ランナーズハイ

@8163

第1話

 陸上競技場の裏は砂利道になっていて、高い競技場のコンクリートの壁に自分の走る音が、ザッ・ザッと反響して、何だか足音に応援されているようでスピードが増したように思え、坊主頭なのに髪が靡くような風を感じて鳥肌の立つ前のような震えを覚えた。

 事態は最悪だった。アンカーで駅伝の襷を貰った時にはビリ。しかも前の西中学のランナーはとっくにスタートしていて、何十秒も差があり、襷を貰って前を見てもランナーの姿は視界から消えていて、二百メートルかそれ以上は離されていた。

 陸上部ではなかった。バレー部ではバスケ部や野球部のように走る要素も少ない。なのに市の大会に出て走る事になった。冬のマラソン大会で学年3位になっていて引っ張り出されたのだ。もっとも、1位も2位も野球、バスケ部で、同じ小学校の幼馴染みのヒデとマモルだ。当然。二人も出されている。特にヒデは長距離に才があり、独特の表現で走りの感覚を教えてくれる。曰ぐ血の匂いがする゙と。

 ヘモグロビンが増えて沸騰し、鉄錆びの匂いでもするのか? まさか鼻血を出す訳でもないだろうに……。

 一区のヒデが飛ばしてトップで襷を二区のマモルに渡したのに、腹でも壊したのか、マモルが覇気を失って順位を落とし、最後尾までズルズルと下がり、それは3区からの陸上部の奴らまで伝染して続いて、さらに離されてアンカーに回って来たのだ。

 学校を代表して走るんだ。そう言って新品のランニングシューズを買ってもらった。薄汚れた靴は嫌だ。競技場が北中学に近く、どうしてか知らないがスタートとゴールが北中のグランドらしく、競技場をぐるっと回って帰るコースで駅伝を走る。それは良いのだが、北中には由美がいる。小学校が同じなのに中学は別なのだ。中学進学は大きな環境の変化なので、あたふたしていて、心も紛れて忘れていたが、ここに来て好きなのに気づいた。だから薄汚れた靴は嫌なのだ。でも、まあ、それも杞憂だった。観客などいない。北中の生徒も一人もいなかった。期待はずれだとガッカリしたのかって? 否、ビリなのを見られずに済み、ほっとしている。

 靴の紐を縛る時、サイズが少し大きいのに気づいた。息子の成長が早いので、ひとつ大きなサイズにしたに違いない。履くと指先に余裕があり、欲を言えばもう一つ小さい方が良いのだが、靴紐をきつく縛ると足裏の前半分が広がって、まるでスパイクシューズのような感覚になった。靴底も薄くて硬いギザギザなゴムなので砂利の感触が直に伝わり、滑る事なく力が全て推進力になっているのが判った。

 前を行く西中のアンカーが見えた。壁に響いでハア・ハア゙と、呼吸音が聞こえる。疲れているのか? 様子を探ると、脚の運びが鈍い。それに上半身が揺れていて体の軸がブレている。グニャグニャしていては速く走れない。

 足裏のカカトから着地していたのを止め、爪先の方から地面を捉えるようにして足音を消し、そっと近づいた。忍び足だ。

 西中のアンカーは油断しているのか、後ろを気にする気配はない。当たり前だ。後ろに姿は無かったのだから。

 背の高いガッシリした奴だった。頭を低くして脇の下をくぐるようにして一気に追い越した。わざと直ぐ近くを走り抜け、スピードの差を見せつけ、挑発したのだ。

 目論み通り、追い越されて初めて気づいた西中のアンカーは、慌てふためき、瞬間、腕を阿波おどりのように空中に泳がせ、まるでコントの演技だったと、見ていたヒデが教えてくれた。丁度、競技場の建物の蔭から抜けた所で、ゴール地点から見えていたのだ。ヒデは西中のアンカーの強さをを知っていたのか、もっと離されて出てくるのではないかと予想し公言していたので、先に飛び出して来たのがオレで、ビックリして歓声があがり、後ろで阿波おどりをしているのを見て爆笑が起こったらしい。最下位だと意気消沈していた駅伝仲間は溜飲を下げ、大いに騒いだらしいが、オレはまだ田んぼ道を走っていた。

 最初にマラソンを教えてくれたのは読書好きの姉だった。どこで読んだ知識なのか、呼吸は二度に分けてするのだと言った。スースー、ハーハーと、息を吸い吐くのだと。その時は解らなかったが、二度に分ければ一度よりは多少でも多くの量を吸える。そして、やってみたらリズムが取りやすく、校内マラソンでは上位になった。小学校五年だったろうか。

