ガルストラ(サンプル)

柴山ハチ

第1章 目覚め


●文学フリマ東京2023年5月22日 K-14 出品作品「ガルストラ」のサンプルです。続きは本編購入後お楽しみください。


 狭い路地に革靴の足音が反響している。日が暮れていてほとんど何も見えない。視界はところどころにある街灯のちらつく橙色の明かりだけが頼りだった。もうすぐこの街にも爆弾が落ちる。早く、早く逃げないと。


 僕の眼前に広がる町は廃墟のように人の気配がない。がらんとした迷路のような路地が入り組んでいて、見知った街のはずなのに気を抜くとどこにいるのか分からなくなりそうだ。空襲の警報が鳴ってからずいぶん時間が経っている。もうほとんどの人が防空壕に隠れて息をひそめている頃だろう。


 無我夢中で壁にぶつかりそうになりながら道路に散らばったゴミや障害物を避け、路地を走った。着ている道化師の衣装がまとわりつき、息が切れて足がもつれる。体勢を立て直しながら二、三度路地を曲がってようやく広い道に出た。店が堅く戸口を閉ざして並んでいるが、見知った通りだ。


 この先を抜ければ防空壕だ。きっと妹が心配しながら待っている。こんなことになるならサーカスの仕事なんか引き受けるんじゃなかった。戦死してしまった父親の代わりに家族を支えようと始めた仕事だ。けれどこのまま僕までいなくなってしまっては幼い妹だけが残されてしまう。


 空襲を怖がって泣き出す妹には歌を聞かせてあげよう。仕事で覚えた歌だったけど、この歌を歌い始めると、どんなに怯えていても泣き止んで静かに聞き入ってくれる。

 

 

道化師パムのお通りだ

さあさ集まれ子どもたち

ここにいるのは道化師パム

フラフラ気ままに生きる道化師さ

日がな一日あっちにこっちに

猫に怯えて犬に吠えられ

追われてたどり着いたはサーカスのテント

みんなに笑われ恥ずかしうれし

玉乗りお手玉はお手の物

さあさ集まれ子どもたち

 

 

 防空壕の中では玉乗りもお手玉もできない。けれど、歌うくらいならしてあげられる。


 そう考えたところで石段の段差に躓いて派手に転んでしまった。擦りむいた掌で地面を押して上体を起こし、体勢を立て直して再び走り出す。打ち付けた膝がズキズキと痛む。


 前方に目をやると、道の先に防空壕の目印である赤い看板が見えた。白黒の世界の中でその赤はことさら際立って見えた。あと少しだ。


 ほっとした瞬間、甲高い音が空から近づいてきた。顔を上げると突然、道の先が閃光で真っ白になった。光が天使の羽のように広がっていく。


 間に合わなかった。それが、僕が最後に考えた言葉だった。



 紫と金色の光が瞼の隙間から差し込んでいた。ぼんやりとした視界が徐々に焦点を結んでいく。頭上を覆うきらきらとしたガラスのドームから落ちる光が、僕の瞬きに合わせてまたたいた。手足を動かすと硬い平面に当たった。棺のような狭い空間の中で、内張りのビロードの布が心地よく肌に触れている。



 意識がはっきりしてくるにつれ、自分がどこにいるのかが気になった。身を起こそうとするとかすかな音を立てて髪が耳の横でこすれた。立ち上がろうとするが、うまく動けない。関節のこすれる硬い音と、細い糸が張り詰めたような音が体の中から聞こえる。目線を下げ、肘をついて支えながら下半身を見た。白いチュニックに同じ色の膝丈のズボン、そして布の端から膝の関節が見えていた。小さな球体二つを少し大きな球体を使って真ん中で繋いだような形の関節。これが太ももとふくらはぎに分かれた部品をつなぎとめている。膝を曲げ伸ばししてみると、内側に糸が張られているのか元の形状に戻ろうとする力の反発を感じた。



