第6話 運命の楽器
「美音、あなた今……」
気づけば、防音室の扉を開けた母親が、驚いた顔でその場に立ったまま美音を見ていた。母親が驚くのも無理はない。高校受験が表向きの理由とは言え、美音は母親とはほとんど喧嘩腰のような話し合いの末に、ピアノのレッスンをやめることを告げたのだから。
「えっ……あっ」
美音の頬はまだ涙に濡れたまま。
『Fantasie Impromptu』を弾き終えた余韻が、今も全身を包み込んでいる。
けれども、そこにあの5人の姿はもうどこにも無かった。
「お母さん、私ね」
椅子から立ち上がり、美音は母親の元へと歩み寄る。そして、意を決して母親へと告げた。
「高校に受かったらまた、ピアノを続けようと思う」
「えぇっ?」
驚く母親に、美音は続ける。
「でもね、ごめんねお母さん。私はピアニストとか、そういう道に進む気は無いの。がむしゃらに技術を習得する気も無いし、コンクールとかも興味ないし、だいたいそこまでの才能も無いのは自分でも分かってる。それに、誰かと演奏の優劣を競うとかも、好きじゃない。だけど、私は音楽が好き。ピアノの音が大好き。だから、ピアノは続けていきたい。今度は、ちゃんと心から音を楽しみながら。私が心から弾きたいって思う曲を、弾いていきたい」
美音の言葉をしっかりと受け止めた母親はふうっと長い息を吐きだすと、ふわりと笑った。
「そう、ね。美音にはそれが一番合っているスタイルなのね、きっと。うん。それがいいわ。そうだ、今度連弾でもしない?一緒に弾いてみたい曲があるのよ」
「うん!でも受験が終わってか」
「いいじゃない、少しくらい。息抜き程度に」
いつの間にか、母親は子供のようにはしゃいだ笑顔を見せていた。美音が母親のそんなに楽しそうな笑顔を見るのは久しぶりだった。気づけば、美音の胸の中の澱は、すっかりと消えて無くなっている。
「しょうがないなぁ、でも、たまーに、だよ?勉強の合間に、ね?」
「もちろんよ!」
嬉しそうに笑い、母親は防音室から出て行く。
美音も母親に続いて防音室を後にしようとし、一度振り返って室内の楽器を見回した。壁に掛かっている扉の絵は、いつもと同じように閉じたままだ。
「ありがとう、みんな。ありがとう、ノア」
美音が出て行き、パタリと防音室の扉が閉まった後。
微かに、ピアノの音色が笑うように、室内に響いた。
end
『Fantasie Impromptu』 平 遊 @taira_yuu
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