SCRATCHED

Afraid

第1話 傷だらけの仮面たち

 吊られた白熱電球の明かりが、古めかしいテーブルや椅子を照らしている。

 カウンターテーブルは辛うじて大人三人が座れるだろうかというほどの狭さで、そこに並べられたサイフォンもどこか窮屈そうに見える。

 器具の向こう側には、文庫本に目を落とす青髪の女が一人。

 ドアベルが鳴った。

「もう営業時間は終わってます」

 女は活字を目で追ったまま平坦な口調で告げる。

 だが革靴の乾いた足音は無遠慮に室内に響き続け、やがてカウンターテーブルの前で止まった。

「こういう本格レトロって感じのカフェ、少なくなりましたよね」

 若い男の声と、椅子を引く音。

 女はそれを無視する。

「こちらでは仕事を……引き受けてくれるとか」

「…………」

 女は全く動じない。

「コードネームをそのまま喫茶店の名前にするなんて、大胆なことしますね。元多重スパイのリブラさん」

 パタン。

 勢いよく本を閉じ、女はようやくその珍客を睨み上げた。

「常連からもその名前で呼ばれてるっていうのは流石に嘘ですよね?」

 男は狐のような笑みを浮かべている。

「警察や弁護士に相談できない事情を抱えている人間か、今も法の裁きから逃げ続けている人間。私に仕事を頼もうとする客は大抵この二つに分類されるけど、あなたはそのどちらでもなさそうね。小綺麗な身なりにその態度、そして何より相手の過去を調べ上げて恫喝の材料にしようとするやり口。さしずめ公安の犬ってところかしら」

 女――リブラは淡々と言いながら、侮蔑のこもった笑みを返した。

「とんでもない。ファンなんですよ、あなたの」

「あらそう。じゃあ私のプライバシー保護のために死んでもらえる?」

「経歴にふさわしいユーモアをお持ちで……」

 男が苦笑いを浮かべていると、店の奥からトレイを持った大柄な女が現れた。

「トリカブトブレンドっす」

 テーブルの上にマグカップが威圧的に置かれる。

「ご丁寧にどうも。あなたのことも存じ上げてますよ。恵まれすぎた体格が災いし階級の壁に苦しみ、最後はジムに押しかけた金融業者に重症を負わせてプロの道を断たれた悲劇のムエタイ選手。現地ではグーハウのリングネームでそれなりに注目されていたとか」

「そこまで調査済みとは恐れ入ったわ。でも私のことはともかく彼女の件は紛れもなく事故だったし、今はこっちに移り住んで立ち直るための努力をしてるんだから、いたずらに過去を掘り返すのはやめて頂戴。本当に毒を飲ませるわよ」

