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音楽のリズムを体に流し込まないと。わけもわからずfeel it nowをタップした。インディトロニカと題されたアルバムはあたしのお気に入りと言いたいところだったけど、feel it nowしか聴いたことない。あのアルバムが好き、このアルバムが好き、と言えちゃう人間はいつでもおしゃれだなと思うけど、そうなれた試しは残念なことにない。大体の場合、ある一曲にはまってそこから抜け出せなくなって、ほかの曲なんて一輪の華の周りに咲いてる雑草くらいにしか思えなくなる。あっあっあっあっあっあっ あっあっあーあー。どこか遠くの国で一度も会ったことない誰かがあたしが一度も行ったことのないスタジオでつくった世界。あっあっあっあっあっあっ あっあっあーあー。Feel it now. 感じてよ、今。なにを?ちかちかするライト。瞬きしてないのにしてるみたいなフラッシュライト。ぱっ、消え、ぱっ、消え、ぱっ… 神様のまばたきはこんな感じ? こんな感、死? ママ、あたしのこと見える? 見えますかー?


 ああ、まぶたの裏が痛い。重い。細い神経がどくどくとうって全身を巡って頭痛にあつまってくる。昔だ、昔があたしの身体中の穴に雪崩れ込んでくる。後味が毒みたいに苦かったあのショット。おえ! バーテンの胸元にぶうっと吐き出した。怒られるかと思ったら水を差し出して眉毛をくいっとあげてきて、それは何かの合図のようだったけどよく分かんなかった。次の教室どこだっけ? 建物の三階から五階へ移動する足取りは心地よくなく、あたしの髪の毛はもう戻ってこない時間にひっぱられて、お母さんに抱きしめられた時間まで、そこにはあって、肺の底の底から息することをちゃんとしないと、呼吸が、津波にのまれて、ああ、生きられない。いつもならすっと吸えるものが、すっすっす、細かく音を刻まないと吸えない。今を生きなさい、今にいるんだから、今を居間だと思え、過去の屋根裏に戻っていくな。あの、バーテン。ぼさぼさの眉毛に、二重幅が左右非対称の目。ほっぺに散らばるそばかすはオリオン座と鏡に飛んだ水滴みたいな均等さと不均等さのミックス。指先に陣取る爪たちはバーテンと思えないほど長い。唇が動く。全部がスローモーションになる。まつげがくいっと上がった瞳の中に、あたしの瞳は落ちた。そのまま、帰って来れなくなるかもと思う。他にもっとロマンチックな言い方ができればいい。でも、見つかんない。一瞬で彼女という存在がめちゃくちゃに怖くなった。これは一体何年前の記憶?? わかんない、あたし、いまどこにいるの? あっ、ごめんなさい。誰かと肩がぶつかった。次の授業まであと五分。アップルウォッチが震える。あたりを見回す。クラブに戻ってる。ライト。ライト。ちかちかする、吐き気がする。ここでゲロったりしたらまずい。だって、ここは本当は大学で、目の前のクラブは過去なんだから、分かってる、分かってるよ、でも息ができないよ、、、、、、

 「あんた野良?」

 「野良?」

 「うん、なんかそう見えた(笑)」

 「野良って野良犬とか野良猫の野良?」

 「うん」

 「親はいるけど」

 「そりゃ誰だっているさ(笑)」

 バーテンが笑う。さっきのまずくてごめん、と次は透明な炭酸水を差し出してきた。氷がからからと揺れて、レモンが刺さってる。音楽が遠ざかっていく。

 「ワシにもいたよ、親。でも野良」

 「ワシ?」

 「ああ、ワシ」

 「変わってんね」

 「あんた、みんなと同じようなこと言うんだね」

 「…」

 「それじゃあ、つまんないな」


  バーテンは、あたしの前から消えた。隣の隣の客に(常連みたい)話しかけにいってしまった。炭酸水を飲み込む。レモンが唇の節に刺さって、しょっぱい。あたし、一分話さなくてもつまらない人間だって分かられてしまうほどつまらない人間だなんて、息継ぎすることがまた難しくなりそうで、氷の中を呼吸が必死に泳ごうとする。そもそも、どうしてこんなとこ来たんだっけ? どうして、こんなところ来なくちゃいけなかったんだっけ? これ、お酒入ってるんだっけ? 入ってないんだっけ? お酒ってなんだっけ、水とどう違うんだっけ? Feel It Now。後ろのダンスフロアから聞こえてくる男のボーカル。感じてよ、今。何を? 生きてることが苦しいこと、感じるのはもう嫌。あたし、もういっぱい何か飲みたいんだけど

 「つまらないさん」

 炭酸水を飲み干したタイミングで、自分をワシと呼んだバーテンが帰ってきた。

 「…」

 「そんな顔しないでよ」

 これ、いい?とグラスを片付けた。そして何も言っていないのに、バーテンは何種類かのリキュールをシェイカーに入れ始めた。

 「別に、つまらないって悪い意味じゃないと思うよ」

 「それ、フォロー?」

 「ううん」

 シェイカーを振り始める。しゃかしゃかと鳴る液体の音。水色のライトがバックでちかちかと光り始めて、彼女の手元も照らされた。宇宙を生成していそうな手つき。振りながら、何を言おうか考えている顔つき。

 「だってさ、つまらないって詰まってないって意味でしょ」

 「詰まってない?」

 「そう。だから、詰めるスペースはいっぱいあるってこと。あんたのその脳内」

 あたしは、自分の頭が空っぽのお弁当箱だとしたら、生きてる意味をぱんぱんに詰めたい。

 「何を詰めればいいの?」

 「さあ、自分で考えな」

 「冷たいんだね」

 「(笑)」

 バーテンは後ろに並べられたたくさんのグラスのうちの一つ(首がとんでもなく細い)をとって、シェイカーのふたを開けた。からからから。中から氷と一緒に、青の液体が注がれる。グラスの縁に親指と中指にとった塩をまぶし、最後にカットレモンをぎゅっと絞る。

 「はい」 

 魔法使いみたいな手つき。ことん、と目の前に置かれたカクテルは、さざ波みたいに揺れて、数秒後におとなしくなった。首の部分をもつと、噛まれそうなくらいに冷たい。

 「これ、なに?」

 「ワシオリジナル」

 バーテンは、いたずらっ子のように笑った。

 「名前は?」

 「(笑)」

 指先についたレモンと塩を舐める。唇から離した瞬間にちゅぱっと音をたて、三日月みたいに口角をあげた。

 「ギニアオパブシロール」


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ギニアオパブシロール @tsubaki_iijima

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