*3

夜を眠り切ると朝が来るのは当たり前でこの使い捨ての時間たちとはいつまでも友達になれそうじゃない。曲がり角の先には何があるのか分からないのと一緒、それを曲がってしまえば来た道は見えなくなってしまう。車に気をつけろ、知らない人に気をつけろ、見えないものに気をつけろ、見えるものにも気をつけろ。子供…っていうかもっと小さい頃、昔住んでた陽当たりのいい一軒家、リビングルームにあった大きな窓の近くのロッキングチェアに腰掛けた母が、あたしの頭を撫でてそう言った。記憶の中の母の前髪は信じられないほど長くてそれはしばらく美容院に行ってないから、だとか長めの前髪が好きだから、だとかそんな理由じゃなくて、それはきっとあたしの曲がり角の前のものだからだ。かろうじて髪の毛の隠れていない鼻先から下は夕方の光に照らされて唇の動きが影を踊らせて、椅子は揺れ、あたしは撫でられて、その膝の上に頭をのせて、猫のようにしがみついて、気をつけろ、気をつけろと繰り返す母の言葉は、今となっては音楽のようにぼんやりと霧がかかってまたその前髪だけが伸びていく…。その前髪の上に気づいたらあたしはいて母の実態は今となってはそれだけ。真っ黒で艶やかで空から墨汁を降らせたような髪の毛。


 「気をつけなさい、あんたはね。どこか危なっかしいから」


 手にはいくつかしみがあって爪は男性のそれのようにちょっとだけ不器用な形をしていた。

 

 そこまで思い出したところでブレーキをかけるみたいに三種類の薬を口に放り込んだ。一、二、三。息継ぎ。一、二、三。息継ぎ。あたし、息継ぎもできなければ生も継げないかもしれない。なら、なんのために生きる? 薬は答えを教えてくれない。誰も、教えてくれない。授業には行かなくてはいけない。今日も明日も明後日も行かなくてはいけない。義務教育は終わっても生まれてしまったら生の代償の幸せを義務として払わなくちゃいけない。帰りたい。どこに? 分からない。薬を水で流し込むと喉から胃まで川ができてあたしの中の何かが一本に繋がっていく。あたしがあたしを飲み込めたらあたしには帰る場所ができたのに小さい頃習っていたバレエは二ヶ月でやめてしまったから体は信じられないほど硬くおばあちゃんがプレゼントしてくれた小さなレオタードは箱から出されないままどこかへ行ってしまった。あそこにどこかに置いてきたあたしのかけらが眠っているかもしれないと思うと夢の中でもいいから探したくなる。


 服を着て想いを着て女を着て世間体を着て人間を脱いだ。人間の皮は床にでもおいておこう。透明でビロビロだけどあたしの一番大切な部分。…あたしはあたしの皮を見て他人について考えた。他人はいつだってずるくて、あたしの大切な部分をあたしや家族ができないくらいに鷲掴みにする。血の繋がりなんてない方が人間の関係強力なもんだ。強力というより凄まじくて、重くて、ドロドロで、引っ掻き回されて、あ、腕に引っかき傷。スターリンはあたしが眠ってる間にやったんだ。触ると、じんわり痛かった。触らなかったら、痛くない。人生みたい。関係みたい。あたし、あいつのこと思い出してた。朝からこんなこと考えたくない。どっか行ってよ。たしかにあんたとあたしもう出会ってから八年以上経つ。でもこんな風に離れられない関係になるなんて誰が予想した? 少なくともあたしはしてなかった。回る頭を落ち着かせたくてとにかくとにかく階段を降りた。パソコンが入ったバッグは重くて、右肩の骨は左肩のそれよりいつの間にかずれていた。あんた。階段。あんた。階段。あんた、あんた、あんた。重力に足が引きずられて、あんたはあたしの心の王様になったみたいにあたしをかき乱すから憎いし、こんなこと普段言わないからちゃんと聞いてほしいけど、愛してた。あたし、そんな感じで思ってたよ。あんたのこと…


 洗濯機で回ってるあの日の服みたい。ねえ、記憶って、洗濯機の中の服みたい。あたし、あの日、着ていたものも絶対忘れたりしない。記憶と結婚したい人なんていない。あたし、みんなと同じように、あんたと同じように未来と結婚したかった。でも、こうなっちゃったのは誰のせいでもない。ぐるぐるぐる。柔軟剤をいれないと。漂白剤は持ってない。


 

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