横光とのランチから十日ほど経ったある日、私はいつもより三十分早く出勤した。同じ部署の人間は誰もいないと予想していたが、オフィスにはすでに明石の姿があった。

「明石ちゃんおはよう」

そう私が声をかけると、明石は少し間を置いて

「ああ、須磨ちゃん。おはよう」

と返答した。背後の窓から差す淡い日の光が明石の横顔に陰影を投じている。窓の外の港湾には一隻の船もない。ただ青く膨張した水平線は、数多のさざ波を表面に湛えて堂々と視界に横たわっている。

「人がいなければ職場も心地いいものだね」

私は閑散としたオフィスを見回しながらそう明石に声をかけた。

「常に人がいなければもっと能率も上がるのに。人がいるからすべて駄目になる」

そう私が言うと、明石はゆっくりと顔を上げて

「そうだね」

と言った。いつもの活気がない。しかし落ち込んでいるようにも見えない。その落ち着いた表情からは、決然、といった印象が感じられた。私は奇妙に思い、

「なに明石ちゃん、転職でも決めたの?」

と冷やかしを加えた。

「まだ転職はしないよ」と明石が笑みを浮かべながら返答する。

「えーそう」私は口元を歪めて見せた。「私はするよ転職。こんな職場、やめようと思えばすぐやめられるしね」

「何それ」明石はくすくすと笑った。「日向さんの口真似?」

「日向の局? あの人そんなこと言ってたっけ」

「いつも言ってるじゃん。私はいつかここ辞める気でいるからね、いつだって辞められるんだからー、って」

日向さんは本当にそんなことを言っていただろうか。私は記憶を遡ったが、言っているようにも言っていないようにも思われた。私はその程度しか人の話を覚えていないのか。私は情けなくなってしまった。

「でも、日向さんがそれ言ってたとしても本当は辞める気なんてないでしょ。私は本当に辞める気あるし、他でも働けるし」

「ほんとう?」

そのようなことを言い合っていると、向こうでエレベーターの開く音がした。日向さんかもしれない。そう私たちは同時に判断し、口を噤んで含み笑いをした。実際にエレベーターから現れたのは日向さんではなかったが、そこで私たちの会話は自然と立ち消えになった。

 数十分後、オフィスにほぼすべての社員が集まった。朝礼が始まる。その日の私は、辞める辞めると言いながらもなぜか久々に労働に対して前向きな感情を抱いていた。高気圧の日本晴れが列島を覆っていたことも関係していたのだろうか。今日一日の職務を前向きな態度で始めよう。そう思って私が姿勢を正していると、皆の前に浮かない顔の横光が現れた。もともと白い肌がさらに青ざめている。

「IPTUの皆さん、おはようございます」

そう横光が挨拶すると、社員一同もまた「おはようございます」と答えた。私には、横光がその声の圧に押されたじろいでいるように見えた。

「朝の声出しを行う前に、わたくし横光から一つ報告があります」

報告? 私は先日の事件を思い出し不穏な気持ちになった。何を報告するというのだろう。まさか、全社員の前で私的関係について泣きながら懺悔するつもりか? 私はしずかに奥歯を噛みしめ、横光が泣き叫んでも部下としてその場を取り繕えるように身構えた。

 私の警戒をよそに、横光は全社員の前で「報告」を発表した。横光の行なった報告は私の予想と大きく異なっていた。しかしそれは同時に私の予想に近い内容でもあった。

「わたくしの部署で働いていた小島さん、数ヶ月ほど前から休職されていたのですが、残念なことに先日亡くなられたと、そう今朝、ご家族の方からわたくしの方に連絡がありました。会社からは慶弔費の一部として香典が出されます」

顔色こそ青白かったが、横光はいたって平静を保ったままそのような報告を皆の前で発表した。その刹那、私の思考は停止した。

 亡くなった? なぜ。私の思考は分岐しながらめまぐるしく回転した。しかし間もなくあらゆる分岐は同じ結論へと合流した。ピコーン。自殺。自殺の可能性がもっとも高いでしょう。この年代の日本人において最大の死因は自殺であり、また小島は近ごろ精神的苦痛に苛まれ続けていました。これが自殺でないわけがありません。時代遅れの瓶底眼鏡をかけた私の脳内の召使いロボットは、頭部の豆電球を点滅させながらそう私に結論を説いた。

 いつの間にか朝礼は終了していた。私は無意識でPCを起動させながら、どこか未だ茫然自失の状態にいた。そのとき、私は斜向かいに座っている明石の存在に気付いた。私は明石にハンドサインを送ると、ばらばらにトイレへ向かうふりをして廊下にて落ち合った。

「明石ちゃん」

私がそう明石の名を呼ぶと、明石はやや気まずそうに目をそらし、

「ごめんね須磨ちゃん。実は、知ってたんだ」

と私に打ち明けた。

「え」私は目を見開いた。「いつから!?」

明石はなおも目を逸らしながら答えた。

「一週間、ちょい、前」

一週間ちょい前。その言葉を耳にした瞬間、私の脳裏には深夜二時の電話がありありと再現された。あのとき私は小島の頼みを断ったのだ。一週間ちょい前。一週間ちょい前。

 その後、私は明石から数度に分けて小島の死に関する詳細な説明を受けた。彼女の最期について新たな情報が明かされるたびに、私の小さな脳髄は納豆のようにごちゃごちゃとかき混ぜられていった。

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