つるり

森戸 麻子

つるり

 チューブは緩やかな下りの傾斜を保ちながら縦横に宙を這い回り、その内側を滑り落ちる水と「観客」である私を適度に振り回し、地上のプールへと送る。自由度は一。チューブの経路に沿って、前進だけが許される。チューブは半透明の青色で、外は見えないが光は入る。真夏の屋外の光。聞こえるのは水の音だけ。地上の喧騒はまだ遠い。


 やがて光が少しずつ薄まって、ある瞬間に闇へと転じる。


 私の身体は水の流れに乗って、するすると落ち続けている。重力の生み出す加速と、水の流れと、チューブのつるりとした内側の生み出す摩擦が噛み合って、私の身体が落ちる速さをほぼ一定に保つ。このまま永遠に暗闇の中を落ち続けるのではないかという不安が本能的に沸き起こり、しかしだからと言ってなす術も無く、私は身を固くして落ち続けている。


 暗闇に光が生まれ、音楽が始まる。チューブの内側に白い輝線が現れる。墨をたっぷり含ませた筆で引いたような、有機的な揺らぎを持つ線だ。それはしばらく、緩やかにうねりながら私の落下と並走するが、やがて円や楕円を生じ、その組み合わせが人型を描き、その顔に表情を生み、物語を紡ぎ出す。


「あ、これ」

 思わず呟いた私の言葉を、チューブのどこかに埋め込まれたマイクがすかさず拾って解析し、文字に移し替えてチューブ内に表示した。


 チューブ内には輝線の描く物語と並走して、私の前にここを滑った観客達の歓声やコメントが色とりどりのテロップとなって流れている。


「わあ」

「なにこれ」

「また来た」

「えええええええええ」

「ネタバレ厳禁」


 コメントは長く残るわけではない。別なプログラムが内容を解析し、必要性の薄いものから順に消去する。必要性は必ずしも意味性とは一致しない。上映される物語の「賑やかし」として相応しいバランスになるように、ある程度の無意味な歓声が残され、またある程度の複雑な考察や批評も残される。多くの観客はそれらのテロップをぼんやりとした騒めき、他の観客の残していった足跡としか認識しないわけだが、また一定数の人間はわざわざ他者のコメントを熟読して吟味するためだけに、このスライダーを何周もする。


 複雑なコメントにはしばしば、別な観客の複雑なコメントが返される。批評への反論や賛同。補足説明。他の考察の提案。あるいは単なる歓声や罵倒。チューブは一人ずつしか滑ることができず、観客同士のやり取りには必ずタイムラグが生じるが、大昔の郵便を介した文通のように、コメントの応酬は長々と続くこともある。


「この話、知ってる」

 私は先程思わず口にしそうになった言葉を、充分に吟味してから改めて口に出した。マイクが声を拾い、テロップに変換する。『この話、知ってる』の文字が二秒ほど私と並走し、やがて他の観客の言葉に紛れて流れ去っていった。


 心地良く温い水が私の身体を運び続け、暗闇のチューブ内に映し出される物語は目まぐるしく進んでいく。異形の赤子として生まれた男児が成長して旅立ち、仲間と巡り合い、やがて強敵と対峙する。試練を乗り越えて英雄となり、社会に受け入れられる。彼の最初の目的は何だっただろうか。共同体の一員として認められることだったのか、単に降りかかる差別の火の粉を払うことだったか。あるいは共同体に強者として帰還し、かつて自身を支配した者達を支配し返すことだったのか。その場合はいずれ新たな英雄が生まれ、次代の支配者となるために彼を斃しに来るだろう。


「100周目」

「この顔なのよ」

「この顔おおおおおおお」

「わあ」

「きも」

「この後どうなる」

「えっえっ」

「キモとか言ってる奴だれ?」


 流れるテロップはすべて過去のものだ。私より先にここを滑り降りた観客達の足跡。私はその残響を追っているに過ぎない。しかしここにあるのは紛れもなくこのチューブ内の「現在」の一体感であり、感情的な共鳴だ。


