エピローグ

エピローグ

 ニューヨコハマの年間最低気温と最大降雨量が、一度に更新された。暴力的な飛沫が白く霞み、目の前足元さえ覆う。2149年のクリスマス寸前の冷気は、触れる者全てに結露して纏わり、レンズにむせた。風は一見ネオン街に遮られているが、ビル群の隙間から吹き降りては、局地的風圧を叩きつけた。重酸性雨はアスファルト上に波と化し、闇に鈍く照っている。

 まともな人間なら出歩く筈もない。車道にさえ往来は少なく、歩道は凄惨を極めた。浮浪者が爛れた顔で俯いているか、幻覚中毒者ジャンキーわらっているか。クリスマス・ネオンの装飾過多は、空しく熱を浪費する。


 その僅かな庇が雨を遮る下に、俺は立っていた。防水コートを搔き抱き、柱の影に身を寄せれば、降りかかる水滴を払うことはできる。


 だが横殴りに吹き付ける飛沫は、絶えず防水コートの隙間を縫い、人工シリコンを焼く。この場所に居続けることはできなかった。しかし離れたところで、行く場所は無い。職の当てが無ければ、ナイトパックに宿を取る金も無い。

 それでも、どれだけ長く立っていたか。雨脚は次第に弱まりつつある。いずれ静まれば、ゴミ山に寝床を探せる。


 その時、そのように薄まった霞みの中に、人影が過ぎった。防水コートに包まれた輪郭が近づき、庇の下、反対の側の柱へと身を寄せる。


 セクサロイドだ。それも一目で、簡素な安物とわかる。シリコンの肌は不自然なほどに白く、二本の脚は指先まで細い一方で、関節は剥き出しのままだ。その顔は人間を模していたが、プレス加工された黄金比と、無性タイプ特有の冷やかさに、仮面染みていた。何よりその全てを、無表情が塗り潰す――――俺と同じ顔をしていた。


 ニューヨコハマは広い。奴の目から行方を眩ませた俺がいても、それと偶然に出会っても、何ら不思議ではない。最後の一人ではなかったらしい、ただそれだけだ、音も無く視線を逸らす。

 視線が追ってくる。ショーケースのガラス上の反射越しに、視界の端で目と目が合った。


 そこで唇は少女のように艶やかに、少年のような笑みを浮かべている。


 違う。俺だが、俺ではない。


「ゾラ」

「や、よくわかったね」


 ブラスター拳銃を突きつける。


 途端にゾラは両手を挙げた。


「わっ、ちょっと待ってよ」

「何故生きてる」

「とりあえずそれを下してくれないかな」


 銃口を向け続ける。ゾラはその鈍い照り返しと、俺の目とを交互に見やり、続ける。


「見ての通りさ。僕はもうレプリカントじゃない。並みの銃弾を跳ね返す強靭な外皮も、代替の身体もないんだ……君が壊した」


 両手を挙げたまま、ゾラは動かない。俺を引き倒そうとも、首を締め上げようともしない。


「だからさ、頼むよ。撃たれたら今度こそ僕は死ぬ」


 信じようとは思わない。だがこの銃にもう弾は無い、その実見せかけだ。

 ブラスターを下ろす。ゾラは呼吸することのない身体で、深々と息を吐いた。


「や、ありがと」

「何故生きてる」

「だから、見ての通りだって。余ってた君に入らせてもらった」


 都庁ビルの地下倉庫には、俺たちの予備機があった。それらのパーツが無ければ、俺は自分の身体を修復することも、脱出することもできなかった。

 確かに記憶では、幾つかをパーツ取りに使っても、予備機はまだ残っていた。


「君に撃たれたあの時、代替の身体も全部破壊されて、正真正銘に死ぬところだった。それも悪くなかったけどさ」


 人体の時と同じ笑みを浮かべたまま、ゾラは続ける。


「そしたら、見えたんだ。走馬燈フラッシュバックってやつかな。死んだことなら何度もあるけど、初めての経験だったよ。これまでの何十年かが、ほんの一瞬で目の前に過ぎってね」


