5

 暗闇の外から声が聴こえてくる……。

 

 それは歳を食った男と、若い女の声だ。しかしその話の内容は判然としない。

 「先生の」「これで何度目だ」「たまったものじゃない」「厳重に」「脱走を」といった言葉を辛うじて聞き取る事ができたが、それだけでは何の話だか分かるものでもない。


 は、二人に気付かれないように薄目を開けて外の様子を伺った。


 そこは人の住む場所とは思えない、無機質でやたらと明るさの際立つ白い部屋だった。久々に目を開けて眩しさを感じたというのではない。文字通りに白いのである。


 慎重を期して、少年は再び目を閉じた。そして思案する。

 病室か?ここは。そうだ、病室かもしれない。

 

 やがて男女の声はより明瞭に聞こえるようになってきた。


「それにしてもどうして面会に来られないんでしょうねぇ、先生。」

「分からんよ、偉い政治家の考える事なんてものはね。分かっているのは、御子息

が流行り病で全員残らず死んでしまった事と、ここにいるのが昔囲っていた遊女との間にできた子だという事だけさ。」

「へえ。不憫な話ですねえ。」

「フン。こちらはいい迷惑だ。いいかい、ここは普通の病院なんだよ。火事のショックだか何だか知らないがね、頭がおかしくなっているのなら、とっとと精神病院にでも自分の家にでも閉じ込めてしまえばいいのだ。とにかく君ね、ここは四階だから心配ないとは思うけれども、このお坊ちゃまを二度と逃がさないようにしてくれよ。そう他の看護婦たちにも言うんだ。分かったね。」


 火事?遊女?夢の中で見た?


 やがて、扉の鍵が閉まる音がしたので少年は恐る恐る目を開いた。部屋の中には少年以外に誰もいなかった。


 少年はベッドから降りようとしたが、自分の体を思うように動かせない。筋肉が弱っているのか、とにかく体のあちこちが言う事をきかず、しまいにはベッドから落下してしまった。痛みでうずくまっていると、少年は自分の腕にどす黒い痣が出来ている事に初めて気が付いた。

 

 火事。

 

 少年の脳裏に、のっぺらぼう達の姿が浮かんでくる。

 大笑いしながら踊り狂っていたのっぺらぼう達。少年の周囲を飛び回り、挑発を繰り返していた、あの、のっぺらぼう達。

 

 彼らは本当に自分を嘲笑っていたのだろうか?

 なにか違う事情があったのではないか?

 例えば、そう。火にまみれて苦しがっていたのではないか?

 もしかしたら。もしかしたら……。

 

 じぶんを、のではないか?

 

 少年は黒い痣を食い入るように見つめた。

 いや、そうだ。そうに違いない。なぜなら、あれは。遊女の顔面の凹凸が溶けて崩れた拍子に見えたあの顔は……!

 

 少年は叫んだ。


 探し求めていた記憶はこんなものではないと信じたかった。推測と記憶と現実とがぴたりと合致しそうなのが恐ろしかった。


 頭を抱えてのたうちまわる少年の脳裏に、ひとつの映像が浮かんでくる。

 閉じ込めておきたかった、記憶。


 それは少年の父親だと名乗る、見たこともない男の姿だった。

 白髪の混じったあごの細い袴姿で如何にも裕福そうな出で立ちだが、少年を見るその目にいささかの憐憫もこもってはおらず、表情のひとつでさえ変える事はしなかった。


 火事の焼け跡で二人は初めて対面した。その時の少年は、家も母親も知人も全てを失い、煤まみれの状態で保護されていた。

 男は、このみすぼらしい少年の姿を見るなりシワガレた声でぼそりと言った。


「こんなのでも男は男だ。子種としては使えるだろう。」


 それが、映像の最後だった。以降の事は覚えていない。


 ……だがこの男の姿が、少年に現実を教えようとしてくるのだ。即ち、「お前の推測は間違っていない」と。

 あの時、自分のすべてを壊した男が、今また自分にトドメを刺そうとしてくるのだ。許せるものではなかった。抗わなければ。戦わなければ!こんな記憶は!!


 少年の叫び声に気付いた医師が看護婦を引き連れて病室に飛び込むと、室内はすでにもぬけの殻だった。

 白いカーテンが心地よさそうに風になびいている。

 医師はまさかと思い窓から階下を覗き込んだが、地面に何かが落下したような形跡はなかった。彼らはそれから病院の内外を探索したが、ついに少年の姿を見つけ出す事は出来なかった……。



 砂漠の中を、ひとりの少年が歩いている。

 灼けた肌に、切り揃えられた坊主頭。汗と砂にまみれた汚ない寝間着を着て、ひとりの少年が、歩いていく……。

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流転 長船 改 @kai_osafune

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