ワッフルとカフェラテ
嶌田あき
ワッフルとカフェラテ
「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。
「と、かけまして――」
汎用家事ロボットが持ち場を離れようとせず、こうしてわけの分からないことを言っては私たちをゲラゲラ笑わせた。陽当りのいい居間の隅にある給電ステーションから1ミリも動かなくなり、ときおり旧式のボディを軋ませて散歩にでも連れ出してくれと言わんばかりにウンウンとモーター音を鳴らした。でもそんなしぐさのせいで、顔も表情も名前もないロボットが、今日はなぜだか愛おしい。そいつはひとしきり騒いだあと、また同じことを言った。
「チャンスは残り三回です、とかけまして――」
「あは。なんかリョータみたい」
キッチンで麦茶を注いでいた私の口から、ふいにあいつの名前がこぼれた。
「――確かに。いつも三回だったよな。わはは」
居間で作業しているカイトが笑った。グラスを持っていくと彼はふぅと一息ついてから手を休め、美味しそうにごくごくと飲みほした。
「あー、これこれ。やっぱユカん家の麦茶がないと、夏がはじまらね」
「カイト小さいときから好きだよねー、麦茶のカフェラテ。おいしいの?」
「へっ? ふつう牛乳入れるだろ」
「ふつう入れないよ」
彼はへへへと鼻をすする仕草をしながら、少年みたいに額の汗を袖で拭った。
そういえば去年もこんなふうに暑かったな。ぼんやりと思い出しながらロボットのところまで行き、そっと筐体をなでてみた。
「どうしちゃったのかな。昨日まで、ぜんぜんふつうだったのに」
理由はどうせあれだ。家全体を管理しているホームボットがまた機能しなくなったせいだろう。
最初は、味噌汁の味がちょっと濃くなったとか、エアコンが効きはじめるのに時間がかかるようになったとか、そんな他愛のないものだった。みんなが日常生活で頼りにしているホームボットサービスの不具合は、はじめの頃はそれぞれの家でAIをホストしているGPUの故障か、せいぜいネット接続の問題だと思われていたのに、すぐに問題は全国に拡大してしまった。
やがて近くを走る幹線道路の交通管制システムが一斉にダウンし、市内全域の自動運転バスや鉄道の中に通勤客が何時間も閉じ込められるなんてことも起こってしまった。移動インフラの壊死は鉄道の乗り入れ網を伝って首都圏全域にまたたく間に広がり、物流も悲鳴をあげた。
「――ふつうって、なんなんだろね」
私がつぶやくと、カイトが静かにロボットをなでた。
最近では、水道、ガス、電気をはじめ、インターネット、銀行、ゴミ収集に至るまでありとあらゆる生活インフラが頻繁に故障するようになってしまった。ときどき再起動しては短い間機能するものもあったけど、すぐにまた停止するというありさま。修理もままならず、ネットのニュースはいつも私たちが受けている最新の屈辱に関する情報でいっぱいだった。それが普通で、それが日常だった。
便利のためのAIのおかけで不便が山積みになる皮肉を他人事のように嗤っていたのも昨日まで。機械オンチにして機械嫌いの私の家にもついにその順番が来てしまったと、今朝ほど観念したところだった。
カイトは膝立ちになってロボットを抱きかかえ、背中に手を伸ばしてメンテナンスハッチを開けようとしていた。
「あ、そっち持つよ」
「おう、たのむ」
円筒形のボディをお姫様抱っこするみたいにそっと受け止め、そのまま床にごとりと寝かせる。プラスチッキーな見かけによらず、かなり重い。中はどんな機器がつまってるんだろう。自慢じゃないが、私はこのコの制御プログラムのすべての行を読破している。けど、物理的な機械のほうはネジ一本交換したことがなかった。
「つーかさ『とかけまして』って何だろ? なぞかけ?」
カイトは持参した道具箱をごそごそと漁りながら、医者が問診するみたいに尋ねた。
