ほんの少し長いエピローグ


「本当に、蓮美は変わったよねー」

 老若男女、様々な人々が行き交う雑踏の中で、私の後ろを歩く瑠璃が呟いた。

「それ、前にも聞いたわ」

「いやー、改めて思ったんだよねー。『あの子』を助けるなんてねー。正気?」

 文化祭の二日目と言うこともあり、昨日と比較すれば流石に人は減っている。だが、それでも校内の狭い廊下に集う人々の流れは波のようで、逆らうことは難しい。立ち止まって言い返したいところだが、歩みは止めずに会話を続ける。

「どうかしら。改まって聞かれると自信がないわ」

「えー? 自分の行動にはちゃんと責任持たないと駄目だよー? これも蓮美が言ったんだけどねー」

「ごめんなさい、覚えてないわ」

「えぇー? 自分の発言にも責任持たないと駄目だよー?」

「私、過去は振り返らないことにしてるの」

「なんて無責任な女だー!」

 くうぅー、と後ろで瑠璃が唸る。

「嘘よ。ちゃんと覚えているわ」

「だよねー。知ってた」

「正直に言うと、『あの子』に関しては――」

 そこまで言いかけた時、視界に『二年一組』の表札が映った。その表札の下に急造で取り付けられた、『メイド喫茶♡』の小さな垂れ幕も。

 刹那、思考すら置き去りにして身体が走り出した。目標、教室出入り口。障害物、廊下を行き交う無数の人影。最短経路の算出を開始、完了。何物も寄せ付けない速度で目標へと駆け出す――!

「おかえりなさいませ~、ご主人様ぁ♡」

 私を出迎えてくれたのは、翼を忘れた天使。そう、彼女に翼なんて必要ない。だって、何よりも眩い、光り輝く笑顔があるのだから――

 ――ここが、【戦士の休息場ヴァルハラ】か――

 いや違った。よく見たら、天使じゃなくてフリフリのメイド服に身を包んだかなえだった。ただ、メイド服が似合い過ぎて笑顔が眩しいだけのかなえだった。ついでにここは二年一組の見慣れた教室だった。久々にビックリした。最近の幻覚はやたらリアルだから困る。

 まぁ、かなえも天使も大体似たようなものか。

 とにかく、身を粉にして働いていたかなえを労ってあげなくては。

「好き♡」

「えぇ……」

 おっといけない、間違えた。感情が駄々漏れになってしまっている。かなえの姿を目にした衝撃で吹き飛んだ理性が、まだ完全に戻っていない。

 ゔぅん、と咳ばらいをして、かなえに声をかけた。

「お疲れ、かなえ。その服、似合ってるわよ」

「あ、ありがとう……」

 私に対して逃げ腰のかなえ。一体なぜか。心当たりがまったくない。

 まさか、かなえは接客中に不埒な輩に絡まれてしまいその時心に傷を負って他人が近くにいると恐怖心を抱いてしまうようになってしまったのかいやもしそうだとしたら許せないそれはどこの誰だかなえにそんなことをしたのはたとえ便所に隠れていても息の根を止めてや――

「ちょっと、蓮美さん! かなえさんが怯えてるでしょ!」

 教室の奥から聞き慣れた声がした。見やると、四人席に一人で腰掛けた椿が、足を組みながらティーカップを片手に、こちらを見ている。

「あら、来てたの。久しぶりね」

「あなた……よく普通に話せるわね」

「どういう意味よ」

「そのままの意味よ。さっき、公衆の面前で醜態を晒したばかりなのに、よく普通に会話できるわね」

 醜態? 自分の言動を思い返してみるが、やはり心当たりがまったくない。

 椿の発言に首をかしげ眉をひそめていると、椿が語気を怒らせて言う。

「教室に飛び込んでかなえさんを見るなり、急に白目を剥いてハァハァ鼻息を荒くしてたでしょう⁉」

 なるほど。私はよく覚えていないのだが、かなえと出くわした私はそんなことになっていたのか。それならば彼女の言うことにも一理あるかもしれない。かなえが怯えるのもやむなし、といったところである。

