第3話
不快な蒸し暑さに目が覚めた。ぼんやりした目に映るのは見慣れた光景だ。
――あぁ、
目が覚めて最初にそんな感想を抱いた。だって仕方ないじゃないか。もう何度もくり返しているんだ、いい加減驚きもしなくなる。
「……そうだ、もう何度もくり返してきたじゃないか」
蒸し暑い教室の中で、誰にも聞かれることのない僕の声が響く。
一度目のとき、僕は小説の趣味が合うクラスメイトと教室で大好きな小説の話をしていた。映画化されることで盛り上がり、それじゃあ一緒に見に行こうかという話になった。
一番近い映画館で上映されるだろうか。上映日時は夏期講習の間にわかるだろうから、それから行く日を決めよう。そんな話をしていたとき、ガラッと大きな音を立てて後ろのドアが開いた。そこには笹木が立っていた。
いつもと違い、明らかに不機嫌そうな顔をした笹木に異変を感じたクラスメイトは、あっという間に教室を出て行った。僕も慌てて後を追いかけようとしたけれど、どうしてか笹木に腕を掴まれて逃げ出すことができなかった。
そこで笹木と何かやり取りをした。話の内容はぼんやりとしか覚えていないけれど、「どうしてあんな奴と」だとか「俺のことには無関心なくせに」だとか、いつもの笹木からは想像できない言葉を投げつけられた気がする。
「それから……そうだ、キスされたんだ」
何か怒っている笹木に腕を強く引かれ、キスをされた。僕は意味がわからず、ただ呆然と行為を受け入れた。長いのか短いのかわからないキスが終わると、やっぱり怒ったような顔をした笹木が教室を出て行った。気がついたときには窓から西日が差し込む夕方になっていた。
翌日からの夏期講習の間、僕はずっと笹木の視線を感じていた。授業中も休憩中も昼食の時間も、笹木はずっと僕を見ていた。それは息が詰まるような五日間だった。
ようやく夏期講習が終わり、精神的に疲れ切っていた僕は翌日、寮の部屋でダラダラと過ごすことにした。
「あの日は結局、何をしてたんだっけ」
夏期講習が終わった次の日のことを思い出そうとすると、頭がぼんやりしてはっきりしなくなる。でも、あの日に何かがあったのは間違いない。そして、その出来事のせいで僕はタイムループすることになった。
だから、思い出さなくてはいけない。思い出さないと、僕は……。
「紗倉、もう夕方だよ。帰らないと」
「……笹木」
これまでのタイムループにはなかった出来事が起きた。タイムループした初日に、笹木が僕を迎えに来たことはこれまで一度もない。それなのに、目の前には笹木がいる。
(今回が最後だからだ)
タイムループが終わるから、これまでと同じである必要はなくなったんだ。
「ほら紗倉、帰ろう」
笹木が笑顔で手を差し出している。普段から優しい表情をしていることが多い笹木だけれど、こんな笑顔は初めて見た。見慣れた人のよさそうな笑顔じゃなく、もっとこう、なんというか……男の色気、みたいなものを感じる。
ここに女子たちがいれば、きっと大きな歓声を上げたに違いない。そのくらいの威力を放つ笑顔を、笹木は僕に向けている。
「紗倉」
名前を呼ぶ声まで違って聞こえた。……いや、この声はどこかで聞いたことがある。ずっと前に、でもそれほど昔ではなく、なのに随分前にも思える
「紗倉」
笹木の声は、ちょうど少年と青年の間くらいの絶妙な低さだ。そういえば女子たちが「あの声で命令されたら、なんでも言うこと聞いちゃう」と話していたのを思い出す。僕はいま、あのとき話していた女子たちの言葉に大きく頷きたくなった。
笹木の声を聞くと、たしかに言うことを聞かなければという気持ちになる。ただ名前を呼ばれただけで、すべてを支配されてしまう気がする。
僕はゆっくりと手を伸ばした。少し震えている僕の手に、笹木が嬉しそうに触れる。その瞬間、得体の知れない寒気を感じて全身の鳥肌がブワッと立った。
――そうか。僕はもう笹木から逃げられないんだ。
唐突に、そう理解した。
・
・
・
夏期講習の五日間、僕は毎日笹木と話をした。お昼を一緒に食べ、授業が終われば二人並んで教室を出る。そんな僕たちを見てもクラスメイトがざわつくことはなく、なぜか誰も僕たちを見なかった。
だからといって笹木の人気がなくなったわけじゃなく、相変わらず女子も男子も笹木に夢中だった。笹木も見慣れた人のよさそうな笑顔を浮かべ、大勢とお喋りを楽しんでいる。
そんな様子を見るたびに、どうして僕なんだろうと思った。どうして笹木は、僕に執着するかのような態度を取るのだろう。
地味で平凡な、しかも同じ男の僕に、笹木は毎日蕩けるような笑顔を向けてくる。笹木がそんな笑顔をするからか、二人でいるときはクラスメイトの誰も近づかなくなった。
同じように、僕が一人でいるときも誰も近づかなくなった。
夏期講習が終わった翌日、タイムループで言えば七日目の今日、笹木は僕の部屋にやって来た。