「心当たりある? ゼロショットでこれ……じゃないよな?」
「ニューラルネットはいじってない。
「これ前から言ってた?」
「ううん。はじめて――この1年で」
私が首をかしげるとカイトは作業の手をぱたりと止め、申し訳無さそうに後ろ頭をかいた。
「……そうか。もう、1年になるのか」
おととしの夏からつきあっている彼氏がいた。
小学校の頃の同級生で私とカイトの共通の幼なじみだ。たまたま大学のサークルで再会し、少し気になるかもってくらいの頃にむこうから告白され、お試しでスタートした。はじめはほんの軽い気持ちだったんだけど、いろいろな時間を一緒に過ごしていくうちに、気づけば大好きになっていた。趣味が合うっていうよりも、大事に思っていることとか食べ物の好き嫌いが似ているのが、たまらなく居心地良かった。親の説得に失敗したせいで同棲はできなかったけれど、めげずに家に通った。彼の作ったシュガーワッフルをふたりで食べながら、推してるバンドの動画を見るのが好きだった。冬休みにはサークルの仲間と一緒にスキー旅行にもでかけた。
そこで事故にあった。
彼がジャンプに失敗して背中から落ち、頚椎を強く打ったのだ。一命はとりとめたものの、もう自分の力ではほとんど体を動かせなくなってしまった。何度も手術に臨み、そのたびに彼はロボットみたいにぎこちなくなっていった。いつも私たちに心配かけまいと「チャンスは残り三回」とか言って場を和ませてくれてたけど、脳チップ埋め込み手術の甲斐もなく、結局生活のほとんどをホームボットシステムに頼らざるを得なくなった。すぐに一人暮らしのアパートに汎用家事ロボットやスマート家電が運び込まれ、すべてをホームボットが管理した。当面の生活には不自由しないはずだった。
やがて生活も安定したのか大学にも戻ってくることができ、サークルにも顔を出すようになった。私たちが大喜びで迎える中、彼だけはいつも浮かない顔をしていた。
彼は私とふたりきりになると、まだ動かせる手で私の頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。そうして、決まってこう尋ねるのだ。
「ほんとうに俺でいいのかな……」
「えっ?」
もちろん不安がないと言えば嘘になる。頭ではわかってる。ホームボットシステムやスマート家電はもう導入してない人のほうが珍しいくらいだったし、汎用家事ロボットが金持ちの道楽なんて時代もとっくに終わっていた。それぐらい、衣食住のソフトウェアリゼーションはふつうのことだった。それでも、私はなにか目に見えないものに怯えた。
「――ソフトウェアが、彼氏でいい?」
普通の彼氏彼女ならあたりまえにできることが、できないのだ。
授業終わりの早かったほうが昼休みの食堂の席を確保しておくことも、切らした牛乳を買いにコンビニに走ることも、彼の作ったワッフルをふたりで頬張ることもできない。あれもこれもできない。そう思うと、なぜか涙がこぼれた。
どんなにのろくても、車椅子は私が押したかった。
下手くそでも、家事ロボットの代わりは私でありたかった。
だからずっとそばにいた。授業が終わったら真っ先に彼の家にむかった。用がなくても、ちょっと鬱陶しいなって思われていたとしても、毎日毎日、通った。病院も一緒に行って、サークルも一緒に顔を出した。それが、私の幸せだった。
その彼が頭を打って亡くなった。
スマート車椅子と家事ロボットがキッチンで接触事故をおこし、彼は車椅子から転げ落ちてしまったのだ。ふつうなら庇い手も出るし、高さもそれほどなかったから打撲ですみそうなものだったが、打ちどころが悪かったらしい。
なにがらくらく車椅子か。なにが見守りホームボットか。機械まかせの日常。ふつうじゃない普通。食堂の席はオンライン予約するよ。牛乳のストックはデジタルツインで見張る。ワッフルはリョータの味になるよう私が頑張るよ。だから、だからさ――。