 恐る恐る肌の表面に爪を立ててはじくとコツコツという音がした。表面は陶器のようなものでできていて硬い。身体に触れ、構造を上から順番に確認していく。首にも関節があるらしく、頭を左右に動かすとこすれるような音を立てて視界が動いた。肩にも球体の関節がはまっているのを袖の下から手を入れて確認した。胴体は胸の下あたりで二つに分かれているらしく、上体を動かすと折り曲げることができた。足の付け根の関節はその胴体につながっている。そしてそれを確認している自分の手は指の関節ごとに細かなパーツに分かれており、掌、手首、肘に至るまでが、すべて球体の関節を挟むことで可動の自由を与えられていた。



 一通り身体の作りを確認し終わると、目の上に腕を置いて自分の置かれている状況について考えを巡らせた。霧がかかったような意識の中を探っていると、水底の砂を浚った時のようにふわりと言葉が浮かび上がった。〈人形〉という単語が僕の意識の中に広がって消えていく。


 目の上に置いた腕をずらし、頭上を覆うクリスタルでできたドーム型の天蓋から差し込む光を見つめた。

 これは人形の身体だ。そして自分が知っている限りにおいて、人形というのは生き物を指す言葉ではなかった。浮かび上がってきた記憶の中の人形は、人の形を模してはいるが、ショーウィンドーや部屋に転がり、何も話さず微動だにしない物体だ。


 僕は体内の脈動を感じ、意識を持つ自分自身の存在を認識している。僕がただの人形なら、どうしてこうやって動くことができるんだろう。


 考えていてもらちが明かない。それにこの棺のような箱の外がどうなっているのかが気になった。


 腹に力を込め上体を起こそうともがいた。胸と腰で分かれたパーツが動き、胸の下あたりがきしみながら折れ曲がり関節が動き始めた。肘をつきなんとか上半身を曲げながら身体を持ち上げ、両手を床につく。球体の関節を曲げて両足を引き寄せ、足の裏を接地させた。身体を若干前に倒してしゃがみ込み、掌をゆっくりと離すと、ぐらつくもののなんとか二本の足で支えることができそうだった。倒れないように気をつけながら、そのままゆっくりと立ち上がった。


 見下ろすと、僕が収められていた空間は台座の上に載せられた棺だった。慎重に身体を折り曲げ、棺の側面をまたいで台座の表面に足を下ろし、さらにその下の床へ降りた。細長い板のようなものが台座の横に立てかけられている。元々は棺をふさぐ蓋だったのかもしれない。

 棺が置かれているのは祭壇のような場所で、正面の石壁に開けられた薔薇窓からは光が差し込んでいる。両脇には照明が置かれており、ぼんやりとした光を放っている。台座の四辺は透かし模様が入った金属製のアーチで取り囲まれていて、その上には水晶のようなガラスのドームが置かれていた。さらにその上の天井からは、球体を三つ、細い棒で三角形になるように繋いだ金色の装飾が下げられていて、薔薇窓から差し込む光を反射して下のガラスドームをきらめかせている。


 台座のあるこちら側と、向こう側に広がる柱とアーチでできた通路の間は、優美な装飾が施された大理石の細い柱が並ぶ仕切りと、その向こうの細い川のような水辺で区切られていた。けれど通路の先は白い霧でよく見えない。

 振り返って、薔薇窓の下にある鏡に目を向け、段差を上って鏡の前へと立った。アーチ状の大理石に縁どられたその鏡は曇り一つなく、湖面のように滑らかだ。


 鏡には人形の身体が映し出されていた。白い衣服をまとった人形。それが青い瞳で戸惑ったかのような視線を送り返してきた。その鏡の中の姿に僕は全くなじみがなかった。


 鏡の上を見るとプレートのようなものがはめ込まれており、金色の文字が彫られていた。


『忘れられし物語を宿した人形、ガルストラ。汝がこの世界で新たな生を得ることを願う』


 ガルストラ、というのは何のことだろうか。


 そもそも、こうして動いている自分は何者なんだろう。頭の中でイメージが風にあおられたかのようにパラパラとめくられていった。動物、植物、人、国、物の名前。


 そうだ名前。この世のものには名前がある。僕に名前はないのだろうか。それとも、ガルストラというのが僕の名前なんだろうか。


 掌を鏡の表面についた。冷たい温度が硬い皮膚に伝わる。顔を上げて正面を見た。

 鏡の中の鏡像は僕を見ていた。正確には僕が見る前から僕のことを見つめていた。その両目に眼球はなく、ぽっかりとした虚空が黒々と広がっていた。


 驚いて近づけていた顔を引いたが、鏡像は微動だにせずこちらを見ている。互いに身じろぎ一つせず、そのまま世界が石になってしまったかのような時間が僕と鏡像の間を流れた。