 そして市の大会に出る事になり、次のレクチャーを受けた。走り始めはゆっくりと、体力を温存して徐々にスピードを上げ、後半勝負だと姉は言った。でもそれはフルマラソンの話で、二・三キロの子供のマラソンでは通用しない。市の大会では皆、脱兎の如く一斉に飛び出して遅い者を振り落として行くサバイバル戦だった。

 とても着いて行けない。スタート地点でもうダメだった。広い道に色とりどりのユニホームを着て並んだのだが、顔を上げて前を見たら気が遠くなりそうになった。四百メートルの直線が延びていて、トラックならば楕円形で見渡せるのに、直線になると遥か彼方、霞んで終わりが見えない程なのだ。こりゃ駄目だと周りを見ると、皆、目が吊り上がって尋常じゃない。殆んどが白いハチマキをして頭の後ろに結び目を垂らしている。その余った紐が微風に揺れて優美なんだが、真剣な目付きを発見して怖じ気づく。

 雰囲気に呑み込まれて気持ちが高まり、冷静さを失うところだったが、周りを見渡す事で自分を取り戻し、一斉にスタートして置いて行かれても、後ろから追いかけはしなかった。

 それでも皆に引っ張られて普段よりもスピードは出ていたのだろう、体力の消耗は激しい。直線が終わって左折し用水の堤防道路まで来ると、先頭集団から脱落した選手が点々と連なっている。此方も疲れているが彼らの消耗はもっと激しい。順々に追い抜いて行くのだが、短距離走のように飛ばして四百メートルも走るものだから、堪ったものじゃない、呼吸は乱れ足はもつれて、手を着いて四つん這いになる奴までいる。それでも先頭は遥か先だ。生き残る奴はどんな奴だ。ヒデは残っている筈だが、勝てるのか?

 余分な事を考える余裕もそこまでだった。終盤は苦しさだけが記憶にある。平坦なコースで、登り坂なども無かったのに、とにかく苦しくて、大会なんぞに出たのが間違いだったと悔やんだ。それでも頑張ったのに、結果は12位で、2位のヒデに次いでの成績だったが、皆と一緒に飛び出ていたら棄権していただろう。

 競技場とゴールの北中のグランドとの間は田んぼ。遮るものは何もない。その田んぼの中の道を、距離を稼ぐ為かジグザグに走って進む。だから追い風ばかりじゃない。向かい風だと前傾姿勢を取っても、なかなか進まず体力を消耗する。追い風、向かい風を繰り返す事になり、インターバルトレーニングのようになって苦しい。そして西中のアンカーが盛り返して来ていて、必死に追い上げていた。もうかなり差を詰めて来ている。油断は出来ない。あれだけバテていたのに復活してくるなんて、西中のトップランナーかも知れない。だが負ける訳には行かない。もうタイムはどうでもいい。ビリにさえならなければ良いだけなので、ここは少し休んで相手に詰めさせ、北中のグランドに入ってからスパートしようと考えた。

 こんな、相手を観察して対処法を考えるなんて芸当は、つい最近に習得した事だ。ヒデはもう解っていて、意識的なのか無意識なのか、全体のゲームプランとか場所や気温・湿度・天候まで、走る以外の要素まで考えているらしいが、言われても大して重要だとは思っていなかった。走るのは自分で、自分の調子の良し悪しが全ての要素で、それ以外は余分な事だと思っていたのだ。いや、余分と言うより阻害する要素とすら見なしていた。集中力が削がれると思っていたのだ。

 もともと勝負に対する視野が狭いのに、ますます狭くしようとしていたのを覆す出来事があったのは校内マラソンの途中だ。コース中盤、陸上部の大塚と競り合った際に、相手の大塚の視野の狭さに気づいて自らを反省したのだ。

 小学校と違い、中学のマラソン大会は参加人数も多く距離も八キロと格段に長い。そんなに長い距離を走った経験はなく、どんな風になるのか予想も着かなかったが、でも、これこそがマラソンだと思い、正に姉の作戦を実行するべきだと考え、抑えてスタートした。