私が見たときには彼はもう事切れていて、家事ロボットがフレームエラーを起こし、おたおたと立ち往生しているだけだった。
「いつから繋いでないの?」
カイトはロボットと手元のラップトップをつないでるケーブルをひとつずつ丁寧に引き抜いていって、最後に基板を隅々まで確認してからハッチを閉じた。
「引き取ってきてから、ずっとだよ」
リョータの事故で調査のために警察に預けられていて、そのあと分解処分されそうだったのを無理言ってもらってきたのがこの家事ロボットだった。
「なんかさ、アップデートされたら、消えちゃいそうで」
「何が?」
「その、つまり……リョータとの思い出、かな」
ロボットのドライバをアップデートしたとしても、管理するホームボットをネットに繋いだとしても、AIのパラメータは更新されない。的はずれで非科学的なことを言ってるのは、わかってる。でもこういうとき、カイトは私をぜったい否定したりしないんだ。それもわかってる。ずるいってわかってる。
「そっか……そうだよね」
カイトはそうつぶやいてから「この幸せ者め」とぐったり横たわったままのロボットを小突いた。
私たちの生活にもともと組み込まれていた冗長性は、AIの進歩とそれがドライブする
「直った?」
「どうだろ。ぱっと見、おかしなところはねぇな」
「リョータもそうだった。脳に異常は見つからなくて、たぶん信号が身体に行ってないせいだって」
「かもな。とりま、再起動」
「あーそれも久々聞いた」
カイトが少し照れ笑いした。
「ふつう再起動するっしょ」
「うん。ふつう再起動する」
私たちは過去にすがるしかなかった。
ある科学者が長い間放置されていたデータセンターから論文のプレプリントサーバーを復元し、まさにこの問題を予言していた大量の論文を発掘することに成功した。それは、自動化システムに依存した人間社会がどのようにして大規模な失敗に至るかを克明に論じたものだった――
その実践という高尚な目的を持ってはじまった私たちのサークルだったが、目下の活動といえばもう誰も寄り付かなくなった大学図書館の紙の本を漁ったり、なおし方の分からなくなったロボットやAIを分解しては「とりま再起動」「やっぱ分からん」と匙を投げたりすることだった。夏休みには自動化率の低い民家をまわり、差し出された麦茶を飲みながら紙の説明書を頼りに故障した家事ロボットやスマート機器を修理して小銭を稼いだ。
機械いじりが好きなカイトみたいなやつと、紙の本をめくるのが楽しくて仕方ない私みたいなやつ。どっちにしてもメインストリームの外に棲むサブカルな集まりを、リョータみたいな陽気な人が束ねる、そんなサークルだった。私たちが抱えていた行き場のない熱量は、リョータの手にかかるとまるで料理でも作るみたいにたちまち地域の問題解決に生まれかわった。
修理できなくなったブラックボックスは交換するのが普通。だから、壊れたロボットやソフトウェアをなおす私たちの活動は、社会から見たらただの異常行動だった。けれど、そのことで私たちが落ち込むこともなかった。何が「ふつう」で「日常」なのかを私たちだけは知っていて、私たちだけはそこに戻れると心の底から信じていたから。
カイトのふつうは麦茶のカフェラテで、私のふつうはリョータのワッフル。リョータのふつうは何だったんだろう。それを聞くチャンスを失ってから気づくなんて――ばかだ。
給電ステーションに戻された家事ロボットが軽妙な起動音を響かせた。すぐに腕と足元のサーボモーターのキャリブレーションが始まる。今度こそ、ちゃんと動いてくれそうだ。
「――チャンスは残り三回です、とかけまして」
期待をよそに、またもや楽しげな声がリビングに響いた。
「はぁ……ダメか」
肩を落としかけた次の瞬間、ロボットが発した言葉に私はそこから動けなくなってしまった。
