思っていたほどでもないな、と私は感じた。横光が私たちの上司となってから今まで、私は横光のことを所謂美男の部類に含まれると認識してきた。しかし今、私の真正面で自然光に照らされている横光の顔は記憶していたほど美しくなかったのだ。肌こそ綺麗に美白が保たれているが、その上に散らばる一つ一つのパーツはそれぞれ違う方向に歪んでいる。また全体の配置も、ひと目見た瞬間は整っているように感じるが十秒二十秒と見続けるうちにいびつな印象を増していく。やはり蛍光灯の下とは見え方が違うな、と私は思った。横光は蛍光灯の下でこそ見られるべき人間なのだろう。

 疲労が限界に達していたにもかかわらず、私がランチを当日金曜に指定したのには理由がある。こちらにとっては休日となったが横光にとって金曜は相変わらず平日だ。彼の「報告」がどのような方向に流れようと、午後になれば私はトンズラできるのである。また、もともと休日であった土日を上司と過ごすよりは、本来は平日である今日に用事を入れる方が精神的にも楽に感じられた。閑散としたネット喫茶でシャワールームを借り、機械から絞り出されるソフトクリームを食べながら昔の漫画を読む。横光から店の指定が送られてきたのは十時頃のことだった。やや遠方にある大きい神社、その参道沿いに建つ瀟洒なカフェテラス。私は彼の選択に疑問を抱いた。たしかにあそこはいいお店だ。私も何度か行ったことがある。鎮守の森に囲まれながらコーヒーを飲めるのだ、心地よくないわけがない。距離があるので他のIPTU社員も立ち寄りはしないだろう。しかし、内々の「報告」をする場としてはあまり相応しくないのではないだろうか?

 私の予想通り、そのカフェは会合にまったく適していなかった。店そのものは混んでいなかったのだが、神社の参道が幼稚園の散歩コースとなっていたため私たち二人は園児と先生あわせて二十余名に姿を見られることとなってしまったのだ。ある園児は私を指さして「およめさん」と叫んだ。横光は曖昧な笑みを浮かべた。私は園児と横光の双方に殺意を覚えた。互いにスーツを着て平日にランチへ向かう夫婦がどこにいるというのだろう。むしろ混んでいればよかったとすら私は思った。テラスが閑散としていたせいで、かえって私たちはさらし者としての視線を強く受けることになってしまったのだ。

「それで、例の報告とは?」

私はナポリタンを巻きながらそう横光に質問した。横光の眼前には巨大なパフェが鎮座している。その峰に挑みかかろうともせず、横光はただまっすぐに私を見つめていた。

「小島ちゃんとぼくが付き合ってる、って噂、須磨さんも聞いたことがありますよね」

「はい」と私は答えた。向こうがパフェを食べようとしない以上、私もナポリタンを食べないでおこう。そう思った私はパスタの絡みついたフォークをそのまま皿の端に置いた。

「あの噂は真実でして」

それだけ言うと横光はしばし口をつぐんで目を逸らした。

「そうなんですね」と私は答えた。

「ただ、ここからは須磨さんは知らないと思うんですけど――」

そう言うと横光は視線を下に落とし、

「ぼくたち、別れたんです」

と私に打ち明けた。

「そうだったんですね」と私は答えた。ふたたび私たちは沈黙した。

「須磨さん」

不意に横光の身体は前へせり出した。目の瞳がやや泳いでいる。

「これからぼくが何を言っても、ぼくのこと嫌いにならないでいてくれますか」

そう問われて私は少し思案したあと、一言

「内容によりますね」

と答えた。随分と子供っぽいことを言う男だと思った。

「そうですよね」

横光は体勢を元に戻した。またもや私たちは沈黙した。

「それは付き合って二ヶ月ほど経った頃のことでした――」

そう言うと、横光はなおも下を向いたまま、私に向かって二人が別れるまでのいきさつを語りはじめた。そのあいだ私はパスタを巻いては食べ、食べては巻き続けた。横光のパフェは屋外の気温によって少しずつただの甘い液体へと変容していった。

「小島ちゃんは、彼女は、ぼくに対してある願い事を言ったのです。叱ってほしい、と。ぼくにはその意味がよく分かりませんでした。だいいち彼女はぼくに対して何も問題を起こしていなかったのです。しかし小島ちゃんはぼくに叱ってほしいと言い続けました。誰かに叱ってもらわないと自分を責め続けることになるから、って」

私は今朝早くに小島からかかってきた電話を思い出した。送られてきたメッセージにも、「叱ってほしい」という文言が数多く並んでいた。

「なんで小島ちゃんがあれほど叱られることを求めるのかぼくには理解できませんでした。家庭環境がおかしかったのでしょうか? 問題のある家庭環境に育つと自己肯定感のない人間になる、ってよく言いますよね。小島ちゃんの実家がどうなのかはよく分かりませんが、そういうことなのかな、とぼくは思っていました。それで、とにかく叱るっていうのは無理だ、と断り続けてたんです。そもそも怒るのは苦手なたちですし」

