第10話 エピローグ

あれから17年が経った。

 ミカとクウが出会った時のように、あの河原に初夏が訪れていた。空は眩しく輝き、気の早いツバメがその声を誇るように鳴いていた。

 草で覆われた土手に、痩せた若者が一人、膝を抱えて座り込んでいた。歳は18歳くらいであろうか。身なりはそれなりにキチンとしていたが、目は虚ろで、髪は乱雑に伸び、顔には生気がまるでなかった。

 彼は川の水面を眺めるでもなく、ただうつむいていたが、やがて深いため息をすると草の上に寝転んだ。そして、しばらく空をながめていた。

「何してんの?」

 彼の目の前に女の顔が突然現れた。彼は驚いて飛び起きた。

「わぁ!びっくりした。おばさん、誰?」

「おばさんって何よ。私はただの通りすがりの旅人よ。あなたが今にも死にそうな顔をしていたから気になって」

 突然現れた女はミカであった。彼女は35歳になっていた。短いオカッパ頭に、ヨレヨレのTシャツと裾がゆるやかに膨らんだロングパンツを身に付け、裸足にサンダル履きという恰好だった。そして、背中には大荷物を背負っていた。つまり、ベテランのバックパッカーさながらだった。

 実際に今の彼女は世界中を渡り歩く旅人だった。彼女はちょうど故郷に帰っていたところだった。

 クウが天に召された後、彼女は決心した。他の誰でもない自分の人生を生きることを。そして、彼女は両親に自分の思いをぶつけた。大学には進まず、まだ見ぬ世界を巡り歩きたいと。

 彼女にとって、初めてとも言っていい大きなわがままだった。わが子の思いがけない主張に、始めは反対していた両親もついには折れた。

 それから、彼女は自分で資金を貯め、長い旅に出た。彼女は様々な場所を巡った。北米、南米、東南アジア、ヨーロッパ…。中でも彼女が運命の地だと感じたのはインドだった。彼女はそこを初めて訪れた気がしなかった。まるで本当の故郷に帰ってきた気さえした。彼女は現地で日本人向けのツアーガイドの仕事を見つけ、インド各地を放浪した。近代的なビルが立ち並ぶ都会も、トラが出るような片田舎も。そして、気が付けば、日本を出て15年以上が経っていた。彼女は急に故郷の川が恋しくなり、この場所に来ていたのだった。

「ベラナシのガンジス河もいいけど、やっぱりこの川よね。“私の原点”って感じ」と若者のとなりに座ってミカは言った。

「この川がどうしたっていうんだ」と若者は言った。

「ところで」とミカが言った。「なんか悩んでるの?」

「悪いけど、あんたには関係ないよ」と若者は言った。

「まあ、そう言わずに話してみてよ。少しは楽になるかもよ」とミカは言った。

「もう僕は終わりだ。生きている意味なんてない」

「一体どうしたの?」

「大学に一つも受からなかった。国立も私立も全滅。現役で医学部に合格することが、お父さんとお母さんとの夢だったのに…。小学生の頃から、いろんなことを我慢して勉強してきたのに…。すべては無駄だった。こんな頭の悪い自分に愛想が尽きた。情けない…。もう、生き恥をさらしているより、いっそうのこと、死んだ方がましさ」

しばしの沈黙の後、ミカが口を開いた。

「おめでとう」

「えっ」

「だから、おめでとう」

「…何がめでたいの?人が不幸の渦中にいるというのに」

「あなたはすべてを失ってゼロに戻ったのよ。こんなにめでたいことってないじゃない?」

「…ゼロに戻った?」

「そう。人間はゼロに戻らないと、新しい生き方ができないの。あなたは今、それができる。これからは誰のためでもない。自分のために生きることができるのよ。こんな幸運めったにないと思わない?」

 ミカの突然の言葉に、若者は茫然としていた。

 そして、ミカは続けた。

「ところで、あなた、本当は何がしたかったわけ?」

「何がしたかったって?そんな、急に言われても分からないよ」

「それじゃ、“自分自身の真の姿を知る”っていうのは、どう?」

「自分の本当の姿?」

「そう、本当の自分を知ることは、すべてを知ることよ」

「…なんだか、面白そうだね」

若者はかすかに笑みを浮かべた。

「でもどうしたらいいんだろう?何か哲学の本でも読んだらいいんだろうか?」

「それもいいと思う。大事なのは愛と真理を求め続けることよ。そうすれば、あなた自身の心の声が導いてくれる」

 ミカは大きなリュックサックの中から、端が折れ曲がった名刺を若者に差し出した。名刺には、彼女のインドでの住まいの住所が書いてあった。

「何か聞きたいことがあったら、手紙をくれる?郵便は定期的に帰って必ずチェックするようにしてるからさ」とミカは言った。

 若者は小さくうなずいて、彼女から名刺を受け取った。

「じゃ、私は行くね」

 ミカは立ち上がり、若者のいるところを後にしようとした。

「ねぇ、お姉さん」と若者は大きな声でミカに言った。「これからどこへ行くの?」

「地の果てまでよ」とミカは振り返って答えた。

「地の果て?」

「そう。約束なの、私の先生との。ブッダになって死ぬまで教え続けるの」

 そう言ってミカは河原を後にした。

 若者はいつまでも、小さくなってゆくミカの後ろ姿を見ていた。




本作品は小宮光二氏の著作とYoutube動画より着想を得た。小宮氏には心より謝辞を申し上げたい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

女子高生と悟った猫 Rico @Rico_Avalokitesvara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