 その均衡を破ったのは鏡の表面に広がる波紋だった。はじめは触れている僕の掌から広がっているのだと思った。けれど手に触れる感触で、鏡像が鏡を突き破るようにして指をこちら側に侵入させようとしているのだと気づいた。鏡に触れていた手を反射的に引っ込めようとしたが間に合わず、こちら側に入ってきた指が僕の指を絡めとった。そしてそのまま僕の手をつかみ、内側へ引き込もうとするかのように強い力で引っ張った。


 なんとか腕を引き戻そうとするがびくともしない。そのままずるずると鏡の中に引き込まれそうになる。既に手首、肘までが波立つ鏡の中に消えていた。なんとか身体の主導権を取り返そうとして思い切り引っ張ったが、ふいにその力が緩んだ。虚を突かれてこちらの力も緩んだ途端、急にぐいっと前方へかかった力にバランスを崩した。鏡を縁どっている大理石の段差に足が引っかかり、そのままつんのめるようにして僕は頭から鏡の中に落ちた。


 身体中が温かい液体に包まれた。パニックになって口を開け、叫ぼうとしたが声は聞こえなかった。周囲の液体が喉になだれ込み、中に残っていた空気を押し出した。なすすべもなく、水面へ立ち上っていく泡を見ながら僕は酸素を求めてもがいた。


 けれど『呼吸をしなくては』と頭で考える一方で、身体の方は苦しさを全く感じていないことに気づいた。戸惑いながら水中に視線を泳がせる。そういえばいつの間にか、僕をつかんでいた手が消えていた。鏡の中にいたはずの僕の鏡像は、どこにも見当たらなかった。


 暗い水底へゆっくりと落ちていく。腕を伸ばすが何もつかめるものはなかった。首を回して見渡してみたが、やはり誰もいない。ひょっとしてこの温水の中に溶けてしまったのだろうか。ぼんやりとさっきまで強い力でつかまれていた手を眺めた。ゆっくりと音のない世界の中を沈んでいく。暗幕に覆われているかのように何も見えない。長い時間落ち続けていると、次第に意識が眠気にとらわれてきた。


 ふいに水の温度が変わった。じわりと周囲を侵食してくる冷たさに、ぶるりと身を震わせた。温められていた身体が急速に冷えていく。いつの間にか閉じていた瞼を押し上げると、真っ暗だった水中が徐々に明るさを取り戻しつつあるところだった。


 下を向いた頭の先でうねる波の動きを感じた。そのまま押し出されるように、水面に顔を出した。その瞬間、これまで落ちていた世界の上下がぐるりと反転した。


 無音の空間から、荒々しい波の音に支配された場所へと放り出された。しばらくの間、その落差に呆然としながら漂っていた。


 海だ。僕は今、海の中にいる。


 冷たい光を放つ星空の下、白い柱たちが黒い波間に漂う僕を見下ろすように眼前に並んでいた。ぼうっとその荘厳な白い姿を眺めていたが、ふいに大きな波が僕を水中に再び引きずり込もうとするかのようにうねり、覆いかぶさってきた。腕を伸ばして水を掻きながら水面に浮上しようとしたが、頭の上から強い力がかかり無理やり水中に押し込められた。波が去った後、波間にかろうじて浮かび上がり、頭をようやく水中から出すことができた。

 このままではまた水の中に逆戻りだ。急に今まで漂ってきたはずの水底の暗闇に恐怖を感じ始めていた。


 ぎこちない動きで水を掻き、目の前の白い柱が立ち並ぶ建物に近づこうとした。なかなか縮まらない距離を恐怖心と闘いながら水を押しのけて進んでいく。その間に何度も波に攫われそうになったけれど、やがて足がこつりと硬い岩にぶつかった。手を先に伸ばして、足の裏でその岩場を押しやる。勢いにのって建物の床へ両手をついた。腕に力を込めて身体を引っ張り上げ、なんとか這い上がった。