 ここを初めて滑る者はこの先のストーリーを知らず、二周目以降の者は知っている。未来を知る者と知らない者が、同じ「現在」にコメントを投げ合う。


 散見される「ネタバレ厳禁」のテロップが、私の記憶を柔らかくくすぐる。ネタバレという言葉を初めて私に教えたのは叔父で、私はそのとき八歳だった。


「おじさんは未来を知ってるよ」と、叔父は得意げな笑みを見せて私に言った。


 何の話の流れだったのかは、思い出せない。


 じゃあ、未来を予言してみて、と私は頼んだ。

「ネタバレしちゃ、つまらないだろう」叔父は大きな手で私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。さっき吸っていた煙草の匂いがその肌に染み込んでいて、私は咳き込んだ。


「ねえ、私が今、咳をするのも知ってたの?」

「うん、知ってた」

「嘘でしょ」

「嘘じゃない」

「ネタバレって何?」

「この後どうなるかを、先に教えてしまうこと」

「それがなんでダメなの」

「教えちゃったらつまらないだろ」

「そんなことないよ。知りたい。じゃあ私がこの後、なんて言うか当ててみてよ」

「さあなあ。忘れちゃった」

「まだ言ってないのに、忘れたって言わないでしょ」

「前に聞いたもの。俺は未来を見たことあるんだから。でも忘れちゃった」

「そんなのずるいよ。嘘つきでしょう」


 叔父の家は遠方にあり、その日は電車を乗り継いで我が家に泊まりに来ていた。翌日、帰りの電車に乗った叔父はそのまま帰らぬ人となった。列車内で事件に巻き込まれ、肺の近くを刺されて失血死した。葬儀で棺の蓋を閉めるとき、隣で目を真っ赤にした母が「嘘つき」と呟くのが聞こえた。私は母が「未来を知っている」という嘘をついた叔父を責めているのだと思った。年に一、二度しか会わない叔父の死に対して、幼かった私はさほど思うところが無かった。ただ、未来を知っているという発言がまったくの嘘だった、ということに大きな失望をおぼえた。


 叔父が未来の事件を知っていたなら、避けられたはずだ。そうせずに死んだということが、叔父の未来予知が嘘だったということを証明している。


 だが、果たしてそうだったのだろうか。


 このチューブを下る観客達のように、叔父は未来に起きることを知っていても変えられなかったのかもしれない。

 あり得ない空想に私は身を浸す。


 英雄となった主人公がヒロインと悲劇的な破局をすることを、二周目以降の観客達は知っている。だがそのストーリーは変えられない。出会いのシーンに差し掛かるたびに、その美しい運命を祝福し、破局のたびに心から悲しむだけだ。


 叔父だって、自分が死ぬ未来を知っていても変えることはできなかったのではないか。そして自分が死ぬ未来へと繫がるあの時間を、心から楽しんでいたのかもしれない。


 チューブの中を下る観客の自由度は一。水の流れが、すなわち時間の流れだ。一定の速さでの前進だけが許される。未来を知っているという叔父の言葉が本当だとしたら、その秘密をあの日私に打ち明けたのは何故か。翌日までに自分が死ぬと知っていたからこそ、秘密を胸に仕舞っておけなくなり、子供に聞かせる与太話の体で吐露したのでは?

 そんな空想を、何度もしてみる。


 長いスライダーを滑り切ってプールに吐き出された私を、先に滑り終えたユキトが待ち構えていた。


 大学の体操部で鍛えているユキトの身体は小柄だがはっきりとした逆三角形で、無駄のない実用的な筋肉がバランス良く引き締まっている。浮かれた柄の海パンの上にグレーのラッシュガードを羽織っていた。


「ごめん、なんか思ったより長かったね」私は彼に並んでプールサイドを歩き出しながら言った。「一人ずつしか滑れないのも、知らなかった」

「リョウヘイ達、二人で滑ったみたいな話だったけど。なんか事故でもあってルール変わったのかもね」と、ユキトは言った。


 スライダーの出口のプールは遊泳用のプールから独立し、フェンスで囲まれている。「すみやかにプールサイドに上がってください!」「ここで泳がないでください!」という看板が何枚も交互に掛かっていた。私達は足元に描かれた矢印に従ってプールサイドをぐるりと周り、その一画を出た。