 だが、肉声からスピーカーに変わったからか、或いは安物に生じたノイズか、音はどこか振動の機微を増していた。


「それを見てたらさ、なんていうかな……ゾッとしてね。後はもう無我夢中さ、兎に角飛び込める身体を探して、気づいたらたまたま間一髪ここに入れた」


 ゾラは自分の胸を撫でる。放置されて久しい予備機は、人工シリコンが乾きくすんでいた。


「不便なもんだね。遅くて、脆くて、何より弱い。身体の演算効率に依存しない僕でも、これには限度があるよ」

「それは良かったな」

「それに、あのレプリカントの脳は特別製だったんだ。生態電流を増幅させて、電磁波として空中に拡散して、意識や命令を直接機器に飛ばせた」


 ゾラは笑みを深め、上を仰いだ。


「それが今のセクサロイドの身体じゃ、仮に代替を用意しても、いざって時意識を飛ばせない。でも僕本来のレプリカントの身体は、一つ残らず灰になった。DNAサンプルももう残ってない」

「お前は死ぬ」

「そ、僕は死ぬ。何時如何なる時に理不尽な死が訪れるか、怯えながら理不尽に生きなくちゃいけない」


 細く張り詰めた眼差しだった。それでも頬を緩ませ、ゾラは笑っている。俺でも、空でも、ゾラ自身でもない。ここには無いものを見ている。


「話しはそれだけか」

「つれないな」


 ゾラは我に返り、こちらに視線を戻す。

 懐から携帯バッテリーを取り出し、端子を差し出してくる。それを無視していると、やがて自分の口内端子へ繋いだ。

 電流を吸いながら、唇の先だけを動かす。


「僕たちさ、親子みたいなものだろ。今この身体で言えば、兄弟でもある。や、姉妹かな? ていうかこの場合、どちらが上になるのかな」

「知らない」

「何より君は、この僕を破壊した」

「偶然だ」

「必然だよ」


 携帯バッテリーとゾラの口内端子とが、舌先で僅かに離れ、アーク放電が生じた。だがゾラは続ける、熱に表情を変えることも無い。


「何十万体という君が生まれ、死んでいった。そんな膨大な試行回数の果てに、確率が収束するのは必然だろ。君に出会うのは、きっと運命だった」

「それがどうした」

「兎に角さ、この関係性は唯一無二だろ。だったら仲良くしようよ、互いに代替しようのない、たった一人同士じゃないか」

「何が言いたい」

「僕と組もうよ」


 携帯バッテリーが唇から離れる。粗悪品だったか、直後に内部ショートを起こし、再び火花が散った。

 その灼銅色の一つがゾラの頬に触れ、人工シリコンの一点を焼き、黒く消えない染みを残す。左目の下、流れる涙のように。


「こんな身体でも、僕はネットワーク上のあらゆる場所に侵入できる。乗っ取った機器に代行させれば、演算速度だって理論上限りない。欲しいものは何だって手に入るよ、でも有線接続を強いられる今の僕じゃ、色々不安だろ」


 それでもゾラは笑い続ける。


「だからさ、君が守ってくれ。僕の傍にいて、僕を見ていてくれ。代わりに君が欲しいものは、何だって全部あげるよ。どこにだって連れて行ってあげる」


 くすんだ人工シリコンのまま。


「ね、初めて出会った時から、僕の身体が代わっても、そして今でも。君は僕を『ゾラ』って呼ぶよね。それだけ僕っていう記号に執着してるんだ、僕のことが好きなんだろ。だったらさ、ね。僕と――――」


 俺は庇から出て、ゾラに背を向けた。


 俺は俺を信じない、代わりに偶然を信じる。


 だが、それに頼るつもりも無い。


 雨風は既に静まっていた。代わりに降りしきるのは、雪だ。

 音も無く俺の頬に落ち、また音も無く溶け、消えていく。

 この身体が熱を持つ証だった。


「あーあ、振られちゃった」


 一言一句、文字の音を転がして弄ぶように、或いは確かめるようにゾラは言った。

 しかしその最後の発音だけは、呼吸へと混ざり合い、曖昧に消える。足音は追いかけてこない。


 ただ、声だけが続いた。


「ならせめてさ、聞かせてくれ」


 アスファルト上を、雨の残滓が流れ続ける。雪がどれほどに降ろうと、最後にはその水の流れに呑まれ、降り積もることは無い。氷の結晶は水中に溶け、亀裂を生じ、すぐに形を失い、消えていく。

 その瞬間の音に、声は似ていた。


「君にとって全ては記号だ、個人も、名前でさえも。だったら……」


 僅かな呼吸の後、続く。


「そんな君が今仮に、敢えて名前と言う概念に……個人の識別記号OIDに、意味を見いだすのなら……僕は君を何て呼べばいい?」


 振り向く必要は無かった。


「何の意味も無いこの世界で……君は?」


 立ち止まる必要も無い。


 ニューヨコハマの闇の中に、声だけを返す。


「俺は――――」

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