 びしょ濡れになった身体を石の床に横たえてせき込んだ。口や鼻、眼球の隙間から水が大量にあふれ出た。身体の関節の隙間からも水が抜け、乾いた床を濡らして広がっていった。ゆらゆらとした感覚が抜けず、まだ身体が波に揺られているような気がしていた。


 顔を上げると建物の柱の間には点々と小さなランプが置かれているのが見えた。ランプの光は冷たい白で、表面には凹凸がなく、まるで白い石の表面が光っているように見えた。その光は弱かったが、ゆらめくことがなかった。


 水が身体から抜けきって波の感覚が消えて落ち着くと、明かりを頼りに立ち上がって歩き出した。石造りの足場と柱が延々と続いている。初めて見た時は建物のようだと思っていたけれど、どうやら海を四角く切り取った回廊のようなものらしい。淡い光で照らされた空間は中央の水辺を囲むようにして四辺がつながっていた。その外側には海が広がっていて、僕と海の間を遮るものは立ち並ぶ柱しかない。いつ大きな波が来て、攫われてもおかしくはないような場所だ。不安に背を押されながら足早に通路を歩いた。波音が大きく、自分の足音すら聞こえない。


 二つ目の角を曲がったところで、柱の間に回廊に沿うような形で壁が建てられていることに気づいた。その壁の奥にも地面が続いているらしく、アーチ状の入り口が両脇に吊るされた白いランプの光に照らされながら口を開けていた。


 アーチをくぐると黒い木々に囲まれた広い空間に出た。振り返ると入ってきたはずの入り口は既になく、ただの白いレンガの壁がそそり立っていた。もう波音も聞こえない。風に揺れる木々は新しい来訪者の噂をするかのように、ざわざわとささやきあっている。その中で少しばかりの不安を覚えながら、ひとまず海の見えない場所に出られたことに胸を撫で下ろした。


 地面には海の上の通路と同じく、ところどころに白いランプが置かれていた。その光に導かれながら奥へ進んでいく。白く平坦な石の上を歩き、黒々とした地面と木々の間を通り抜けた。途中、無数の墓石のようなものに出会った。白い石板の群れは規則正しく並び、闇の中に佇んでいる。手近な一つの石板に近寄って、書かれている文字を読もうとしたが、刻まれている名前もその下の文字列も、そこにあることは分かるのに読むことができない。目を凝らしても、どうしても視線が滑ってしまう。


 諦めて再び歩き出し、ある角を曲がると小さな長方形の白い建物に出会った。一階建てになっていて、外から見る限り中はそんなに広くはないようだ。左端に黒い長方形の石板のようなものがはめ込まれている。


 その正面に回り込み、壁に埋め込まれた黒い石板を見た。滑らかな表面には金色に光る文字が刻まれており、その光は色のない世界の中で際立っていた。僕は手を伸ばして指先で光る文字の列をなぞった。視界は鮮明で、今度こそ文字を読むことができそうだった。


 文字を音として口に出した瞬間、石板から何人もの声が響き始めた。そして音だけではなく、まるで絵本をめくったかのような鮮やかな色のイメージが頭の中に流れ込んできた。

 

 

道化師パムのお通りだ

さあさ集まれ子どもたち

ここにいるのは道化師パム

フラフラ気ままに生きる道化師さ

日がな一日あっちにこっちに

猫に怯えて犬に吠えられ

追われてたどり着いたはサーカスのテント

みんなに笑われ恥ずかしうれし

玉乗りお手玉はお手の物

さあさ集まれ子どもたち

 

 

 最後の行を読み終えると、他の声も聞こえなくなった。もう一度はじめから物語に目を走らせた。さっき流れ込んできたイメージはもう見えない。けれど鮮明に思い出すことはできた。人々に囲まれて笑顔を振り撒き、お手玉をしている道化師の姿が。


 石板の上には黒地に金の大きな文字が記されたプレートがついていた。『道化師パム』と書かれている。


 僕は再び歩きはじめながら、その物語について考えた。そのうちに先ほど出くわした小さな白い建物のようなものが周囲に立ち並んでいることに気づいた。霊廟、という言葉が頭に浮かぶ。この場所はまるで、死者たちの暮らす村のようだ。