 数年前に流行ったインディーバンドのバラードが場内に掛かっている。君を失った夏がまた来る。季節は巡るのに僕は喪失感から抜け出せないでいる……流れるプールに大きな浮き輪を浮かべてはしゃいでいるカップル達の大半は、不吉な曲が流れていることを気に留めていないようだった。


 私はユキトの顔を伺った。ユキトは流れるプールのプールサイドに並んだ三台のキッチンカーを眺めていた。表情の薄い顔は、何を考えているのか読み取れない。


「もう食べる?」私は聞いた。

「並びそうだから、先に買っておこうかと」

「確かに」


 ユキトと付き合うようになってから、私は行列に並ぶのが苦にならなくなった。取り留めのない雑談をしていれば、時間はいくらでも穏やかに流れていく。しかし、ユキト自身は待つ時間が好きではないようだった。


 昼食にはまだ早い時刻。チキンサンドを待つ列は三組が並んでおり、私達はその最後尾についた。

「さっきのスライダーだけど」私は先ほど後にしてきた場所を振り返った。鉄の階段が何十回も折り返して続く、塔のような建造物。その先に、複雑にうねる水色のチューブが繋がっている。「私、あれ前にもやった気がする」

「そう? 最近できたんじゃなかったっけ」

「でも、話を知ってたんだよね」

「あのアニメーションの?」

「うん。絵も見覚えがある。子供のとき滑ったと思う。オチも知ってた」

「そんな昔からあったかな」

「別なところで同じものを観たのかも」


 あるいは、いつかの叔父のように私も未来を知っていて、今日初めて観るはずだった物語を過去に「思い出して」いたのか。


「子供のときの旅行ってそんなことあるよね」と、ユキトは言った。「どこに行ったか、いつ行ったかも覚えてないのに、断片的に記憶に残ってたりして」

「そう。そうかも。ユキトの家も、子供のときあちこち旅行に行った?」

「よく行ってたよ。親が好きだったからね。でも大抵、旅先で喧嘩になるからさ……なんとなく、嫌な思い出ばかり残ってたりする」

「あるある」


 私は思わず頷いたが、よく思い返すと、私の家の場合はそれは「喧嘩」ではなかった。旅先で、あるいは旅先でなくても、母はしばしば情緒不安定になり、急に取り乱して泣き出した。叔父が亡くなって以来だ。


「ショウちゃんは、いなくならないよね?」母は何度も私にそう聞いた。「いなくなったりしないよね? ショウちゃんは約束を守るよね?」


 私はその度に、苦笑いをしながら頷いた気がする。子供の私が母のもとからいなくなることなどできないし、それに、叔父のように不慮の出来事で居なくなるときには、それは私の意思ではない。不条理な念押しを繰り返す母を、私はどう受け止めるべきかわからなかった。

 父もきっとわからなかったのだろう。

 旅行に行くたびに、取り乱して悲嘆に暮れる母を父は困った顔で不器用に慰めた。どこに足を伸ばしても、その見知らぬ土地の印象は悲しみや気まずさの記憶に塗りつぶされた。


 私が中学生になったとき、父は遠方に出張に出てそのまま戻らなかった。それからは母と二人で暮らした。高校入試が終わり、入学時に提出する書類の「父親」の欄が空欄になっているのを見たとき、初めて私は両親が離婚していたことを知った。


「食べたら、あっち行こうか」パラソル付きの丸テーブルでサンドイッチを食べながら、ユキトは流れるプールと反対側のエリアに目をやった。シュロの木の列に半ば隠れているが、そちらは人工の波が打ち寄せるビーチエリアだったはずだ。