 リブラが睨むと、男は素直に詫びを述べて頭を下げてみせた。

「今はヤトって名前で働かせてもらってるんす。ストーカー野郎は嫌いなんで二度と話しかけないでほしいっす」

 女は言いながら店の奥へと消えていった。

「……すみませんね。こちらも急ぎなもので」

 男は傾けたカップに口をつける。

「じゃあお友達に頼んだら?」

 リブラが冷たく返す。

「それができないから困ってるんです。わかってるでしょうに」

「断ると言ったら?」

「無粋な人間がここに押しかけることになるでしょうね」

「…………代金は前払いで二千万。現物しか受け付けないわよ」

「ではこちらで」

 男がテーブルの上に積み上げたのは、大粒の宝石だった。

「一度やってみたかったんですよね、こういうの。ああそれから、僕のことは……ピジンとでも呼んでください」


 翌日。

 路肩に停めたスポーツカーの助手席で、ヤトは大きなあくびをした。

「それにしても随分気前がいいっすね、あのストーカー。ほんとにサツなんすか?」

「どうせ闇業者からくすねた押収品でしょ。そんなことより、ちゃんと周り見ておきなさいよ」

 運転席ではリブラがハンドルに寄りかかっている。

「ロシアの暗殺者ねぇ……マジだったらヤバくないっすか、この仕事」

 表向きは外交官として入国しておきながら、先日になって毒物密輸の容疑をかけられたところ外交特権を盾に今も大使館内から抗議を続けている男。

 通称ズメイ。

 暗殺対象は未だ不明ながら、決行日が今日である可能性が極めて高い……というのがピジンからの情報だ。

「決行日がわかっててターゲットがわからないなんてことあるんすか?」

「あるわけないでしょ。単に護衛の強化だけでは済まない事情があると考えるのが普通ね。何らかの濡れ衣を着せるつもりなのか、もしくは――」

 その時、一台の黒いセダンが横を通り過ぎた。

「デマであって欲しかったわ」

 アクセルを踏むリブラ。

「どうするんすか? 店長の読み通りならこのまま尾行しても……」

「ロクなことにはならないでしょうね。とはいえ、ストーカーの意図を探らないことには動きようがないのも事実よ。不本意ながら」

 数台の一般車両を挟みながら、セダンの後方を走行する二人。

 依頼内容は対象の尾行のみだが、それだけでは済まないことは明白だった。

「やっぱりあいつ、殺したほうがよくなかったっすか?」

「今度から常備しておこうかしら。トリカブト」

 上り坂でアクセルを一気に踏み込みながら、リブラは晴れ渡る青空を見上げた。


 セダンが停車したのは細い路地だった。

 リブラとヤトも曲がり角に車を停め、跡をつける。

 対象の外見はピジンのデータと一致していた。

 男は軽く周囲を探った後、階段を下りていく。

「どうするんすか。地下っすよ」

「待ち伏せのリスクが一番大きいけど、抜け道から逃げられでもしたらその時点で尾行は失敗。行くしかないでしょう」

「ヤバかったら逃げていいっすか」

「おすすめしないわね。相手がプロならこちらが危険を感じた時点でゲームオーバーよ」

「じゃあどうするんすか」

「いざという時は洗いざらい話すだけよ」

 そう言いながらリブラは既に階段を下り始めている。

 ヤトも渋々後に続く。

 階段の先、薄暗い通路の向こうにあったのはバーの入り口だった。

 通常の客を装い、中へ入る。

 店内はネオン調で、隠れ家的な立地とは裏腹にそこそこの広さと賑わいがあった。

 店員の案内も無いため、対象から少し離れたテーブルに着く。

「景気付けに一杯ってやつっすかね」

「まさか」

 適当な注文をしつつ、それとなく対象を探る二人。

 大きな荷物を持ち歩いていないことから狙撃の可能性は低い。

 銃を車の中に放置などしないだろう。

 となれば目的はやはり毒殺か。

 だが、飲食物に毒を混入させる計画なら、公安から本人に情報を伝えるだけで警戒は十分にできる。

 問題は、飲ませずとも触れさせるだけで効果のある猛毒が存在することだ。

 そしてそれが使われた事例は既にある。

 暗殺対象が要人であると仮定するなら、接近できるチャンスがあることをスケジュールから把握しているはず。