 その時、背後から足音が聞こえた気がした。振り返って目線を向けると人影が見えた。こちらに気づいた様子もなく、ただ前を見て僕から少し離れた場所を横切っていく。


 人影は僕と同じ姿をしていた。さっき鏡の中にいた鏡像に違いない。鏡像は立ち並ぶ霊廟の角を曲がり姿を消した。僕はその姿を追って急いで走った。


 角を曲がると数段階段を上がったところに、装飾の一切施されていない簡素な霊廟を見つけた。扉は外され、中は空洞になっている。その背後には数多の墓石が立ち並んで月の青白い光を受けていた。霊廟のぽっかりと開いた入り口の内部を走って近づきながら観察したが、まるで外からの光を飲み込んでいるかのように暗かった。中はどれくらいの広さだろう。見たところ鏡像の姿は見当たらないが、隠れるような場所があるんだろうか。階段に足をかけ数段上ったものの、つま先が引っかかったせいで足がもつれた。倒れ込んだ瞬間、踏み出した一歩は空を切り、僕の身体はバランスを崩して宙に放り出された。霊廟の中に床はなく、ただ真っ暗な穴が空いているだけだった。


 僕は自分の悲鳴が木霊する中、手足をばたつかせながら落ちていった。穴は深く、身体が何秒か宙に浮いた。やがて地面に打ち付けられ、激しい衝撃に頭が揺れ目の前に白い火花が散った。くらくらとする感覚にしばらくぼうっと宙を見ていたが、やがて揺れていた意識が定まってきた。僕は身体を起こして硬い皮膚の表面を確かめてみたけれど、幸い大きな傷は入ってはいないらしい。


 落ちた時の衝撃でずれてしまった球体関節を膝にはめ直して立ち上がった。しばらく暗闇を見つめていると、やがて前方に光が灯った。


 恐る恐るその明かりに近づいてよく見ると、それは一枚の絵画だった。繊細な文様の型抜きが施された金属のスタンドに取り付けられている。その絵画は、額縁の中で色彩をまばゆい光に変えて輝いていた。紫の水をたたえた運河を中心に据えた景色が描かれている。両岸に立ち並ぶ粘土をこねて作ったかのような形をした建物には、様々な色彩のステンドグラスがはめ込まれ、木々は紫や桃色、草花は橙色をしていた。紫の運河には誰も乗っていない黒い小舟が一艘見えた。じっと見つめていると、絵画が急に光を強めた。逃れる間もなく一瞬のうちに僕は光の中に飲み込まれた。


 光が引くと、僕は絵画の中で見た運河を漂う小舟の上に座っていた。波に揺られながら天を見上げる。金色の空はそれ自体が光を放っているかのようにまばゆい。そして眼前に広がる葡萄色の運河。荘厳な光の中にこの世界はあった。だが一つ、その光を吸い込む漆黒の太陽のようなものが、空に穴をあけたかのようにぽっかりと浮かんでいた。


 小舟は僕をゆったりと運んでいく。運河は幾度か折れ曲がりながら続いていた。空には金色の光を受けた雲が流れるようにゆったりとたゆたっていて、運河は紫水晶のように光を放ちながら空からの光を受け、波立つ水面をきらめかせている。音を立てて陸地に打ち寄せる運河の波は、もう少しで地表に届きそうな高さだった。


 やがて小舟は岸へ流れついた。簡素な白木で作られた船着き場で、降りることを促すかのように小舟は動きを止めている。僕は立ち上がり、片手をついてその桟橋へと上がった。


 桟橋の先には木々に挟まれた一本の小道が続いている。足の下の白い砂を踏みしめながら歩いた。道は何度か折れ曲がり、なだらかではあるが徐々に上へと向かう斜面になっていった。険しい道ではなかったが、まだ慣れない身体は言うことを聞かず、時々木の根や石に躓いては転んだ。


 木々の間を通り、白い砂利道を通って森の奥へ歩みを進めていると、道の脇に露出していた大きな白い岩石が目についた。その上に黒い人影のようなものが見える。こちらに背を向けて腰を下ろしているようだ。


 風に乗って、かすかに声のようなものが聞こえた気がした。

 

 

