不変
増田朋美
不変
なんだか連休が明けたはずだったのに、外は寒くて、季節に合わないなと思われる気候だった。そんなときは、なかなか外へ出ないで、皆のんびりと自宅で過ごしたりするものであるが、雨の日もはれの日も、暑い日も寒い日も、介護というものは、しなければ行けないものである。そんなわけだから、杉ちゃんが水穂さんの世話を続けているのであるが、それも時々嫌になってしまうこともある。
水穂さんは、ご飯を食べようとして、食べ物を口にしてくれるのであるが、飲み込もうとしてそれができないのか、それともわざとしているのかは不詳であるが、食べ物を咳き込んで吐き出してしまうのであった。側についていた今西由紀子が、急いで水穂さんの口元をちり紙で拭き取るのであるが、水穂さんは、真っ赤な内容物と一緒に、食べ物を吐き出してしまうのだ。
「全くよ。由紀子さんが今日は手伝いに来てくれているから、良かったようなもので、もしいなかったら、大変な事になってしまうぞ。もうさ、頑張ってちゃんと食べるようにするんだな。アレルギーのせいなのか、それとも、飲み込む力が低下していると言うのか、一体どっちなのか、よくわからないよ。」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんはまた咳をして、由紀子に口元を拭いてもらうのだった。
「咳で返事してる。」
杉ちゃんは呆れていった。
「そうじゃなくて、頑張って食べような。せめてご飯を茶碗いっぱいぐらいは。ちゃんと食べような。ほれ。」
杉ちゃんがもう一度咳き込んでいる水穂さんに、おかゆの入ったお匙を差し出したが、水穂さんはそれを受け付けてくれなかった。由紀子は、水穂さんに薬を飲ませてやって、なんとかしてやらなくちゃと言った。薬を飲んでやっと、咳き込むのが止まってくれた水穂さんに、
「医者に見せたほうが。」
と、小さい声で言った。杉ちゃんも、もう何日ご飯を食べないでいられるのかなと言って、
「じゃあお願いするか。」
と、ちょっと嫌そうに言った。
「でも、水穂さんのこと見てくれる医者なんて居るのかな。きっと、銘仙のきもの着ているやつを見てくれって言っても、嫌だって言われるだけなんじゃないか。それか、見せても、明治時代にタイムスリップしたかとからかわれるか。」
確かに杉ちゃんの言うとおりなのだった。今までに、そのせいで何回も失敗を繰り返している。
「医者なんてさ、子供の頃から偉い偉いで育てられてきて、水穂さんのような人の事は存在すら知らないっていうやつばっかりだから、どうせ、わかってくれないんだよな。だから、無理なんじゃないの?」
「見てもらわなければ、水穂さんは苦しい思いをするだけよ。それじゃあ可哀想じゃない。もし、杉ちゃんが電話できないんだったら、私が呼ぶわ。」
由紀子は、スマートフォンを出して、医者の名前を調べ始めた。
「まあ、柳沢先生が来てくれているけど、先生は西洋医学の医者というより、漢方医だからねえ。こういうときに、役に立てるような人物は、まあいないねえ。」
杉ちゃんは、きっと河太郎のような顔をした柳沢先生が、今頃くしゃみをしているだろうなと思いながら、そういった。
「それでも良いわ。それでも、先生はあたしたちより、医学の事は知っているはずだし。だったら私、お願いしてみる。」
由紀子は、柳沢先生に電話した。水穂さんがどうしてもご飯を食べてくれないで、咳が止まらないというと、柳沢先生はのんびりした口調で、すぐ行きますよと答えてくれたので、ちょっと安心した。
数分後、こんにちはと玄関の引き戸を開ける音がして、柳沢裕美先生が入ってきた。茶色の着物に、白い被布コートを着て、江戸時代だったら、医者とすぐわかる風貌である。由紀子が、水穂さんが、ご飯を食べると、それを飲み込めずに咳き込んで吐いてしまうと説明すると、柳沢先生は水穂さんを見て、
「大丈夫ですか。随分衰弱していますな。」
と言った。
「ほらあ。ご飯を食べないから。その割に、薬だけは飲むんだぜ。それはできるのによ。ご飯食べると咳き込んで吐き出してしまうんだよね。」
杉ちゃんは呆れた口調で言った。
「わかりました。では、誤嚥に問題は無いということになりますな。水を飲んでむせるということは無いというわけですから。それなら、やっぱり、ご飯を受け付けたくないという気持ちがあるのでしょう。」
「それはもしかして、拒食症というものでしょうか?」
由紀子がそうきくと、杉ちゃんが、
