第2話 磯山貴子の脚本、完成。
「きゃ、きゃくほんって…?」
「そのままの意味ですよ。この脚本に少し手を加えたいのでは、と思いまして。」
目の前にスッと差し出されたのはノートサイズの紙をホチキスで止めたような物。表紙には”磯山貴子“と書いてある。
「私の名前…どうやって?」
「あなたの脚本ですからね。もちろんあなたの名前が載ってます。さ、ぜひ開いて、ごゆっくり見直してみてください。」
スタスタとキッチンの方に向かうマスターの背を半ば呆気に取られながら見送る。
そして、恐る恐るその”脚本“とやらを手に取りページを捲る。丁寧に目次まである。
「なになに…誕生の章?」
“おぎゃあ、おぎゃあ”
”あぁ、無事に生まれて本当によかった。あなたの名前は貴子よ。“
“貴子、可愛いなあ。ほらパパだよ。”
もちろん貴子には生まれたばかりの時の記憶なんてない。だがこれを読む限り、この誕生の章とはまさしく貴子が誕生したその瞬間のようだ。
脚本に向けていた目を、キッチンに立ち何やら作業をするマスターの方へ向ける。
こちらの視線に気がついたのか、顔を上げたマスターはニコリッと口角を挙げ、続きを、と促すように目配せした。
まだ信じきれた訳ではない。だが気にならない訳ではない。
パラパラと読み進める。
“お母さん、私この色がいい。”
“あら、素敵ね。とってもよく似合うわ。”
“今の子は、ランドセル赤くなくていいのか?お父さんの時なんかは黒か赤って決まってたぞ。”
“いやね、あなた。時代は全然違うんだから。ほら見て。水色や紫もあるのよ。”
“たしかにな。貴子はそれでいいのか?ピンクもあるぞ?”
“私はベージュでいいの!”
“長く使える色だし、とてもいいと思うわ。それにしましょう。”
そんなこともあったな、と微笑む。
入学してみるともちろん赤や黒のランドセルを背負っている同級生の姿もあったが、大抵はカタカナでしか表記されないような色だった。トルマリンブルー、なんていう色があることを知ったのも、友達のランドセルがきっかけだったような。
“お母さん、私もこの人達みたいにやってみたい。”
”あら、貴子は女優さんになりたいの?かっこいいわね。”
これは有名な舞台を見に行った時だ。動物をテーマとしたものだったが壮大な舞台設定と、音楽、歌、そして舞台の上でキラキラと輝く役者さんを観るうちに、自分もここに立ちたいと思うようになったのだ。
“将来の夢は女優になることです。そして大きな舞台に立ち、海外でも活躍できるようになりたいです。”
“はい、磯山さんありがとう。みんな拍手〜”
これは中学の時。クラスで将来の夢を発表し合ったのだ。
医者になりたい子、野球選手やサッカー選手になりたい子、そして私と同じように人前に立つ仕事をしたい子が純粋に夢を語るあの空気は、まさに青い春そのものだった。
“なんで演技科に行っちゃダメなの?夢を応援してくれるっていったじゃん!”
“貴子、聞きなさい。夢を追いかけるのもいいけどね、現実を見て、何かあった時のために保険をかけるのも大事なのよ。高校の演技科じゃなくても大学でそっちに進めばいいじゃない。”
“それじゃあダメなんだってば!周りに遅れをとっちゃうの!”
「…。」
“大学で演技をやればいいって言ったじゃん!なのになんで今更そんなこと言うのよ!”
“貴子、もう現実を見ようよ。今までだって何回か応募してみて、上手くいかなかったんでしょ?ならばもう別の道を探したほうがいいのよ。手遅れになる前に。”
“手遅れ?!そんなふうに思ってたの?!”
“手遅れになる前に、よ!このままズルズル引きずってないで新しいことに目を向けたら、って…”
“演技の勉強ができないなら大学になんて行かないから!”
“ちょっと、投げやりにならないで。勉強しながらでも、またやりたければオーディション受けてみたらいいじゃない?ただ勉強は勉強でしっかりやって欲しいだけで…”
“そんなんじゃ意味ないんだって!!”
“貴子…”
中学卒業時から、写真やビデオを選考に送っては“返事のない返事”を受け取っていた。両親にはあえて言っていなかったのだが、オーディションを受けるための選考に応募していることも、そして返事すらもらえてないことも、バレていた。
“あんた、大学の出願出さなかったって本当?!学校の先生から連絡来たわよ!!”
