エピローグ


いつも夢に見る。

目を閉じた瞬間に思い出すのは金色の世界と身が湧き立つような心臓を抉る音楽。鈴の音のような透き通った声。その音と声を道標に今日までずっと生きてきた。いや、これからもずっと追いかけるだろう。それくらいその音と声は自分の中で忘れられないかけがえのないものになっていた。それだけを頼りに必死に動かない身体を動かして、自分を奮い立たせてきた。何度挫けそうになっても、あの瞬間の出来事を思い出して、記憶の中の思い出を引き摺り出して自分自身を騙しながら懸命に生きてきた。僕の人生はあの音楽のおかげで再び色付いたんだ。



          ♢♢♢


目を開ける。小さな寝室のカーテンの隙間から柔らかな日差しが差し込む。今日も身体の調子があまり良くないみたいだ。小さい頃からずっと付き合ってきたこの感覚にももうすっかり慣れてしまって逆になんだか親しみすら覚えるから不思議だ。言うことをあまり聞いてくれない手足に無理やり力を入れて身体を起こした。そういえば今日はレッスンの日だっけ。待ってくれている皆んながいる。夜までに少しでも体調を整えなければ。倉橋青斗くらはしあおとはゆっくりとその場から立ち上がり大きく伸びをした。


青斗は小さい頃から身体が弱かった。弱いというよりは突然自分の思った通りに身体が動かせなくなる瞬間が訪れるのだ。全く動かないわけではない。脳からの伝令を身体がすんなり受け入れず一瞬だけ時が止まったように固まってしまう。ただ、なんで止まるのかを考えている次の瞬間にはすでに身体は動いていたからあまり気にはしていなかったし、それが自分の体質だと思っていた。そしてそれがいつから始まっていたのかももう覚えていない。そんな訳のわからない秘密を抱えた青斗の身体は小学生くらいの時から周りの同級生とは比べ物にならないほどの体格に恵まれていた。今思えば恵まれていたという表現が適切だが、当時はよくデカいだの邪魔だのとからかわれたものだ。大きな身体とは逆に心は繊細だったので同級生からのからかいには堪えていた。家に帰ってから1人でこっそり泣いていたのを今でも覚えている。そんな弱い身体と心を鍛えようとして始めたのがダンスだった。自分の言うことを聞いてくれない身体を音楽に乗せて動かすことで無理やり支配した。同級生からデカいとバカにされても、お前たちにはできないことを僕はやっているんだと自分に言い聞かせることで心の平穏を保っていた。何よりも昨日まで出来なかったことが出来るようになっていく快感は何ものにも変え難くどんどんとその魅力にのめり込んでいった。もっと上手くなりたかったし他の誰よりも自分が一番ダンスが好きだということを証明したかった。大人になった今でもその気持ちは変わらない。今日までずっとダンスだけが自分の生きがいだった。


そんな青斗がVRに出会ったのはつい数ヶ月前のことだ。普通に生きていればまず関わることのなかった世界のはずだった。VRという単語すら知らずにダンスの世界でずっと生きていくはずだった。でもそれは突然起こった。ある日HIPHOPのステップの練習をしていた時だった。突然身体が全く動かなくなって立っていることもできずにその場に倒れ込んだ。自分でも何が起きているのかがわからなかった。痛みとかはない。ただ感覚がないのだ。自分の手足が身体にただくっつけられたアクセサリーのようにだらんと力なく伸びていた。力を込めようとしても感覚がないためそもそも力が発生しなかった。しかも一瞬ではない。5分近く経過しても身体は立ち上がる気配がなかった。初めての感覚に恐怖し、絶望した。このまま全く動けなくなってしまうのではないかという恐怖が全身を駆け巡る。その後どれくらいそうしていたのかは覚えていないが何事もなかったかのように身体が元の力を取り戻した。原因が分からない。突然起こってしまった異常事態に騒つく心を抑えながら震える足で立ち上がった。

次の日に病院を受診したが何かの病気かもしれないという不確定な情報しか得られず、結局原因は判明しなかった。筋力を維持する薬だけが処方され、その日は大人しく帰路に着いた。元の力を取り戻したと思われた身体も心なしか動きにくく感じる。怖かった。自分がどうなってしまったのか、これからどうなってしまうのかも分からない。目の前が真っ暗になっていくようだった。ダンスはもう出来なくなるかもしれない。いやそれだけじゃない。買い物や旅行もできず、日常生活にすら影響が出るのかもしれない。生きがいを奪われ、生きる術すら失ったらどうすればいいのだろう。回復する見込みも手段も原因もわからないから何をするべきかも判然としない。文字通り生きる意味を見失ったのだ。これから死ぬまで変わり映えしない自宅や病院の壁を眺めて過ごす日々が来るのだと思うと寒気がした。朝起きたらもう自分の身体が動かなくなっているんじゃないかと思うと恐怖で全然寝付けなかった。毎日祈りながら眠りについた。起きている時は家での過ごし方とか、身体が動かなくてもできることなどを必死になって検索してみたがどれも参考にはならなかった。もう何もかも諦めてしまおうと思った。そんなときに見つけたのだ。仮想現実の世界のことを。たまたま見ていたウェブページの広告欄だった。普段なら素通りする「あなたの知らない世界を見に行こう!」と明らかに胡散臭いキャッチコピーが書かれたバナーをタップしてリンク先に飛んだ。そこに記載されていた内容は信じ難い魔法のような世界のことだった。でも今の自分にはこのどん底から掬い上げてくれる唯一の光に見えた。ページの隅から隅までを読み漁る。コントローラー1つでどんな世界にも一瞬で行くことができる。現実世界の手足が全く動かなくても、仮想空間なら指先だけでさまざまな場所を歩くことができる。家にいながら遠く離れた人と目の前で話すことができる。こんな世界があることなんて知らなかった。希望の光に縋るようにそのまま購入ページからセット一式を購入した。何もかも諦めるのはまだ早いのかもしれない。


届いたHMDの箱をクリスマスプレゼントを目の前にした子どものようにがむしゃらに開けた。一刻も早くその世界を体感してみたかった。新品特有の匂いが鼻腔をくすぐる。いつもより気持ち俊敏に動く両手で箱の中からHMDを取り出してそのまま頭に被った。コントローラーを両手で持って電源を入れると、タワーマンションの一室のような広々とした部屋が青斗を出迎えた。思わず感嘆の声が漏れる。住み慣れた自分の小さな部屋が一瞬で別世界へと切り替わる感覚に感動を覚えた。しばらくHMDのデフォルトホームであるタワマンの一室を見回したあとに本来の目的であった「VRChat」をダウンロードする。これから色々な世界を見ることが出来る。たとえ現実世界の自分が動かなくなっても、仮想世界ならアバターという自らの分身を纏ってどこまででも旅をすることが出来る。そんな未来を想像すると現実で感じている不安が少しだけ軽くなったような気がした。早まる心を抑え付けてまだ見ぬ景色を見せてくれる「希望の世界」へと飛び込んだ。


下を見て自らの手を眺める。グレー色のロボットのような手をしている。自分の身体が変わっている。ついに仮想世界に来ることが出来たのだ。目に映る近未来なホーム景色と初期アバターである灰色のロボットの手が、今自分が仮想現実に降り立っているということを証明してくれている。左手のコントローラーのスティックを軽く前に倒すと、視界に移る景色が後ろに流れてどんどん身体が前の方へと進んで行った。本当に指先だけで歩けている。これならたとえ足が動かなくなってもこの世界で生きていけるだろう。あの時ウェブページの隅のリンクをタップした自分の直感は間違っていなかったのだ。知らない世界を知ることができた心が感動で震える。

全て英語で記載されたメニューを開いてワールド検索画面を開く。ランダムで表示されているワールドの名前自体も英語で書かれていて、どんな風景が広がっているのかは切り取られたサムネイルだけで判断するしかない。そのままワールド検索欄をスクロールしているとふいに日本語で書かれたワールド名を見つけた。「ミュージックフェスGOLD」というワールド名だ。日本語で書かれているという安心感とミュージックという名前、キラキラに光り輝く金色の大聖堂のサムネイルに惹かれる。ずっとダンスをやってきた身だ。数え切れないくらいの音に身体を乗せてきたし、音楽を聴くこと自体が大好きになっていた。VRの中の音楽はどういったものなのだろう。聴いてみたい。条件反射でその世界に飛び込もうと決意してポータルを前に出した時だった。両手がまた力を失って、ただだらしなく重力に従って下に落ちた。ソファに座ったまま前に伸ばしていた足も立ち上がりたいという自分の意思を無視し続けている。また来てしまった。あの時以来の大きい金縛り状態。

動揺するな。落ち着け。現実世界の身体なんてどうだっていい。どうせいつか完全に動かなくなるんだ。もう心のどこかでとっくに諦めているはずだろう?認めるのが怖いだけで。考えるのが怖いだけで。それなら考えなければいい。僕は今、仮想世界に居るんだ。この世界の僕はまだ動けるはずだ。