「ねぇ、何か考えごと?」
そう言って長い指が僕の首をつつつと撫でる。
「俺と一緒にいるときは、俺のことだけ考えてって言ったよね?」
優しく笑う笹木の目が、ひどく冷たく見えた。でも冷めているわけじゃない。きっと一点だけを見ていると、そういう目に見えてしまうんだ。
「ね、紗倉?」
「ぃ……っ」
指で撫でられた首筋に噛みつかれて悲鳴が漏れそうになった。慌てて唇を噛んだけれど、あまりの痛みに肩が震える。
「あぁ、ごめんね。紗倉がかわいくて、つい噛んじゃった。そういえば初めて噛みついたのもここだったっけ。いや、反対側だったかな。そうだ、
笹木の言葉がよく聞こえない。部屋の中は蒸し暑くて苦しいくらいなのに、噛まれた場所はなぜか少しだけひんやりしていた。
「やっぱりかわいいなぁ」
「んっ」
鎖骨を舐められてゾクッとした。僕はこの感覚を知っている。笹木の指の動きも舌の熱さも知っていた。あのときも、こうして触られて舐められて……それは、いつの
「紗倉、かわいい」
「っ」
「肌も相変わらずしっとりしてる」
二の腕を撫でられて、また肩が震えた。そうだ、
僕は安いパイプベッドの上に寝転がされている。シャツのボタンは全部外れていて、頭上にある両手首は紐で縛られた状態だ。
「ねぇ紗倉、今度こそ紗倉は俺のものだよね? あのときみたいに、俺のことを嫌いだなんて言わないよね?」
噛まれた首筋を爪で撫でられゾクッとした。それが痛みのせいなのか恐怖なのかわからない。
「ね、もう二度と俺のことを嫌いだなんて言わないで」
笹木の声が遠くに聞こえる。……違う、別の笹木の声が重なって聞こえるんだ。
――俺のことを嫌いだなんて言わないで。
悲しそうな声が聞こえる。
――そんなことを言うのは紗倉くらいだ。俺のことを嫌いなんて、俺のことに無関心な奴なんて紗倉が初めてだ。
それはそうだろう。笹木はイケメンで人がよくて、誰からも好かれている。きっと小さい頃から周囲にいる人たちみんなに愛されてきたに違いない。
――話しかけても笑いかけても、紗倉は俺に無関心なままだったよね。
それは違う。笹木に関わると目立つから嫌だったんだ。だから、できるだけ近づかないようにしていた。
――最初は変な奴だと思った。そのうち、無関心な紗倉のことが許せなくなった。俺のことが嫌いなのかと勘ぐったりもしたんだよ。
別に嫌いだった訳じゃない。そもそも好きだとか嫌いだとかいうほど仲が良かったわけでもない。
――そんなことを思い始めてからかなぁ。紗倉のことが気になって、気がついたらいつも目で追ってた。誰と仲がいいのか、どんな話をしてるのか、何もかもが気になったんだ。
それで僕が好きな小説のことを知ったんだろうか。サンドイッチのことも、僕がお茶派だということも。
――情報収集して、これなら会話のきっかけになるかなと思って話しかけても、相変わらず紗倉は俺に無関心なままでさ。それが悲しくて、同じくらい腹が立ったんだ。そのうち、自分でもよくわからない気持ちになっていったんだよね。それであの日、夏期講習が始まる前の日、見たことのない笑顔で話しているのを見てカッとなった。
それで、急にキスしたってこと……?
――それでも紗倉は俺のことを気にしなかった。次の日には、まるでキスなんてなかったみたいな態度を取ったよね。イライラしたし頭はグチャグチャになるし、それで今日、紗倉を手に入れようと思ったんだ。
……あぁ、そうだ。これはタイムループする前に笹木が話したことだ。
一度目の今日、笹木は突然寮の部屋にやって来た。驚く僕にキスをして裸にして、何度も何度も僕を抱いた。その後、僕は蒸し暑い汗だくのベッドの上で笹木の話をぼんやり聞いた。
それで……話が終わった後は、どうしたんだろうか。たぶん驚いただろうし、初めてだったからひどく疲れていたはず。
(そうだ、僕はパニックになった)
とんでもないことをした後なのに、普段どおりに話している笹木を見て恐ろしくなった。怖い、怖い、こんなことをする笹木が怖い――そう思ったら、口から勝手に言葉が出ていた。
『笹木なんて嫌いだ』
怖くてたまらなくて、だから早く離れたくて思わず出た言葉だった。僕の言葉を聞いた笹木はとても驚いた顔をしていた。しばらく僕を見つめて、それから無表情になった。
表情はないのに目だけがギラギラしていて、その目に見つめられた僕はますます怖くてたまらなくなった。だから何度も「嫌いだ」というような言葉を投げつけたような気がする。
それを聞いた笹木はムクッと起き上がって、僕の体を跨いで腕を伸ばしてきた。その手が僕の首に触れて、それから……。
「ね、もう二度と俺のことを嫌いだなんて言わないで。でないと、また同じことをしてしまいそうなんだ」
僕を見る笹木の目がにこりと笑う。
「今回はこうしてなんとかなったけど、次があるとは思えないからさ」
