聞こえた。「りっちゃん? 今、あまり話せないから、またかけ直すね」と。後ろでゴーという音がする。あの音は確か……。


「ね、もしかしたらデートで観覧車に乗った事はありませんか?」


「あります。電車で三駅先にリバーサイドタウンってショッピングモールがあるでしょう? 初めてのデートでそこに行って、それからも時々。彼女、そこの観覧車が大好きなんです」


「今、きっとそこにいます。私の車で一緒に行きましょう。それとさっきの話の携帯番号、杏奈のスマホに着信のあった電話番号に連絡して下さい。それは杏奈の男友達なんかではありません。信じてあげて。私の中では、今回の杏奈の行動の意味が分かってきた気がするんです」


「本当に!? では電話の相手は誰なんですか?」


「車の中でお話しますね」


「私達は彼女が無事と分かれば安心できるので、後は帰って来るのを待とうと思っていたのですが」


「でも、今、一人にしちゃいけないって心の声がするんです。過去の自分がそう言っています」



 ☆




 川を臨むショッピングモールの観覧車乗り場の白いベンチに杏奈は腰掛けていた。長い髪を下ろし、栗色の瞳は澄んでいる。あの頃のあどけなさは消えていても、その美しさは昔と変わらない。色白の小さな顔を降り出した小雨の雨粒が濡らしていた。瞼が少し腫れているのは、最近、泣きはらしたせいだろうか。ここへは私一人で来た。杏奈の夫は車の中で待っている。


「りっちゃん、ここがどうして分かったの? うちのダンナさんが私が家を出て行った話、したんでしょ? それにしてもここが分かるなんて」


「ダンナ様を責めないで。私には分かるの。だって楽しかった思い出があって、そして独りの時にも立ち寄る場所。そうだったでしょ? 高校時代も。ね、観覧車に乗らない?」


「いいよ」


 二人で暮れなずむ街を見下ろす観覧車に乗った。すでにいくつかの星が強い光で瞬いている。

 二人の乗った観覧車のボックスはゆっくりと動き出した。



「りっちゃん、私ね、あの人と別れるかもしれない」


「どうして? あんなに幸せそうに話してたじゃない? 健康面を気にしているの?」


「なんで知ってるの」


「だってこの間話してから、そう経っていないでしょ。あれから変わり得たのは、あの日、電話で話した検診くらいかなって」


「そうなの。病院から電話があって、あまり芳しくない結果だから、必ず家族と来るようにって。でも検診の事自体、言いそびれていたから話しづらくて。予約の日、診察に行かなかった。そうしたら、病院の先生から直接、電話があって、ちょっと怒っているみたいに『なぜ来ないんですか?』って。それも怖くて家を飛び出してしまったの」


「怖いって? 向こうはシンプルに心配してるんだよ」


「治療も怖いし、ダンナさんに知られるのも怖かった。五十年後も六十年後も一緒に結婚記念日をお祝いできるような夫婦でいようって約束したばかりなのに」


「多分そういう事じゃないよ、ダンナさんが目指してたのは。悲しい時、一緒にいてあげたいって、そういう事だよ。……私も昔、そうだったし」


「でも……」


「でもも何もないから。杏奈のダンナさん、主治医の先生に、これからの治療の事とか、色々電話で聞いてたよ」


「そうなの? でも大丈夫かな」


「希望を持ってるから、緑色のインクを買ったんでしょ?」


「え!? あ、そうか。包み、家に置いたままだったっけ。でもそれ何に使うかなんて、予想がつくの、りっちゃん位だよ」


「だって私がそのおまじないを教えたから。あれ、効いたよ。緑色のインクで願い事を書くと叶うっていうの。ちゃんと治療しながら天にもすがってみるんだよ」


「そうなんだ。あのおまじない、試したんだ。まさか試してると思わなかった。本当に叶った?」


「うん。まぁ。期限とかは守られなかったけど。それにほら、薬指の爪に白い星がある」


 そう言って私は杏奈の細い指先を指した。


「え!? ああ、そんな古いジンクス、よく覚えてるよね。爪に白い星が出るのは、良い兆しだって」


「正確には、白い星の部分がだんだんと上に上がって、そこの爪を切ると、良い事があるって言うの。小さい頃、本当にそこの爪を切った日に、親がケーキを買ってきたの」


「りっちゃん、面白い。超秀才でいつも冷静な感じなのに、そんなおばあちゃんみたいな事、信じてるんだもん。ウケル。おかげで元気になれた気がする」


 そう。それはきっと大抵の事は時間が解決してくれる、と昔の人が教えてくれたジンクス。


「じゃあ、もう一周してから帰ろうよ」


「前にもこんな事、あったよね。あと一回って言って何周かして、すっかり夜になって辺りが寒くなって凍えてた事」


「そう、あったね」


「chillとchillyの違いは何かって話になって、鞄の中の英語の辞書を引いたりして。まだあの辞書、家にとってたかな」


「私はとってあるよ」

 私は実家の二階の小部屋にある本棚を思い出していた。古い本棚の隅にある英語の辞書。その中に挟んだ一枚の便箋がある。そこに葉っぱのような緑色のインクで書かれた言葉は、「私の願い。卒業までに杏奈と仲直りして、もう一度観覧車に乗る事」だった。



〈Fin〉

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