「でもダイエットをしなくちゃとか本人が口にした事は一度もありません。」
と言った。
「そうですねえ。ダイエットばかりでは無いですよ。なにか別の理由で食欲が出ないのかもしれません。そういうところは、我々医者にはどうにもできませんな。」
柳沢先生がそう言うと、
「それでは、一体どうすれば良いんですか。まさか、警察が誘導尋問するみたいに、ご飯を食べない理由を聞き出すしか無いのでしょうか?」
と、由紀子が先生に詰め寄った。
「しかしですね、それを素直に話してくれるかは、非常に難しいものですよ。それは、もしかしたら、潜在意識で食欲を抑えて居るのかもしれませんよ。そういうことであれば、本人であっても、文章化することは非常に難しいものです。ましてや、水穂さんのような事情がある方はなおさらだ。僕も、経験したことがあるからわかるんですが、ロヒンギャを診察したとき、彼らは、病気をなんとかしようとする気持ちはまるでなかったんです。どうしてかそれを聞いてみたところ、ロヒンギャである以上、普通の人として扱われることはまず無いと言うこたえが返ってきました。それはミャンマーという国家がそうなっていましたので、変えることはどうしてもできませんでした。」
柳沢先生は、そういう事を言った。確かに事情はちょっと違うが、ミャンマーのロヒンギャという民族と、水穂さんたちは共通点があるきがする。もちろん、日本と全く違う国家での話であるが、でもどこの世界にもそういう部族は居るんだと思う。
「そうだよな。だから、そういう不利な立場に立たされている人が高度な医療を望むには、国を変えるしか方法が無いってことだよ。そんなこと、そう簡単にできるものじゃないし。」
「このままそう言っていたら、水穂さんも助からない!それでなんとかする方法は無いの!」
杉ちゃんがそう言うと、由紀子が感情的になっていった。
「無いんだよ!」
杉ちゃんも言い返した。
「まあお待ち下さい。ふたりとも、病人の前で喧嘩をするのはあまり良いことではありませんよ。問題を、もう一度整理しますと、水穂さんの治療はさほど難しいものでは無いと思われますが、それにありつくのに、偏見が強いことと、医者が受け付けてくれない可能性があるということですよね。そして、その証拠に水穂さんが着ているものが銘仙の着物であるということです。もちろん、これには歴史的な事情がありますから、変えることはできません。水穂さんがしっかりと、治療を受けるためには、日本国内ではまず望めないということも、また確かですよね。」
柳沢先生が杉ちゃんに言った。
「まあ、そういうことだ。誰か医者に見せることは無理ってことだよな。そして、水穂さんがご飯を食べない理由を突き止めることもまた無理だと言うこと。もし、病院に連れて行ったら、きっと、こんなやつを連れてくるなと言って、追い出されるのが落ちだ。その間に、逝ってしまうということもありえない話ではない。そうですよね。」
杉ちゃんがそう言うと、柳沢先生も、
「はい。僕もその体験しましたからよくわかります。ロヒンギャの男性を病院に連れて行こうと思ったら、どの病院でも見捨てられてしまいましてね。結局彼は逝ってしまいました。ご家族からは、なんて余計なことをしたのかと叱られました。そういうことが日本でも起きているということですな。」
と、杉ちゃんの話に乗った。由紀子は二人が、そんな事を言っているのを聞いて、なんとかしなければと思った。
「そういうことであっても、水穂さんは病院で見てもらわなければなりません。こんな、重い病状を放っておけるほうがおかしいと思います。それに、日本とミャンマーでは全然制度が違います。それと一緒にしないでも、なにか見てくれる方法はあるんじゃないでしょうか。」
「いやあねえ。由紀子さん。水穂さんのように世界で差別されて生きているような人は、世界のどこにでも居るぞ。考えてみれば色々あるじゃないか。ロマとか、ユダヤ人とか、そうやって嫌われているやつは居るだろう。それと一緒だよ。」
由紀子がそう言うと、杉ちゃんがそれを止めた。
「まあ、国家の壁を破るというのは、非常に難しいものですよ。もう仕方ないこととして諦めなければいけないことだって、あるんじゃないですか。どこの世界にも、そうやって、馬鹿にされたりとか、差別されたりとかそういう民族はいますからね。」
「水穂さんのためじゃありません!」
由紀子は、ちょっと感情的に言った。
