第2話

両親から虐待を受けても、子供はそれが恥ずかしいので、周りには内緒にする。嫌で逃げ出したくても、家族しか居場所がない。じゅんこは、幼少期からそんな境遇の中で姉と一緒に成長した。大きくなると、更に精神的に追い詰められることになった。


第2回目の告白

成人した後は、日常の暴力だけでなく、父親からは、「お前はこの家には要らない。電気、ガス、水道は一切使うな。お前宛の郵便物は、破って捨ててやる。」って、言葉の暴力も加わって、更に精神的に追い詰められました。言葉だけでなく、私宛郵便物の届け先を勝手に父親の仕事場に代えられて、宅建の試験の合格通知も私の所に届かず。後で父親の会社の従業員から、「社長だけど、やっぱりじゅんちゃんの父親って変だね。宅建の合格通知が、作業台の上にポンって放り投げてあったよ。僕なら、子供の合格通知は嬉しいし、1秒でも早く子供に伝えたいけどね。」って、直接連絡が来ました。彼がいなければ、私は合格通知が来ないので不合格だと思っていたでしょう。

母親は、父親以上に異常な性格。中学1年生の時に、急に母親に児童相談所に連れていかれ、「お前は、これからは毎週土曜日にここに通うように。いいな、分かったな。」と、命令されました。成人したあと姉から、「そういえば、じゅんちゃんは、なんで中学生の時に児童相談所に通っていたの?」って聞かれたけど、私は、「なんでかよく分からないけど、行けって強く言われたので。」としか返事できなかった。母親に聞いたら、「お前のノートに、死にたいって書いてあったから、児童相談所に連れて行った。」だって。自分たちの暴力や暴言、それに無言の圧力が嫌で死にたいって書いたのに、自分たちの責任は無視。学校でいじめにあっているって、児童相談所に相談したらしい。だから、その後も両親の態度は変わることは無かった。働き始めてからは、仕事が少なくなり稼ぎの減った両親のために出稼ぎをしている娘って、言われていた。私のためには、1円もお金を使いたくなかったみたい。

眼底出血を起こすほど父親に殴られたのは、中学1年生の時。痛いっていうと更に殴られるので、我慢して学校に行き友達と話していたら、友達が私の白目に血の塊を見つけて先生に報告。先生から「何があったの?」と聞かれたので、「朝食の時に父親に殴られました。」と答えたら、それから大騒ぎになりました。友達の一人が、「私、お父さんにぶたれたこと、一度もない。」って言ったので、日常的な暴力が当たり前になっていた私はビックリ。そんな優しい父親なんて、テレビドラマの中だけだと思っていたから。その後、保健室で確認してもらい、そのまま病院に直行。医師と先生からの指示で両親が嫌々病院にやってきたけど、医師から「この子が何をやったのでお父さんが殴ったのか、その理由は知りませんが、もう少しズレていたらじゅんこちゃんは失明していました。これは犯罪ですよ。」と言われて、医師の前で小さくなっていたのを、今でもはっきり覚えています。でもその時の私は、失明して父親が警察に捕まるなら、失明しても構わないと思っていました。

もう一つはっきり覚えているのは、小学校3年生の時。テストで少し悪い成績を取ったら、父親から「勉強がもっとできるようにしてやる。」と言われて、正座して延ばした右腕の握り拳の上に、もぐさを置かれて火を付けられた。熱いし、痛いし、振り払ったら父親に殴られるし、必死に燃え尽きるまで我慢していました。その時のお灸の後は、今でも手の甲にうっすら残っています。その頃の両親の思い出は、辛い事ばかり。楽しい思い出は、一つもありません。自転車の練習なんて何もさせてくれなかったのに、ある日、「お前は自転車にも乗れないのか。」と怒鳴られて、殴られた。どこかで、ヤクザの娘はめちゃくちゃ可愛がられるって聞いたので、“父親がヤクザだったらよかったのに”って思っていました。

私の小さい頃の夢は、いつか施設に入ることでした。保育園に通っている頃、父親に「俺の知り合いに子供がいなくて欲しがっている奴がいる。じゅんこはそいつにやろうと思っている。」と言われた。心の中では、“絶対に行きたい!!”って思ったけど、それを口に出すと殴られるので、小さな声で「行きたくない。」って答えました。