とある国…

その神は……

……神を信じぬ魔女……

……裏切りにより……

…………心を忘れぬよう

………………生きるべし

  

 

 途切れ途切れで聞き取れないけれど、何かの歌のようだった。


 僕と同じ動く人形だろうか。そうだとしたら、ここがどこなのか聞けるかもしれない。

 

 僕は道を外れ、森の中に入っていった。岩は自分の背丈の半分くらいの高さで、その上に人影は座っている。近づくと人影は黒いドレスを身にまとっていることが分かった。そのドレスの裾は破け、ところどころ泥のようなものが跳ねていた。


「こんにちは。君も生きている人形なの?」


 声をかけてみたがピクリともしない。僕は一瞬ためらった後、岩を回り込んで顔を覗き込もうとした。けれど両目の上は、金糸で文様が刺繍された黒い布で覆われていて、中の様子は見えなかった。


 左手がドレスの袖の端から覗いていた。丸い関節でつながれた人形の手。ひび割れて汚れている。指も何本か欠けていた。恐る恐る触れてみると硬い感触が指先に伝わった。けれどやはり微動だにしない。ただの人形のようだ。さっきの歌は空耳だったんだろうか。  


 がっかりしながら背を向け、また道の先に視線を移した。


 その時、背後で何かが動く物音がした。はっと再び後ろに顔を向けると、ただの人形だと思っていた彼女が、ギシギシと音を立てながら立ち上がろうとしていた。慌てて後ずさり、その長身を見上げる。身体をぎこちなく左右にゆすりながら、彼女はとうとう完全に腰を上げ、立ち上がった。風の吹きすさぶ音のようなうめき声を響かせている。岩を降りようとした時、足元のバランスを崩して僕のすぐ近くに滑り落ちてきた。その拍子に目の上を覆う布が外れ、人形の素顔がむき出しになった。片目がない。眼球があるはずの場所には暗い眼窩がぽっかりと空いていた。残った方の片目はぎょろぎょろとせわしなく動いている。


 人形の視線が僕に定まった。その瞳に宿った狂気を感じさせるぎらついた輝きは、思わず目をそらしてしまうほど強かった。人形は落ちた布を拾い上げ、目の上に巻いた。何かをぶつぶつとつぶやく声がかすかに聞こえる。人形は再び僕に向き直ると、ギシギシと壊れかけた身体を引きずるように近づいてきた。


 僕は固まっていた足を無理やり動かして、その人形に背を向けると走り出した。全力で走っているとはいえ、球体の関節でつながれているだけの身体の動きはぎこちなく、幾度もバランスを崩して地面に倒れた。そのたびに手をついて立ち上がり、首を巡らせて後方の人形との距離を目で測る。よろめく身体を引きずりながら、黒い影から一歩でも先へ逃げようともがいた。


 幸い彼女の動きも滑らかであるとは言い難く、僕と同じようなぎこちなさがある。それでも、よろめきながら逃げる僕との距離は開くことなく、むしろ振り返るたびに徐々に追い詰められつつあった。彼女はゆらりと頭を振りながら、一つしかない目を布の下からこちらに向けて迫ってくる。枯れ木のような手は、僕を捕まえようとするかのように空中に伸ばされている。捕まったらどうなるのかは分からないが、よくないことが起きるのは確かだろう。時折わずかに開いた口から漏れる彼女のうめき声に身体が恐怖で震えた。必死にうまく動かない手足を使って前へ進む。


 森の角を曲がると石を積み上げて作られた段差があった。その先には大きな壁がそそり立っている。行き止まりだ。


 森の中に逃げ込もうと向きを変えた時、頭の上から声が聞こえた。


「下がっていて」

 視線を上げると向かい合った木の上に、いつの間にか別の人影が現れていた。その声は軽やかなのに、木のうろに響く水音のような深い響きを帯びていた。


 新たに現れた人影は、滑らかな動きでこちら側へ勢いをつけて飛び降り、壊れかけた人形を足蹴にしながら着地した。近くで見ると球体の関節がシャツの袖口から覗いている。


 押し倒された方の人形は手足をばたつかせて暴れていたが、押さえつけている方の人形は微動だにせず、紫のリボンでまとめた亜麻色の髪が背中で揺れただけだった。

 