「ホットサンドメーカーと解く、その心は?」
リョータの事故のとき、ロボットの手にはホットサンドメーカーが握られていたのだった。直火式の結構しっかりしたもので、サクサクの焼き目のつくのがお気に入りだった。あの日は私の誕生日で、今日みたいに暑い夏の日だった。立派なケーキは要らないという私に、ならシナモンのきいたシュガーワッフルを作ろうと彼が言い出して、車椅子でキッチンをうろうろしていたっけ。
「ねぇユカ、サンドの機械どこしまった?」
「あー、ホットサンドメーカー? 上の棚。まって、私とるよ」
「サンキュ。ってなんでユカそんなにニヤニヤしてるの?」
彼が不思議そうに私を見た。
「だって『サンドの機械』じゃふつう意味わかんないよ?」
「だからいいんじゃん。ユカに通じればそれでいい」
ホットサンドメーカーの箱を棚から下ろして彼に渡すと、家事ロボットがやってきて私はキッチンから追い出された。
「リョータのワッフル、久しぶり。めっちゃ楽しみー」
ダイニングテーブルで頬杖をつき、二人――というか一人と一台――の様子を見守ることにした。
「さーて、ちゃんと言うとおり動いてくれよ、俺の身体」
彼はそう言って家事ロボットに目配せしながら冷蔵庫を開け、そこで「あっ、いけね。牛乳切らしてる」なんて呟いてから、いそいそと出かける支度をはじめてしまった。
「ちょっと待ってて、俺すぐ買ってくるから」
「えっ、あっ、いやいいよ。私行ってくるよ」
――いっしょに行こうって言えばよかった。
「今日めちゃくちゃ暑いから、赤外センサきっとエラー吐く。こないだもそうだったじゃん」
――いっしょに行こうって言えばよかった。
「サンキュ。じゃあお願い。自動の車に気をつけて。交通管制システムがダウンしてるっぽい」
それが彼との最後の会話になってしまった。
「こいつ、なにか知ってるんじゃないか?」
というカイトの声で私はハッと我に返った。
当初、警察は転落が不自然だからホットサンドメーカーを凶器にしたロボットによる殺人事件を疑っていたけれど、結局、事故として処理された。
「なぞかけに答えたら、なにか教えてくれるとか?」
そんなはずないじゃん。それでも、私がねえもう一回、と話しかけようとしたちょうどのタイミングで、ロボットが楽しげな声を発した。
「チャンスは残り三回です、とかけまして、ホットサンドメーカーと解く」
カイトが
「――そのこころは?」
といたずらっぽく付け加え、少年みたいな目で私をじっとみつめた。
考える。
考える。
考える――。
あっ。
「………………サンドのキカイ」
「は?」
「サンドのキカイ!! リョータ言ってた! どうして今まで気が付かなかったんだろう!」
「ああん? 何て?」
「なぞかけの答え!」
「えっ……?」
チャンスは残り三回です、とかけまして、ホットサンドメーカーと解く。そのこころは――
「まじか!」
カイトが大げさに振り返り、羽交い締めするみたいに家事ロボットと肩を組んだ。
「三度の機会か!」
「サンドの機械よ!」
「うわはははは。こりゃすげえ。どちらもサンドのキカイでしょう、か」
ホットサンドメーカーは長すぎるからって。誰にもわかってもらえなくても、私に伝わればそれで良いんだって。それがリョータのふつうだった。
「ピンポンピンポーン」なんていういかにもな電子音が流れ、ロボットは何か悪いウイルスにでも感染したみたいにぎこちなく小躍りした。
「――んで、どこいったんだよ、その『サンドの機械』は?」
「えっ?」
「だって、その、最後に持ってたんだろ、そいつが」
家事ロボットを顎で指すカイト。間の悪さを感じ取ったわけもないのに、ロボットは円筒形のボディに腕をぴたりと収めて静かにしていた。
あの日、牛乳を買って帰ってあの惨状を見て。私は呆然とすることもできずに逆に冷静になって警察を呼んで。結局、救急車は来ないことになって。それで、ロボットは警察に連行されていって……その手にはホットサンドメーカーが――――なかった。