「スケジュールからターゲットを逆算するとかできなかったんすか?」

 カクテルに浮いたチェリーを弄ぶヤト。

「時間外労働はしない主義なの」

 リブラは既にウィスキーのグラスを半分以上空けている。

 その間、対象に変わった様子は見られない。

 仲間を待っているのか。

 リブラが新しい注文を試みた時だった。

 大きな音を立ててドアが勢いよく開かれた。

 店内に流れ込んできたのは、口元を布で覆った集団。

 ロシア系ではない。

「なんか、いかにもチンピラって感じの……」

「静かに」

 リブラがヤトをたしなめる。

 店内を物色するように見回す闖入者達。

 やがて、そのうちの一人が近づいてきた。

「おい」

「…………」

 無視に徹するリブラとヤト。

「お前だ、そこのサル女――」

 言い終わる前に、男の顔面はテーブルの角へと叩きつけられていた。

 頭を鷲掴みにして男を殴り続けるヤトを見上げて、リブラが大きなため息を吐く。

 見渡すまでもなく、周囲は敵に囲まれていた。

「結局こうなるのね」

 立ち上がるリブラの手には、黒い仮面。

 目や鼻すら造形されていない無機質な平面には、引っかき傷のような模様が無数に刻まれている。

「クソ野郎相手にヘラヘラするぐらいなら、野垂れ死んだほうがマシっすよ!」

 いつの間にかヤトの顔は蛇を模した仮面で覆われていた。

 それは、仕事の開始を意味する正装である。

 仮面を付けた二人の女に、集団が一斉に襲いかかる。

 リブラは姿勢を低めて鉄パイプを躱すと同時に敵の顎に掌底を叩き込み、続けざまに腕を極めてその得物を奪い取る。

 その時、背後からは金属バットが振り下ろされていたが、リブラのフルスイングのほうが早かった。

 一方のヤトはテーブルを振り回しながら店内を縦横無尽に走り回っている。

 その働きのおかげで、集団のほとんどが沈黙するまでにそれほど時間はかからなかったが、やがてリーダー格と思われる巨漢がゆっくりと店内に入ってきた。

 リブラは背後に回り込もうとするが、ヤトが無言でそれを制止する。

 自分にやらせろと言っているのだ。

 ヤトは巨漢の脳天めがけてテーブルを叩きつける。

 だが次の瞬間、天板は真っ二つに砕けた。

 攻撃を頭で受ける、プロレスラーの耐え方である。

 巨漢は余裕の笑みを浮かべながらヤトの腕を掴み、恐るべき力で店内の反対側まで投げ飛ばした。

 テーブルと椅子を巻き込みながら吹き飛ぶヤトに、巨漢はさらなる追撃を仕掛けるべく突進する。

「痛えな……」

 低い声で呟きながら立ち上がるヤト。

 直後、強烈な打撃音が店内に響く。

 床に、気絶した巨漢が転がった。

「あーあ。また使っちまったっす」

 ヤトの片足は天井を向いていた。

 ハイキックのフォームである。

「いい加減捨てなさいよそれ。技を封じる信条」

 リブラは呆れた様子だ。

「嫌っすよ。てか、プロかと思ったらこいつら素人っすね」

「保守系の息がかかった半グレ集団よ。締め上げたらあっさり吐いたわ」

「こういう刺客って黒服に拳銃ってイメージなんすけど」

「そんなの、我々は要人の差し金ですってバラしてるようなもんじゃない。というか銃を警戒するなら最初から手を上げないでほしいわね」

「アタシの堪忍袋に言ってほしいっす……って、あれ?」

 ヤトが驚いたのは、リブラがホールドアップの姿勢を取っていたからだ。

「流石は本業ね。ここまで気配を消せるとは恐れ入ったわ」

 リブラは前を向いたまま、背後の男に向かって言った。

「所属と目的を言え。チャンスは一度きりだ」


「で、公安に脅されてたってわけっす」

 助手席でヤトが自嘲気味に笑った。

「…………」

 後部座席にはロシアの暗殺者が一人。

「わざわざ連中を撃退してあげたんだから、特別手当が欲しいところね」

 リブラは悠々とハンドルを握っている。

「それはともかく、暗殺の手助けに関しては必ず見返りを貰うわよ。今回は後払いで構わないけど」

「……いいだろう」

 ズメイはぼそりと言った。

 本来ならば、大使館の車両から仕事用のものに乗り換えて現場に向かうはずだったのが、思わぬ襲撃を受けたことで騒ぎになってしまい、仲間との合流が困難になったのだという。

