第5話 Fantasie Impromptu
「俺は、試さないのか?」
こんな時でさえ心地よく耳に響くノアの声。
振りほどけそうもないノアの手の力に抵抗を諦め、美音は俯いて言った。
「嫌でしょ、私なんかに弾かれるの」
「何故?」
「だって、私……」
その先を口にすることができずに、美音は唇を噛みしめ、両手を固く握りしめた。すると、美音の腕を離したノアが、握りしめられた美音の両手を、大きな両の手でそっと包み込んだ。
「嫌な訳、ない」
あまりの優しい触れ方に驚いて顔を上げた美音の目を、ノアの切れ長の目が真っすぐに見つめる。
「俺はずっと、美音を見て来たよ。だから、どんな美音も知っている。確かに、殴られているように感じた事もあったけど」
小さく笑って、ノアは先を続ける。
「美音が俺の
そう告げたノアはもう、笑ってはいない。
「これが最後になっても構わない。美音のこの手で、俺を歌わせてくれ。美音が一番弾きたいと願っていたあの曲を」
「でも私、あの曲はまだ一度も」
「大丈夫。俺がリードするから。絶対に弾ける。美音はただ、弾きたいように弾いて、俺の
次第にノアの姿が薄く透け始め、新緑の芝生の上に現れたのは黒光りしているグランドピアノ。
「さぁ、座って」
躊躇いながらも椅子に座り、鍵盤の上に手を乗せると、ノアの手が美音の手の上に重なった。
「いくよ、美音。美音と俺だけの、『Fantasie Impromptu』」
「……うん」
鼻の奥のツンとした痛みを堪えながら、美音は小さく頷く。
幼いころから美音の心を掴んで離さなかった曲。
美音がずっと、心から弾きたいと望んでいた曲。
それを今、やっと弾くことができる。
大きく深呼吸をして昂る感情を落ち着けると、美音はG#の黒鍵へと指を落とす。
辺りに艶やかな音が響き渡った。
最後の音の余韻が消えると同時に、ノアの大きな手が美音の頬に触れた。
「そんなに、泣きたい程に弾きたかったんだね、この曲が」
美音にとって、この曲は初見で弾けるような曲ではなかったが、ノアのリードのお陰で最後まで気持ちよく弾ききることができた。
そして、弾きながら美音は自分でも知らないうちに泣いていたのだ。
ノアの指が、美音の頬を流れる涙をそっと拭う。
「うん……だって、この曲が弾きたくてピアノを習い始めたんだもの、私。それなのに……」
「俺はね、美音のお母さんのこともずっと見て来た。だから、お母さんの気持ちも分かるんだ」
いつの間にかグランドピアノは消えてなくなり、椅子が消えて倒れ込みそうになった美音を片腕で支えながら、ノアはやるせなさそうな表情を浮かべて青空を見上げる。
「お母さんはね、嬉しかったんだ。美音がピアノを選んでくれて。嬉し過ぎて……焦ってしまったんだ。美音を他の楽器に取られるのが怖くて」
「えっ?」
「いつも悩んでいたよ、美音が苦しんでいるのを見て。それでも、美音をピアノから離したくなくて、お母さんも苦しんでいた。まずは美音がどんな曲でも弾けるような技術を身に付けられるようにって、お母さんなりに考えていたんだ。だから、どうかお母さんの事は責めないでいてあげて欲しい。俺の事は嫌いになっても構わないか」
「嫌いになんかっ!」
ノアから思いがけず母親の気持ちを聞かされ、美音の目からは新たな涙が溢れ出す。
「私は……私はお母さんが楽しそうに『Fantasie Impromptu』を弾いている姿に憧れてピアノを始めたの。やっぱり私はピアノが好き。ピアノの音が大好き。いつか私もお母さんみたいに自分だけの『Fantasie Impromptu』を弾けるようになりたい」
「……良かった。俺も美音が歌わせてくれる
美音の体に両腕を回し、ノアはそっと美音を抱きしめた。
すっぽりとはまってしまったノアの胸の中で、美音は小さく頷く。
「あ~あ、やっぱりそうだよね。みぃおんの運命の
「何を今更。最初から分かっていた事ではないですか、トット」
「そうです。我々はみぃの心の迷いを払うお手伝いをしただけ」
「ま、それでも、姫とこうして直接会って話せた時間は、幸せだったけどね」
ノアの背中越し、美音の耳には4人のこんな言葉が届いていた。
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