深夜コンビニ物語

中野半袖

第1話

  不二雄はコンビニのレジカウンターの中に立って、まんじりともせず、時計を睨みつけていた。時刻は午前二時に迫っている。クーラーの効いた店内は涼しいはずなのに、額には玉のような汗が張り付いていた。

 入り口にある自動ドアの両側に線香がそれぞれ一〇本ずつ焚かれている。そのせいで、付近には濃い煙が漂っていた。念の為、外側にも同じように置いてある。それだけでは心配なので、線香と隣合わせになるように盛り塩も置いた。塩は名所から取り寄せた高級品で、一キロ数万円もする。さらにその隣には、近くの神社にある御神木の下で三日三晩清めた清酒をコップ一杯ずつ置き、残りは店をぐるっと一周するように撒いておいた。もちろんこの酒だって、品評会で何度も金賞と取っており、おいそれと簡単に購入できるものではない。さらには、自宅の仏壇から持ってきた御札もある。ご先祖を祀るためのものだが、ご先祖だって霊には違いない。多少の効果はあるかもしれない。しかしやはり、それだけでは心配なので、厄払いで有名な成田山神社まで脚を伸ばし、とびきり強力な御札を貰ってきた。これだけ備えれば、どうにかなるはずだ。

 店内には相変わらず、客の姿は見えない。このまま何も起こらず、二時を迎えられるだろうか。

 しかし、不二雄は嫌な予感を感じた。気がつくと、あれほどまでもうもうとしていた線香の煙が完全に消失してしまっている。匂いだけはかすかに漂っていたが、それもすぐに消えた。それに、さっきから虫の鳴き声が聞こえなくなっていた。こんなに静かな夏の夜は、ちょうど一週間前の夜と同じだった。不二雄はどうしようもない、嫌な考えが頭から離れないまま、時計の針は二時をまわった。

 瞬間、外の闇が厚みを増した気がした。

 どこからか、クーラーとは違う薄ら寒い風が吹いてくる。

 店内の蛍光灯がチカチカと点滅し、一気に消えた。

 不二雄は全身の震えをなんとか抑えようとしているが、その抵抗は虚しく、頭のてっぺんから爪先までガタガタと震えていた。

 背中に真夏とは思えないほどの冷たい汗が一筋、ツーっと流れた。

 再びチカチカと点滅して、蛍光灯が一斉に点灯すると、自動ドアの前に青白い顔をした長い髪の女がうつむいて立っていた。ボサボサの髪を地面につくほど垂らし、薄っぺらい死装束を着ている。女はゆっくりと顔を上げた。

「ぎゃーーーーーーーー」という叫び声が店内中に響いて、女が尻もちをついた。

 不二雄は胸の前で両腕を組みながら、右脚のつま先で貧乏ゆすりをしている。

「なんでいるのよ」女は両目をまん丸にひん剥いて、信じられないというような表情をしている。はだけた死装束から、ほっそりとした両足が見えた。

「あーーー、またかよ」不二雄は舌打ちをすると、レジカウンターの上に突っ伏して頭を抱えた。

 女はよろよろと立ち上がりながら「まったく腰がぬけたじゃない」とか「なんでこんな時間までいるのよ」というようなことをぶつくさ言っている。女は不二雄の前まで来ると、もう一度「なんでいるのよ」と言った。

「なんでじゃねえよ、俺の店だよ」不二雄はそのままの体勢で言った。声は限りなく小さかったが、怒りがこもっている。

「俺の店に俺が居たらだめなのかよ」不二雄は目線を上げて、女を下から睨みつけた。

「だめっていうかなんていうか……。別にあれだけど……。でもどちらかと言えば居ないほうが……」

「モゴモゴ言ってんじゃねえよ。俺が居て困るなら来なけりゃいいだろう」

「だってコンビニだもの。来るに決まってるじゃない。あんたこそ怖いなら来なけりゃいいじゃないの」

「怖くないね」

「嘘だね。こんなに用意しちゃってさ。あーあ、このお塩高いやつじゃないの」

 女は店中に設置された魔除けの類を見渡し、盛り塩を指でひとつまみすると、ぺろりと舐めた。

「俺は怖くないよ。だけどお前が来るとお客さんが怖がって来ないんだよ。お前のせいでこの一週間、夜の客がゼロだ。お昼のお客さんでさえ、だいぶ少なくなっちまった。だから俺は、お前みたいのが二度と出てこないように、くだらねえと思いながらも色々集めたんだよ」

