この世界が嘘だったとしても

第2話

　今日で夏期講習が終わる。ぐったりしているのも頭がぼんやりしているのも、一度目からまったく変わらない。

　授業が終われば寄り道もせずに寮に帰り、ベッドにごろんと転がって入道雲を見ながら眠ってしまうんだろう。そうして何もしない明日を迎え、気がつけば五度目の同じ時間が始まっているに違いない。

「はぁ」

　タイムループのことを考えるだけでため息が出る。四度目ともなれば慣れるのかと思っていたけれど、まったくそんなことはなかった。どうにかしたい気持ちはあるのに、タイムループをくり返すたびに精神的に疲れてしまって、結局何もできない。

　このまま何度くり返すかわからない時間をただ無意味になぞるだけなのかと思うと、どうしようもなくゾッとした。それでも回避することができず、どうしてくり返しているのかもわからず、ただただ同じ時間を過ごすことしかできない。

　いや、四度目にしてたった一つ、笹木がやけに僕を見ていることには気づいた。

（……また、僕を見てる）

　五日間も感じ続ければ、振り返って確かめなくても笹木に見られているのがわかるようになった。こんなにじっと見られていたのに、いままで気づかなかったのがむしろ不思議なくらいだ。

（笹木は、どうして僕を見ているんだろう）

　見られていることがわかっても肝心なところはさっぱりわからない。もしかしてタイムループの前から見ていたんだろうか。

（もしそうだとしたら、なぜ……？）

　これまでも笹木に話しかけられることはあったけれど、だからといって仲がいいわけじゃない。笹木は人気者だから大勢の人とよく喋るし、僕だけが特別話しかけられるわけでもない。

　両親が死んだあと引っ越して来たから小学校からの知り合いではなかったし、中学も別だった。そんな状況で笹木が僕のことを知っていたとは思えない。僕だって、高校に入って初めて笹木の存在を知った。

　だから二年になって初めて知り合った、ただのクラスメイトのはずだ。それだけの関係なのに、こんなに頻繁に見られたりするものだろうか。

（……わからない）

　タイムループと同じくらいわからない。わからないけれど、一度気づいてしまうと気になってどうしようもなかった。

　そういうこともあってか、四度目の今回はさらに精神的にぐったりしているような気がする。それでも考えずにはいられなかった。考えたところで結局同じことをくり返すだけなのに……じゃなかったか。小説の件で話しかけられたとき、三分だけ時間が早かった。

　でも、あとは全部同じはず。あの三分だってたまたま気づいただけだ。

（……そうか。僕が気づいてない違いがあったのかもしれないってことか）

　残り二日では、ほかに違いがあるか見つけられないかもしれない。もし五度目が始まったら、小さな変化にも注意する必要がありそうだ。

（とくに笹木に関わるときは注意しておこう）

　たまたまでも、三分だけでも、違いに気づいたのは笹木に関わったときだけだ。ということは、また笹木に関わるときに違いが表れるかもしれない。

　夏期講習の最後の授業は、主に笹木のことを考えるだけで終わった。

「紗倉、明日、暇？」

「……え？」

　夏期講習が終わり、一人静かに帰宅の準備をしていたら笹木に声をかけられた。四度目にして初めてのことに、驚きすぎてしばらく動きを止めてしまった。

「紗倉？」

「……あ、ええと、」

「明日、暇？」

　名前を呼ばれ、もう一度同じことを訊かれても何も答えられない。だって、こんなことがあるはずないんだ。これまで三度くり返してきた時間の中では、こんな出来事は起きなかった。

　なぜ違うことが起きたのかとパニックになる。「あの」とか「ええと」とか言いながら、視線がうろうろとさまよってしまう。そんな僕の態度に痺れを切らしたのか、笹木がスッと顔を近づけてきた。

「明日、寮の部屋にいるだけなら暇でしょ？」

「え……？」

　まるで僕が暇だと確信しているような口ぶりにドキッとした。たしかに明日はただ寮の部屋でゴロゴロしているだけだが、それはタイムループしている僕だから確信できることだ。