「なんとか、って、」
笹木の指が僕の唇を撫でた。
「ぐったりした紗倉を見たとき、これで紗倉は俺だけのものになったと思った。でも、俺に笑いかけてくれない紗倉は俺がほしかった紗倉とは違うんだってわかったんだ」
笹木が笑顔で僕を見ている。
「それで紗倉を抱きしめたまま、ずっと願い続けたんだ。ほら、強く願えば夢は叶うって言うでしょ? だから冷たくなっていく紗倉をギュッと抱きしめたまま願って願って、願い続けた。どのくらい願ったかなぁ。一晩か二晩か、もしかしたら一月くらい経っていたかもしれない。そうしたら、教室で紗倉にキスした後に時間が戻っていたんだ」
唇を撫でていた笹木の指がスルッと首を撫でた。ただ指先でひと撫でされただけなのに、ブワッと鳥肌が立つ。
「世の中、不思議なことってあるもんだね。もしかして、お盆が近かったからかな。まぁその辺りはよくわからないけど、でも、おかげで俺は紗倉を手に入れることができた。時間はかかったけど結果オーライだ。それに紗倉も俺のことを好きになってくれたし、本当によかった」
僕は、笹木を好きになったんだろうか。
タイムループしている間に、たしかに笹木と仲よくなった。よく話をしたし、お昼ご飯も一緒に食べた。夏期講習のあと、二人で書店に買い物にも出かけた。僕はクラスメイトの誰とも話すことがなくなったから、余計に笹木とばかり話していたと思う。
……それは、何度目のタイムループからだった?
いつからだったか、たしかに僕は「笹木って噂どおりいい奴だな」と思うようになっていた。だから僕から話しかけもしたし、一緒にいても苦にならなかった。イケメンでいい奴の笹木が、誰にも話しかけてもらえない僕とも仲良くしてくれるのが嬉しかった。
この感情を好意と言うなら、たぶん僕は笹木に好意を抱いていたに違いない。
(そうだ、笹木はこの部屋に何度か来てる)
たしか、来ていたはずだ。僕が呼んだのか笹木が勝手に来たのかはわからないけれど、それでも中に招いたのは僕で、そうするくらいには笹木に好意を抱いていた。
でも、それがいつからだったのか、僕にはわからない。
「俺は紗倉のことが好きだ。何度くり返しても、やっぱり紗倉が好きだ。紗倉が俺に興味を持って、少しずつ距離が近づいて、好きになってくれる過程は幸せすぎておかしくなりそうだった。そうして十五度目のいま、こうして紗倉を手に入れることができた」
僕に跨がった笹木がうっとりした顔で見下ろしている。その顔は本当に幸せそうで、体の奥からゾッとした。寒気で震える背中に、それとは別のゾクゾクとしたものが這い上がってくる。
「ね、紗倉。二度と俺のことを嫌いだなんて言わないでね」
にこりと笑った笹木に、僕は小さくこくりと頷いた。頷いたあと、どうしようもなく体の芯がゾクゾクした。このゾクゾクが何なのか、僕にはわからない。
「紗倉、愛してる」
そう言った笹木の顔がゆっくりと近づいてくる。だんだん焦点が合わなくなる笹木の顔の向こう側に、これでもかと膨れ上がった入道雲が見えた。
――そういえば、あの日も同じ入道雲が見えたんだろうか。
何度か窓の外を見たはずなのに、思い出せない。入道雲はあったかもしれないし、うるさいくらいの蝉の声も聞こえていたんだろう。それなのに、どちらも覚えていなかった。まるで今日という日がなかったみたいに、何も思い出せない。
(タイムループなんて、本当にあったんだろうか)
くり返していた七日間は本当じゃなかったのかもしれない。何度もくり返したこと自体が嘘だったのかもしれない。僕が妄想した、いや、おかしくなった頭で夢を見ているだけかもしれない。
そうだとして、じゃあ僕はどうしておかしくなったんだろう。
……駄目だ、何もわからない。一瞬、首に触れた笹木の冷たい手を思い出したような気がしたけれど、それが本当か嘘かもわからなかった。
(これだって本当かどうかわからない)
それに、タイムループを笹木と二人でしているなんて……本当に笹木と二人でタイムループしているんだろうか。この日常は、本当に起こっていることだろうか?
「愛してる」
笹木の言葉が、キスと一緒に僕の中に入ってくる。
この世界は嘘かもしれない。でも、きっと目の前にいる笹木は本物だ。だから「愛してる」なんてチープで重い言葉がおかしくて、ゾッとして、苦しくなる。
蒸し暑くてたまらない部屋で、笹木が僕を抱きしめる。僕は括られたままの両手を動かして、笹木の背中を抱きしめ返した。その背中は、どうしてかやけに冷たく感じられた。
嘘かもしれないこの世界で、僕は笹木を受け入れた。これでタイムループが終わるのか、僕にはわからないけれど。
この世界が嘘だったとしても 朏猫(ミカヅキネコ) @mikazuki_NECO
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