 物静かな印象に似合わずユキトはせっかちな性格で、待つ時間や休憩時間、そして食事の時間を嫌った。それらはユキトの価値観では「何も生み出さない時間」だった。


「私、もう一度スライダー行きたいんだけど」私は、ユキトが良い顔をしないだろうと思いながら言った。「一人で行ってくるから、先に行ってて」

「いや、それなら俺もまた滑るよ」とユキトは言った。

「ほんとに? え、なんで?」

「え、なんで?」

「一度観たら、もう観る必要ない、っていつも言ってるじゃん。映画とかは」

「でも、新しいコメント付いてるかもしれない」

「コメントが読みたいの?」

「あれけっこう面白いよ。それに、単純に滑り台は楽しいし。話はどうでもいいけど」

「なるほど」


 鉄の階段は何度も何度も折り返し、単調に上へと続く。食後の運動としては乱暴すぎて、私は自分で言い出したことながら後悔した。


 ユキトは涼しい顔で、足を緩めることも早めることもなく、一定のリズムで登っていく。


 一歩踏み出すごとに、私の身体は重力に逆らって二十センチほど上昇する。九段登ると踊り場で、折り返してまた九段。滑り止めの緑色のマットが私の足から水滴を吸って、ちらちらと光る。やがて私の身体は地上から二十メートル上にたどり着く。その位置エネルギーがスライダーの推進力となり、私を地上へ送り返す。


 係員の合図で私の身体は水の噴き出し口から押し出され、すぐに濃い水色のチューブに包まれる。水の音だけ。それ以外は静寂。自由度は一。


 前に進む以外にない。水の流れには逆らえない。時間の流れにも。それが宇宙の理だから。だが本当にそうだろうか?


 チューブの中を振り回されて下る私の身体が本当には「いつ」に存在しているのか、私自身には確かめようがない。テロップとして流れる無数の雑多なコメントのどれかは過去の私自身であり、ついさっきのユキトであり、私の直後に二周目を滑ろうと待っているユキトであり、ありし日に未来を知ると嘯いた叔父かもしれない。


「記念コメ」

「この顔よね」

「あああああああああ」

「3周目になると別な味わいが出てくるな」

「この話、知ってる」

「キモとか言ってる奴だれ?」

 無数の観客達の過ごした無数の時間が、この「現在」に重なり合う。


「しっかり考えなよ。ここが人生の分岐点なんだよ」私にそう言ったのは中学のときの同級生だった。

「人生に分岐なんかないよ」と私は癖になっていた苦笑いを浮かべながら言い返して、彼女の不興を買った。


 時間の流れに分岐などない。逃れようのない一本道だ。このチューブのように。


「キタ高の推薦枠はもう埋まってるよ」もう名前も思い出せない同級生の彼女は、私の机の前に仁王立ちのような姿勢で立って言った。「二組のツートップと、うちの組からは名護さんが手を挙げて、それで決定だって。第一希望にキタ高を書くとどうせ弾かれて、余り物を回されるよ。しっかり考えなよ。ここが人生の分岐点なんだよ」

「分岐なんかないよ」私は苦笑いをする。


 私は彼女の助言通り、第二志望の高校への推薦希望を書いて担任に提出する。しかし、成績優秀な三名が推薦枠を埋めてしまったという情報は嘘で、実際にキタ高の推薦枠を得たのはその同級生だった。


 なぜ勝手に志望校を変えたのかと半狂乱で問い詰める母に、私は適当な嘘を言って誤魔化した。同級生の妨害工作を打ち明けて学年全体の問題となることよりも、自分一人が母に責められることを選んだ。事を荒立てないことが自分と母の両方を守ることになるのだと、直感的に知っていた。


 別な未来があり得ただろうか? 分岐すべき選択肢があっただろうか?

 このチューブの出口が全く違う場所に繋がることが、いつかあり得るだろうか?


 つるり、つるり、チューブのうねりに沿って私の身体はカーブを描き落ち続ける。空間を作り出す三つの軸、x、y、z。私の身体は三次元にあり、自在に移動する。右と左。奥と手前。上と下。


 四番目のt軸だけが、後戻りの効かない一本道だ。一定の速さで前進のみが許される。分岐は無く、後退は無く、一時停止も無い。


 チューブの内側には、変えられない人生が描かれる。異形の赤子はやがて試練を乗り越えて英雄となる。異性を初めて愛し、そして失う。彼の運命を初めて見守る者も、飽きるほど繰り返し見た者も、等しくこの「現在」にコメントを投げる。