　そもそも、そこまで親しくない笹木が僕の行動を把握しているはずがない。それなのに、どうして知っているふうに言うんだ……？

「明日、寮の部屋に行くよ」

「え？」

　笹木の声は通りがいい。低すぎない声は張りがあって大声でなくてもよく聞こえる。おかげで、教室に残っていたクラスメイトたちが一斉に僕たちのほうを見た。

「あ、そうだ。お昼は前に話してたサンドイッチを持っていくから、食べないで待ってて。ほら、紗倉も食べてみたいって言ってたお店のサンドイッチ」

「ちょっと、」

　勝手に時間や昼食まで決められてしまった。慌てて断ろうとしたけれど、「じゃあ明日ね」と爽やかに笑って教室を出ていく笹木の後ろ姿に駄目だと声をかける勇気はなかった。

　もし大きな声で拒否すれば、僕はきっとよくない形で注目されてしまうだろう。笹木の誘いを断ったとなれば、残り一年半の高校生活は厳しいものになるに違いない。針のむしろのような空間で過ごすことになるだろうし、そんなことは耐えらない。

　結局僕は肯定することも拒否することもできず、ただ笹木が明日部屋にやって来るというアクシデントを受け入れるしかなかった。

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・

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　部屋を簡単に片付け、備え付けの小型冷蔵庫に麦茶と紅茶、それにコーヒーが入っていることを確認する。

　笹木の好みはわからないけれど、サンドイッチを持ってくるのなら飲み物くらいは用意しておいたほうがいいだろうと思い、今朝購買部で買ってきたものだ。もし違うものがいいと言われたら、寮の入り口にある自動販売機で買ってこよう。

　そんなことを考えながら、開け放した窓の外を見た。今日も入道雲はもくもくとわき上がり、主張の強い蝉の声が響き渡っている。そこに被さる扇風機の音が夏休みっぽさに拍車をかけていた。

「そういえば、前に話してたサンドイッチって何のことだろう」

　笹木は昨日、「前に話していたサンドイッチを持って行く」と言っていた。でも、僕には笹木にサンドイッチの話をした記憶なんてない。かと言って、笹木がほかの誰かと僕を間違えるとも思えなかった。

　笹木はイケメンなだけでなく頭の出来も優秀だ。国語は苦手なんだと言いながら、毎回試験では上位五位以内に入っている。理系の科目だけなら、おそらくトップなのだろう。そんな彼が記憶違いをするとは思えない。

「でもサンドイッチの話なんて、やっぱりしたことないよな」

　昨日も散々考えたけれど、そんな個人的な話をした記憶はまったくなかった。おかげで昼寝をすることもなく、四度目のタイムループで初めて明確に違う行動を取ることになった。と言っても今日はもう七日目だし、きっと気がついたら五度目が始まっているに違いない。

　……いや、もしかすると五度目は起きないかもしれないのか。

「そうだ、笹木が部屋に来るなんて大きな違いなんだ。もしかしたら五度目は来ないかもしれない」

　そう思ったら少しだけ気持ちが浮上した。これで本当にタイムループが終わってくれるなら、僕は笹木に感謝してもしきれなくなる。

　きっと周りの人たちと同じくらい好意を抱くだろうし、笹木が困っていたら僕のほうから声をかけるかもしれない。急に僕の態度が変わればクラスメイトたちに注目されるかもしれないけれど、そんなことが気にならないくらい感謝するだろう。そう考えるくらい、僕はタイムループの日々に疲弊していた。

「誰だってこんなこと、怖いに決まってる」

　何事もないように四度目をくり返してきたけれど、本当は訳のわからないタイムループが怖かった。何度もくり返す時間は正直気持ち悪いし、段々と本当にこれはタイムループなんだろうかと疑問さえ湧いてくる。もしかして、おかしくなった僕の頭が勝手に描き出している妄想なんじゃないか、そんなことまで思ったりした。

「でも、これでようやく抜け出せるかもしれない」

　そのきっかけが笹木だとしたら、たとえ目立ったとしても彼のために何ができるか必死に考えるだろう。

「それに、僕はもう十分に目立っている」

　孤立状態を目立っていると言っていいのか微妙だけれど、クラスメイト全員に遠巻きにされていることは注目されているのと同じことだ。少し前までは、ここまでじゃなかった。僕のほうがひっそりと過ごしていただけで、クラスメイトとはそれなりに会話はあった。

　それなのに、いまではすっかり教室でポツンと一人きりになってしまっている。誰にも話しかけられず、誰にも見てもらえない存在になってしまった。

「いつから、こんなふうになったんだっけ」

　少なくとも夏期講習が始まるまではいつもと変わらなかった。何人かと趣味の読書の話もしていたし、勉強のことで話したりもしていた。仲良しとまでは言えなくても、小説の好みが似ていてそれなりに話していたクラスメイトだっていた。それが、気がつけば完全な孤立状態だ。