「ほら、かなえさんを見てよ! 完全に怯えちゃってるじゃない」

 椿が指差した先に、教室の隅から様子を伺うかなえの姿が見えた。ぶるぶると小動物のように震えるかなえ。これはこれで趣のある可愛さだ。

 だが、それはひとまず置いておいて、せっかくだから確認しておきたい。

「椿、少しいいかしら」

 言いながら、彼女の目の前に座る。クラスメイトの冷たい視線を受け止めながら、コーヒーを注文した。

 ……今の時間は私のシフトじゃないし、お金は払うからいいじゃない。そう思うのに、すこし罪悪感を覚えるのは何故だろうか。

「な、なによ。いきなり改まって」

「大事な話よ。私たち【ゴッズ・ホルダー】の今後を左右する、と言っても過言じゃないわ」

 椿が慌てる。

「ちょ、ちょっと! こんな往来でそんな話を――」

「大丈夫だよー、意外と他人の話って聞いてないからねー」

 私の背後から、瑠璃の声が聞こえた。振り返ると、瑠璃が少し不機嫌そうな顔で私を見下ろしている。

「あら、瑠璃さんも久しぶり!」

「遅かったわね」

「あたしは誰かさんと違って、廊下で急に走り出したりしないからねー」

 言いながら、瑠璃が私の隣に腰掛けた。

 瑠璃の言葉に棘を感じる。以前の彼女なら、感情を表に出すことさえなかっただろう。彼女は私に『変わった』と言うけれど、それはきっと彼女もだ。変わったのは私だけではないのだろう。