 押し倒された人形は、汚れてひびが入った手を上に伸ばした。


「あぁぁ、ぁ」


 言葉にならない音が、彼女の口から漏れる。それに反応する様子もなく、亜麻色の髪の人形は腰に差していた銀色のナイフを振り上げると、彼女の喉元に突き立てた。


 乾いた音を立てて皮膚が割れ、中から金色の粒子が漏れ出した。金色の粒子が目の前を漂った時、なぜか誰かのささやき声が聞こえた。それは空中を漂い、空気の中へと消えていった。


 倒れた人形は、まだ手を伸ばそうと動いていたが、亜麻色の髪の人形は容赦なく、今度は彼女の残った方の目のあたりにナイフを突き立てた。暴れている間に目の上を覆っていた布がずれていて、眼球まで刃が貫いているのが分かった。彼女は苦悶の表情を浮かべわずかに口を開け、数回跳ねるように痙攣した。粉々になった破片が僕の近くまで飛んでくる。彼女はやがて糸が切れたかのように動きを止めた。


 黒いドレスをまとった人形の身体は力なく地面に横たわっていた。倒れた人形を前に、僕はただ声もなく立ち尽くしていた。


 僕を助けてくれた亜麻色の髪の人形はズボンのポケットから小さな紙片を取り出した。紙にはインクで何か記号が書かれているのがちらりと見えた。それを人形の上で細かくちぎり、紙吹雪のように振りかける。


 すると人形の上に落ちた紙片が片端から火を放ち始め、黒いドレスに燃え移った。火は勢いを増しながら人形の身体を黒い煙へ変え、空へ送り出した。


「もう大丈夫だよ」


 亜麻色の髪の人形は手を払いながら僕に向き直ると、優しく声をかけた。けれど僕はその背後で燃えている人形から目を離せずにいた。


「気になるかい? ガルストラ……私や君のような動く人形のことをそう呼ぶんだけど、とにかくガルストラが死んだ時はなるべく燃やす決まりなんだ。空に黒い穴が見えるだろう」


 亜麻色の髪の人形が指示した方を見ると、木々の間から空に黒い太陽が見えた。


「あそこの向こう側に行けば、新しい命として蘇ることができると言われている。だから身体を燃やした煙だけでも焚き上げておくんだ」


 光をすべて吸い込むような黒い穴。それは空の色に全くなじむことなくぽっかりと浮かんでいた。新しい命を与えられるというより、行ったが最後、二度と帰ってこられそうにない感じがする。自分があの中に吸い込まれたらと考えると身体が震えた。


 彼は励ますように僕の肩を叩き、燃えかすになってくすぶっている人形に背を向けさせた。僕は震える息を吐いた。


「ありがとう、助けてくれて」

「いいんだ。それにしても災難だったね。島に来て早々にナリナイに襲われるなんて」

「ナリナイって?」

「あぁ。自分の物語を見失ったガルストラのことだよ」

「自分の物語?」

「私たちは皆、それぞれの物語を持って生まれる。ここは人に忘れられた物語が人形の身体を借りて蘇る島なんだ」


 僕は何と言っていいか分からず、目を白黒させながら周囲を見渡した。


「僕、死んじゃったの」

「死ぬ、というのとはまた違う。人の世界から失われただけだ」

「それって死ぬのと同じじゃない?」

「私たちは物語そのものだった。だから血肉を持って生きていたことはないんだよ。自分の意識さえもなかった。ただ、ここに来たことで初めて自分の意思を持つことができた」


 僕たちは、物語そのもの? 僕はその言葉に対する返事が見つからず、口を開いたものの結局閉じてしまった。


「というわけで改めて、ガルス島へようこそ。ところで君は、鏡を通ってここまで来たよね」

「あの場所を知っているの?」

「皆生まれる時はあの鏡と墓場を通るから。そこで大抵、自分の鏡像に出会うんだ。目玉のない、そっくりなもう一人の自分」

「あっ、それなら見かけたよ。すぐに見失っちゃったけど、追いかけてここまで来たんだ」

「そうか、無事に来られてよかったよ」


 亜麻色の髪の人形は柔和な笑みを浮かべた。


「あの、あなたも自分の鏡像に会ったの?」

「会ったよ。ここにいる人形たちは皆、自分の鏡像に導かれてこの島に来る。でも気を付けて。捕まってしまえば目玉を奪われてしまうから」

「鏡像はどうしてそんなことを?」

「私たちは、人に忘れられた物語が人形の姿を借りて蘇った生き物だ。人から見れば幻のような存在だけど、鏡像は人間の世界に置き忘れられた人形の実体部分らしい。やつらは魂を持たないそうだから、きっと物語が宿った私たちの目玉を狙ってくるんだって言われている」