なかった。
数少ない遺品の多くは私が預かってるから、もしかして何かに紛れてうちに来てる? そう思ってキッチンを見るとカイトがすでにがちゃがちゃ物色し始めていた。おどろいた顔を見るに、もうお目当てのものを見つけたらしい。幼なじみとはいえ、ふつう女子の家のキッチンの戸棚をあんなに勝手に開けるものかな。それより気になるのは、振り返った彼が喜ぶふうでもなく、ひどく青ざめた顔をしていることのほうだった。
「あーわりぃ……やっぱだめだ」
カイトはなにかを振り払うようにぶんぶんと頭をふり、そのまま箱を抱えて家から飛び出していってしまった。
「えっ!? ちょっとまって?」
一体何が起こったのか分からない。でも、逃げるなら追うしかない。
目に留まったミュールをつっかけ急いで外に出る。家の前のゆるい坂をよろめきながら駆け下りて、単線の踏切をわたった。今日も電車は遅れている。堤防沿いの道をひたすら追いかける。
「まってってば! 一体どうしちゃったの?」
カイトは堤防が途切れたところからさっさと浜のほうに降りていき、何度呼んでも振り向いてくれやしない。ほんと、どうしちゃったんだろう。
――まさか、サンドの機械が、欲しかった?
そんなはずはない。けれど、まったく思い当たるフシがなかった。故障したロボットを直していたらカイトまでバグった、としか考えられない。肩で息をしながら乾いた砂の上をひた走るカイト。波打ち際まで出て、リズムよく呼吸して追う私。
「まあてぇえー!」
「だめだって、やっぱだめだああ」
「なにがよお! ちょっとおおお」
邪魔になったミュールをバトンみたいに持ち、裸足でひたすら走った。こっちのほうが断然いい。力をかけると素直に応えてくれる、足元の湿った砂が気持ちいい。スピードに乗り汗で張り付いてた髪も風で流れ始める。
走る。
走る。
「はぁ、はぁ、はぁ」
だんだん彼の息切れが近づいてくる。その背中に手を伸ばし――
「元インハイ出場なめんなああああ!!」
こう見えて、高校時代は陸上部。
もう、どうとでもなれだ。
カイトにむかって、一気に飛びかかった。
「ぅわっまじか」
「カイトぉお、観念しろぉ」
そのまま私たちは団子になって砂浜を転がり、勢い余って波打ち際に倒れ込んだ。濡れた砂の感触。ときおり冷たい波が火照った体を洗った。
「はぁっ、はあっ、はあっ……」
カイトを見ると、彼は必死で手を伸ばしサンドの機械を宙に浮かせて波から守ってくれていた。一体、何がそんなに大事なんだろう?
「……何やってんだろうな、俺」
そのまま仰向けになって寝転んで、二人してお腹を抱えて笑った。
「ほんと、私たち、何やってんだろうね」
二人で静かに波打ち際を戻り、乾いた岩の上に腰を下ろした。カイトに促されるままにサンドの機械を開けると、そこから手紙が出てきた。
〈これ以上君を傷つけたくない。今までありがとう。別れよう。〉
きれいに折りたたまれた便箋にリョータの字。
「別れよう」の文字がぐちゃぐちゃに乱れてた。どんだけ悩んでこの4文字を書いたんだろう。何回、この手紙を私に手渡すチャンスを見送ったんだろう。わざわざ書いて残してくれていた優しさが痛い。読み返すたびに、鼻の奥がつんとした。涙と震えがとまらないよ。
この手紙を準備していたってことは、そういうことなんだ。
リョータは自分がもういつ死んでもおかしくないって、きっとそういう一分一秒を生きてたんだ。そんなの全然知らなかった……。機械に見守られる死と隣り合わせの生活。怖くないわけがない。それに気づけなかった私はなんだ。彼女になったって浮かれてて、AI任せにして勝手に安心して。一緒にいるだけなんてロボットでもできる。私、ぜんぜん人間失格じゃん。
どんなかたちでもよかった。
生きていて欲しかった。
私には他になにもないから。