 不二雄は使わなかったピンク岩塩を、女に投げつけた。あぶなっ、と女は言って身体を反ったが、岩塩は女の身体をすり抜けた。

「強がらないでよ。この前あんなに脅かしたんだから、怖くないわけないじゃない」

 不二雄は思わず吹き出した。

「はっ、あれで脅かしたつもりかよ。ええ? 暗がりから出てきて、うらめしや〜ってか。あんなので驚くわけねえだろう。江戸時代かよ」

「な、なーによ。江戸時代の何が悪いのよ。幽霊とか怪談が有名になったのって江戸時代だからね。江戸時代舐めないでよ」女はいつの間にかキセルを吹かしていた。紫煙が店内に広がるが、匂いはしなかった。

「今どきな、そんな脅かし方じゃだれも怖がらねえよ。だいたいお前だってあれだろ、なんか恨みがあってそれで成仏できませんとかだろ。王道すぎるんだよ」

「いいじゃないのよ王道だって。幽霊はシンプルなのが一番怖いって、お岩先輩も言ってたわよ」

「シンプルすぎるんだよ。恨みがあって死んだら、幽霊になりました。それじゃ当たり前っていうか、そんな話腐るほどあるだろ」

「だって幽霊っていったらそれじゃない。じゃあ他にどんなのがあるってのよ」

「最近だと『くねくね』って話は聞いたことあるな。幽霊っていうと微妙だけど」

「なによそれ。く、くねくね? 腰でもくねらしてるわけ? いやらし」今度は女が吹き出した。

 不二雄はくねくねという怪談を簡単に語ってやった。

「こっわ。なにそれ。こわ。気持ちわる。で、そのお兄ちゃんはどうなったのよ」女がカウンターに身を乗り出してきた。

「知らないよ。そこで話は終わりだから」

「なによそれ。そんな話の途中で終わりってあり? なんでそのくねくねってのが出てきたのか、その理由みたいなのは無いの?」

「無いよ」

「なーによそれ。怖い幽霊がいます、でもなんで出てきたかは知りませんって。手抜き? 考えるのめんどくさくなっちゃった?」

「だから、最近の幽霊話とか怪談ってそういうのが流行りなんだって。こういう怖い存在がいて、こういう怖いことが起こります。けど、なんでそれがいるのか、なんでそうなるのかは一切分かりません。ていうのが流行ってんだよ。そうじゃないと、誰も怖がらないんじゃないの」

「そうなの?」

「そうなのって言われても俺は詳しくないけど、たぶん、今は何でも分かる時代だから、逆に何も分からない存在の方が怖いんだと思うよ」

 というと、女は顎に手をあてて、しばらく黙っていた。

「ふーん、私もそうしようかな。幽霊だけど、なんで成仏できないか分かりません。どう、怖い?」

 女はわざとらしく、商品棚の影から顔だけ出して言った。うつむいて、髪の間から片目だけが見える。

「あー全然怖くない。だって見た目がもう、恨み残して死にましたって感じだし」

 不二雄はまじまじと女を見た。ボサボサの髪で気が付かなかったが、年の頃は若いようで、青白い肌も見慣れると透き通るように綺麗だった。開いた胸元につい目が行ってしまう。

 女は不二雄の視線に気がついたようで、慌てて胸元を隠した。

 不二雄は咳払いをしながら言った。

「だからあれだよ、お前、土葬だろ?」

「そうだけど? それがなによ」

「その土葬っていうのがさ、いかにも江戸時代ぽいじゃん。で、江戸時代と言えば恨みを残して死んだ幽霊って感じがするじゃん」

「そんなことを無いわよ。土葬でもちゃんと成仏している人はたくさんいるわけだし。土葬だから恨み残しの幽霊とはならないでしょうよ」

「でも、土葬するとそういう感じになっちゃうじゃん」

 不二雄は、女のボサボサ頭を現すように、両手を使って頭の周りでもこもこと動かした。

「服装とかもさ」

 言われて女は自分の死装束を引っ張りながら見た。ところどころに付いたドロが気になるようで、手ではたいた。ひとしきり終わると女が言った。

「でも死んだら土葬でしょう?」

「今は違うよ。土葬しているところもあるかもしれないけど、今はほとんどが火葬だな」

「えー、知り合いを燃やしちゃうなんて酷いことするわねえ。じゃあ、火葬された幽霊はどんな姿で出てくるよの」

「知らないけど、普段着が多いんじゃないの」

「じゃあ、火葬される死人は死装束は着ないんだ?」

 不二雄は腕をくみ、うーんと唸ってから答えた。

「いや、死装束は着るんだけど、なぜか現代の幽霊は普段着が多い気がする。なんでだろう?」

「なんでって、こっちが聞きたいわよ。なんで江戸時代の幽霊は死装束で、あんたんとこの時代は普段着なのよ。私だって普段着で出たいわよ」

 不二雄は女の普段着を想像しようとしたが、江戸時代の女の普段着が分からなかった。

 なぜ現代の幽霊は普段着が多いのか、不二雄はレジカウンターの中を、女はその外側をうろうろしてしばらく考えてみた。店の外では夏虫たちが静かに鳴いていた。重かった闇も、いつもどおりに戻っている。