「私のためです。私が、辛いんです。水穂さんを医者に見せないで、放置しておくのは。」
「そうかもしれないけどさ、お前さんがいくら辛くても、そういう事は無理なことだよ。由紀子さん。由紀子さんだって、社会を変えられるほどの立場じゃないでしょ。ただ慣習に従って生きているだけじゃない。だから、水穂さんのことは、このままにしておくしか無いんだよ。」
杉ちゃんがでかい声で言い返した。
「まあ、もし、水穂さんが、症状を出した場合、相談には乗りますので、いつでも連絡してきてください。多分対処療法しかできないと思うけど、できることはしますから。」
「ありがとうございます。わざわざこっちまで来てくれてありがとう。」
帰り支度を始めた柳沢先生に杉ちゃんはそういったのであるが、由紀子はそういう気持ちにはなれなかった。水穂さんは結局、良くもなれないのだった。それが由紀子には可哀想でならない。それは水穂さん本人のせいではなくて、日本の歴史がそうしてしまっているというところに、由紀子は大変な憤りを持ってしまうが、それはどうにもならないのだった。
杉ちゃんが、柳沢先生を玄関先へ見送っている間、由紀子はじっと眠っている水穂さんを見つめた。水穂さんは薬が回って、静かに眠っている。どうして、水穂さんは西洋医学であれば簡単に治せるようになった病気で、逝かなければならないのだろうか?由紀子はそれが辛かった。水穂さんは、夕方まで目を覚ますことはなく、強い薬を飲まされたせいなのか、眠り続けていた。由紀子は、水穂さんが眠っている間、一生懸命中庭の草むしりをした。なんだか、じっとしているより、こうして草むしりをしている方が良いのだった。寒い日だったけど、そのような事は感じなかった。幸い、雨が降った直後でもないので、庭の雑草はさほど生えていなかったので、草むしりはすぐに終わった。なので由紀子は、夕食の介助まで時間が少しできた。由紀子はそのこともちゃんと計算済みで、本を一冊用意していたのであるがとても読む気になれず、スマートフォンを取り出した。スマートフォンは、退屈しのぎにはもってこいだ。由紀子はゲームというものはすきではなかったけれど、こんなに辛い思いをしているのだったら、なにか、ゲームでもしたいと思ってしまうのだった。
すると、スマートフォンのニュースアプリが、新しいニュースを運んできた。それによると、静岡県伊豆の国市に住んでいた、寝たきりの女性が、生活苦をきっかけに、自分の殺害をかかりつけ医に懇願し、その報酬として、お金を渡したという事件があったと書かれていた。由紀子は、思わずはあと思ってしまった。なんで、こんなことが簡単にできるのだと思う。その事件について他のアプリで調べてみたところ、その女性は、何でもアルファベット3文字で表記できる難病を持っていて、これから病状が進めば、歩くことも話すことも、ご飯を食べることもできなくなっていくということだった。そうなる前に、彼女は死んでおきたいと思って、主治医にお金を払い、殺害を依頼したという。全く、世の中にはわがままな人が居るものだと由紀子は思った。水穂さんのように、生きたくても生きられない人が居るのに、彼女はどうして、自分を殺害しろなんて言ったのだろうか。
その女性は、名前を浜野楓さんと表記されていた。なんでも、まだ30代の若い女性で、何でもご両親と暮らしていたという。そうなったら、ご両親だって、つらい思いをするはずだ。それなのに自ら自らを殺害しろなんて。何というおかしな女性だろうと思った。とりあえず由紀子は、そのニュースを見たのはそれだけにしておいた。
その翌日、由紀子は、田舎電車の駅員のしごとのため、吉原駅に行った。田舎電車である岳南鉄道は、一時間に一本か二本しか走らないのだった。電車が到着し、乗客が乗り降りし、そしてまた発車する電車を見送る。それが、由紀子の仕事であった。一時間に二本しか無い電車の中から、数人、多いときには数十人の乗客が吐き出されてくるものであるが、由紀子は、その中に黒いスーツを来た男女が居るのを見つけた。
「全く、楓ちゃんも最後まであの子らしい最期だったな。」
と男性のほうが、ホームを歩きながらそう言っている。ということはもしかしたら、浜野楓さんの身内か親戚なのではないかと由紀子は思った。
「親に迷惑かけるのが嫌だから、自分で自分の始末をつけるんだと遺書には書いてあったようだけど。彼女を止めなかった、医者も悪いわよね。ちゃんと生きたほうが良いって、忠告してやればいいのに。親御さんも、あれじゃあ浮かばれないわよ。」