固まっている指に意識を集中させると辛うじて指先だけがゆっくりと動いた。コントローラーの移動スティックに乗せた指が仮想世界の自分の身体を動かす。

よし。思っていた通りこの世界では歩くことが出来そうだ。

迷うことなくポータルを潜って黄金の世界へと向かった。



音が鳴っていた。空気を震わせて心臓に届く。

黄金の世界。温度を感じないはずの空間。

でも確かに熱気を感じた。

うねるようなベース。

大地を揺らすバスドラムのビーター。

煌びやかに天を舞うギターリフ。

自由を象徴するようなピアノのメロディ。

音が交差して弾ける。世界の色が変わる。

暗かった世界に光が差した。

現実の何もかも諦めていたはずなのに。

心が揺れる。いや、心が踊る。

そうだ。僕はずっと自由なんだ。

鳥のようにどこまでも飛んでいける。

魚のようにどこまでも泳いでいける。

自然と足が、腕が、指が動いていた。

動けずに止まっていた身体が動いていた。

確かに動いていたのだ。

4人のインストバンドの演奏が終了する。大喝采が金色の世界の隅々まで響き渡った。

涙が込み上げる。ワールドに入ったその瞬間から全身を、心を包み込んで離さない音楽にひたすら感動した。そして、その音に反応するように自らの身体が動いたことに驚きを隠せなかった。自然と音に乗っていた。先程までの金縛りが嘘だったかのように身体が軽い。今でも鼓膜の内側であのピアノの旋律が鳴っている。

あの音は自由そのものだった。

演奏を終えたメンバーの元へと駆ける。居ても立っても居られなかった。今すぐにこの感動と感謝を伝えたかった。迷惑かもしれない。それでも。


「あの!ピアノすごい素敵でした。感動しました…!」


1人の女性が青斗の声に振り返った。漆黒の夜空のようなロングの黒髪を揺らしてこちらを見つめ返してくる。頭上のネームには夜に輝く天体の名前が冠してあった。


「ありがとうございます!そう言ってもらえてわたしも嬉しいです!また聴きに来てくださいね」


その女性は顔を綻ばせ笑顔でそう言った後、手を振ってくれた。

鈴の音のような透き通る綺麗な声だった。思わず心臓が跳ねる。魔法が解け再度コンクリートのように固まってしまった右手をなんとか挙げてゆっくりと手を振り返した。心臓はずっと煩かった。


          ♢♢♢


アバターの見た目を変えた。現実では昔から大きいと言われてきたから、こちらの世界では小さな姿になってみたかった。小さな少女のアバターを購入して改変する。猫が好きだけど猫アレルギーで近づくことが出来ないのでアバターに猫耳と尻尾を生やして猫好きをアピールしてみた。

現実ではまた踊るようになった。もちろん手足が重くなって思うように動かせなくなることはある。ただあの時聴いた音楽と声を思い返すと不思議と活力が沸いた。今まで動いていた身体が動かなくなっていく現実に何度も何度も打ちのめされてもあの自由に飛び立てそうなピアノのメロディを思い出の小箱から取り出すだけで立ち上がることができた。またあの音楽が聴きたい。その想いだけに突き動かされて今もステップをひたすら練習している。あの時おこがましくてもフレンド申請を送れば良かったと後悔していた。あの演奏者のことで判明しているのはアバターの見た目とプレイヤー名のみ。黄金の世界で音楽を聴いた2日後くらいにそういえば、と思い立って「VRChat」の検索機能でそのプレイヤー名を入れてみたがヒットしなかった。この現実世界より広く果てしないバーチャル世界で再び出逢う確率などゼロに等しいだろう。でも、ダンスと音楽は密接な関係だ。踊って踊って踊り続ければ、いつかどこかで出会えるかもしれない。いつしかVRの世界でダンスをすることが生きがいになっていた。あの音楽に、あの人に再び出会えるまでは諦めない。今自分が踊れているのはあの人の音のおかげだった。


数ヶ月の間、「VRChat」の世界を歩いてみて分かったが、意外に音楽をやっている人、そしてダンスをやっている人が多くいた。ダンス勢の何人かと仲良くなったり、現実世界での経験を活かしてインストラクターをやってみて欲しいとコミュニティに誘われたり、そのためにフルトラ機材を購入したり間違いなく現実が少しずつ確実にVRの世界に支配されていった。レッスンを開始すると猫耳をつけた少女のダンス姿はすぐに人気が出て、瞬く間にフレンドが増えていった。初心者にもわかりやすいと評判を得たレッスン形態が人気に更なる拍車をかけ、バーチャル内のダンス界隈でちょっとした有名人になった。自分のダンスを褒めてくれる人が居ることが嬉しかった。それでも気を抜けば身体が動かなくなる時がある。そのような前兆が見られるときはレッスンを休むしかなかった。自分のダンスを褒めてくれる人を、レッスンを待ってくれている人を裏切るような行動に心が傷む。でも自分でもどうしようもなかった。意志とは無関係な所で止まる身体を制しようと思ってもやはり言うことは聞いてもらえない。心に閉まっているあの音を思い返してみても以前のような動きを手足は見せなかった。あの音を再び聴ける日なんてくるのだろうか。色々な音楽イベントに参加してみても黄金の世界でピアノを奏でていたあの人の姿を見ることはなかった。レッスンは楽しい。ダンスは楽しい。でも自分が踊り続けている意味が分からなくなってくる。出会えないのならVRでダンスをし続ける必要はないのではないだろうか。現実でダンスを続けて、動かなくなった時の最終手段でバーチャルに帰還して色々な景色を見ながら放浪の旅をする、そんな生き方で充分ではないだろうか。VRはしばらく辞めてもいいのかもしれない。


「最低だな、僕は…」


乾いた笑いとともに独りごちた。嫌な考えを払拭するように首を振る。

本当にどうかしている。たくさんの人を裏切る行動を自らが進んでやってどうする。僕のレッスンを待ってくれている人がたくさんいるんだ。せっかく出来た新たな居場所をもっと大切にしなければ。

あなたは今どこに居るのだろう。



          ♢♢♢


病院での定期検診を終えた。ひと月に1回は病院を訪れているが毎回代わり映えしない診断結果と処方される薬にだんだんと慣れてしまった。今日ももはやルーティンワークと化した診察を受けて、原因が結局判明しない診断結果を耳に軽く流し込んでから日差しが照りつける真夏の道を歩いていた。暑いから今日の昼は冷たい麺類にしようか。そんな事を考えながら駅前の大通りを抜けた時だった。


「嫌っ!離して!!!」


「おい、抵抗すんなよ」


声がした方を見ると女性が3人の男に囲まれていた。明らかに穏便じゃない。ナンパだろうか。そしてこんなことを呑気に考えている場合でもない。助けなければ。走ってその場所へと向かう。


「離せよ」


1人の男の腕を捻る。ダンスで身体の関節を意識した動きをしているからどちらに捻れば腕が動かせなくなるのかは分かっている。男は苦痛に歪めた顔をしたままその場で固まった。


「悪い、この子僕の連れなんだよね。乱暴なことしないでくれる?」


強い言葉で牽制すると、観念したのか男たちはその場から何も言わずに立ち去っていった。


「あの、助けてくれてありがとうございました…」


振り返ると女性がこちらに向かって恐る恐る頭を下げていた。顔を上げた瞬間に目が合う。よく手入れされた黒髪。ナチュラルなメイクを引き立てる整った顔立ちが可愛らしく、内巻きにカールしている前髪から覗くグレイ寄りの黒色の瞳に目を奪われた。でもそれ以上に青斗の胸を打ったのはその綺麗な声だった。どこかで聴いたことがある。ずっと聴きたかった声に似ていた。もしかしたら。いや、人違いだろう。そんな奇跡があるはずがない。聞いてみたかったが勇気が出なかった。初対面の人にバーチャル世界で会ったことありませんかなどと問われても恐怖しか感じないだろうし、先程の男たちのナンパよりずっとタチが悪い。女性も黙ったままの青斗に警戒しているように見えた。


「大丈夫?ごめんね、勝手なこと言って」


そう言って手を差し出したがやはり警戒されていたのか、女性は今一度頭を下げたあとすぐにその場から離れていった。見返りを求めていたわけではなかったし女性が無事で良かった。何より、自分の記憶の中から薄れつつあったあの人の鈴の音のような声に似ている純透明な声を聴くことができて嬉しかったのだ。帰り道を踏みしめる足も、その足を進めるために無意識に動く腕もいつもより数倍軽く感じた。


しかしその日の夜も身体は動かなくなった。接着剤で固められてしまったように微動だにせず床と同化している。しかも前よりもどんどん動けない時間が伸びている気がした。このまま本当にいつか自分自身の時が止まってしまう日が訪れるのだろうか。時間にしてみれば20分近くだったのかもしれない。それでも感じた長さは永遠に匹敵する程だった。今日のレッスンも中止したい旨をdiscordでダンスレッスングループのオーナーである湯葉に送る。


【3回連続で休んでるし、何かあったか?まあ残念だけど仕方ない!無理はするなよ!】


優しさが滲み出ている文章が鼻の奥を刺激した。ツンとした痛みが鼻から心臓へと降りてくる。レッスンを心待ちにしてくれている人がいるのに、答えられない。無理をしたくても出来ない。僕はどうしたらいいのだろう。誰か正解を教えて欲しい。いや、答えなど決まっている。こんな中途半端になるくらいだったら最初からVRダンス界隈に刺さらなければ良かったのだ。自分自身も周りも傷付けるただの害悪な鉄の棘。昔から変わることのない自らのメンタルの弱さに嫌気がさす。大人しく景色が綺麗なワールドを1つ巡って寝よう。もしかしたらこれが最後のログインになるかもしれない。

仮想世界にログインしてワールドを選ぶ。綺麗な夜空とピアノが描かれたサムネイルを選択してワールドへと向かった。


そこで白髪の少年がピアノを弾いていた。


奏でられているのは悲しみを背負った月光のメロディ。流れた音が夜空と1つになってワールド全体を悲しげに包み込んでいく。時が止まったようだった。気がつけば呼吸をすることさえ忘れてただその音に聴き入った。あの時聴いた音にそっくりだった。名前も見た目も違うからあの人ではないのは確かだったのだが、それでも今の自分の苦しみをゆっくりと肯定してくれているような音に心が溶かされていく気がした。流れる演奏に反応する手足がそれを証明している。ゆっくりと動いていた。心が動かされる。音楽は好きだが理論などを理解しているわけではなかった。それでも、わかる。音が哀しみを纏って泣いている。理論なんかでは説明が出来ない、聴く人全ての哀しみを一緒に分かちあって泣いてくれているような音だった。