 なかなか複雑なコースだった。曲がり角には先生達が旗を持って立ち、方向を示すと共に゙ガンバレ゙と声援を送られ、あと半分、とかの情報もあり、それなりの配慮は感じられたが、いかんせん距離が長い。ここでも小学校の市の大会のように落ちてきたランナーを追い抜きながらペースを上げて行ったのだが、前にあと何人いるのか、自分は何位なのかサッパリ分からず、それに、ヒデとマモルは追い抜いていないので先を走っているのだろうが、二年生も三年生もほぼ一緒にスタートしているので、道には途切れる事なくランナーがいて、例えヒデやマモルがいても確認は難しい。

 かなり走っても追い越すランナーに見知った顔はなくなり、市営団地の横の道まで来たのでゴールは近い、と、思って横を見たら、並んだランナーも此方を向いた。陸上部の奴だ。名字は確か大塚だ。なぜ名前を知っているのかと言えば、運動会での走り幅跳びのジャンプの印象が凄く、覚えていたのだ。同じ競技に出ていて、此方は走るスピードを跳ぶ距離に換えているだけだが、大塚はピヨ~ンと、それこそカエルのように飛び上がって、まるでバネ仕掛けのマリオネットみたいだったのだ。

 天才だと思った。助走のスピードなどはヘナチョコで、遅い部類に入るだろうに、そこから前ではなく上へ、本当に上へジャンプする。今までに見たことのない跳躍。滞空時間が長いので、上体を反らす反り跳びではなく、空を走るような鋏跳びをする。黒縁のメガネをキッチリと掛け、とても運動が得意な風には見えないが、半ズボンから覗いている膝から下、脹ら脛はスッキリとした紡錘状で、すらりとしていた。

 幅跳びでは全く勝負にならず、1メートルも差をつけられて負けたが、マラソンではジャンプ力はむしろ邪魔だ。上ではなく前に進む力が必要で、飛び跳ねていては疲れてしまう。だが、もう疲れているのかフォームにバネのような強靭でしなやかなリズムはない。足首の蹴りが弱くなって歩幅が伸びないのだ。だからスパートするにはピッチを上げるしかない。

 大塚は顔を戻して一度下を向き、息を整えて前を見据えると、ピッチを上げて前に出た。だが、振り切るほどの持続力はない。こちらが同じペースでジリジリと追いついて並ぶと、また、お互い顔を見合わせ様子を探りあって並走し、今度も下を向くと息を整えてスパートをする。大塚は此方もスパートをして追いついていると考えているようだが、そうではない。此方のペースは変化してなく、大塚が一人相撲をしているだけ、自分で自分を追い込んでいるのだ。

 状況だけを見て判断しているから、そんな一方的な考えの間違いに気づかないのだ。大元の状況判断が間違っていると幾ら何をやっても自分のミスの挽回が出来ない。この場合、大塚は後ろから追いつかれて並ばれたのを忘れている。基礎的なスピードが違うのだ。同じペースで走ってはいない。だから、ここは一旦抜かせて後ろに付いて走り、出来る事なら、そのままゴールまで追走して逆転を図るべきなのだ。

 三度目は無かった。また並んだが、もう大塚はスピードを上げられず、此方のペースに着いて来れず、ズルズルと下がって行き、見えなくなった。正しい判断をして後ろに着かれ、ゴール前のスプリント勝負になったのなら、どうなっていたのか分からない。多分、そうなっていたら苦しくなるのは此方だ。引き離そうと何度もスパートして自滅したかも知れないし、最後のスプリントで負け、そんな惨めな結果もあり得た。     

 西中のアンカーはグランドの入り口のカーブで振り向く事なく確認すると、10メートル位まで詰めて来ていた。たが、まだスパートはしない。グランドに白線が引かれていて、それを半周してゴールするのだが、向こう正面からグランドに入りカーブを回っている時に激しい息遣いが迫ってきて、最後の足掻きが始まったと、後ろを見なくても手に取るように解ったので、ここだ、と、派手にスパートしようとしたら、四コーナーの向こうに女子生徒が二人でゴミ籠を運んでいて、その片方、手前のセーラー服姿が由美だった。あちらも気づいたようで、アッと小さく口を空き、籠を地面に置いて此方を見ている。もう一人ばどうした事だ?゙と、突っ立って見ている。

 派手にスパートするのは止めた。口を閉じ、鼻で息をしてポーカーフェイスを決め、素知らぬ顔をして、足だけ素早く回転させてスパートし、ゴールした。

 仲間は大喜びして迎えてくれたが、ブービーでは悦べないし、由美は呆れたに違いない。  了

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