たしかにそうだと私は思った。それなりの期間を彼の部下として過ごしてきたが、横光からはっきりと怒られたことは今まで一度もない。日向さんの厳しさに対してバランスが取れているから上手く回っているが、彼一人では部署を統率できなかったかもしれないなと私は改めて考えた。

「そうしているうちに、段々と小島ちゃんの行動は変わっていきました。ぼくが叱らないということが分かると、小島ちゃんはぼくが怒るような行動を進んで取るようになっていったのです。はじめのうちぼくは我慢していました。小島ちゃんが何を期待しているかは分かってたし、その期待を叶えるのは二人の未来にとって良くないと思っていたので」

そう言うと横光は傍らに置かれていたお冷やのコップを手に取り、喉の渇きを癒やした。私はフォークに絡まったナポリタンの塊に上からパルメザンチーズを振りかけた。

「でも、ある日そのダムが決壊しちゃったんです。小島ちゃんより遅くにぼくが自分の部屋に戻ると、そこで小島ちゃんが……まあいいでしょう、とにかくぼくはそのとき小島ちゃんをひどく罵倒しちゃったんです。そしたら小島ちゃんが、ありがとう、って」

そこまで言うと横光はテーブルに肘をついて頭を抱え、

「そこからでしょうね、ぼくたちがおかしくなっちゃったのは」

と悲痛な声で漏らした。

「罵倒の言葉に手が伴うようになるまでそう時間はかかりませんでした。はじめはそれほど強い力じゃなかったんですけど、徐々に、徐々にね。そしてぼくは、そんな自分の変化に自分で気付けなくなっていったんです」

「待ってください」

私はあえて確認を取った。

「それって、DV、ってことですか?」

「DV、うーん」

横光はやや口ごもった。

「DV、ということになるのかもしれません。ぼくには分かりませんが」

「そうですか」と私は答えた。

「ただ、少なくとも小島ちゃんはDVと思っているでしょうね」

そう言って横光は腕を組んだ。

「別の場所でぼくから受けたDVの話を聞いたって、複数の方から教わりましたもん」

「そうなんですね」と私は答えた。「それは嫌ですか?」

「嫌ではありません。事実ですから。でも、」

そう言って横光はふたたび私に目を合わせた。

「須磨さんのような方に、ああ横光は女を殴るような奴なんだな、と思われるのは嫌なんです。だから須磨さんをランチに誘ったんです」

私は横光の目が赤く血走っていることに気付いた。まさか、泣いているのか? 自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫です」

横光はそう答えたが、その声はうわずっていた。

「須磨さん、これだけは信じてください。ぼくに悪気はなかったんです。ぼくはただ、」

そう言って横光はしばし言葉に詰まった。

「ただ、」

みるみる顔が紅潮していく。塩水が涙腺の中をせり上がってゆくのが傍目からでもよく分かる。「ただ、」の先に何を言うのだろう、と私は横光の顔を覗き込んだ。

「ぼくはただ、――小島ちゃんの期待に答えたかっただけなんです!」

横光は爆発した。目から、鼻から、口から、透きとおった粘液がとめどなく溢れ出る。

「私帰りますね」

私は財布からナポリタン分の代金を抜いてテーブルの上に置くと、そそくさと参道をあとにした。相手は上司だが絶対に奢られたくはなかった。自分のぶんを支払うことによって、私はまさにその場との縁を祓い清めたかったのである。

 周囲から木々が消えた頃、私の脳裏に再び横光の泣き顔が浮かんだ。横光はこれから本当にオフィスへ戻って仕事を進めるつもりなのだろうか? 私は彼に呆れ果てていた。たしかに彼に悪気はなかったのだろう。しかしそれは彼の罪を免じる理由にはならない。彼には資格がなかったのだ、と私は断定した。善をなす資格も、悪をなす資格も。

 それにしても疲れた。横断歩道が青になるのを待ちながら、私は改めてそう感じた。本当に疲れた。二十四時間前に講演を受けていたという事実が我ながら信じられない。ふたたび脳裏に小島と横光の顔が並んで浮かび上がる。彼らは私をなんだと思っているのだろう。なぜ彼らは私にばかり剥き出しの感情を見せつけるのだろう。周囲には日向さんも、明石ちゃんもいるのに。

 もう今日はまっすぐ帰ろう。そう思いながら私は青になった横断歩道へと一歩足を踏み出した。まっすぐ帰ってぐっすり寝よう。いずれ来る来週のために。たとえ誰と誰が憎み合い傷つけ合ったとしても、いずれやってくる来週のために。

 しかしのちに私は、来週がやってこない場合もあるということを知った。

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