　誰も話しかけてくれない……それは、いつからだった？

　この前までは、若干孤立気味というくらいだったはず。それがいまでは誰からも話しかけられることがない。視線が合うこともなくなった。

　どうしてそうなったのか、何がきっかけだったのかさっぱりわからない。こうなるにはそれなりの理由があるはずなのに、そんな出来事の記憶が僕にはまったくなかった。

「そんなわけないよな。だってタイムループしている僕は、全部覚えているはずだし」

　四度目ともなれば、ちょっとしたことも覚えている。だからクラスメイトたちが距離を置くような出来事があれば絶対に覚えているはず。でも、僕にそんな記憶はない。

「そういえば、笹木だけは変わらず話しかけてくるよな」

　そうだ、笹木だけは変わらなかった。普段の挨拶も、小説の話をするのもいつもどおりだ。勉強の話もするし、お昼ご飯だっていつもどおり一緒に食べて……いつもどおり……、だったっけ。

「……どう、だったかな」

　夏休み前、僕は笹木とどのくらい親しかっただろうか。

　小説の話は、していた気がする。勉強の話は……全体の真ん中くらいの成績の僕と上位の笹木で、勉強の話ができただろうか。それにお昼ご飯は、いつも教室の自分の机で一人で……、違う、目の前には笹木が座っていた、ような……。

　トントン。

　ドアを叩く音にハッとした。続けて「紗倉、俺だけど」と笹木の声がする。

　ぼんやりした頭のままドアを開けると、私服を着た笹木が立っていた。イケメンは私服姿までイケメンなんだなぁ、なんて間抜けな感想を抱く。

「約束のサンドイッチ、持ってきたよ」

「うん、あの、どうぞ」

　紙袋を持った右手を少し持ち上げる姿までかっこいいなんて、そりゃあ学校一の人気者にもなるよなと感心した。

　ベッドの側に置いてある小さなローテーブルに案内すると、笹木はさっそく紙袋を開けてサンドイッチを取り出し始めた。メンチカツサンドに厚焼き卵サンド、チェダーチーズが挟まっているもの、それにキウイのフルーツサンドまである。

　どれも僕が好きなものということは、やっぱりサンドイッチの話をしたことがあったのだろう。「さっぱり覚えていないけど……」と考えていたら、笹木がスッと立ち上がった。そのままスタスタと歩き、カパッと備え付けの冷蔵庫を開ける。

「飲み物、紗倉は麦茶だよね。俺が好きなコーヒーもちゃんとある」

　麦茶とコーヒーの紙パックを持って笹木が戻ってきた。サンドイッチの脇に置かれたコーヒーの紙パックを見て、そうだ、これは笹木が好きなコーヒーだったと思い出した。

　僕は普段コーヒーを飲まないお茶派だから、冷蔵庫にわざわざ買って置いておくことはしない。だから笹木のために買ってきたものなのに、どうしてさっきは「笹木の好みはわからない」なんて思ったんだろうか。

「食べようか」

　何かが引っかかったけれど、僕は笹木に促されるままサンドイッチを受け取った。パッケージを開けてパクリと一口囓ったところで、笹木が「映画、どうする？」と聞いてきた。

「映画？」

「そう、約束した映画、いつ見に行く？」

「約束……？」

「あれ、忘れちゃった？　映画、一緒に見に行く約束したでしょ」

　そうだっただろうか。……いや、そんなはずはない。僕はドラマすらあまり見ないくらいだから、わざわざ映画館に行くなんてことはしない。約束してまで映画を見に行くはずがない。

「ほら、そこに並んでる探偵ものの小説が原作だからって、見に行く約束したよね？」

「小説が原作……あ、」

　思い出した……ような気がする。

　本棚に並んでいるその小説は僕が好きな作家の作品で、初版で全巻揃えるくらい気に入っていた。これまで同じ作家の作品がドラマ化されてもあまり興味はなかったけれど、この小説が原作なら見てみたい、たしかにそう思った。

（でも、そんな話、笹木としたことあったかな）

　最終巻の発売と同時に映画化が発表された。告知の紙が入っていた最終巻の発売日は、夏期講習が始まる前日だ。初版がほしかった僕は、当然学校のすぐ側にある書店で予約注文していて、朝一番で取りに行ったことは覚えている。

（早く部屋に帰って読もうと思って……そうだ。校舎の前を通り過ぎようとしたとき、誰かに声をかけられた）

　あのとき別の書店で同じ小説を買ったクラスメイトとばったり会って、そのまま少し話をしたんだ。

　外は暑いから教室に行こうかという話になって、誰もいない教室で思うままに小説の話に花を咲かせた。珍しく興奮していたからか、映画を一緒に見に行こう、そんな話までしたような気がする。

