9
矢印の下に太い黒の明朝体で「小島家」の三文字が大きく印刷されている。その貼り紙を目にしたとき、私の隣には明石が立っていた。私も明石も黒の喪服姿だ。
「棺桶はあるの?」
そう私が聞くと、明石は
「一応ある」
と答えた。少し躊躇したあと、私は
「ご遺体は?」
と尋ねた。すると明石はまたしても、
「一応ある」
と答えた。
矢印の方向へ歩いていこうとする明石を引きとめ、私は
「ごめん」
と言った。
「ごめん、私は行けない」
どういう顔すればいいか分からないし、明石ちゃんほど仲良くもなかったし……そのような言い訳を私は脳内にずらりと並べ立てた。しかし、明石は「なぜ」とは問わなかった。
「そっか」
明石はそれだけ呟くと、
「じゃあここで待ってる?」
と私に問いかけた。
「うん。そうする」
私は流れでそう答えた。しかし、なぜ自分が明石を待たなければならないのかはよく分からなかった。いまだ現実感の伴わない私を残し、明石は一人葬儀場へと向かっていった。かくして私は貼り紙の前に一人取り残された。
私が電話を切ってから三十時間後、すなわち翌日の午前八時ごろ、小島の溺死体は港湾の労働者によって発見された。彼女の体内には大量のアルコールが残留していたという。変死体であることから警察は彼女の遺体を一週間の司法解剖にかけた。自殺・他殺・事故。その三つの線を探ったが決定的な手がかりは見つからなかった。最終的に警察は、遺族の心情を鑑みて死因を事故と結論づけた。調書によると彼女は港湾の近くで大量の酒を飲み、泥酔状態で海へ転落したのである。「警察は実は事故じゃないと考えてたんじゃないかな」と明石は私に言った。すなわち、警察内では自殺説が根強かったからこそ、彼らは遺族の気持ちに寄り添って事故と結論づけたのだ、と。日本の警察はそれほど情にもろいのかと私は不思議に思ったが、明石の言うことも確からしく思われた。
電話の直後に飛び込んだのではないということを知り、私の臓腑を重く縛り上げていた自責の念は多少軽減された。そしてその時を境に、私の精神は呑気にも小島の死因について自分なりに推理し始めた。その推理は突飛な方向へ転がっていくのが常だった。小島が死んで喜ぶのは誰だ? まず横光だろう。小島は横光を恨んでいたが、そのじつ叱られたいという欲望を持ってもいた。横光が真摯な態度で謝罪し関係の修復を願ったら、小島は彼のもとへ戻るのではないか? そしてそれを利用して横光は小島に酒を飲ませ、彼女を海へ落としたのではないか? しかしすぐさま私はそのような突飛な論理を頭から掃き出した。こんなもの推理とは言えない、ただの妄想だ。しかしそう何度自分に言い聞かせても、小島殺害の下手人を探る私の似非推理は意志とは無関係に私の思考を埋め尽くしていった。
実を言うとその似非推理には私の仄暗い欲望が隠されていた。私は小島の死因を他殺だと妄想することにより、彼女の死因が自殺だった場合に自らが被ることとなる倫理的責任から逃れようとしていたのだ。いや、しかし彼女が自殺するとは考えにくい。あれほど他から罰されることを求める人間が、果たして自らを罰することに成功するだろうか? あのような状況に落ち込んでしまった人間にはもはや自ら命を絶つ力すらないのではないか? いや、しかし……私の思考は螺旋を描いて陰鬱な奈落へと下っていった。そのとき私の視界に明石の姿が映った。明石はすでに帰ってきていたのだ。
「早かったでしょ」
そう言うと明石は香をつまむ動作をして、
「焼香だけ済ませてきた」
と語った。意外だなあと私は思った。小島が生きていた頃にはあれだけ泣いていた明石が、今日はまったくの平常心だ。ひょっとしたら、私が小島の死を知るまでの間に感情の整理を終えていたのかもしれない。
そう思ったとき、私は明石の手に何かが握られていることに気付いた。布で作られた、お守りのような小さい袋。
「なにそれ」
そう私が明石に問うと、明石は
「ああ、これね」
と言って袋を振り、
「これ、小島ちゃんの髪」
とさも当然のように私に答えた。
「髪!?」
「うん」明石は袋を眺め、その表面をわずかに撫でた。「中に入ってるんだ。ご遺族の方にお願いしたら快諾するどころかこんなものまで作ってくれてさ、ありがたいよね」
私は明石の全身をまじまじと眺めた。気色が悪い。これほど気味の悪い人間を自分は今まで友人だと思っていたのか、と私はそら恐ろしく思った。また同時に私は、そのような願いを伝えられるほど生前から明石が小島及びその家族と親しくしていたのか、ということを想像し、ふたたび寒気をおぼえた。明石は私の家族とも親しくなりたいと思っているのか? もし私が死んだら明石は私の髪も袋に詰めて保管するのか? そのような思念が一挙に全身を駆け巡ったが、私はそれを一切おもてに出さなかった。不快感を表明しない方法を心得ている程度には、私も大人なのである。
「いいと思う」
私は切なそうな微笑を浮かべ、そう明石に言った。
「すごくいいと思うよ」
「ありがとう」
そう言うと明石は小島の髪の入った袋を握りしめ、
「私、戦おうと思う」
と私に伝えた。そのときの明石の眼は決然と私を見つめていた。そのとき私は、あの朝礼の前に明石から感じた決然とした印象の意味を理解した。
「いいと思う」
私は再度明石にそう言った。
「すごく応援してる」
「ありがとう」
ありがとう。明石はただ一言そう返答した。私はじゃあねと言って一八〇度後ろを向くと、一歩一歩明石から遠ざかっていった。その私の姿は、第三者の視点には明石から逃げているように映ったかもしれない。
私はひとり道を歩いていた。周囲には誰もいない、何もない。ただ前へ向かう私の足音のみが聞こえる。なぜ前へ向かう? 私は自問した。分からない。すでに前を向いているからという以外、理由はないのかもしれない。
そのとき、私は新たな記憶が自分のうちに蘇るのを感じた。
視覚情報はない。ただ耳元でラジオが鳴っている。今日の昼頃、……県……市在住の須磨……ちゃん一歳が煙草の吸い殻を誤飲、病院に運ばれましたが死亡が確認されました。警察は母親を……の疑いで……あれ、私はこのとき死んだのか? たしかに一歳の子供に煙草をふかすという芸当が出来るとは思えない。咥えたらそのまま誤飲してしまうだろう。いやしかし今私はこうして生きている。なにかがおかしいと私が考えあぐねていると、私の脳裏にはさらなる新たな記憶が映写された。私は車の天井からバンの座席に横たわる自分の姿を眺めている、私はまだ小学生の背格好、その上に大きな男が跨がり私の首を絞めている、私は手足を動かして抵抗しようともがく、しかし男を押しのけることは出来ない、周囲は荒れ野、そして私は意識を失う……私はすでに死んでいるのか? そんなはずがない。死んだことを忘れて生き続けるなどということがあるはずがない。しかし私はいま現に自分が死んだ時の記憶を思い出した。私は生きているのか? そう思案しているあいだにも新たな記憶は蘇り続ける。記憶と実感のあいだの矛盾に耐えきれなくなり、私は大声を上げながら地面に崩れ落ちた。
AHA REM 黒井瓶 @jaguchi975
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