本の虫

高黄森哉

大学


 大学図書館の利用は、コロナ禍のため、不便な手続きを踏まなければならなかった。図書館内に入るたびに、自分の名前と学籍番号、今日の日付を記入した用紙の提出を求められたのである。


 今日は、本を返しに来た。受付で本をさっと返却して、次の講義までにまだ少し時間があるので、ついでに新しい本を借りることにした。自分のお気に入りは筒井康隆で、彼の作品がある棚は、図書館の奥に位置している。滅多に利用されることがないらしい場所で、先客があったためしはない。


 さて、世の中には移動棚なるものがある。お目当ての棚も、そのような棚で、普段は鍵が掛けられている。だから、受付でその旨を伝えて、開錠してもらう必要がある。つまり受付の、やや太った女性に声を掛け、一番奥の棚を動かせるようにしてもらう。彼女は開けるなり、終わるなり伝えてくれと述べ、くるりと踵を返した。


 棚の側面のボタンを押して、棚を移動させる。ぴったりと密着していた棚の隙間が人ひとり分くらいに膨張する。隙間に入る。頭上にはセンサーがあって、自分を感知すると、他の棚が動かないような設定が成されている。でなければ、うっかり誰かが隣の棚を動かして、この電動の重い棚で自分を押しつぶしてしまうだろう。


 自分は、筒井康隆の『我が銀狼』みたいな、いまいち面白くなさそうだけど、興味を惹いた本を手に取り棚から抜け出た。まだ時間があるので、他の棚も探してみようという気になった。そして、端っこの棚まできた。


 自分の興味を惹く本はこれまでなかった。なぜなら、大学の本というのは文学は少ないからだ。文学であっても中東や西欧の言葉だったりする。自分は語学に明るくない。勉学なら全て明るくない。きっと将来は暗い。


 それで端っこの棚というのは、図書館の右側面に密着している、不自然に他と方向が九十度違う棚である。すべて側面をこちらにしているのに、これだけは、正面を向いている。恐らく収まりの関係だろう。確かに、あと一つ、縦向きで棚を、この場所にはめ込むと、どうしようもない隙間が出来てしまう。


 自分はその棚から一冊、引っ張り出した。その本は、ほとんど背表紙だけと言っても過言ではない状態であった。シロアリが本を掘って営巣している。中から白色の新社会性昆虫があふれ出して来る。


「返しなさい」


 棚の裏側から声が聞こえて来た。裏側というより、さっき本が収まっていた場所が長方形の穴になっており、その暗い横穴から響いてくる。ああ、この棚は背中がないのだ。だから、自分が本を押せば、奥に落っこちてしまうのだろう。


「なぜですか」

「その巣には女王蟻がいる」


 自分は返すべきか迷ったが、それよりも、その前に、彼女のことを聞いておくべきか。もし本を穴に返却してしまえば、唯一の通り道は、塞がれて、彼女の声は聞こえなくなる。


「なぜ、そんな場所にいるのですか」

「本を探しているうちに、この棚の裏に迷い込んだ。その時、誰かが移動棚のボタンを押した。棚は扉のように閉じ、ぴったりとここを孤立させてしまった」

「なるほど。それで、どれくらいそこにいるのですか」

「四年」


 四年というのはすさまじい年月に思えた。四年あれば大学生活が終わってしまう。この人は本当に四年間もここにいたのだろうか。そんなこと可能なのだろうか。


「食料はどうしているのですか」

「シロアリを食べている。セルロースは大量のエネルギーを蓄えている。人間はそれを取り出すことは出来ない。白アリには可能」


 大量のシロアリは彼女の栄養だったらしい。なら、彼女が女王蟻を保護するのも納得が出来る。


「排泄はどうしているのですか」


 好奇心は羞恥心などを麻痺させた。自分にはこの状況で失礼などを気にする理由を見つけ出すことは難しかった。常識が機能する領域はとっくに通り過ぎているのだ。


「換気用の穴がある。その場所から垂れ流している。恐らく側溝になっているから、雨が降れば流れる」


 なるほど。


「水は水は」

「エアコンが近くにあって、結露した水を飲む」


 確かに棚の上部からエアコンの近くまでビニール紐が伸びている。あれが雫を棚の後ろまで伝えているのだろう。


「いつまでそうしているつもりなんですか」

「ずっと、永遠に」

「そんな不可能だ。だって、本は無限じゃありませんよ。白アリが居ようが、いつかは消費されつくされてしまう。だから本で生きていくなんてのは不可能だ」

「私はここにいる」


 彼女があまりにも強情なので、自分は見捨て、帰ることにした。本を借りる際に、図書館の右端に変な人がいることと、シロアリが湧いて蔵書を食い荒らしていることを受付の女性に伝えた。

 さて、それからしばらくたって、またその図書館を利用したのだが、例の司書によると、そんな事実はなかったらしい。では、あれは全くの幻覚だったのだろうか。

 自分は、再度、その場所を訪れ、同じ本を抜き取るが、シロアリなどおらず、本はまるで新品のようだった。そして、本棚の背は新しい板が打ち付けられていて、どの本を押せど、奥には動かなかった。でも、ビニル紐だけは相変わらずそこにあって、エアコンから結露を棚の裏側まで引いていた。

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本の虫 高黄森哉 @kamikawa2001

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