秋の新人戦で総合5位になったことで表彰され、校庭での朝礼で名前が呼ばれ、賞状が授与される筈だったのに、居なかったので、誰かが「欠席です!」と答えて、その場は収まったらしいが、実は遅刻をして、誰もいない教室でひとり座っていた。
ぞろぞろと帰って来た級友たちは私を見つけて驚いた様だが、体操の新人戦で、優勝もしてないのに全校生徒の前で表彰されるなんて思ってないから、驚いたのは、こっちの方だ。
そもそも、高校に入学してから始めた器械体操で、鉄棒はまだしも、鞍馬・吊り輪・平行棒は触ったことも無かった。幸いにも、幼少期から体操教室で学んでいるような奴は一人だけだった模様で、その断トツな一人を除けば、あとはドングリの何とか、誉められたものではない。入賞はしたが表彰なんて、実情を知らない形式的な事だ。
担任教師からは苦笑と共に賞状を渡された。これには伏線がある。此処のところ毎朝のように遅刻しているのだ。大概は夜更かしでの寝坊だが、テレビで朝の映画劇場が始まってからは、それを観てから登校したり、早退して映画館に行ったりして、いつ退学にされても仕方のない状態だった。先週もテレビで深夜映画を観て寝坊をし、始業時間を過ぎて誰もいない三階の教室への階段を登っていると、踊り場で担任が待っていて、早く来いと手招きした。テレビドラマなら、退学させない為に、二枚目の熱血教師が熱弁を奮うところだが、黒淵メガネで小男の担任は、何も言わずに前を通過させた。どんな言葉も効き目はないと知っていたのだろう。
学習意欲はゼロだった。受験に関わる勉強はしたくなかった。あの頃は受験地獄と言われ、大学受験は悪だとの認識なのに、入った高校は受験校だった。入学式の翌日から七時間授業で、二年間で三年分の教科書を済ませ、残りの一年は全て受験勉強に回すらしい。まるで予備校だ。不思議なのは、秀才揃いで、中には天才だって居るだろうに、皆、唯々諾々と従っていることだ。頭が良いとは、そうゆう事なのか?
私達が入学する前迄は荒れていたらしい。校内でデモもあったらしく、その余韻で新入生への締め付けみたいなものも感じた。でも、そんなものは不要だ。もうシラケていた。暴れても良くはならないし、思想の根本が共産主義なら、それは望んではいない。毛沢東語録を読んだが、とても信ずるに足る代物ではない。なら、私は何に反抗していたのだろう。
訳もわからず世の中に反抗し、愚れても、喧嘩をする不良には成れず、せいぜい十八禁の映画を観るくらいだ。映画ばっかり観ていた。朝の映画劇場では木下恵介・黒澤明。映画館ではイージーライダー・地獄の天使。この二番館でみた二本立てのオマケ「地獄の天使」が、とんでもない映画だった。もう反戦とかベトナム戦争とか、関係ない。ただただアウトローなだけ。黒いハーレーに乗り女を拐い、映画のストーリーも脚本も無いのではないかと思うほどで、でもドキュメンタリーではない。意味があるのか?意味は無くとも強烈なインパクトはある。イージーライダーよりも強烈なんだ。これも反抗なのか?だとすると、ヤクザも泥棒も、全て反抗になってしまう。
もう死語になっているヒッピーがイージーライダーだとすると、地獄の天使はテロだ。映画ではない。そんな気がした。食事に行ったのに、出されたのは血のついた生肉、それを食べてしまった。ムカムカして吐き気がした。胃が受け付けないだろうに、分かっているのに飲み込んだ。これは自分への反抗。自分の意思をねじ曲げる時、少し快感がある。正しくはない、間違っていると分かってするのだ、背徳の快感に違いない。不良が粋がって喧嘩を吹っ掛け、ボコボコにされるようなものだ。お笑い草なんだが、やられても、その底の方に快感が少しある。それが曲者で、マゾはマゾなんだが性的なものが有るのかも知れない。
体操競技にも苦痛がある。最初は跳馬で滑って馬に激突。シューズの底を雑巾で濡らして滑り止めにするのだが、水をつけすぎたのか、ロイター板で滑って跳べずに馬に激突、悶絶した。二度目は平行棒、棒上宙返りの足が乱れて甲がバーに当たり、腫れた。骨折は免れたがビッコになった。一番の痛さは鉄棒だ。それが技の失敗ならいいのだが、違うのだ。皮が剥けるのだ。それも因幡の白兎みたいに、ベロリと剥ける。鉄棒は大車輪が基本だ。滑り止めの白い粉をベットリと掌に塗り、ぐるぐると廻る。全体重に遠心力も加わり引っ張られる。それを握力だけで飛び出すのを防いでいるのだから堪らない。勿論、プロテクターは着けるが、金太郎の腹巻きと一緒で部分的にしか守ってはくれない。最初は握った親指の付け根が剥ける。薄い皮だ。チクチクと刺すように痛む。