ただただ「綺麗」だったのだ。

少年はまだこちらに気がついていない。物陰でただ黙って聴いていられなくなった身体が吸い込まれるように少年へと近づいていく。初めから話しかけることが決まっていたかのように声を掛けた。演奏が止む。帰ってきた声は声変わりをしたてのような少し低い声。心のどこかであの鈴の音のような声を聴けると思っていたのは事実だがそれでも充分だった。だってあの時の音楽にはもう出逢えないと思っていたのだから。全く同じではなくても心を震わせてくれる音に出逢えたのは運命だと思った。もっとその音楽を聴きたかった。同じ表現者として一緒に色々な景色を見たかった。黙るという命令をきけなくなった自らの身体が月光の下で跳躍した。空を飛べそうなくらい軽くなった身体でその場を舞う。少年は目を輝かせて「すごい!」と言ってくれた。この人と一緒に踊れたらどれだけ楽しいだろうか。そしていつか、この人の音に合わせて踊ることが出来る、そんな未来が来るのなら。


「僕と一緒に踊ろうよ」


言葉が勝手に溢れ出した。月明かりの下でその少年と踊る約束をした。


その少年は、夜乃という名前だった。



          ♢♢♢


夜乃と出会ってから数ヶ月が過ぎた。夜乃はダンスの楽しさに目覚めたようで、レッスンにも積極的に参加してくれている。今はチームメンバーでもうすぐ行われるダンスイベントのための練習をしていた。バーチャル空間で個人練習をする皆の姿を眺める。メンバー全員と楽しみながら練習をする時間が青斗は大好きだった。最近は身体の調子もだいぶ落ち着いてきて以前のように大きく動けなくなることはほとんどなくなった。イベント本番で使用する楽曲はフリーBGMに夜乃がピアノを合わせて弾いた特別仕様だ。練習する度に夜乃が奏でた音を聴いた身体は止まることを知らずに軽やかに舞った。自分に命を吹き込んでくれる夜乃の音が本当に好きだった。そして次第にその大好きな音を奏でる夜乃自身に惹かれていった。夜乃の姿を見るだけでいつしか心臓の鼓動が煩いくらいに鳴るようになった。いつからだろう。自分でも分からない。

夜乃が初めてレッスンに来てくれた日、その夜に夜乃が実は転生者だということがわかった。見た目も名前も何もかも変えて再びこの世界に戻ってきたと教えてくれた。もし戻ってきてくれなければこうやって出逢うこともなかったのだと思うと恐怖で胸が張り裂けそうだった。それくらい夜乃の存在は自分の中で大きくなっていた。今の自分があるのは間違いなく夜乃のおかげだ。

そしてあの夜、再び夜乃のピアノを聴いた。ゆったりとしたスロウジャズの音色を聴きながら月明かりが揺らめく紫黒の世界で踊った瞬間は今でも忘れない。思い返せばあの時にはすでに夜乃に惹かれていたのだろう。たぶん初めて会った日からその音を奏でる夜乃自身が好きだったのだと思う。きっとそうだ。惹かれていったのではなく、出逢った時にはもうすでに惹かれていたのだ。文字通り、最初から僕は夜乃に一目惚れをしていたんだ。


「ねえ、アオ!ここのステップめっちゃいい感じじゃない?」


「え…?あ、うん!よるのめっちゃ上達したよね!」


その場で回転しながらステップを踏む少年の姿を見つめる。ちょうど夜乃のことを考えていた瞬間に話しかけられたので気恥しさで反応が少し遅れてしまった。笑顔で「でしょー?」と答えた少年の姿が愛しくて目を細めた。釣られるように自然と笑みが零れてしまう。


「ねー!よるっち!この部分一緒にやってみよーっ!」


「いいよ!今隣にいくね!」


「俺も混ざっていい?ちょっと振り確認したかったんだよね。しおんもやろうぜ!」


「まだ練習不足ですがやってみます!」


そう言って集まりだした4人の姿をぼーっと俯瞰する。本当にいいメンバーに恵まれたと思う。もうダンスは踊れないと諦めていたのに、VRの世界では綺麗な景色を眺めて過ごすはずだったのに、VR自体を辞めようと思っていたのに、結局この世界でも踊っている。それもそうだ。ずっとダンスを生きがいとして生きてきたのだ。どんなに切り離そうと思っても心がそうはさせてくれないのは明白だった。


「じゃあみんなでやろうよ!アオちゃんも早くこっち来て!」


少し離れたミラーの前からねくたーが声を上げた。今行くよ、と短く返事をして静かに移動し、4人の中心に立った。音楽が鳴る。夜乃のピアノの音色が自由を謳っている。全員が翼をはためかせて飛び立つ鳥のように高く跳ねた。心のままにしたがって身体を動かす。楽しい、と叫んでいる。ミラーにうつる皆の顔を見る。皆一様に同じ顔をしている。無言状態でも分かる。全員がきっと同じことを思っているだろう。ダンスは最高に楽しいんだ。

もっと皆と踊りたい。

もっとこの音を聴きたい。

もっと夜乃の隣にいたい。

ダンスが繋いでくれた絆をいつまでも大切にしたかった。でもこれは延命治療。サッカーのアディショナルタイム。舞台上のアンコール。やがて終わりが見えているのにその時間が引き伸ばされているだけに過ぎない。

このささやかな幸せを願うことさえ、神様は許してくれなかった。



          ♢♢♢


ジャンル別ダンスイベント当日がやってきた。ここまでたくさん練習してきたし、身体の調子が悪くなることもなかった。だから落ち着いて臨めば大丈夫。途中で落ちることがないようにHMDの充電もちゃんとした。だから後は楽しむだけだ。心から楽しんで楽しんで今日を最高の1日にする。それだけだ。自分を奮い立たせてソファから立ち上がる。間もなくバーチャル空間上で皆と落ち合う時間だ。でも青斗の意識とは別のところでそれは起こるのだ。何の前触れもなく突然に。それは神のみぞ知る既定済みの事実。振ったサイコロが凶しか出ないことを知った上での貴族の戯れ。どのタイミングで何が訪れるかなど生まれた時からすでに決まっているのだ。気まぐれによる絶対的な確定演出を一人間ごときが避けられるはずなどなかった。


「っーーーはーーっ…ぁ、」


息が出来なくなるくらい肺が悲鳴を上げた。声にならない声をただ吐いた後、立っていられなくなった身体がその場でひしゃげて地面にだらしなく吸い付いた。全身が痺れるように痙攣する。痛みを伴ったのは初めてだった。電撃を直接流し込まれているような痛みに身体が耐えきれずその場で嘔吐した。PCの強制シャットダウンのように何も考える暇も与えられず意識は微睡みの中に落ちていった。


目を覚ましたのは3時間後だった。最後に床に倒れ込んだ形のまま固まっている身体に力を込めると何事もなかったかのように身体が動き出した。まるでダンスイベントへの参加だけを拒まれているようだった。


「なんなんだよ、本当に…っ!」


無力さと絶望と行き場の無い怒りだけが心を支配して黒く染め上げる。やはり自分はこの場所に居ていい人間ではなかったのだ。もう、終わりにするべきだ。

立ち上がって充電していた携帯を見ると物凄い数の通知がアプリに届いていた。無断欠席。それもイベント当日にだ。最低で最悪の行為をした。自分の意思ではなくても欠席したという事実は揺るがない。みんなに合わせる顔がなかった。病気のことを話してしまおうか。でもいきなりそんな重たいことを話されても迷惑だと思ったし、何より同情する方もされる方も双方に何の得もない。そして1度入った亀裂はもう元には戻らない。この幸せだった時間を奪われて、曖昧な取り繕った関係だけを続けていくくらいならいっそ嫌われてしまったほうがマシだ。

皆とダンスがしたかった。夜乃の隣に居たかった。でもこんな邪魔な荷物を抱えた奴の隣になど夜乃は立ちたくなどないだろう。今日でこの場所から消え去るから最後にその姿を見るくらい許してくれるだろうか。会いたくないのに会いたい。矛盾している。


「どうしたいんだよ僕は…。どうしたらいいんだよ…」


何も分からなかった。自分の心でさえも。心が進むべき方向を指さずに異常な磁場で回り続ける方位磁針のようにバグを起こしている。分からない。でも心と遮断された身体が今勝手に動いている。何も分からないまま行動している。HMDを被り始めたことも、夜乃にインバイトを送ったことも、会って何を伝えたらいいのかも、何も分からない。それでも身体が勝手にそのように動く。身体のままに従いバーチャル空間に降り立った。モノクロの世界でこちらに向かって走ってくる夜乃の姿に涙が溢れそうになった。もうその顔を見ることも二度と出来なくなるんだ。


…嫌だ。


「僕は、ダンスを辞める」


…辞めたくない。これだけが生きがいなんだ。


「よるのには、最後に会ってそれだけ伝えたかった」


…最後なんて嫌だ。もっとずっと居たいんだ。


「みんなと居るのが辛くなった!それが理由!もう僕はダンスをしたくないんだっ!!!!」


…違う。違うよ。


「…っ。お願いだ。僕にもう関わらないで欲しい…。これ以上自分に絶望するのは、耐えられないんだ。もうよるのには会いたくない」


…違うだろ。違うって言えよ!