“私、東京に出て働きながらオーディション受けるから。”
“何言ってんのよ…。あんたそんなの長続きしないってわかってるでしょ?せめて大学行きなさいよ!”
“勉強したくもないこと4年間もできないから!そんなの時間の無駄。”
“馬鹿なこと言ってないで今からでも間に合うところがあるか、先生に電話して聞いてきなさい!”
“何から何まで口出して文句言って、いい加減にしてくんないっ?!”
“親なんだから当たり前でしょ!文句じゃなくてアンタを心配してるから言ってんのよ!”
“親なんだから?!一回も親になってくれなんて頼んでないっしょ!ほっといてよ!!”
“ちょっと貴子、待ちなさいよ!貴子!”
“うるさいっ!もうこんな家出てく!!”
はあ…っと大きなため息が出る。急にずしり、と肩が重くなった。
結局、無理だったのだ。一年どころか、東京に来て半月した頃には薄々気がついていた。
この街には見た目の良い人なんて星の数ほどいる。足も長いし肌も美しく、内側から発光しているようにすら見える。
私も小さい頃から、可愛いと言われる部類だったと思ったけど、そんなのは田舎の分母が少ない場所だったからだ。
オーディションに行っても、現役の女優と見紛うほどのオーラを持つ同世代の子に圧倒されっぱなしだったのだ。
しかしもう戻れないと思った。
啖呵をきって家を飛び出し、自分で退路を絶った。もう戻る家はない、前に進むしかない、と自分を叱咤したのだ。
「コーヒーのおかわり、いかがですか?」
じんわりと涙が滲んできたとき、マスターがコーヒーが入った新しいカップを持ってやってきた。
涙がこぼれないようになるべく瞬きをしないまま、軽く会釈する。
カチャ、カチャと小さな音がし、目の前にコーヒーが置かれた。
「それで、どこに一文足すか、決まりましたか?」
「一文?…あ。」
脚本を読むのに夢中になっていたせいか、本来の目的を忘れていたがこの脚本に何か加えろと言っていた。だが例えばそうしたとして、いったいなんの意味があるのだろうか。
「一文足すとどうなるんですか?」
「何も。」
「何も?」
「はい、何も、どうにもならないです。」
「はぁ…。」
「誠に残念ながら。」
「えっと…じゃあ現実世界にはなんの影響もないんですか?」
「はい、なんの影響も無いです。もう一度やり直せるなんて言うそんな都合のいい話もございませんね。」
「じゃあ…なんで?」
「そうですね…。あなたが、後悔しているようだったので。」
後悔…か。
声に出さず反芻する。
窓の外はすでに夜の色に染まっている。このお店はいつまで開いているんだろう、とふと思うが、もうそんなことはどうでもいいような気がした。
脚本を開いて、もう一度パラパラと目を通す。
「では、決まりましたらこれで書き入れてくださいね。脚本を書く時、前後のバランスもとても大事ですので必要とあれば一文消して、書き直しでもいいですよ。」
スッとマスターが赤ペンをエプロンから取り出し、テーブルに置いていく。
なんの変哲もない、普通の赤ペンだ。
「赤ペンなんて、高校卒業して以来だな。」
右手に馴染まないその赤ペンを握り、クルックルッと2回ほど回す。
私が後悔していること…言いたかったこと…。
脚本の後ろの方の章を開き、つい最近の母との醜い通話の脚本ページを探す。
ああ、あった。これだこれ。
“大体親は子供の夢を応援するのが普通なんじゃないの?!なのにどうしてそんなふうにケチつけて来るわけ?!”
“…。”
“…なによ、急に黙り込んで。なんとか言ったら?!”
“…貴子。”
“はいはい、犯罪に手を染めるなとか言うんでしょまた”
“貴子。”
“…だから、なに”
“…いつでも帰ってきていいんだからね、家に。本当はもう辛いんじゃない?”
母と私はよく似てる。私を知る同級生らはなぜか穏やかなイメージを抱いていた母だったが、実は“かあちゃん”と呼ぶ方が似合っていると言えるほど肝が座っており、貴子と似て頑固なところがあったりする。
その母が帰ってきてもいい、と貴子に言うのにどれほど勇気が必要だったか。冷めた頭で考えると驚きにも近い感覚になる。
“…うるさい”
“貴子…”
“うるさいんだよっ!もう2度と電話してくんな!縁切るから!!”