それでも廻り続けると、プロテクターの下の皮がギシギシと鳴り出し、降りて確めて見ると、掌の皮が絞り上げられ、4本の指の付け根に皺が寄っている。皮が動いたのだ。そっと元に戻してやる。それでも次の日には、また廻る。でも、そんなことをしていると、遂にはベロリと、掌が大きく剥ける。感情線と知能線、生命線が纏めてめくれて、それでも剥がれずに上の部分で繋がっている。本当に因幡の白兎だ。ページを捲るように、皮を捲って肉色を確め、元に戻らないかとその皮を貼り付けてやるのだが、元に戻る筈もなく、結局は鋏で切り離す。それでも、その手で、また廻る。大車輪でぐるぐる廻る、それが面白いのだ。面白くてしょうがない。そうこうしている内に掌の皮は足の踵のように厚くなり、剥けなくなる。夏の補習授業の頃には、掌の皮をカッターナイフで削った覚えがある。隣で見ていた級友がどんな顔をしていいのか分からず、痛痒いような不思議な表情をしたのを覚えている。
記憶なんて曖昧で不確かなものだと思うが、こんな風に映画とか怪我とか怠慢とかが結び付いて、入賞した新人戦も覚えているし、そこに小夜子がいたのも覚えている。見たのは小学校以来だった。中学も高校も違うのだ。忘れていて、思わず二度見したのだが、彼女は目を合わせては来なかった。床運動で着地を失敗して天を仰ぎ、ぐるりと見回したら、観客とて居ないも同然だったが、開催された学校の生徒だつたらしく、その学校の応援でもしていたのか、ニ・三人で壁に並んで立っていた。黒いセーラー服のスカートの丈が長く、不良少女を気取っているのは明白だ。解らんでもない。さもありなんなのだ。
話は小学校六年まで遡る。大人しく、目立たなかった彼女が突然、反抗的になったのだ。男子より女子の方が成長が早いらしいから、反抗期が始まったからかも知れないが、どうも、もっと根元的な社会への疑問もありそうな雰囲気を感じて、それが小夜子と言う名前をエキゾチックに装飾した。イメージが変わると言うことは、評価が変わると言うことだ。よく理解は出来ないのだが、女子の中では派閥みたいなグループがあるらしく、その、どのグループも転校生と修学旅行の同部屋は嫌だと、揉めていた。彼女は苛められていた。田舎の保守的な風土、兼業農家が殆どで、貧富の差も、さ程ではない。そこに異物が混じったのだ、弾かれない訳がない。どうやら九州の潰れた炭鉱から引っ越して来たらしく、容姿も言葉も違っていた。その誰も引き受けない役目に手を上げたのが小夜子だ。たった一人、毅然と名乗り出た。それまで目立ったことの無かった女の子が、皆に苛められて仲間外れになっている子と一緒に寝ても良いと言い出した。エエカッコしいなのか?誰もが疑ったが、むしろ、皆を非難する雰囲気がある。正義だ。それは解っている。しかし皆の合意を裏切ってまで馬鹿正直に正義を貫けば、それは社会に対する反抗だ。犯罪に等しい。そんなことをする女の子ではなかった。その驚きが着地に失敗した後に来た。
規定の床の演技なので難しい技ではない。ロンタードからバク転を二回、勢いをつけての抱え込みのバク宙の着地だが、想定よりも高く弾み、廻り過ぎて尻餅をついてしまった。言い訳をすれば、二つある。ひとつは、床が違った。練習は勿論マットの上だ。体育館のフローリングの床は固い。固い方が弾む。それとバク転のスピードを速くするコツを掴んだ事だ。バク転で腕で押すのを覚えたんだ。もちろん後ろ向きに腕を伸ばして手をつくのだが、次のバク転に移る時に肘を少し曲げて押してやると、勢いが、感覚としては二割増し位にはなる。するとバク宙の高さは伸身でも行けそうな位にはなる。そうやってスワンを練習していたので、タンブリングが高いまま抱え込みをしてしまったのだ。高い位置から落ちたので大きな音がして、見ていた人達が声を出したのは聞こえた。だから小夜子も見てない筈がないのだが、見つけた時には横を向いていた。無視された。それは非難だと思った。転校生が苛められていた時、傍観しているばかりで、助けなかった事への軽蔑、罵り、憐れみなのかも知れない。でも、その時は動けなかったのだ。心の奥にある自分自身の差別や排除の心理に気付き、茫然としていたのだ。
こんな話は誰にもしてはいない。小夜子とは、それ以来会ったこともない。だが、小夜子の不良少女への変身のストーリーは想像した。悪いことに「地獄の天使」が頭にある。拐われた女の変身がダブるのだ。ほぼ誘拐されたに等しい白人の金髪碧眼の女が、最初は泣いていたのに、最後はハーレーに跨がり奇声を上げていたのだ。自暴自棄ではない、寧ろ開放の感がある。自分を解き放った歓びに溢れている。そんな馬鹿な。誘拐され暴力も受け、性的な暴行も受けたろうに、笑って居られるのか?それが反抗の証なんだろうか・・・。
了