目の前でうずくまり泣いている夜乃をただ黙って見下ろすことしか出来なかった。心が違うと叫んでいるのに言葉が出ない。悪手だと警告している心を身体が無意識に無視して最悪な結末を辿ろうとしている。ゴミを棄てるように最低な言葉だけを投げ捨てた身体は満足したのか、勝手にログアウトボタンを押した。気がつけばHMDの視界が暗転し現実の自分の部屋に帰還している。



これはお前が望んだことだろう?



自分自身にそう問いかけられているようだった。身体と心のバランスが崩れて自分でも何がしたいのか分からない。でもたった一つの変わらない事実がある。

大好きな人を泣かせてしまった。

醜悪な自分自身が決定した自己満足だけを優先した最低な解。


「死ねよ!死ね死ね死ね死ね死ね死ね!お前なんて本当に死んでしまえ!俺の身体だろ!動かなくなっても動けよ!!俺の心だろ!勝手なこと言ってんじゃねえよ!!!!」


自身を罵倒し、両の手で足を思いっきり殴りつける。鈍い痛みが足を通って心臓に伝わる。心臓が痛い。押し潰されたように痛い。普段感覚なんて置き去りにしているくせに、肝心な時に何も役に立たないくせに、一丁前に痛みなんて感じてるんじゃねえよ。バグしか起こさない不完全な心が得意気に感情なんてものを吐露してるんじゃねえよ。泣く権利なんてお前にはないだろう。


「ああああああああああああああぁ!!!」


その場でうずくまっていつまでも自らの足を殴り続けた。痛いよ、と言っている心の代わりに涙が流れ続けた。どうしたらいい?僕は、どうしたら。身体も心も何も制御できない空っぽな僕は本当に生きている意味などないんだろう?誰か死ねと言ってよ。喜んで死ぬから。

誰か生きてもいいって言ってよ。

ここから救い出してよ。ねえ。



          ♢♢♢


死んだように眠ることしかすることのなくなった現実を何日も過ごした。生きている意味など何もなかったが死ぬ勇気もなかった中途半端な自分がただ屍のようにベッドに転がっていた。あれから手足はほとんど言うことを聞かない。今日も外は雪が降り続けていて窓の外を白く染めている。このまま異常気象か何かで雪が街を凍らせて世界がゆっくりと終わっていけばいいとさえ思っていた。そんなどうでもいい事だけを考えていた時だった。

不意に携帯が通知を知らせる。夜乃からだった。慌てて飛び起きる。中身は短い文章が添えられたグループメンバーによるダンス動画だった。今更ダンス動画を見てもダンスをする気にもあの場所に帰る気も起きなかった。そもそもあの場所は僕ごときが居ていい居場所じゃない。そう思いながら軽い気持ちで動画を再生した。聴いたことのない曲だった。でもわかった。これはきっと夜乃が作った曲だ。手足にじんわりと命が宿るのがわかる。無意識に少しずつ動き出す。気がつけばその音楽に合わせて無我夢中で踊っていた。踊りとは呼べない不格好なダンス。その場で回転しては倒れる。その繰り返し。踊れないんだろ僕は。それでもなぜ。なんでこんなにも君の音楽はきれいなんだ。なんで君の音楽を聴くと涙が止まらないんだろう。動画はその後も毎日届いた。夜空に月が輝く時間になると決まって同じ動画が送られてくる。そのたびに身体が軽くなっていくようだった。あんなにも拒絶してしまったのに、なんでこんな僕なんかのためにこんな素敵なものを届けてくれるのだろう。

ああ、踊りたいなぁ。会いたいなぁ。

そのように思うことすら罪になるほどのことをしてしまったのになんで、君は。

僕はまた君に会っていいんだろうか。そんなことが許されていいのだろうか。僕はまだここに居てもいいんだろうか。こんな欠陥だらけの僕が君の側に居てもいいんだろうか。分からない。でも会いたい。

自分勝手な行動ばかりに嫌気が差したが気がつけば返信を送る指が携帯を勝手に操作していた。


会いたい。




モノクロの世界で夜乃と再会した。居心地の悪さを無理やり消し去るように自分自身を騙して笑顔を装う。自分が1番嫌がっていたことを自分からしている。表面上だけの会話をしながらワールドを一緒に歩いた。つくづく自分のことが嫌いになる。夜乃は何も核心には触れずに一緒になってこの最低な時間を続けてくれている。夜乃の優しさに甘えているだけの底辺な行為は辞めよう。ちゃんと自分から言うんだ。病気のことを。それで嫌われてしまっても、遠ざけられてしまっても構わない。最後にちゃんと夜乃に自分のことを伝えられたのならきっと後悔はない。モノクロの世界が色を取り戻してカラフルになる。圧巻に色付いた世界が自分を隠してくれるような気がした。怖い。でも言うんだ。もう逃げない。

病気のことを話した。人に話したのは初めてだった。前例がないのだからどんな答えが返ってきたとしてもそれが正解になる。でも夜乃は驚きを隠せないまま固まった後泣き出してしまった。違うんだ。泣かせたかったわけじゃない。泣かないで欲しい。伝えたかったことがあるんだ。それは精一杯の感謝。僕に君の音楽を届けてくれてありがとう。夜乃の音楽が僕の新たな道標だったんだ。君の音楽に何度も救われたんだ。僕と出逢ってくれてありがとう。たくさん傷つけてごめん。自分勝手でごめん。こんな価値のない僕が君のそばにいていい訳がないのは分かってる。

それでも。それでも僕は。


「よるのと居たいんだ」


「わたしもただずっとアオと一緒に居たい」


こんな僕にそんな価値のある言葉をくれる君はやっぱり素敵な人だ。君のたった一言がこんなにも僕に生きる力を与えてくれる。生きていてもいいと言ってくれているのは間違いなく君の方だよ。ずっと会いたかった。ずっと側に居たかった。君も同じことを思ってくれていたのだと思うと舞い上がりそうなほどの嬉しさと幸せで心が満たされていくんだ。本当に自分でも単純だと思う。でも君がくれるものは全部僕が欲しかったものなんだよ。僕を見つけてくれてありがとう。救い出してくれて、ありがとう。


「僕と付き合ってください」


人生で言ったことのない言葉を言った。抱きつかれた身体から伝わる熱が感情を支配する。色付いた世界が更に色濃く染め上げられたような気がした。もう心は愛しさしか感じない。

この日、僕は夜乃と恋人になった。



          ♢♢♢


目を開ける。紫色の光が柔らかく辺りを照らしている。夜乃と付き合い初めてからすぐに色々なワールドを見に行った。ただ隣に居られることが嬉しくて、綺麗な景色を見て目を輝かせるその横顔が愛しくて何枚も写真を撮った。一緒にクリスマスツリーの前で撮った写真はこっそり携帯の待ち受けにした。昨日はイルミネーションを一緒に見たり、夜乃が弾いてくれた繊細なバラードに乗せてゆっくりと踊ったりした。そしてV睡をするために2人でベッドに横になっていたらいつの間にか眠ってしまっていたようだった。今日はクリスマスイヴ。今日の夜、実際に現実世界で会うことになったのだ。実は全部夢だったのではないかと思ったが、起きた瞬間に横ですやすやと寝息を立てて眠っている夜乃の姿を見て夢じゃなかったことを実感する。はやく会いたくてたまらなかった。隣で眠る夜乃の頭を撫でて、額に軽くキスをした。


「大好きだよ、よるのちゃん」


小さく呟いた声はそのまま部屋に吸収された。

僅かに夜乃が微笑んだように見えた。込み上げてくる愛しさで頬がひとりでに緩む。用事がある旨の書き置きを残してから起こさないようにそっとログアウトした。


すっかりと白色に飲み込まれた大通りを歩いた。踏む雪の感触が心地良い。1年にたった1回しかない大事なイベントを盛り上げるように街中や駅前は聖夜を彩る飾り付けが施されている。ただの通り道として歩いていた街がこんなにもキラキラしていることに今までは気が付きもしなかった。この風景を夜乃の隣で見ることが出来たらこれ以上の幸せはないだろう。来るべきささやかな未来を想像すると胸の中心がじんわりと暖かくなっていくのが分かった。

目的地であったアクセサリーショップに入店する。寒さで冷えた身体が店内の暖房の熱に解されていく。


「ご予約の倉橋様ですね。商品、出来上がってますよ」


丁寧なスタッフに案内され店の奥のカウンターへと進み、椅子に腰掛けた。目の前には注文していた指輪が確かな存在感を放って輝いていた。指輪の中心には月の光をそのまま切り取ってきたかのようなムーンストーンがさりげなく主張している。夜乃に渡すために数日前に予約していたものだった。


「とても綺麗です…。ありがとうございます」


「指のサイズが分からないとのことでしたのでリング部分は後日適正サイズにお直しさせていただきますね。今度ぜひおふたりでいらしてくださいね」


「はい。でも、あの、こういったものを渡すのは初めてで喜んでくれるかどうか…。いきなり渡されても迷惑じゃないでしょうか…」


告白されて付き合ってそのままの勢いで予約してしまった。浮き足だった自らの行動に少しづつ不安が募る。でも居ても立っても居られなかったのだ。溢れる想いを伝えたかった。日頃の感謝と等身大の「好き」を形に残るもので夜乃に伝えたかった。スタッフは青斗の不安を払拭するように答えた。


「そんなことないと思いますよ。私だったらめちゃくちゃ嬉しいです。たくさん悩んで決められたんですから。その時間こそが何にも変え難いものですよ。ちなみになぜムーンストーンをお選びになったんですか?」


「彼女に似てるんです。淡く優しい光だけど、周囲を間違いなく照らしてくれる。そんな彼女に僕は救われたんです。このムーンストーンにもそんな魅力を感じました。一目惚れってやつですかね」