 代わりに車を出すことを提案したリブラをズメイがどこまで信用しているかは不明だが、二人に怪しい動きがあればすぐにでも始末するつもりなのは明らかだった。

「現場まであとどれくらいなんすか」

 二人は目的地を聞かされていない。

 無論、盗聴も警戒済みなのだろう。

「30分もあれば着く」

「その前に、いいかしら?」

「何だ」

 あからさまに訝しむズメイに、リブラは上半身を少し傾けて運転席のメーターを見せた。

 ガソリンが尽きかけていたのだ。

「どうせこの後はすぐ飛ぶつもりでしょ。逃走まで計画に入れるなら明らかに不足よ」

「…………すぐに済ませろ」


 セルフ給油所。

「すぐ終わるわ」

 シートベルトを外すリブラ。

「アタシも降りていいっすか」

「駄目だ。お前は残れ」

「はいはい。人質っすね」

 ヤトはわざとらしく両手を上げて見せる。

「せいぜい周囲を警戒しておくことね。ヤトは後ろを」

 リブラはそう言い残してドアを閉めた。

 スポーツカーの後方から凄まじい勢いで別の乗用車が追突したのは、その直後のことだった。


 数分後。

 原形を留めない程ひしゃげた二台の車に、一人の男が近づく。

 ピジンである。

 それまで車内を覗き込んでいた警官が、彼に気づいた様子で敬礼をした。

「残されてるのは例の殺し屋だけですね。まだ息はありますけどレスキューが到着しないとなんとも……」

「他の搭乗者は?」

 ピジンが問う。

「仮面を付けた二人組が別の車両を奪って逃走する様子がカメラに写ってます。ところで、追突した運転手のほうは居眠り運転ということで?」

 警官は顔色を窺うように問い返す。

「本人がそう供述してるならそうなんだろう」

 くだらないことを聞くな、という顔でピジンは言った。

 警官が慌てた様子で咳払いをする。

 その肩を軽く叩き、ピジンは現場を後にした。

 

 その日の夜。

「よく顔を出せたものね」

 ウィスキーに浮かんだ氷を眺めながらリブラは言った。

「そりゃお互い様でしょうに。逃げ出すならまだしも、まさか寝返るとは思いませんでしたよ」

 カウンターの客席にピジンが腰を掛ける。

「水っす」

 テーブルの上に乱暴にグラスを置くヤト。

「こっちは暗殺対象も聞かされてないんだから、相手の様子を見るのは当然でしょ。最後はちゃんと阻止するつもりだったのよ」

「どうだか……」

「そろそろ聞かせてもらえないかしら。交通事故に見せかけて殺し屋を消すだけなら私達に依頼する必要は無いし、雇ったドライバーに罪を被ってもらうのも金で解決できる話よね」

 リブラは言った。

「…………お察しの通り、ターゲットは政治家ですよ。名前は伏せておくとして、まあバリバリのタカ派ってところです。今回の件のややこしいところは、この暗殺計画の発端が政治家本人にあるってことです」

「というと?」

「ざっくり言ってしまえばこうです。日露関係が悪化する中で、ある政治家が国交断絶の機会を見出した。そこで自らに暗殺の手が向くよう仕向け、完遂後にその事実を広く知らしめることで大衆の対露感情を一気に爆発させようとした」

「完遂って。死んでるじゃないっすか」

「だから警備のしようがなかったんです。本人が自ら殺されようとしているわけですから」

「なるほど。周囲の人間はその事実さえ知らず、中途半端に得た情報からボスの命の危険を察知して焦っていた……ってところかしら」

「それであの襲撃っすか」

「まあ、そういうことです」

 ピジンは相変わらずの狐顔である。

「わざわざそれを言いに?」

「まさか。結果オーライのお祝いに一杯……と思ったんですが何も出なさそうなので、せめて今後の長いお付き合いのご挨拶でも、と」

「ストーカーとお付き合い? 寝言は寝てから言ってほしいっすね」

 ヤトは嫌悪感を剥き出しにしている。

「僕は常々思っていることがあるんです。ルールの中で治安を守り続けるには限度がある。無秩序という怪物と対峙するには、同じように無秩序の力を持たねばならないと。リブラさん、あなたは日頃から悪党を気取っていながら、その心の内には揺るぎない正義感を秘めている。僕にはわか――」

「ヤト。つまみ出しなさい」

「りょっす」


 秩序の中で生きられない者がいる。

 自己を律することができない者がいる。

 そうした中で、社会の歪みと己の歪みを重ね合わせて生まれた爪痕のような小さな空間に、居場所を見出す者もいる。

 犯罪者を捕らえる犯罪者。

 悪党を滅ぼす悪党。

 あるいは、弱者を救う弱者。

 そうした者たちに名前は無く、ただ胸に忍ばせた仮面だけが噂として今日もどこかで語られている。

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