と女性が嫌そうに言った。多分、浜野楓さんのお葬式に参加したので、黒い服を着ているのかもしれないと由紀子はすぐに分かった。
「でも、楓ちゃんも感性のいい子だったから、自分がこれから親に迷惑をかける事は耐えられないと思ったんじゃないかな。あの子は、そうやって先が見える子だったよ。それだから、自分を始末してくれと言ってしまったんだろうけど。でもねえ、親としては、迷惑かけて、子供の世話をすることも、大事な仕事の一つでもあるんだからさ。それを奪わないでほしいよな。」
「感じすぎたんでしょうね。自分の事を、自分で始末しなければならないほど、きっと彼女にとっては、衝撃が大きなことだったんじゃないかしら。もう無理だというか、これで良かったと思うしか無いわよ。楓ちゃんらしい、最期だったと思うしか無いわよ。」
老夫婦は、そう言いながら、岳南鉄道の吉原駅を出て、タクシー乗り場に向かっていった。由紀子はそれを眺めて、なんて身勝手な人たちなんだろうと思った。多分他人だからこそ客観的な評価ができるんだと思う。だけど、その浜野楓さんという人も随分悩んだんだろうし、娘さんを突然なくしてしまった、ご両親も悲しいだろうなと思うのだった。
そうだ、どんなに辛くても、自分で逝こうとしては行けないんだ。
由紀子は、それは止めなければ行けないと思った。
もし、当事者ができないのであれば、できる他人が止めなければならない。
そんな事を考えている由紀子に、次の電車が到着した。由紀子はちょっとタイミングを逃してしまったと思いながら、
「吉原、吉原です。ご乗車ありがとうございました。」
と駅員としてのセリフを言った。
次の休みの日、由紀子はまた製鉄所に行った。製鉄所といっても、鉄を作るところではなく居場所をなくしてしまった女性たちが、勉強や仕事をするために部屋を貸している施設である。その日は、何人かの利用者が水穂さんのせわをしていた。水穂さんの世話の中心は杉ちゃんであるがどうしてもできないところは、製鉄所の利用者が手伝うことがある。本来であれば女中さんを一人雇って、その世話をさせたいのであるが、今の所いくら募集しても、女中さんに立候補してくれる人はいないので、利用者がやったり、由紀子が手伝ったりするのである。利用者たちはたまにこういう事をしてくれるから、まだやってくれるのであるが、毎日であれば音をあげてしまうだろうなと思う。
その日も、水穂さんはえらく咳き込んでしまっていたが、利用者さんに促されて、ご飯を食べようとはしてくれている様子だった。それでも、やっぱり吐き出してしまうところは、いつもと変わらなかった。由紀子は、四畳半のふすまをわざと音を立てるようにして開けて、
「お願い!ご飯をたべて!」
と水穂さんに懇願してしまった。あのときの柳沢先生が話したことや、浜野楓さんの事件のこととか、由紀子は色々感じたけれど、水穂さんには、生きてほしいと思うのだった。
「そのままで良いから、ここにずっといてほしいの。」
由紀子は思わず言ってしまう。
「そのままじゃだめよ。なんとかして食べてもらわないと、本当に大変なことになっちゃうわよ。」
利用者の一人が、水穂さんに言った。
「少なくともあの事件の女性のような、自分は必要のない存在でとか、そういう事は思わないでよ。水穂さんは、この世で必要な大事な人なの!」
由紀子は続けていった。本当はあなたがすきだというセリフを言いたかったが、それはできなかった。何故かそれを言ってしまったら、利用者たちに迷惑がかかってしまうような気がした。だから、それだけしか言えなかったのだけど、由紀子は、ずっと水穂さんを見つめていた。水穂さんが、必ずご飯を食べてくれるようになるまで、由紀子は水穂さんのそばにいたいと思った。多分歴史的な事情は変えられないと思うけど、水穂さんのことはすきだと伝えることは、できるのではないだろうか。
その日も、雨が降って、寒い日であった。なんで連休も終わったのにこんなに寒いんだろうと思われるくらい寒かった。それでも、時間だけが虚しく過ぎていくような、そんな日だった。
なにか少しでも変わってくれればいいと思う。けど、生きていることを、放棄してしまうのは絶対に行けない。それは、歴史的な事情があっても、他の事情があったとしても。
不変 増田朋美 @masubuchi4996
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