「素敵ですね。もうそんなふうに思われてるってだけで彼女さん幸せものですよ。絶対大丈夫です。保証します。想いが伝わるといいですね」


「ありがとうございます。自信つきます」


スタッフと2人で笑い合う。立派な化粧箱に仕舞われた指輪を受け取ると胸が高鳴った。その重さが嫌でも全身を駆け巡る。幸せの重みだ。スタッフに再度お礼を言って店を後にした。世界が輝いている。街が踊っているようだ。全身が羽のように軽い。家に着いた後もずっと夜乃のことを考えていた。指輪を渡したら夜乃はどんな顔をするだろうか。その表情を早く見たい。声が聞きたい。早く会いたい。なぜ何かを待っている時の時間は過ぎるのが遅いのだろう。早く夜になってくれればいいのに。



          ♢♢♢


ずっと待っていた夜になった。街はイルミネーションの光で溢れていて夜空の星が降ってきたかのように辺り一面を煌びやかに照らしていた。ふんわりと降る柔らかそうな雪とカラフルな光を窓から眺めながら青斗は大好きな人が玄関のチャイムを鳴らすのを待ち続けた。

けれども待っても待っても夜乃は現れなかった。約束の時間はとうに過ぎている。遅れる旨の連絡も入っていない。仕事が忙しいのだと思ってこちらからはまだ連絡を入れていなかった。送った家の住所が間違っていたのだろうか。もしかしたら迷っているのかもしれない。携帯を取り出して夜乃に連絡しようと思ったときだった。ディスコードアプリが着信を知らせる。ねくたーからだった。妙な胸騒ぎがする。でもだいたいこういう時の嫌な想像や勘は的中するのだ。


『もしもし、アオちゃん!?つっきーが…!事故に巻き込まれて意識不明の重体だってっ!今、○○病院に搬送されて集中治療室にいるの!急いできて!!』


時が止まった。涙声のねくたーの言っている意味がわからない。よるのちゃんが…?なんで?だって今日は僕の家に来てくれる、そういう約束だったはずだろう。


「…?」


本当に混乱したとき、人は何も話せなくなるのだと初めて知った。遅れて震えがやってくる。全身が激しく緊張したようにガタガタと音を立てて小刻みに揺れる。


『…ねえ、聞こえてる?!アオちゃん今どこにいるの!?急いで!!』


飲み込みたくない現実を全く飲み込めていないままだったが脳がフル回転してその場から身体を全速力で動かそうとする。掛けてあったコートを羽織って一目散に玄関のドアを目指す。その瞬間また悪魔は微笑むのだ。このときを待っていたよ、と。無慈悲な悪戯が青斗を刺し殺してその場に抑えつける。玄関のドアに到達する前に力を奪われた手足は木の幹のようにしっかりと根付いて微動だにしなくなった。慣性が働き、勢い余って転がりながら床に激突する。圧迫された肺が僅かな酸素を吐き出しながら悶えた。電話口でねくたーが『アオちゃん?大丈夫?!』と言っている。

ちくしょう…!ちくしょう!ちくしょう!!!こんなときに!!!!僕が何をしたっていうんだ!やめてくれ!お願いだから!!よるのちゃんのところへ行かせてくれよ!!!!!立て立て立て立て!!!!歩け!!!!歩けよ!!!

どんなに力を込めても全く言うことを聞かない身体は青斗の声など嘲笑するかのようにじっとその場から動かない。追い討ちをかけるようにに全身を稲妻が駆け巡り呼吸が止まった。


「っ…はーーーっああああああ゛」


痛い。身体が灼ける。壊れる。

這うことすらできずにただただ痙攣し続ける身体が脳を揺らして視界を白く染める。

僕は本当に肝心な時に役に立たないんだな。何も出来ない何も出来ない何も出来ない何も出来ない何も出来ない何も出来ない何も出来ない何も。


『アオちゃん!大丈夫?なんかすごい音なったけど…』


壊れるくらい握りしめたままの携帯を震える指でスピーカーモードにする。雷撃に焦がされた身体よりも心が張り裂けそうなくらい痛い。

何で、こんな最低なことを言わなきゃ行けないんだ。涙が溢れて止まらなかった。


「ごめん、ねくさん、いけない」


『は?』


「よるのちゃんのとこにはいけない。ごめん」


『…自分で何言ってんのかわかってる?つっきーが一刻を争う事態なんだよ?!なんでアオちゃんが来ないの?おかしいでしょ!!!』


「行きたいんだ!!!!!!!でも行けないんだよ!!!!」


『行きたいなら来いよ!!!こんなときにふざけんなよ!!!もういい!つっきーに何かあったらあたし絶対に許さないから!!!!!』


通話が切れた音。少しの静寂。カチカチと時を刻む壁掛け時計の音。渡り廊下を照らすLED照明。冷たいフローリングの床。動かない身体。流れ続ける涙。白くなる視界。泣き叫ぼうにも声はもう出なかった。意識がゆっくりと吸い取られた。


ピロンという通知音で目を覚ました。時刻を急いで確認する。時間にして30分くらい眠っていたようだ。通知はねくたーからのメッセージだった。


【つっきーが大変なのどんどん話せなくなって言ってる、これからVRでつっきーと会って!それがつっきーな頼みなんだよ!お願いだから会ってあげて!】


急いで打ちこんだであろう文字。先程まで全く動かなかった身体はその文字を見るや否や地を駆ける猛獣の如く動き出した。いつもの場所にいるとねくたーに告げて、床に転がっていたHMDを被る。僕らにはまだVRがある。たとえどんなに離れていてもまだ目の前で話すことが出来る。現実世界のお互いの顔や素性が分からなくてもバーチャル空間ではお互いを知り尽くしている。いつもの場所。初めて出会った夜の世界に降り立った。コントローラーを持つ手が震えている。全部自分のせいだ。こうなってしまったのも何もかも。軽率に会いたいと願ってしまったから。この空間で会えるだけで幸せだったはずなのにそれ以上を望んでしまったから。自分にそんな資格などないと初めからわかっていたはずなのに。願いすぎた幸せは叶わない。そしてその分のツケが回ってくる。喜びを噛み締めるほど幸せだった時間を掻き消すくらい強く黒く暗い不幸の瞬間が。

少し離れたところに白髪の少年の姿が見えた。最初はゆっくりとその場で足踏みをするように佇んでいたが、やがてこちらに向かって加速し徐々に距離を詰めてきた。震える左手の親指をなんとかコントロールしてゆっくりと前へ進んだ。あと少しでその姿をしっかりと認知できる距離になる。あと少しで声が届く距離になる。あと少しで顔が見える距離になる。

もう、手が届く。


「よるのちゃんっ!!!!!!」


目の前の夜乃を思い切り抱きしめた。触れることの出来ない腕は夜乃の身体をすり抜け虚空を斬る。それでもその熱を確かに感じる。今、目の前に夜乃が居る。ずっと会いたかった。


「ごめ、ん。アオ。会いに、行けな、くて」


ボイスチェンジャーがかかっていない初めて聴く夜乃の地声は鈴のような音がした。でもその声は悲痛に、苦しそうに途切れ途切れの音を奏でる。

そしてその声で夜乃は最後に会えて良かった、と告げた。


「最後なんて言うな!!最後なんかじゃないっ!これからもずっと一緒だ!絶対よるのちゃんのそばから離れない!約束する!だから、そんなこと絶対に言わないで!!」


叫ぶ。ただひたすら叫ぶ。


「よるのちゃんは絶対に死なない!僕がこの先ずっと側にいるから!守るから!だからこれからもずっと一緒に居てよ!約束だよ!お願いだから!最後なんて言わないで!!」


微睡みに溶けていくように夜乃の動きがゆっくりになっていく。


「よるのちゃん?ねえ、よるのちゃん!!」


かろうじて白髪の少年は動いている。でもその動きはだんだんと力が抜けていってるように見えた。アバターの口も動いていない。何も喋っていないのか、声が小さすぎてマイクが拾っていないのか判別が出来ない。アバターから生気が失われていく。衰弱していく夜乃の姿に涙が溢れた。君をそうさせたのは僕だ。僕が君の人生をめちゃくちゃに狂わせてしまった。ごめん、本当にごめん。死んで償ってもまだ足りない。君のこの先の人生を全て背負うから。何があっても絶対に君を守るから。約束、するから。だからお願いだよ。死なないで。居なくならないで。僕を置いて逝かないで。

必死になって手を前に伸ばした。


「好きなんだっ!よるのちゃんが!大好きなんだ!たとえこの先よるのちゃんの手足が動かなくなっても、目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、味が分からなくなっても、喋れなくなっても、ずっと寝たきりになっても、僕のことをっ、忘れたとしても!!!ずっとずっと傍にいるから、だからっ!!!!!」


反応はない。夜乃は動かずにただじっとこちらを見つめている。その姿に心が引き裂かれる。頼む、一生のお願いだ。


「生きてほしい。生きてくれ……」


嗚咽が漏れる。泣いても泣いても涙が次から溢れてきて止まらない。夜乃はその場から少しも動かない。身体が一切動いていない。アバターの瞳が光を失っていっているようにも感じた。歯を食いしばりながら思わず俯いてしまう。


お互いの左足に光るチャームが僅かな月の光を受けて淡い輝きを放っている。


「わた、しは…」


ハッとして顔を上げる。夜乃の声が聞こえた。まだそこに居る。まだ目の前に居る。


「わた、しのほんとうのなまえ、…っていうんだ」


名前。そうか、僕は君の現実の名前すら知らなかったんだな。でもごめん。肝心な名前が聞こえなかった。最後の最後まで僕は君に何もしてあげられない。ねえ、もう1回言ってよ、その名前を。君の本当の名前を教えてよ。何度でも呼ぶよ。声が出なくなるまで呼び続けるから。だから、元気な姿を、その笑顔をまた見せてよ。僕と一緒に今を、未来を生きてよ。