「ああ、あわわ」

「この先、ネタバレ厳禁」

「みんな見てるー?」

「海かな」

「剣さばき上達してる」

「悲しいね」


 いつの間にか真っ暗になっている。水の音だけ。私の身体は下り続ける。


 やがてチューブ内は明るくなり、青い半透明の壁越しに日の光が私を包む。

 泡立つ水とともに、私の身体はチューブの終点から吐き出される。


 私はプールサイドに上がってユキトを待った。


 ユキトは出てこなかった。長い長い時間、スライダーの出口は静かに水と泡を吐き出した。それからチューブ内に反響する歓声が勢い良く近付いてきて、見知らぬ幼児と父親が飛び出した。幼児はプールの中央で父親の膝の上から離れ、両腕に取り付けられた蛍光色の浮きの力でぷかぷかと水面に浮かんだ。


 次に滑ってきたのもユキトではなかった。私は上で何かあったのかもしれないと思い、また無限に折り返す鉄の階段を登っていく。


 しかし、スライダーの乗り場の列にユキトの姿は無く、係員も私の直後に滑るはずだった男を知らないと答える。私は納得行かず、ユキトの背格好をもう一度説明しかけるが、係員の迷惑そうな表情を見て諦める。


「滑りますか?」

 私のすぐ後から登ってきた客が、気を利かせて列に隙間を残している。


 味気ない鉄の階段を自分の足で引き返すのも億劫に感じ、私は仕方なく列に入る。順番待ちの列はそれほど長くはないが、一人が完全に滑り終わるまで次の者がスライダーに入れないので、やはりそれなりの時間を待たされる。


 三度目の緩やかな落下と、映写される物語の顛末とコメントを味わい、私は暗闇から飛び出し、プールの泡に包まれる。ユキトはやはりどこにも居らず、私は重苦しい不安を抱えながらロッカールームに入り、着替えとともに預けていたスマートフォンを取り出す。ユキトから、滑り終えたが私が見当たらないので、先に売店を見ているというメッセージが入っている。私は何故だか慌てて、手早く着替えだけを済ませ、濡れた髪にタオルを当てながら売店へ辿り着く。


「どうしたの? 遅かったね」

 ユキトは既にきちんと身支度を終えて、売店の土産袋を持ち、会計を済ませている。


 私は何故行き違いが起きたのかわからず、私の直後に滑ってこなかった理由を問い質そうとする。しかし何故か、言葉を飲み込んでしまう。


 聞いても聞かなくても、この先の結末は同じだから。


 私は場を和ませたくて微笑みを作るが、ユキトは一瞬怪訝そうな顔をした後、何となく白けたような態度に変わる。それでも私達は何事もなく会話を楽しみながら、帰りの車に乗る。行き慣れたファミレスで早めの夕食を済ませ、ユキトは私を家の前で降ろし、明日は早朝から部活があるから、と言って帰って行く。全てがいつも通りに終わる。それから一週間後と二十日後に、彼からまた車で遠出しないかと連絡が来るが、私は二度とも体調がすぐれないと返して断る。頭が良く気の回るユキトは、その後自分からは連絡してこなくなる。


 何事にも厳密さと計画性を求める彼は、結婚を前提とした交際を望んでいる。私が結婚を考えていないことに彼が気付けば、いつかは別れなければいけなくなる。それが早いか遅いかの違いだけで、結末は始めから決まっていた。決まっている。


 分岐はなく、やり直しもない。変えられない未来を、繰り返し新鮮に味わう。


「滑りますか?」

 私のすぐ後から登ってきた客が、気を利かせて隙間を空けている。


 目の前にスライダーの乗り口があった。


 係員が、前の客が滑り終えたのを双眼鏡で見下ろして確認し、「次の人!」と促す。


 私は踏み台を上がり、水が噴き出すスライダーの始点に身体を収める。


 ネタバレしちゃ、つまらないだろう?


 あの日の叔父の言葉が、その口調や声色、僅かな語尾の震えと煙草のにおいが混じった咳払いに至るまで、丸ごと細部まで、私の脳裏に蘇る。


 すぐに私の身体は緩やかな落下の中に放り込まれ、静謐な水音と共に暗闇に飲み込まれる。


「この話、知ってる」と、私は呟いた。



(了)

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つるり 森戸 麻子 @m3m3sum

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