 女は雑誌コーナでファッション誌を手に取ると、パラパラとめくって見ていた。たまにフッと小さく笑ったり、これじゃ裸じゃない、なんてことを言っている。

 不二雄は、あっ、と言って左の手のひらを右手のグーで叩いた。女が音もせずに近寄ってくる。

「それやめろ。足音くらい出せよ気味悪い」

「すいませんね。足の裏が薄っすらしてるもんで、出るものも出ないもんで」

 互いに舌打ちをして、それから不二雄が答えた。

「現代の幽霊が普段着なのは、自殺が多いからだろ。未練を残して突然死ぬから、そのときの服装で出てくるんだよ。突然死んだら、死装束を着てる暇もないもんな。山奥で誰にも見つからず朽ち果てるようなやつも沢山いる時代だし」

 不二雄は自信たっぷりに、女の顔を見ながら言った。このとき初めて目が合ったが、死人にしては濁りのない綺麗な瞳だった。

「私も自殺ですけど」

 女がニヤリといやらしく笑った。女は近所の川に身投げをしたのだった。それも未練たっぷりだった。

「じゃあ普段着がそれだったんだろ。もう何百年も前のことだから忘れちゃってんだよ知らねーよ」

「こんなぺらぺらの死装束が普段着なわけないでしょ。私おしゃれだったんだから。近所でもね、お菊さん綺麗ね、ってよく言われてたんだから」

 この女の名前はお菊というのか、と不二雄は思った。同時にいかにも幽霊になりそうな名前だなとも思った。

 お菊は、死装束の袖をまくり生白い腕を出してさすっている。

「幽霊のくせに寒いのかよ」

「別に。体温無いから寒さも感じないはずなんだけどね、なんとなく寒いような感じになるときがあるのよ」言いながら、お菊は不二雄の手に触れた。全身に鳥肌が広がり、背中に悪寒が走る。

「やめろこのやろう」不二雄はまた、カウンターの下からピンク岩塩を取り出して投げた。お菊は今度は避ける素振りも見せない。フフッ、といたずらっぽく笑う姿に濃い人間味を感じた。

「あーあ、なんで私は死装束なんだろ」

 お菊は、額についていた三角巾を外してぽりぽりとそこをかいたあと、髪の毛を丁寧にまとめて後ろで縛った。目だけを上に向けて、眉根を中央に寄せている。

 それからなんとなく、互いに好きなことをやりはじめた。

 不二雄は、レジ下に隠してあった古新聞をボーッと見ている。日付は数年前の夏になっていた。その日、特別な事件があったのかといえば違うし、何かの記念日というわけでもない。ただ、今の新聞よりも昔の新聞の方が楽しく感じるのだ。とっくに終わってしまった番組や、完全に忘れていた事件の記事を見ていると頭の中だけは過去に戻れる。だから不二雄は古新聞をたくさん、しかし、ランダムに保管している。お菊を見ながら、もしあいつが生きている時代の新聞のようなものがあれば、いつか読んでみたいなと不二雄は思っていた。

 お菊は店内をぐるぐると練り歩き、商品をひとつずつ見ていた。特に化粧品のコーナーでは他の場所よりも長く留まって、ファンデーションやら口紅やらを興味深く見ていた。お菊が生きていた時代には無かったものばかりであったが、女の本能というべきなのか、どの化粧品の使い方もなんとなく理解しているようだった。ひとつ手にとっては、雑誌コーナーへ行き、ファッション誌を開いて使うときのイメージをしているようだ。死んでいるのだから使うときなど来るはずもないのだが、お菊はいつまでも楽しそうに雑誌と化粧品を見ているのだった。もし自分が生きていた頃、コンビニというものがあれば、あの店員とそっくりな男が働いていたかもしれない。そんな風に思いながら、自然に笑っている自分に気がついた。

 不二雄はふと新聞を読むことをやめて、「そういえば、なんの話してるんだっけ」と言った。

「だから、私がいかにも江戸時代ぽい幽霊で全然怖くないって話でしょ」

「ああ、そうだったそうだった」

 それから少しして、新聞配達の男がやってきた。男はお菊に全く気が付かず、まるで見えてないようだった。ふたりはそれが可笑しくてしかたなく、笑いを堪えるので必死だった。新聞配達の男は、怪訝な顔をして去っていったが、もちろん見えているのは不二雄だけだったので、それに気がつくとなんだか損したような気分になった。

 ───そうしてなんだかんだ話しているうちに、夜明けが近づいてきた。

 お菊は「また来週くるね」と言うと、霧のように消えてしまった。

 不二雄は「盛り塩をもっと置いとく」と言ったが、どうせ効果は無いだろうと思っていた。

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