 それが少し嬉しい。

「もういいわ。この際、蓮美さんがにやけてるのは置いておく。それで、話って?」

 椿が声を潜め、こちらに顔を近づける。

「もしかして、【上級悪魔】が? それとも瑠璃さんの『本体』が何か?」

「いやー、そっちはまだ動いてないよー。そもそも、あたしはもう切り離されたからね」

 瑠璃が言うには、『蓮美のことを報告したら、プツリと切られちゃったー』ということらしい。私たちには確認する術がない。だから本当のところは彼女にしかわからない。

「『まだ』ってことは、やっぱりいつかは仕掛けてくるのね。そうなれば瑠璃さんも狙われて――」

「させないわ。私が、絶対に」

 椿の言葉を遮って断言した。

 瑠璃の出自がどうか、なんてことはとっくの昔に問題ではなくなっている。彼女はもう私たちの友人だ。だから護り抜く。それだけのことでしかない。

「そうね。そうなれば蓮美さんだけじゃなくて、もちろん私も戦うわ」

「心強いわ」

「……で? 瑠璃さんのことじゃないなら、話って一体なんなの?」

「大事な話よ」

 ふぅー、と息を吐き出し、深呼吸を二度繰り返す。

「椿、あなた……」

 その先を言い出せず、言葉が詰まった。椿が唾を呑む音が聞こえる。意を決して、問いかけた。

「――最近元気? どこか悪いところはない?」

「蓮美さんは私をバカにしているの?」

 私の問いと椿の返答に既視感を覚えた。椿に『バカ』と言われることが、酷く理不尽に感じるのは何故だろう。

「蓮美が他人をバカにしてるのは、今に始まったことじゃないよー」

「言われてみればそうね。怒るだけ無駄だわ」

 意気投合している瑠璃と椿にも理不尽を覚える。なにこの私が悪い感じ。

「まぁ、それだけ言えるなら元気ね。よかったわ」

「蓮美さん……? 本当にどうしたの?」

 これ以上話を続けて椿に余計な詮索をされても困る。どう切り上げようかと思案し始めた時、カーテンで仕切られた厨房の奥から聞き覚えのある声がした。

「おーい、かなえ! もう交代の時間だ。あたしたちも上がろうぜ!」

「もうそんな時間なんだ? ありがとう、菱子ちゃん!」

 教室の隅でうずくまっていたかなえが、普段からは考えられない俊敏さでカーテンの裏へ引っ込んだ。

「あぁ、待って! もうちょっとその姿見せて! 目に焼き付けておくから! 今後十年は困らないぐらいにしっかり焼き付けるから! かなえぇぇぇぇぇぇぇ!」

 私の叫びが教室中に響く。私は座っていることさえもままならず、椅子から転がり落ちた。

「今後困らないぐらいって、かなえさんの姿で一体何をするつもりなの……?」

「蓮美もお年頃だからねー。察してあげてよ」

 心外である。

 私の叫び空しく、カーテンの裏から出てきたのはいつも通りの制服に身を包んだかなえだった。あと菱子も。

「お待たせ―!」

「待たせたな」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛!」

 私の慟哭が響き渡る。そんな。まだちゃんと見てなかったのに。また、私は――

「おい瑠璃。なんで蓮美は喚いてんだ?」

「かなえのメイド姿をもっと見たかったんだってー」

「あぁ、いつもの奴な」

「どうして……! どうして私はいつも無力なの……!」

 悔しさのあまり、床を力一杯殴った。痛い。だが、私の心が負った傷はこんなものではない。

「ほら、かなえ。蓮美を慰めてやれよ」

「えぇ……これ、私の役目なの?」

「かなえ以外には無理だよー」

 私を取り囲むみんなが何か言っているが、私の耳には入らない。

「しょうがないなぁ。ほら、蓮美ちゃん! いつまでも泣いてないで、立って! みんなで文化祭まわろうよ」

 かなえが私の肩に手を置く。かなえが触れている方から、ほんのりとかなえの体温が伝わってくる。でも、私はやっぱりかなえのメイド姿を諦められない。

「……今度、二人きりの時に着てあげるから!」

 かなえが私の耳元で囁く。

「……ひぐっ……本当?」

「本当だよ。だから立って」

「……ちゃんと、『ご主人様♡』って言ってくれる?」

 一瞬、かなえの顔が歪んだような気がしたが、

「うんうん! 言うから!」

 かなえは快諾してくれた。

 二人きりの状況で。かなえが。メイド。私だけの。

「それは悪くないわね」

 急に体の奥底から力が湧いてきた。

「さぁ、行きましょうか。時間は限られているわ」

 すっと立ち上がった私を、かなえ以外の三人が私を妙な眼で見ている。

「ほら、行きましょう? どうしたの、あなたたち」

「なんなの? この蓮美さんの変わり身の早さ」

「慣れだよー、慣れ」

