海辺
足首に心地よい冷たさが打ち付けている。いつの間にか海にいたようだ。夢なのだから、不思議なことが起きても仕方がない。
「
「……!」
潮の香りに驚いていた私の耳に、大好きな声が滑り込んできた。
「笠沼、さん?」
「ああ……やっぱり國香だ」
そう、笠沼さんは呟いて、私をぎゅっと抱き締める。時折、ふふ、と嬉しそうな笑い声が耳元で跳ねる。──笠沼さんだ。
「笠沼さん……」
「久しぶりだね、國香」
「うん、久しぶり」
「元気にしていたかい」
「……うん」
心配させたくなかった。自分は元気にやっていると、そんな簡単な嘘すらすんなりとつけなかった。
「ちょっと口ごもったなー、ほんとは元気じゃないんでしょう」
「はは……うん、まだ、立ち直れなくて」
「もう三年経つのに」
「長かったけど、ずっとあなたが心にいて、忘れられないの……」
「忘れて欲しくはないよ、國香」
そう言って、彼は私の髪をさらさらと撫でる。
「ずっとずっと僕のことを好きでいて欲しいからね。忘れて欲しいとは思わない。でも、そろそろ元気になって欲しいな」
「……うん」
「うん、それでいいよ」
彼は頭にぽんと手を載せて、わしゃわしゃと撫でる。
「髪崩れるからやめてっていつも言ってるじゃん」
「今日はいいでしょ、夢なんだから、起きたら直せばいい」
「……そうだね」
彼にも、ここが夢だと分かっているのだなと少し悲しくなる。そして当たり前に彼は、この時間が有限であることを口に出す。
「……ずっと、一緒にいたいよ」
「ふふ、うん、僕もだよ。でも君はまだ生きていてくれよ、僕の分まで」
「でも……」
「久しぶりの邂逅なのに、そんな顔しないで」
笠沼さんは困ったように笑う。
「せめて、笑って一緒に過ごしたい」
「……わかった、ごめんね」
「うん、良いんだよ。謝らなくていい」
「うん、ごめん……」
「ほら、ふふ、いつもたくさん謝ってたねぇ」
崩した髪を、彼は優しく戻しながら私の頭を撫でる。手のひらの温もりが懐かしくて、けれど鮮明に覚えていて、じわりと視界が歪んだ。
「ああ……泣かないで」
焦ったような、困ったような声が聞こえた。笠沼さんは私の頬を両手で包み込む。
「ほら、僕はここにいるよ」
「うん……」
私は頬にある手に、自分の手を重ねる。その温もりに、私の頭を預ける。
しばらくして呼吸が落ち着いた頃、笠沼さんは指で流れた涙を拭ってくれた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「良かった」
また、頭を撫でてくれた。なんだか子供扱いされているようだったけれど、今日くらいはいいかな、とされるがままになっていた。
「ねえ、國香」
「ん……?」
「キス、しない?」
久しぶりのその単語に、心臓が跳ねた。私が驚いた顔をしたのか、笠沼さんはふふと笑った。
「可愛いね、國香は」
からかうような、けれど心から愛おしいと思っているような声色だった。久しぶりの優しく、甘い声。三年前までの四年間で慣れきったと思っていたが、まだまだ私は初心なようだった。
「こっち向いて」
私はそれに返事せず、顔を笠沼さんの方へ向けることで応える。
「目瞑って」
それにも返事はせず、目を瞑って応える。頬に手が添えられた。笠沼さんが少し笑ったのが感じられた。何か、変な顔でもしていただろうか。唇に柔らかい感触。初めてのキスの時、男の人の唇も柔らかいのだなと変に感心したのを思い出した。頬の手のひらの感触が消える。私は目を開く。
『ごちそうさま』
目の前は、暗闇だった。
* * *
「──っ!」
恐ろしさに目が覚めた。体ががたがたと震えている。寒くもないのに体の芯が冷えきっていて、そして暑くもないのに冷や汗が止まらない。さっきのは、なんだった?
それから寝付くこともできずにそのまま出勤した。休めるほどの体調の悪さはなかった。
そして、何度寝ても、再び帽子屋さんの夢も、あの海辺の夢も、見ることはできなくなった。幸せな時間は、再び奪われてしまったのだと。なぜか『奪われた』と、そう断言できた。
眠りにつく前、暗い天井を見ていると、時折あの不思議な声がまた頭に響く気がするのだった。『ごちそうさま』、と。
すべては白昼夢。 水神鈴衣菜 @riina
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