　ということは、あのとき教室で話をした相手は笹木だったんだろうか。映画を見に行く約束をしたというなら、そうなんだろうけれど……駄目だ、記憶がぼんやりしていて思い出せない。

「思い出した？」

「……たぶん、」

「たぶんなんて、自分のことなのに紗倉はおもしろいね」

「そう、かな」

　おもしろいなんて言われても、約束をした相手が本当に笹木だったか確信が持てないんだ。笹木に言われたらそうだった気もするし、やっぱり違うような気もする。どうだったか思い出そうとしても、頭の中に膜が張ったみたいな感じがしてどうしても思い出せない。

（夏期講習の前日に約束したなら、タイムループの一日目だから覚えているはずなのに）

　……違う、僕がタイムループするのは夕方からだ。だから小説の最新刊を手に入れた午前中のことは思い出せなくても当然だ。

「じゃ、いつにするか決めようか」

「いや、行くとは言って…………、ええと、」

　思わず拒否の言葉を口にしかけたら、それまで笑顔だった笹木の表情がなくなった。その変化が怖くて「ええと、いつって言うか、」なんて意味のない言葉を慌ててつけ加える。

「俺と見に行くのは嫌？」

「そ、んなことは、ないけど」

　嫌というより訳がわからないと言ったほうが正しい。だって、僕と笹木は二人で映画を見に行くような親しい友人じゃなかったはずだ。

　それを言うなら、いまだっておかしい。これまで僕は誰も寮の部屋に呼んだことがなかった。注目されたくないから、当然人気者で目立つ笹木を呼ぶことなんてない。

　それなのにサンドイッチの話や飲み物の話をしていた。小説の話もしていた。さらに映画に行く話までしていたなんて、本当だろうか。そこまで親しくしていたのに、いろんなことを覚えていないなんてことがあるだろうか。

「大丈夫、紗倉はちょっとド忘れしているだけだよ。すぐに思い出す」

　さっきまで表情のなかった笹木が、うっすらと笑っている。見慣れている人のよさそうな笑顔なのに、なぜか僕は得体の知れないものを感じた。

「物忘れは、たぶん何度もくり返している影響だろうね」

「え……？」

　何度もくり返している（・・・・・・・・・・）？

「どうしても負荷がかかるみたいで、記憶がツギハギになることがあるんだ。そこは俺も心配してたんだけど、少しずつ紗倉を変えるためには仕方がなくてさ」

　記憶が……いま、何て言った？

「これ以上、負荷をかけると壊れてしまうかもしれない。だから、今度が最後だよ。大丈夫、もうほとんど思ったとおりになっているし、次で完璧になるはずだから」

　うっとりと笑う笹木の手が伸び、指先が左の頬に触れた瞬間、僕はとてつもなくゾッとした。そうだ、僕はこの場面を知っている（・・・・・）。なのに、いまのいままですっかり忘れていた。

「もう何度も一緒にご飯を食べてきたし、今回はこうしてまた部屋にも入れてくれた。多少強引だったのは否めないけど拒絶されなかったし、俺の好きなコーヒーまで用意してくれていた。あれだけ俺に無関心だった紗倉なのに、まるで別人みたいになったね」

　笹木の指が頬を擦るたびに、鳥肌がぶわっと広がる。

「次の七日間も、クラスメイトは誰も紗倉に近づかない。七日間だけじゃないよ？　これから先、紗倉はずっと独りきりだ。あぁ違う、紗倉の隣には必ず俺がいるから安心して。だって、紗倉には俺さえいれば問題ないでしょ？　大丈夫、次でくり返しは終わるし、そうしたら紗倉と俺はずっと一緒だ」

　どうして僕はこの場面を忘れていたんだろう。どうして一日中ゴロゴロしていたなんて思い込んでいたんだろう。

「何度かくり返せば絶対手に入れられると思っていたのに、予想以上に時間がかかったなぁ。これならもっと簡単な方法を願えばよかった。きっとどんな方法でも熱心に願えば、今回みたいに叶ったと思うんだ。まぁでも、いつも紗倉と一緒にいられるから悪くはない七日間かな」

　笹木の指が、ゆっくりと僕の唇を撫でた。

「それでも七日間を十四回もくり返さないとここまでたどり着けないなんて、やっぱり非効率だよね。そりゃあ紗倉が壊れてしまったら意味がないから、時間がかかっても仕方ないってわかってるけど、でも俺も限界なんだ。紗倉の記憶にかかる負荷も限界っぽいし、次こそもう一度（・・・・）結ばれようね」

　ローテーブルに身を乗り出した笹木の唇が、唇に重なった。僕はこの感触を知っている……そこで僕の意識は途切れた。