いくら歯を食いしばって目をギュッと閉じても、涙がどんどん溢れてきてとまらなかった。私はばかだ。ほんとうのばかだ。
「手紙、リョータから頼まれてたんだよ。ユカに渡してくれって」
頬の上で行き場をなくしていた涙を、カイトの指が優しく拭った。
「……そうだったんだ……」
「でもよ、頼まれたとき、直感、これユカに見せないほうがいいなって思っちゃったの。あー、断っておくけど、手紙の中身は見てないよ」
「うん。うん。わかってるよ。カイトは絶対そういうことしない」
手紙を捨てるわけにもいかなくて、ここに隠しておいたらしい。
「別に、渡してくれてよかったよ?」
「いや、むり」
「なんで?」
私の言葉にカイトは目を丸くし、大きなため息をついてからゆっくり口を開いた。
「俺さあ……ユカのこと、友達としてじゃなくて、好きだよ」
「……うん。ありがとう」
「うはっ。その顔は知ってたな……まぁそうだよな」
オレンジ色したカイトが微笑む。私は夕陽が眩しくて目を閉じた。
「ふつう、気づくよ」
頬がヒリヒリした。
「だよな。いや、たぶん俺が一番遅かった――自分の気持ちに気づくのに。リョータは知ってて、それであいつ『ユカを幸せに』とか俺に手紙を任せたわけ。そんなの渡せねぇだろ」
そうだね。
講義室でぼっちの私を見つけてくれたのも、サークルに誘ってくれたのも、そこでリョータを紹介してくれたのも、ぜんぶカイトだったよね。ごめんね。ずるいよね。どんなに世界が壊れても、隣にいてくれてたのにね。
「だからリョータに言ってやったんだよ。ユカを泣かすな。俺がなんとかする、って」
それからカイトが手伝って、リョータは必死で家事ロボットを訓練したらしい。リョータらしい振る舞いをするように、美味しいワッフルが焼けるように、って。脳のチップもその一環だったという。
「ユカも聞いたろ、脳に異常はなかった。だけど、しばらく身体を動かしてないと動かし方を忘れちゃうんだって」
世界と同じだ。長いことふつうの動作をしてないと、元に戻れなくなる
「だからリョータと相談して決めたんだ。いつ神経が元に戻ってもいいように、脳に身体のことを忘れさせないようロボットにつないでおこうって」
リョータがロボットみたいにぎこちなくなったんじゃなかった。ロボットがリョータ化していったのだ。リョータとロボットの間でしか通じない言葉が生まれたことを、カイトが「身体同期による記号創発」と説明してくれた。さっぱり分からん。私とリョータの「サンドの機械」もそれかな。ロボットは事故のあとも学習を続けていて、きっとそれが今日になって花開いたのだ。
「……そ、それじゃあ」
「ああ」
カイトが堤防を指差した。そこには家事ロボットがいた。どうやってここまで来たんだろう。手を大きく振り、そのまますごい勢いで階段のほうへ飛び出して――
「おいおいおいっ」
カイトが飛び出し、私もすぐ追いかけた。
ロボットはまさかのジャンプを成功させ、そのまま砂浜にダイブ。そこでスタックして身動きひとつ取れず、
「あ」
目をこする。一瞬、リョータが重なって見えた。
「かもな」
横で同じようにしていたカイトと目があって、ふたりでゲラゲラ笑った。
家に戻り、さっそく家事ロボットをキッチンに立たせてみた。
「サンドの機械」
と言うのでホットサンドメーカーを渡してあげると、冷蔵庫から次々と材料を取り出してきて、あっという間にシュガーワッフルを作ってくれた。
ひとくち食べて、涙が溢れた。1年ごしの誕生日プレゼント。カイトの作ってくれた麦茶ラテともよくあった。
「美味しい……おいしいよ」
私が言うと、キッチンでロボットの楽しげな声が響いた。
ワッフルとカフェラテ 嶌田あき @haru-natsu-aki-fuyu
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