ゆらりと夜乃の右腕が持ち上がる。その手が青斗の頬に触れた。まるで優しく暖かく涙を拭ってくれるように。そしてゆっくりとその口を開いて夜乃は言った。


「あいしてる。」


その言葉を最後に夜乃は動かなくなった。青斗の頬に触れていた腕は重力に従って下に落ちてだらりと伸びている。右手の薬指には銀色に光り輝く指輪がついていた。少年のアバターはうっすら笑っているように見えた。


「つっきー!!!!ねえ、返事してよ!つっきーーっ!!いやぁああああああぁ!」


アバターのマイクがねくたーの悲痛な叫びを拾って夜空に流し出す。宵闇の世界に絶叫がこだました。たぶん自分も叫んでいた。泣き叫んでいた。がむしゃらにその名前を呼んで、呼び続けて、反応が返ってきてくれるはずだと信じて疑わずに、ひたすら魂が抜けたアバターを抱きしめ続けた。やがて主を失ったアバターが自動的にログアウトして夜の世界に独り取り残された。少年の身体を抱きしめていた腕は行き場を失ってもなお不細工な形を保ったまま何も無い空間を抱きしめ続けた。もう二度と感じることができない温もりを求めて、さっきまで愛する人が立っていた空間をただ抱き寄せた。静寂に僅かに鳴る星の降るパーティクル音が命の灯火が消える音に聞こえた。



ソファに座ってただ前を見ていた。視界に映るテレビは焦点が合わずに輪郭がぼやけている。あれからどれくらい経っただろう。泣き疲れて水分を失った身体をソファに委ねて、ぽっかりと穴が空いて進まなくなった心の時計と大切な人を失ってもなお躊躇なく進む時間の差異を享受した。座ったままちらりと後ろを振り返る。いつVRChatからログアウトしたのかも覚えていない。でも、この部屋の惨状が現実に帰還してからも暫く破壊衝動に身を任せていた事を証明していた。倒れて脚が曲がったダイニングテーブル。割れた花瓶。凹みが出来た壁。破れた衣服。物理ボタンが飛んでいった携帯ゲーム機。

月の輝きを失った指輪。

壊れたものは元に戻ることは無い。

失ったらもう、元には絶対に戻らない。

夜乃がいないならもうこの世界に用はない。生きる意味も気力も同時に失った。どうせこの身体だ。少なからずあと数年で完全に動かなくなって息を引き取るだろう。ただそうなる予定を前倒しするだけ。死ぬ事に恐怖もない。生きる事に希望もない。この世界じゃない何処かに行けるなら何処でもいい。手頃にこの世からドロップアウト出来そうなナイフか何かを探そうと立ち上がった時、携帯の通知音が鳴った。深夜3時過ぎ。こんな時間に何だろう。青斗が近づくと床に投げ捨てられた携帯はひび割れた画面を点灯させて再び通知音を吐き出した。拾って画面を確認する。ねくたーからの2件のメッセージ。どちらにも文章は書かれていなかった。添付ファイルだけで構成されたメッセージの中身は圧縮されたファイルデータとMP3データ。息を呑んだ。なぜだか分からないけど分かった。これは夜乃からのものだ、と。MP3データを再生する。聴き馴染みのあるイントロが流れ出す。夜空の星々を思わせるピアノの高速パッセージ。不安を纏うような低音パート。不安や哀しみを背負いながらでも突き進むとやがて聴こえてくるのは希望のメロディ。一筋の光そのものだ。何回も聴いた曲。夜乃が僕のために作ったと教えてくれた曲。曲名は『アオが名付ける歌』となっていた。


『ボクのネーミングセンスの無さを舐めないでよね。じゃあアオがなんか名前付けてよ』


夜乃の言葉が脳裏をよぎる。そうだ。この曲は僕が名前を考えるんだった。この曲に最後に命を吹き込んで形を形成するのは僕の役目だ。

何度も何度もこの曲に救われてきた。自由を奏でるピアノの旋律が枯れていた涙を再度誘発する。僕を奮い立たせてくれるのは間違いなくいつも君の音だ。僕はこの音が大好きなんだ。この音より綺麗な音を僕はやっぱり知らない。死んでしまったらもう二度とこの音を聴くことが出来なくなる。そんなのは絶対に嫌だ。それに僕はまだこの音楽に乗せてちゃんと踊っていない。何回も動画を見たから動きは完全に覚えている。でも今1人でこの場で踊っても意味がない。たとえその瞬間に手足が動かなくなっても呼吸が出来なくなったとしても、僕はステージで皆の前で踊りたい。いや、踊らなくてはいけない。だって、そういう約束だから。


『いつか必ずアオがステージで踊るところ、見せてね』


未練が出来た。僕はまだ死ねない。いや、もう死ねない。君が残してくれたものを僕は守り続けなければいけない。君が生きた証を他の誰でもなく僕が証明し続けたい。この音が生き続ける限り、君はいつまでも生き続けるんだ。

すごい。すごいよ、君は。こんなにも冷たくなった心を温めてくれる。僕の生きる意味を見失った手を引いて人生のレールを先導してくれる。君の不在を受け入れられたわけじゃない。今だってマシンガンで撃たれたように無数の穴が空いた心がこんなにも痛い。叫んで叫んで叫び続けている。会いたい、と。それでも鳴り続ける夜空に向かって離昇する音が確かに僕の胸を打っている。それはまるで地上から君の元へ還っていくように空へと舞い上がる音の鳥。そこから見ていてね。君の音楽に合わせて、ステージで踊るから。踊れなくなっても踊り続けるから。君の残してくれたものこそが僕の希望そのものなんだ。


もう1つの添付ファイルを開く。圧縮されたファイルを展開すると現れたのは2つのデータ。1つは何かの3Dモデルが入っているユニティパッケージ。Unityというソフトウェア上で展開するとその中身を見ることが出来る。もうひとつは『操作説明書』と記載されたメモ帳のファイルだった。そのファイルをダブルクリックする。





















【メリークリスマス!よるのサンタからくりすますぷれぜんとだよ!びっくりしたかな?(笑) 中身はね、わたしが作った指輪なんだ!3Dモデル初めてだったからちょっと歪かもしれないけど…。でもその分、心を込めて作ったから!わたしだと思って大切にしてくれると嬉しいな!しかも、お揃いだよ〜!(勝手におそろにしてごめん、嫌だったら言って) これつけて一緒にお出かけしたいんだ!たくさん色んな景色見に行こうね!ではでは、改変よろしくお願いします!これからもずっと傍に居てね!たくさん名前呼んで欲しいなあ…。 夜乃】


















          ♢♢♢


夜乃が居なくなってから1週間が経った。今日は年末のダンスイベント当日だ。大勢で溢れかえっているインスタンス。その中にはtoeLのメンバー4人の姿があった。まもなく始まるイベントの最終受付をしている最中だった。メンバーの顔を見る。皆やる気に満ち溢れている。青斗は目を閉じて、皆に再会した時のことを思い返した。

           ♢


青斗はクリスマスの次の日、toeLのメンバーに会いに行った。夜乃の死はねくたーからすでに2人に伝わっていて、2人とも言葉を失ったようにただ呆然と立ち尽くしていた。年末のイベントも出ない方向ですでに運営に話を通したらしい。青斗は引き下がらなかった。どうしても出たいと言い続けた。誰かが言った。『今さら勝手に戻ってきて勝手なことを言うな』と。そんなことは分かっていた。自分勝手なことをしているのは分かっている。それでも夜乃との約束を果たしたかった。どんな手段を使っても、夜乃の夢を叶えてあげたかった。病気のことを言った。このタイミングでこんな卑怯な手を使う自分をクズだと思った。そしてついに全員に見放されるだろうなと感じた。たとえそうなったとしても1人でステージに上がるまでだと思っていたし、それくらいの覚悟を持って、この3人の前に姿を表したつもりだった。でも帰ってきた反応は青斗が覚悟していたものとは違った。


『アオさんのこと、誤解してました。でもいきなり居なくなって自分もどうしたらいいか分からなかったんです。確かに何も出来ないかもしれないですけど、何か力になれることがあったはずです』


『なんでっ、なんで教えてくれなかったの!!知ってたらあの時、あんな言い方しなかったのに…。そうとも知らずにあたしっ、たくさんアオちゃんを傷付けちゃった…!ごめん、1番辛かったのはアオちゃんのはずなのに…、ごめん、ごめんなさい…』


『あのなぁ、アオ。そんなことで俺らがお前を捨てるわけないだろ。言ってくれなきゃわかんないんだよ。特にお前は隠すのが上手いから。俺たちは仲間だろ。そんな簡単に切れる絆を俺は仲間と呼んでねぇよ。お前の背負っているものをここのみんなで軽くできるようにするのが仲間ってことだよ。お前はどうなんだよ』


恐れていたことは案外現実に起こらなくて、自分が死にたくなるほど悩んでいた事も誰かに言った瞬間にちっぽけなものになることがあるのかもしれない。こんなどうしようもないくらい自分勝手で、人の気持ちも考えずに最低な行動をしてきた僕を受け入れてくれる人達がまだ居るんだ。もう手離したくない。変わるから。こんな自分を変えるから。だからまた一緒に踊ってもいいだろうか。


『ごめんなさい…!怖くて、嫌われたらどうしようって勝手に思い込んで、皆を傷付けた。自分勝手でごめん、本当にごめんなさいっ』


涙はずっと流れ続ける。最近はずっと泣いてばかりだ。湯葉がそっと青斗の頭を撫でた。


『辛かったな、ずっと1人で、誰にも言えずにさ。頑張った。頑張ったよ。よるちゃんのことも、お前が1番しんどいだろ。死にたくなるほどキツいよな。自分勝手なんて人はみんなそうだよ。お前だけじゃない。だからこれからは辛くなるまえに俺らのとこに来いよ。何か力になれないか全力で考えるからさ』


