第10話 山本家と初夏の予感

 僕は薄ぼんやりとした苛立ちのままに叫んだ。

1秒にも満たない短時間のうちに僕の声だけが響いて、テレビの音は依然として流れているはずなのに、やけに静まり返った。

キツい言い方をして傷つけてしまった、というよりも、僕はこの期におよんで保身を考えてしまった。「怒られる」と。


 父さんはというとあんぐりとこちらを凝視している。リビングの隅に立ちすくんだ僕は、肉食動物に狙われたように身動きが取れずにいた。

 やがて父さんは、ソファを大きくきしませながら立ち上がった。怒鳴り声より先に手を出されるような気がして、無意識に何歩か後ずさりした。


 だけど父さんは、そのまま自分の部屋へと戻っていってしまった。何も言いもせず、ましてや叩いたりもしないまま。

 ひとり取り残された僕は、怒られるかもしれないという緊迫感から解放されてか、ポーズを解除したゲームのごとく再開された生理痛にもだえた。コップに水を注いで、痛み止めを喉の奥へ流し込んだ。


 ちょうどそのタイミングで、廊下のほうからガチャリと開閉された音が聞こえてきて、飲んだ水が一瞬、おかしなところへいきそうになった。父さんが部屋から出てきた音だったからだ。

「お父さん?」

 キッチンから廊下へ体を傾けて声をかけるも、父さんは大きなリュックを持って、とうとう玄関を出るまで背中しか見せなかった。

正直なところ、とは思ったが……

 だけど今回に限っては、そうやって他人事のように肩をすくめる立場でもない。父さんを不機嫌にしたのは他でもない、僕のしわざなのだから。


 父さんがいなくなり、まるで普段通りの時間がしばらく流れた。ひとりのままだ。

薬が効いて、19時。そろそろ帰ってくる時間だ。

……ほら、鍵の音が聞こえてきた。

「ただいまー。いやぁ、暑いねぇ」

「おかえり」

「何しよった?」

「……いっつも通りよ。ゲームしよった」

 今日は買い物をしたらしく、本マグロのように大きなバッグをズサリと玄関に下ろしたのを見て、僕はテーブルまで運んでいく。


「ねぇゆうくん」

「何?」

「お父さんのことやけどよー?」

 買い物袋の中身を選別していた手が止まった。さっそくピンポイントでその話題を出すか?

「うん?」

「なんかお父さん、電話しても出んがよね。今どこおる〜って送っても、全然既読つかんが! お父さんの帰り道やったら、あそこのスーパー近いやろって思って。いろいろ安いみたいやき、買うてきてもらおうと思うたんやけど」


ふすまをピシャリと開け放ったお母さんは、息子の視線などお構いなしに服を脱ぎ散らかしながらお父さんのことをツラツラと話している。お母さんは和室が落ち着くらしいが、あんなに散らかっていると落ち着くのも難しい気もする。

「そうなんやね」

「なんかあったがやろうか?」

「いや、大丈夫やない? ほら、父さんってよく、ひとりでどっか行って何日も帰ってこんなったりするし……」

東京こっちに来てからそういうの減ったよ? もしかしてお父さん、またひとりでどっか行った?」

「……うん」


 僕が原因で出て行ったことは、まぁ、白状するものとする。

「なんで? そもそもお父さん帰ってきてたん?」

「そう、なんかいっつもより早く帰ってきてよ。そんで、帰ってくるなり学校のこととかしつこく聞いてきて、イラッとしたき思わずキツい態度とってしもうたんや。そしたら、なんも言わんと出て行った」


 正直に話すと、お母さんはお父さんに同情するでも、このような結果を招いた僕を叱るでもなく、「ふーん」と素っ気ない反応を見せた。

「ゆうくんに怒って出て行くのは珍しいね。まぁでも、確かにお父さんうるさいきねぇ。不機嫌なまんま家におられるより、一時いっときでもどっか行ってくれたほうが楽やわ!」


 お母さんは、だいたい明るい。

目の前で見せるこの明るさを信じていいものかよく分からないけれど、「ゆうくんも飲む?」と言われて、冷たいコーヒーを欲したあたりで深い考えをやめてしまった。


◉ ◉ ◉


 翌日になってもお父さんの姿は家になく、今日こそはと薬を忘れずに登校した。

 痛みはやわらぎこそするものの、相変わらず血が出る感覚には慣れない。というか、もしかしたら尻や太ももから血がはみ出すのではないかという不安が大きい。……やはり、タンポンというやつを検討してみようか?

人生初の生理用品ということで、なんとなく王道というイメージのナプキンを選んだわけだけど。

 タンポンか……言うまでもなく、というか言っていいかどうかも怪しいけれど、使い方としては、その……あれだよな?


「ユウちゃん何見てんの?」

「うおっぷす!?」

 目の前でしゃがんだ来寿が日の出のように机から出てきたものだから、思わずスマホを胸元に抱き寄せた。


「その反応……ま〜たイヤらしいもん見てんのか!」

「違うよ! てか『また』ってなんだよ」

「はっは! あ、そういやユウちゃんさぁ、もう水着用意した?」

「……えっ? 水着?」

「そう、水着」


 会話をするうえで、来寿の脈絡のなさには耐性がついていたつもりだったが、このときの僕は嫌な予感にまみれた。せめてこの「水着」が夏休みか何かの話であってほしいと思いながら、おそるおそるの声色をおさえて聞き返してみた。


「なんで水着?」

「聞いてなかったのかよ。明後日からプール開きだって先生言ってたじゃん!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不本意ながらも女の子 膝関節パキオ @Hizakansetsu_Pakio

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画