「あたしも最近慣れてきた。椿もそのうち慣れるぞ」

「えぇ……慣れたくないんだけど」

「っていうか、蓮美! 早く教室を出ないと、『あいつ』がそろそろ――」

「まぁ!」

 菱子の発言を掻き消すほどの大声。振り返ると、教室の出入り口で栗花落が仁王立ちしていた。

「あちゃー。見つかっちゃったねー」

 瑠璃が呟く。そして、その間に栗花落が凄まじい速度で私に詰め寄ってくる。

「まぁ、まぁ、まぁ、まぁ!」

 私の目の前で急停止した栗花落が私の手を無理やり取り、両手で包み込む。

「穂村様! お久しゅうございます!」

「昨日も会ったでしょう? っていうか、離して」

「こんなところであなた様に会えるなんて!」

「こんなところって、ここは教室よ。会うでしょう、それは。あと離して」

「この身に余る僥倖! これぞまさに運命! あぁ、神よ! 神は私を見放しておられなかった」

「私の話、聞いてくれる? そろそろ離して」

「あぁ、穂村様! あなたに会えたこの喜びを、抱擁にて表現させていただきますわ!」

「いや、そういうのいいから。いい加減に離して」

 私の言葉を一切受け付けない栗花落が、細く長い両腕で私を包み込まんとする。体格差もあるが、栗花落自身の腕力が平均以上にあるらしく、引き剥がせない。

「離し……離しなさ……離れろぉ!」

「おうおう、またやってるよ。毎日飽きねぇな」

「なんかこれも慣れてきたねー」

「えぇ……これも毎日なの?」

「椿ちゃん、蓮美ちゃんはああやっていろんな子をたらしこむんだよ」

「あなたたち、見てないで助けなさいよぉ!」

 私の決死の叫びが、空しく教室にこだました。


「しかし、大丈夫かよ。あいつに店番任せて」

 たこ焼きを頬張りながら菱子が言う。

 結局、私にしがみついた栗花落を力ずくで引き剥がすのに、クラスメイトの半数を動員させ、それでも十分近く揉み合う事態になった。まったく、人騒がせな女だ。

「大丈夫じゃなーい? 蓮美がちゃんと店番するように言ってたしー」

 瑠璃がイカの姿焼きにかじりつく。

「それも気に食わねぇんだよなぁ。なんで蓮美の言うことだけ素直に聞くんだよ、あいつは」

「蓮美は救世主らしいからねー」

「不本意ながらね」

 言いながら、出来立てのベビーカステラを口の中に放り込んだ。熱い! 想定以上に熱くて、味が分からない。下品に口を開け、冷たい空気を取り込む。

「救世主って、大げさだな。蓮美、あいつの命でも助けたのか?」

 菱子の発言に全員が硬直した。この場で事情を知らないのは、菱子だけだ。

「まぁ、そんなところかしら」

「なぁんか煮え切らねぇな。あんた、あたしに隠し事してんのか?」

「それは――」

「あ、あー! 菱子さん、あそこで綿あめ売ってるわ! 私、綿あめ好きなの! 一緒に買いに行きましょう! ね、ね!」

「お、おい! まだ話は終わってな――」

 椿に引きずられた菱子は、あっという間に雑踏へと飲み込まれ、姿が見えなくなった。

「……やっぱり、菱子ちゃんにもちゃんと話すべきかな?」

 かなえがタピオカミルクティーを太いストローで飲みながら言う。

「そうね。時機をみて話すべきだわ。菱子だけ蚊帳の外なんて、罪悪感がある。あっ、そのタピオカ一口ちょうだい」

「やっぱりそうだよねぇ。はい、どうぞ」

 かなえが差し出してくれたストローに、躊躇なく吸い付いた。美味しい。

「問題は信じるかどうかだよねー。菱子に悪魔と一体化した時の記憶はないわけだしー」

「大丈夫よ、きっと。話せばわかってくれるわ」

「ふーん? あ、かなえー。私にも一口ちょうだいー」

「うん、いいよ。はい、瑠璃ちゃん」

 かなえが瑠璃にタピオカを差し出したその瞬間、脳を直に突き刺すような鋭い頭痛を感じた。この痛みはかなり近くだ。

 かなえと顔を見合わせた。かなえが頷いて、タピオカを容器ごと瑠璃に差し出した。

「瑠璃ちゃん、残りは全部上げる!」

「はーい。あたしは二人を待ってるから、いってらっしゃーい」

「じゃあ、行こう! 蓮美ちゃん」

「ええ! 行くわよ、かなえ!」

 私とかなえは同時に駆けだした。


「これだよね、蓮美ちゃん」

 私たちが辿り着いたのは体育館裏。普段から人気のないここは文化祭中でもやはり人が立ち寄る場所ではなく、屋外の出店用テントの部品が無造作に積まれているだけだった。ただ一点、私たちの目の前で居眠りしている男子生徒を除けば。

 悪魔が憑りついた結果、自身の睡眠欲を優先させたのだろう。この程度なら間違いなく【下級悪魔】だ。他人に迷惑をかけないという点においては全く問題ないのだが、悪魔は悪魔。後に凶暴化されても困る。退治できるときにしておくべきだ。