さらに涙が溢れる。首を縦に振って肯定を示すことで精一杯だ。


『年末のイベント、やっぱり出ようぜ。さっきアオが言ってたよるちゃんとの約束、皆で叶えよう。こう見えて俺はDLGのオーナーだからな。顔は広いのよ。主催に直接掛け合ってみるわ』


湯葉の言葉に全員が力強く頷いた。こうしてtoeLの再結成が成された。頭を失った鳥は頭を取り戻した代わりに片翼を失った。その翼はもう二度と生えることはない。でもまだ片翼が残っている。どんなに不格好でも、取り戻した頭でただ空の1点だけを見据えて飛び立てばいい。ただ1人、君だけに向かって飛んでいくから、どうか見守っていてほしい。

君の音楽に乗せて踊る僕らを。


           ♢


「おーい、アオ、受付済ませたか?先に行ってるぞ。しおん行くぞ〜」


湯葉の一言で我に返る。湯葉としおんは受付を済ませていて、グランドピアノの奥の出演者の待機場所に消えていった。慌てて桃葉と一緒に受付をする。受付中、何かに気づいた桃葉が声を上げた。


「そーいえば、青斗。まだ曲名決めてないよね?なにかいいの思いついた?」


「それがまだ…。大切にしすぎて逆に思いつかないんだ。申し訳ない…、よるのちゃんとも約束したのに…」


「ううん、わかるなその気持ち。全然ゆっくりでいいからね、つっきーが作った曲が消えるわけじゃないんだし」


「うん、ありがとう」


受付を終えて、待機場所に向かって歩きながら桃葉と話す。紫色の髪をさらりと靡かせながら歩く彼女はどこか儚げで、でも強く1歩1歩を踏みしめて歩く姿に自然と目が惹き付けられた。その瞳には明確な意思が宿っている。


「あたしさ、青斗と付き合い始めてから楽しそうにするつっきーを見るのが好きだったんだ。どんどん可愛くなっていって、や、前からだけど、つっきーをさらに輝かせてくれたのは青斗だよ。そして青斗が戻ってきてくれたから、今日皆この舞台に立ってる。だから今日は絶対成功させようね。つっきーに届くように。絶対、楽しんでね!って言ってる気がするんだ」


「うん、そうだね」


「つっきーの隣で友達としていられたことがあたしの人生の最大の誇り!」


少しだけ前を歩いていた桃葉が振り返る。笑顔で笑う彼女は眩しかった。


「ありがとう、ももは。きっとよるのちゃんも喜んでるよ」


そう言って左手を空にかざした。薬指に付けた指輪は夜空に散りばめられた星々に負けずに輝いていた。そこからこの輝きが見えているだろうか。


「えっ、指輪!気が付かなかった!」


「よるのちゃんが作ってくれたんだ。いいでしょ」


「えーー!いいなーーー!あたしも欲しいんだけど!!ちょうだい!いいでしょ、友達でしょ!」


「ダメです〜。これはよるのちゃんが僕に作ってくれたものだからね。しかもお揃いなんだ〜!」


羨ましそうに見てくる桃葉の姿が可笑しくて自然と笑顔が零れた。笑ったのなんて久しぶりだ。桃葉には人を笑顔にする力があるのだと、いつか夜乃は教えてくれた。ほんとうに、その通りだ。


「ももはに聞きたいことがあるんだ」


「ん、なぁに?」


VR仲間から友達へと変わった紫色の彼女を真っ直ぐ見つめる。


「あの時、よるのちゃんは最後に本当の名前を教えてくれたんだ。でも、聞き取れなかった。うすうす勘づいてた。『夜乃』が本名じゃないってこと。そしておおよその検討はついてる。もしかしたらそうかもしれない、って思っている名前がある。でも確証がないんだ。僕はその名前を知りたい。僕の大切な人の大切な友達から、もう一度その名前を聞きたいんだ」


桃葉はその場で考え込むような素振りを見せた。その顔が少し翳る。


「そっか…。青斗知らなかったんだ。本人から直接聞きたかったよね…」


「そんなことないって言ったら嘘になるけど、でもよるのちゃんの親友で僕の友達のももはから聞けるならこんなに嬉しいことはないよ」


そう言うと桃葉はまた少し泣きそうな顔になる。もう居ない人の名前を呼ぶのは辛いことだ。それでもどうしても聞きたかった。


「ごめん、辛い思いさせて」


「ううん、違うの。青斗にそういう風に言ってもらえて嬉しいよ。青斗のことを思ったらなんか悲しくなっちゃって。じゃあ言うね。まあほぼあたしがいつも言ってるようなもんだけどね」


桃葉は目を閉じた。深呼吸した後ゆっくりと目を開けてその名前を口にする。


つきちゃん、だよ。原田月ちゃん」


あぁ、やっぱりそうか。そうだったんだ。ずっと確信が持てなかった。でも、心のどこかではもしかしたらそうなのかもしれないと淡い期待を抱いていた。夜乃の転生の話を聞いた辺りからその思いはさらに強くなった。当然本人に直接聞くことはできなかったし、以前の記憶を掘り起こして尋ねるなど禁忌だ。でも僕はずっとずっと探していたんだ。あなたの音を。いや、あなたそのものを。初めて聴いたときから心を掴んで離さなかったあなたの音が大好きだった。

初めて君に会った時、僕が黄金の世界で聴いた音によく似た音を君は奏でていた。もう出会えないと諦めていたその音を聴けて震えるほど嬉しかったのを今でも覚えている。それからは君ばかりを追っていた。あなたの面影を見ることは減っていったけど、いつしかそれが君と完全に重なっていったんだ。でもそれは必然だった。夜空に輝く天体の名前とその天体を輝かせる時間の名前。『夜』は2つで1つだ。僕が探していたのは初めからたった1人だった。


初めから、僕はあなたの音を奏でる君が好きだったんだ。

君に出逢うずっと前から、僕はあなたに恋をしていたんだ。




「ありがと、ももは。曲名、今決めた」


「えっ、今ので?!なんで?!教えてよ!」


「だめ。まだ内緒。ほらそろそろはじまるよ!行こ!」


「えーっ!気になるじゃん〜っ!」


駆け出した身体はいつもより軽い。

それじゃあ、行ってくるよ。

夜空に輝く月明かりの真下へ。



          ♢♢♢


前奏が鳴り始める。

君が作った曲。

この音を聴けば何度でも立ち上がれるんだ。

左手の指輪を撫でた。

メンバー全員と顔を合わせる。

ここからは会話はない。でも心で対話する。

全員が楽しむ準備が出来ている。

あとはこの音に乗るだけだ。

全員とハイタッチをした後、ステージに一斉に躍り出た。

その瞬間、主旋律のピアノの音色が夜空に向かって流れ出した。

自由を謳いながら飛び立つ鳥のように。

ステージの前には熱狂した観客たち。

僕らのダンスに合わせてリズムを取っている。

その熱に絆されてさらに身体の動きが加速する。

決められたルーティーンで魅せる動きが見る人を次々と虜にしていく。

toeLならではのダンスパフォーマンスに圧倒された人達がまた1人と堕ちていく。

その魅力から誰もが目を離せない。

でも、今日はたくさんの人に僕達のダンスを見てもらいたいわけじゃないんだ。

僕はたった1人の観客のために踊っているよ。

ズルいよね。知ってる。

僕は卑怯なんだよ。

こんな大掛かりな場所まで借りてやることじゃない。

でもいいんだ。僕は自分勝手だから。

この場所で、君と初めて出逢った場所でイベントが開催出来たのも僕のわがままなんだよ。

ここでやりたかったんだ。

まだ、君の温もりを感じるこの場所で。

ねぇ、君に届いているかな。

僕は今踊っているよ。

大好きな君の音に合わせて、どこまでも軽い身体を動かして、夜空を舞っているよ。

自分で言うのもあれだけど、ちゃんと踊れていると思うんだ。

君の音楽に乗っているから当然だよね。

君が好きだと言ってくれた僕のダンス。

今、君からはどんな風に見えているのかな。

君から貰った指輪、似合っているかな。

おかしいよね、まだこの夜の世界に君がいる気がするんだよ。

こうやって問いかければ、返事が帰ってくる気がするんだ。

そんなはずはないのにね。

こうやって手を伸ばせばまだ君に触れられる気がしているんだ。

ただ手をひたすら前に伸ばせば。





「やっぱりすごいね、青斗のダンス」





伸ばした手の先には月の姿があった。


初めて黄金の世界で出会った黒髪の女性の姿にも見えたし、良く知ってる白髪の少年の姿にも見えた。その身体は淡く青色に光っている。

結局はただの偶像に過ぎない、月の皮を被ったデータの塊を眺めてるだけで月とは呼べないのかもしれない。


時が止まった。聴こえていたはずの音も、後ろで踊っているメンバーも、目の前の観客も全て止まっている。目の前の発光している彼女の姿しかもう見えない。確かに今、目の前に居る。