そして、そんな母の娘たるや私も、なんと頑固で融通がきかないことか。遺伝子レベルで組み込まれた頑固さなのだ。そう簡単に押したり引いたりはできない。
だけどもしあの時、一言、言えてたら。
カチッと赤ペンの上の部分を押し脚本に向かう。消す必要があれば、だなんて。丸ごと全部消してしまいたい部分もあるのに随分と意地が悪い。
私は本音を言うのが苦手だ。特に母には、なぜか強がってしまう。
だからこんな形でしか、書き直せない自分の頑固さに若干苦笑してしまう。
「できました。」
「はい、どれどれ。…ははは、とても貴子さんらしくて良い脚本ではないですか。」
「私らしい…ですか。」
「ええ、あなたらしくてとても良いです。これがあなたの本当の脚本なんですね。」
「はい…うん、そうですね。私が本当に言いたかった一文を載せた脚本です。」
*
*
*
*
「どうした、紗智子。大丈夫か。」
「あぁ…おはようあなた。ちょっと面白い夢を見てね。」
「へぇそうか。どんなだ。」
「私とあの子が、電話で喧嘩した時のこと覚えてる?」
「もちろん。随分お前も気に病んでたからなあ。」
「夢でほとんど同じやりとりをしたのよ。ただ最後だけ少し違ってた。」
「どんなふうに?」
“貴子はこれと決めたら絶対に曲げないけど、でもそれが自分の首を絞めることもあるから…。”
“…。”
“だから…自分からは言い出しにくいだろうけど、いつでも帰ってきて、やり直したっていいんだからね、貴子。”
“…。”
“…うるさい”
“貴子…”
“うるさいんだよっ!もう2度と電話してくんな!そんなに言われると、家に帰りたくなるでしょうが!!”
“え…。”
“…。”
“…分かった。貴子、今どこにいるの?明日お母さんが迎えに行くから、今日準備だけしておきなさい。一緒におうち帰ろう。”
“…ちぇ、しょうがないなあ。”
「ははは、貴子も全くどこまでも頑固だな。」
「そうね、本当にね…。」
「…紗智子。ちょっと窓を開けて掃除でもするか。こんな家だと、紗智子も帰るに帰れないだろう。」
「そうね…。そうよね。そろそろ、起きなくちゃね。」
*
*
*
智幸は空のカップをお盆に乗せ、テーブルを拭いた。
店長は先ほどのお客様の脚本を、バーカウンターで熱心に読んでいる。
「あれでよかったんですかね。」
「なにが?」
「あのお客様ですよ。もう少し、気の利いた一文にするとか、店長からアドバイスしてあげればよかったじゃないですか。」
「いや、あれが1番いいんだよ。」
パサリ、と閉じた脚本をバーカウンターに置く。
「彼女はあの電話のことをとても気にしていた。ずっと後悔していて、先に進めなかった。」
「…。」
「そして彼女のお母さんもその電話の一件から前へ踏み出せていなかったんだ。もっと何か言えていればと自分を責め続けていただろう。殻に閉じこもってしまっていたはずだ。」
智幸はバーカウンターに置かれた貴子の脚本を取り最後のページを見る。
“2022年3月18日、歩道で信号待ちをしているところ自動車に撥ねられ搬送先で死亡。磯山貴子、享年19歳。”
「もう亡くなって1年も経っていますね。」
「自分が死んでることに気づいていない人は多い。成仏できない原因の多くは彼らが生前やり遂げられなかった後悔が元になっているんだ。」
「でもどうやって見分けるんですか?自分はまだ死んでる方と生きてる方の見分けがつかないです。」
「ふふふ。ユキもまだまだ修行が足りないな。」
さて、と店長は脚本を手に取ってバーカウンターから立ち上がりキッチンの方へ回り込む。奥の棚の扉を開け、ア行の仕切りのところに磯山貴子の脚本を仕舞う。
「さぁ、ユキ。今日も閉店作業をして帰ろう。」
外は真っ暗だ。だが、なぜか暖かく、明るいような気がした。
その名シーン、未完なり。 五日市カガミ @TayoriHitohira
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