両親ほどではないけれど、姉にも虐められました。ある日、風呂上がりの姉が水を飲もうとして茶碗を割りました。風呂場から父親が「どうした?」と大声で聞いたので、姉は「じゅんこが茶碗を割った。」と、震えながら嘘を言った。それで、風呂から出てきた両親に、私は無言で殴られた上に、裸のまま柱に縛り付けられました。そのまま翌朝まで。近所のおばあちゃんが、縛られてぐったりしている私を見つけて、助けてくれたらしい。私が、4か5歳の頃の話。でもこの話は、私は、縛られたこと以外よく覚えていない。大きくなってから、姉から理由を聞きました。カウンセラーに話したら、「人間は、辛かった過去は忘れるんですよ。」だって。でも、それは間違っている。小さかったし、私の責任じゃあなかったから覚えていないだけ。辛かった過去は、今でも全部覚えています。

その頃は、父方の祖母も一緒に住んでいました。この祖母が、また意地が悪かった。昼間は両親がいないので、小学校から帰ると、祖母から毎日50円を小遣いでもらっていたのだけど、ある日80円のアイスが食べたくてねだったら、嫌な顔をして、仕事から帰ってきた母親に「じゅんこは泥棒に育てているのか。」と告げ口。当然、母親からは往復ビンタ。

学期末の成績表は、父親が帰宅したときに、正座して前に拡げておくことになっていました。両親からの虐待で精神的に不安定になっていたので、当然成績はあまり良くない。ちらっと成績表を見た父親は、無言で身体が吹っ飛ぶくらいの強さで殴ってきました。そのまま数時間、説教と殴る蹴るの繰り返し。一番長い時は、5時間ぐらい。

高校2年生のある夜、病院にいた父親から、「おばあちゃんが死んだから、これから連れて帰る。用意しておけ。」って連絡が来ました。でも、何を用意したらいいか分からないので寝ていたら、帰ってきた父親が大声で怒鳴ってきました。また殴られるって思ったけど、親戚も一緒にいたので助かった。火葬場では、無理してでも泣かないと殴られると思い、心では笑っていたけどウソ泣き。祖母が死んだことは、私の楽しい思い出になりました。

一柳展也が金属バットで両親を殺害したのは、私が中学2年生の時。“そうか、自殺するより、親を殺す方が楽なんだ。”って、自殺以外の選択肢ができたことを覚えています。でも、一柳家と違って、両親は同じ部屋で寝ているし、祖母も一緒に殺さなければならない。だけど家には、木製バットだけで金属バットはない。そんなことで迷っている間に、殺しそびれてしまいました。

小田原に逃げる前に、仲の良かった友達数人に、両親の虐待について話したのだけど、全員が同じ反応。「じゅんこの人生って、親にメチャクチャにされたね。」「もし、じゅんこが男だったら、とっくに両親を殺しているね。」って、全員が同じことを言っていた。小田原に移ってから通うようになった精神科の臨床心理士も、話を聞いた後は両親にブチ切れて、「児童相談所や警察に相談できなかったの?今まで、良く生きてこられたね。」と、しみじみ言われました。そして、「じゅんこさんは“サバイバー”だね。」とも。私は幼いころから読書が趣味だったので、サバイバーが、“苦難や辛苦の中で生き延びたもの”と言う意味だという事は知っていた。だから、“確かにわたしはサバイバーだな”って確信しました。その頃付き合った彼にも、「よく生き延びたなあ。」と感心される始末。

一番強烈に覚えているのは、実は自分の事ではなくて、父が姉を虐待したこと。姉が高校生の時、生理痛がひどくて学校を休んで寝ていると、それを聞いた父親が姉の部屋に行って、苦しんでいる姉の腹部を思い切り蹴り上げた。そして痛みにうずくまる姉に、「それくらいの事で学校を休むな!」と怒鳴りつけて、姉を無理やり家から追い出しました。姉は、おなかを抑えながら黙って学校に向かいました。それを横で見ていた私は、自分への虐待と同じように感じて、ただただ震えていました。でも後で苦しんでいた姉を思い出して、なぜか笑ってしまった。いつも姉からも虐められていたので、姉が苦しんでいる姿が嬉しかったのです。

その件があってから、姉の腹部に蹴りを入れた父親とそれを許した母親には、恐怖だけではなく軽蔑の感情も湧いてきました。それから現在まで、両親には、恨み、恐れ、怒り、そして軽蔑の感情しかありません。二人とも、思い切り苦しんで、のたうち回って、そして野垂れ死にすればいいと、いまでも思っています。


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