会いたくてたまらなかった人が。


「ん?どうしたの青斗?」


ああ、これは僕の作り出した幻想だ。だって、僕が知ってる君は僕を青斗とは呼ばない。僕が望んだ未来。生きていたらそうなるはずだった未来の形。

現実じゃない。

何もかも。


でもそれは確かに「現実」として存在した時間だった。

時が止まった世界で2人だけの確かな時間が流れていた。

ただただ目が離せなかった。

淡く光る月に僕は見惚れていたんだ。

まやかしでも構わない。たとえ束の間の幻想だったとしても、頭がおかしくなったと思われてもいい。目の前でその声を聞けるなんて思わなかったんだ。


もう一度話せるなら。君ともう一度話せるならこれ以上のことはないよ。


「泣いているの?」


「泣いてない。嬉しいんだ。また君に会えて」


「青斗のダンスは泣いていたよ?誰かの悲しみを代わりに引き受けて泣いているみたいだった。そんなの、くるしいよ」


「僕は君が悲しんでいたら悲しいんだ。だから君が笑って幸せになってくれるなら、いくらでもその悲しみをもらうよ。たとえその悲しみの重さで潰れてしまうのだとしても」


「やさしいね、青斗は。だからわたし、今こんなに清々しいのかな」


「それならいいんだ。ずっと大好きだった君にそう言って貰えるなら安いもんだよ」


「わたしも最初から好きだったよ」


「僕はもっと前から。初めて君の音楽を黄金の世界で聴いた時から好きなんだ」


「そっか、あの時聴いてくれてたんだ。なんか恥ずかしいな。あの後自分の才能のなさに打ちのめされたんだよね」


「僕はそれでも君と君の音が好きだよ。今でもずっと好きなんだ」


「ありがとう。ねぇ、青斗」


「なに?」


「わたし、やっぱり青斗にも幸せになってもらわないと嫌だな」


「そんなこと言われても、君の居ない世界で上手く息が出来る気がしないよ」


「それでも、だよ。今、青斗と話しているわたしは青斗の想像だけど、きっともうすぐやって来ると思うんだ」


「誰が…?」


「ん?わたしが。青斗がいる場所に真っ直ぐ向かって来るはずだよ。たとえ青斗が何処にいても」


「どういうこと?ごめん、よく分からない」


「んー、説明が難しいなあ。えっとね、つまり…。あ…ごめん、もう時間みたい。身体が消えそう」


「待って…!まだたくさん話したいんだ!どういうことか教えてよ!」


「ごめん、時間切れっぽい…。でも青斗と話せて良かった。さっき言ってた言葉の意味はきっとすぐにわかるよ」


「わかった。信じて待ってみる。あと、僕も君と話せて嬉しかった…!また君の声が聴けて嬉しかったよ!ねえ、また会えるかな!ねえ!」


「会えるよ。だってずっと傍にいるもん」


ふふ、と微笑んで黒髪の女性は僕に背を向ける。その背中に向かって手を伸ばす。女性はもう少しで消えそうなくらい薄くなっている。


あのときは伸ばした手を、どうしたんだっけ。

思い出せない。

たしか、何かを叫ぼうと思った。

固まった右手を必死に伸ばして、滲む視界の中動かずに佇む月、君に向かってただ何かを。


「『アオ』、ずっと傍にいるよ」


そう言って、彼女は目の前から消えた。

世界の狭間に取り残される。


そうだ。

まだその名を口にしていない。

でも今なら言える。だって僕は君の名前を知っている。ずっとずっと呼びたかった大切な名前を。


「僕は、君が好きなんだ。つきちゃん」


空白を埋めるようにそっと呟いた。

時が止まった世界が動き出そうとしている。何となくわかる。もうこの空間には居られないことが理解できる。


「いつまでも一緒だよ」


音がうっすらと鳴り始める。幻想の時間の終わりがやってくる。


「つきちゃん」


誰も居ない空間に左手を差し出した。ふわりとその手に温もりを感じた。

あと少し、もう少しだけ踊るから。傍で見ていて欲しい。1番の特等席で。


「行こう、つきちゃん」



幸せを願う鈴の音が聴こえた。





気がつけばまた踊っている。永遠のような一瞬を過ごしたあの時間は夢だったのだろうか。

そうだ、あれは僕が作り出した幻。この世界のものじゃない。それでもまたこの場所で、彼女に会えて良かった。たとえそれが僕の空想だったとしても。


「ねぇっ!青斗っ!それ!」


後ろで踊っていた桃葉が青斗の手を指さしながら言った。曲も終盤に差し掛かっていてハードな動きになっている。踊りながら話すのは相当体力を消耗するだろう。そう思いながら指さされた自らの左手を見た。

薬指につけた指輪が青く発光している。

小さな光だったそれは指輪を抜け出して、大きな輪になって青斗を一気に包み込んだ。青色の光の輪はよく見ると小さな星々が泳いでいて、まるで夜空が青斗を包んでいるみたいだった。

青斗の動きに光も追従する。青斗が高くステップを踏めば、光も高く舞い上がって大きな夜のカーテンを作った。片時もその傍を離れずに。

観客からは歓声が漏れた。演出やば、という声が聞こえた。でも知らない。なんで指輪が急に光ったのかも、自分を包み込んでいるのかも。まさか、本当にあの一瞬で見た月の姿は本物だったのだろうか。


「つきちゃん、なの…?」


その言葉に反応して、光は一際強く発光する。

これは、この指輪に仕込まれたものだ。特定のワードに反応してパーティクルを出すギミック。聞いたことはあった。この指輪にそんなものが仕込まれていたなんて気が付かなかった。トリガーはすぐに分かった。君の名前だ。名前を呼ぶ度に嬉しそうに光る青の光が愛しかった。月がまるでそこに居るようだった。

いや、居るんだろう、そこに。

だって君は言っていたから。

ずっと傍に居ると。


泣きながら笑った。

笑いながら踊った。

踊りながら泣いた。

感情は分からなかった。

でも身体は止まることを知らずに踊り続けた。

月は自分の音楽に才能がないと言った。

それはやっぱり嘘だ。

だってここに居る全員がこの音楽に心を揺さぶられている。

心から音楽を楽しんでいる。

夜空に輝く星々を思わせるような煌めきを帯びたピアノの旋律がいつまでも自由を歌い続けている。

ずっとこうしたかった。

月の音楽に乗せて、月と一緒に踊りたかった。

つきちゃん、この曲名やっと決めたんだ。

ブルームーンダンスっていうのはどうかな。

この曲は君が僕に作ってくれた曲。

僕はこの曲があればいつまでも踊り続けられるんだ。本当だよ。

身体が軽くて止まる気配がないんだ。

君の音で、僕の身体に生命が宿るんだ。

これは僕と君の歌。

青斗と月のダンスチューン。

ねえ、つきちゃん。

君の分まで生きて、生きて、生き抜くから。

ずっと一緒にいるから。

僕がたとえ死んでも一緒にいるから。

何度でも名前を呼ぶから。

だからこれからも僕と一緒に踊ってよ。



月光の下で青色の光を纏いながら舞う猫耳少女の姿はただひたすらに美しかった。



          ♢♢♢


VRChatのダンスグループと言われたら何を思い浮かべるか。その問いに皆が口を揃えて云う。「toeL」のパフォーマンスは凄い、と。

知り尽くされた「魅せる」という動き。個人個人のレベルが高いのはもちろんのこと、その魅力の真価はメンバー全員が揃ったときに発揮される。息の合ったキレのある動き。一糸乱れぬ完璧なパフォーマンス。見る人全員が一瞬でその魅力に取り憑かれる。そしてその中心で青い夜と共に飛び跳ねる猫耳少女の絶対的なまでの美しさに誰しもが目を奪われた。toeLが出演するイベントはすぐにインスタンスの定員がフルになり、殆どの人は配信用のインスタンスかYouTubeのアーカイブで見ることしかできなかった。運良く目の前で見ることが出来た人たちは皆呼吸すら忘れてそのパフォーマンスを目に焼き付け、奇跡的な時間を楽しんだ。メタバースにおけるダンスパフォーマンス集団という先駆け的な存在はのちにメディアにも認知され、いつしかテレビでその姿を見る機会も増えていった。そんなtoeLが忙しいスケジュールの合間を縫って単独イベントを実施する時がある。日にちと曜日は不定期、ただ場所と時間はいつも決まっていた。VRChat内のオーロラが美しい夜の世界。白いグランドピアノが月光を飲み込んで艶やかに鎮座するその場所で、夜空の月が最も輝く午前0時から決まってイベントが開かれた。その夜の世界はtoeLがイベントを行っていない時もtoeLのファンが聖地巡礼のように訪れたり、オーロラや月光に魅了された人々が写真を撮りに足を運んで賑わいが衰えることはなかった。そして今日ももうすぐそこでイベントが開かれる。観客たちが今か今かとtoeLの登場を待っている。ステージ裏には4人のメンバーの姿があった。


「おい、アオ!準備まだ終わらないのか?」


「ちょっとトラッカーの調子が…」


「ねえ、始まっちゃうよ!急いで青斗!」


「自分、繋ぎでなんかやってきましょうか?」


「頼もしいねぇしおん。でもダメだ。今日は特にハードプログラムなんだから、体力残しておけ」


「ですね…。アオさん、どうですか?」


「お、ちゃんと反応した!おっけ!行けるよ!」


「よーし、じゃあ今日もがんばろっ!急いで急いで〜っ!」


ステージ裏に並ぶ4人の姿。鳴り始めた音楽に観客のボルテージが上がる。熱狂の渦が「toeL」を待っている。猫耳を付けた少女が呟いた。


「今日もよろしくね、つきちゃん」


その瞬間、輝く青色の光がひらひらと舞って少女を優しく包み込む。どこまでも淡く柔らかい光が夜空と溶け合って、toeL全員を暖かく見守った。全員が顔を見合わせて笑顔になった。今日も楽しもう、と誰かが言って全員が力強く頷いた。横並びのままステージに向かって駆け出していく。左足のチャームが同時に鳴って、イベントの始まりを告げた。5全員が高く高く舞い上がってステージに飛び込んだ。


「行こう!チーム『toeL』!」



月の声が聴こえた気がした。





                    [完]

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Blue Moon Dance ぱむ @yolu39

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