ゴールドベルクの不確定性

わたなべ

ゴールドベルクの不確定性











「パラレルワールドって、信じる?」

 僕はその時、遠くから聞こえるピアノの音を聞いていたから、隣に座った君の言った言葉が、よく聞き取れないでいた。パラレルワールド?そういった気がしたけど。

「そういったのよ。あなたは、パラレルワールドを信じる?」

「パラレルワールドって、SFなんかでよく聞く、あれのこと?」

 僕がそう言うと、君は「他に何があるのよ」と、少し笑った。

「並行世界、とも言うけれどね。表現はなんでもいいのよ。それで、信じるの?」

「どうだろう。僕にはその手の知識が、あんまりないから」

 僕は、あまり本気にしないでそう返した。それに、知識があまりないのは、本当のことだったし、それについて嘘をつく気にもならなかったから。

 僕の言葉に、君は少しムッとした表情をしていた。それから、少しだけ遠くを見て、手元においてあったラムネに口をつける。

「まあ、信じるか信じないかはこの際一旦いいわ。話の主題はね、パラレルワールドっていうのは、本当に存在するってことなのよ」

 今度は、君の言う事を聞き逃さなかった。パラレルワールドが存在する?

「そう。パラレルワールドは存在する。まあ、これに関しては、ミクロの世界では、すでに実証済みというか、よくある話ではあるのだけれど」

 君は、そう言って少しずつ話を進める。


「量子力学の解釈に、多世界解釈というものがあるの」


「これは、波動関数と呼ばれる、量子状態の収縮、つまり、量子が動いているか、止まっているなら、その場所についてを説明する式が、どのように収縮、つまりは、速度なのか、位置なのかを確率論的に確定させるときのその確率を、どのように解釈したらいいかを考える問題において、波動関数の収縮は、多世界解釈、つまり、世界は確率的に分岐する、という解釈のことなのだけれど」


「その多世界解釈の立場にたてば、世界は確率的に分岐する、つまり、何%の確率かで、並行世界が存在するんじゃないか、とも言えるのよ」


「どうかしら、ここまで理解できた?」


 君は、僕の目を覗き込みながらそう聞いてきた。

 正直な話、全く理解できていなかった僕は、その目線から逃げるように、視線を正面に向けた。夏の夕暮れ、山の方ではヒグラシの声がして、どこか遠くからはバッハの旋律が聞こえてくる。僕はバッハはよくわからなかったけれど、君が、これはグレン・グルードという人の演奏だと教えてくれた。軽快な音だった。鍵盤の上を、指が踊っていく様子が目に浮かぶ。楽しげな、けれど、決して軽薄ではない音だった。

「でも、それはミクロ系、つまり、とても小さな世界でしか成立しないんだろう?」

「そう、今までの量子力学では、適用される範囲は、ミクロ系に限られていた。マクロ系、つまり、巨視的な世界に適用するには、エネルギーが足りなかったのよ。世界を分岐させるのに必要なエネルギーなんて、一体どれだけのオーダーになるか、検討もつかなかったのね」

 君は、そういって楽しげに笑った。そして、座っていたベンチから立ち上がる。君の背景に、遠く、入道雲が浮いていた。

「でも、たとえばもし、そのエネルギー問題が、解決したとしたら」

 僕は、口に乾きを覚えた。なにか、とても良くないことが起きる気がしたからだ。緊張、不安、君が、また良くないことを言い出すんじゃないかという念慮。そうした、僕の中の良くないものを見透かしたように、君は言葉を紡ぐ。

「安心して、この世界ではなにもないわ。でも、もしかしたら、そうした兆候は観測できるかもしれない。特に、ああいった巨大なエネルギーを使ったあとでは、特にね」

 そういった瞬間、僕のポケットの中に入っていた携帯電話が震えた。登録していたニュースサイトから、緊急地震速報が配信された通知だった。震源地は、ここからそう遠くない、首都近郊の海岸だった。

「M9.1、最大震度7だって。ここら辺も予測震度5だよ。急いで隠れないと」

「あらそう?でも、大丈夫よ」

「大丈夫だって?なんの根拠があって、そんな悠長なことが言える?」

「大丈夫よ。だって――」


 「そんな地震、この世界では起きていないもの」


 一瞬の静寂。風が通り抜ける音がして、木が、青々と茂った葉を揺らしていた。

 僕は、君が言い放った言葉の意味と、それに付随した無表情の真意を、図れずにいた。――この世界と言ったか?今

  それから、僕はその場から動けなくなった。地震がきたとして、ここら辺には倒れて困るものもないから、下手に動かない方がいいと判断したのだ。君は、僕の隣で、相変わらず楽しそうにラムネを飲んでいる。

 そして、何分経っても、地震なんてまったく来なかった。


 帰りのバスの車内で、僕は携帯電話が、先程の緊急地震速報は誤報だった、と通知してきたのを見ていた。気象庁の地震観測システムが、原因不明の反応をしたらしい、というところまで情報を追って、それから、考えるのをやめた。

 君は、僕の隣で寝息を立てている。

 息を吸った。

 息を吐いた。

 その繰り返し。

 また吸って。

 また吐く。

 その繰り返し。

 その繰り返しを、僕たちは続けていくはずなのだ。

 今日も。

 明日も。

 けれど、もしかしたら、なにかの拍子で、それが崩れてしまうのかも知れない。

 今、この瞬間にも、世界は分岐しているのかもしれない。

 でも、僕にそれを知るすべはなかった。それに、彼女の言い分では、そういった巨視的な変化には、莫大なエネルギーが必要らしいから。こうやって生きている上で消費するエネルギーなんかでは、きっと計り知れないような規模のエネルギーが。そんなエネルギーを発生させる術を、僕は知らない。世界が分岐しないなら、きっと、それをわざわざ観測する必要もないだろう。

 「次は、小澤観測所前」


 バスの停車を知らせるチャイムが、車内に木霊する。

 

 

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ゴールドベルクの不確定性 わたなべ @shin_sen_yasai

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