「かなえは慣れていないでしょう? 私がやるわ」

「何言ってるの、蓮美ちゃん。私たちはいつも一緒、でしょう?」

 かなえが悪戯に微笑んだ。困った。そんな顔をされると無下にできない。

「危険を感じたら、すぐに離脱するのよ」

「うん、わかった!」

 かなえの返事に少し安堵した。そして、意識を集中させ、静かに告げる。

【排除対象、視認。擬似神代領域限定接続──ヴィシュヌ、承認】

 擬似神代領域へと転移する間、つくづく私は体育館裏に縁があるな、なんてどうでもいいことを考えた。

 次元が反転し、この世ではない場所に降り立つ。目前に広がる灰色の空、灰色の大地。そして、間抜けに棒立ちする【下級悪魔】が二体。この面白みのない光景に、郷愁を覚える日は来るのだろうか。

 静かに念じる。次の瞬間、それは私の手に握られていた。

 それは円環。直径は八〇センチほどで、真ん中には決して埋めることのできない空洞がある、ドーナツ型の形状。そして、円盤の外側には敵を切り裂くための刃が一〇八も取り付けられている。

 これは邪悪を滅ぼし、悪しき循環を絶つ円環。絶対的な守護者の名の下において、世界を脅かす破壊を殲滅するために振るわれた、平和の象徴。

 名を、【邪悪を絶つ円月輪スダルシャナ・チャクラム】。

 まだ使用したのは数えるほどだが、それは驚くほど私の手に馴染んだ。

 悪魔が私たちに気付き、気味の悪い雄叫びを上げた。私とかなえが同時に構える。

「いくわよ、かなえ!」

「うん!」

 二人の呼吸を合わせ、一斉に畳みかける――


「……どうしてなの?」

 かなえが改まった態度で私に尋ねたのは、私が【擬似神代領域】を離脱しようとした時だった。

 相手が【下級悪魔】と言うこともあってか、私とかなえは特に何の問題もなくあっという間に悪魔を殲滅せしめた。かなえも私の手を借りずに一体を撃破している。おそらく、もう一人でも【下級悪魔】相手なら問題ないのだろう。

 胸の内で微かに寂しさを感じながら、問い返した。

「何のことかしら?」

「栗花落さんを助けた理由。どうして? 蓮美ちゃんはすごく怒ってたでしょ?」

「ああ、そのことね」

 かなえがわざわざここで訊ねたのは、誰にも聞かれる心配がないからだろう。この場所には私たちしか存在していないし、誰かが侵入したとしてもすぐに感知できる。内緒話をするにはうってつけの場所だ。

「彼女には、一度助けられたことがあったから」

 瑠璃の姿をした悪魔と私の間に割り込んだ彼女。経緯や理由はどうあれ、あの時もし彼女がいなければ、今の私はない。私がかなえを救うことも出来なかったはずだ。

 病室でかなえと語り合ったあの夜、私の祈りを聞き届けた一柱の神が私に舞い降りた。その神の名は【ヴィシュヌ】。インド神話において最高神の一柱である【ヴィシュヌ】は、宗派によっては唯一無二の絶対神として崇拝されることもあるという。

 彼が司る信仰は〝維持〟。世界が邪悪や混沌、破壊に曝され、崩壊の危機に瀕した時に出現する、絶対的な〝維持者バランサー〟であるという。

 そして、【ヴィシュヌ】が聞き届け、この命を代償として叶えられた願い。それは『みんなと一緒に過ごしたい』という、ありふれていてささやかな、けれど私自身の手では決して叶えられない大層な願望。

 その際、私に貸し与えられた【権能】は、【永劫不変の沙羅双樹ヴィシュヌ・キ・ドゥニヤ】。この【権能】によって、私が認識している範囲の『世界』において、私は擬似的な【ヴィシュヌ】として振る舞うことが出来る。と言っても、そんな大層なものではない。私に『日常』を感じさせることが出来る者に、生命の危機が訪れないというだけだ。