 亜麻色の髪の人形はそこで一瞬、思い出したかのように言葉を止めた。


「そういえば自己紹介がまだだったね。私のことはレメディと呼んでくれ」


 僕の前に彼の右手が差し出された。それが握手を促すものだと数秒してから気がついた。


「分かった、よろしくレメディ」


 伸ばされた右手に自分の手を重ねて握手すると、硬い掌同士がぶつかって鋭い音を立てた。


「僕には名前がなくて」


 恐る恐る切り出すと、レメディは分かっているという風に頷いた。


「そうだね。これから一緒に探しに行こう」

「どこかにあるの?」

「この先の神殿に行けばもらえるよ。ここでは皆、持って生まれた物語の題名を名前として呼ぶことになっている」


 レメディが背を向けて歩き出したので、僕は慌ててその後を追った。彼の足取りはしっかりとしていて、ナリナイを倒した時の俊敏な動きを思い出した。


「そういえば、さっきはすごかったね。あんなに素早く動けるなんて。僕なんて今、歩くことだけで精いっぱいだよ」

「私だってそれほど強いわけではないんだよ。ガルストラの能力には、持って生まれた物語の強さが関係している。私たちは人間に忘れられた物語でできているからね。古い神への信仰心、語られることのなかった物語。込められた人間の想いの強さが、そのままガルストラとしての強さになる」

「人間の想いなんてものが力の源になるの?」

「ここは失われた物語だけが生きる場所だ。そしてガルストラの持つ物語はすべて、かつて人に作られたものだ」


 レメディは紫色に光る目を僕に向けた。


「だから、たくさんの人々が信じていた神話や、物語なんかは強い力を持つ。逆に世に出る前に埋もれてしまった物語や、すぐに忘れ去られてしまったような物語を持つガルストラは、あまり長く生きられない」

「たくさんの人間が覚えていた物語は強い力を持っているってこと?」

「そうだよ」

「それじゃやっぱり、レメディはきっといろんな人に覚えてもらっていた物語なんだろうね」

「さぁ、どうだろう」

「それにしても、さっきのナリナイはすごく怖かったよ。話もできなかったし」

「弱ったガルストラは言葉をだんだん忘れていくんだ。はじめはささいな単語から、そのうち挨拶や自分の名前まで。そして聞こえるはずのない声に苛まれ、心が蝕まれていく。その内に仲間と話すこともできなくなる」

「何も喋れなくなっちゃうの?」

「そう、意味のあることは何も。でもそれから逃れる方法が一つだけある。他の物語、つまり他のガルストラを食べること」


 レメディはさっき人形が襲ってきた方向を肩越しに指さした。


 他のガルストラを食べる。彼女の瞳に宿ったギラギラとした光を思い出して僕は身震いした。


「じゃあ僕、彼女に食べられるところだったんだ」

「そうだね。間に合ってよかったよ」


 


 僕はレメディと一緒にしばらく歩いた。道は砂利が敷き詰められていて、歩くたびに足音が鳴った。


「もう少しで神殿に着くよ。そこで名前をもらったら、村に行こう」


 レメディがそう言って道の先を軽く示した。


「……今から行く村って、安全なの?」

「どういう意味だい?」

「さっきみたいに、ナリナイに襲われたりしない?」

「普段はね。村にナリナイはいないし、安全だよ。それに村のガルストラは決して、他の仲間を襲ったりなんかしない」


 レメディはそうきっぱりと断言した。



※試し読みはここまでです。


文学フリマ東京 K -14

日時:2023年5月21日(日)

時間:12:00〜17:00(最終入場16:55)

場所:東京流通センター(最寄り駅:東京モノレール 流通センター)

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