 そして、その【権能】が効力を発揮する範囲に、三度衝突したあの少女〝栗花落 小雪〟も含まれている。ただそれだけのことだ。

「それは、前にも話したわね?」

 かなえが小さく頷く。かなえや瑠璃、椿、そして栗花落。私の【権能】が行き届いている関係者にはすべて事情を説明した。その結果、栗花落に〝救世主〟として崇められることとなったわけだが。

「……許せるの? 栗花落さんを」

 かなえが私に訊ねた。その瞳は静かな怒りが宿っている。『温柔敦厚』を絵に描いた様なかなえが怒りを隠さないのは珍しい。それだけ彼女の行為に憤っているのだろう。気持ちはわかる。

「いえ、許したわけじゃないわ」

 栗花落の行いは決して許せるものではない。彼女の両親や何も知らない【ゴッズ・ホルダー】たち。彼女は何人もの命を奪ってきたことだろう。私たちの友人も、そして、他ならぬ私も、その無慈悲で独りよがりな〝救済〟によって命を落とすところだった。

 もちろん、個人的には彼女に対する憤りも残っているし、わだかまりが消えたわけじゃない。一度命を救われたとしても、あの時覚えた憎悪はそう簡単に消えるものではない。

 それでも。

「ただ、彼女を裁くのは私じゃない。そう思ったの」

 彼女はもう一人の私だ。なら、彼女の行く道を正しく示してくれる生涯の友人に、これから出会えるかもしれない。そして、そんな友人と出会えた時、きっと彼女は〝罪〟を自覚する。彼女の〝罰〟は、そこから始まるのだ。

 彼女が〝罪〟を自覚し、〝罰〟を背負う可能性さえ摘んでしまうのは、あまりにも救いがない。

 私はそう思う。

「それだけよ。……かなえは、納得してない?」

 かなえがふるふると首を振った。

「蓮美ちゃんが決めたことなら、いいよ」

 そう言って、かなえはにっこりと笑った。

「私たちは二人で一人、だもんねっ!」

 かなえが言ったことは真実だ。

 かなえが生きていられるのは私のお陰で、私が生きているのはかなえのお陰。

 かなえの【権能】は私に作用し、かなえの命を消費する。だが、私の【権能】がかなえに作用することで、かなえが倒れることはない。そして、私の命は私の【権能】によって消費されるが、かなえの【権能】によって守護されているため、私もまた倒れることはない。

 私たちは文字通りの〝運命共同体〟となったのだ。

「ええ、そうね!」

 かなえの笑顔に、思わず顔が綻んだ。


 結局、私がしたことは何の解決にもなっていない。ただ、目の前の問題を先送りにしただけだ。私の【権能】が作用しない【ゴッズ・ホルダー】の寿命は何一つ変わっていないし、瑠璃の『本体』は未だに動きを見せない。問題は山積みで、考えなければならないことが山ほどある。

 それでも、私たちは一人じゃない。なら、きっといつかは解決できるだろう。

 だが、もしすべての問題が解決したとしても、それは大団円でも、エンディングでも、何でもないのだろう。

 生きている限り何が起こっても不思議はなくて、生き続けている限りどんな問題にも直面し得るのだから。

 人生に〝めでたしめでたしハッピー・エバー・アフター〟はない。

 だったら、私たちにできることは〝めでたしめでたし〟の先アフター・ハッピー・エバー・アフターを、命の限り生きていくことだけだ。

 たとえどんな困難がふりかかろうと、たとえどんな不運に見舞われようと。

 私たちなら、何も問題はない。

 いつか、神々に祈らずともよい日も来るだろう。

「じゃあ、戻りましょう。かなえ」

 私たちの〝日常〟へ。

「うん!」

 差し出した私の手を、かなえがしっかりと握る。

 すべすべで、柔らかくて、温かい。

 かなえの手の感触をしっかりと確かめながら、私たちは【擬似神代領域】を後にした。




 願わくば、私たちの人生に祝福があらんことを――

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親友を護るために世界を救った私の、ほんの少し長いエピローグ @kyogok

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