6
給湯室の流し台には誰もいなかった。私は電気をつけると鏡に向かい、無水シャンプーで頭髪をしばし揉みほぐした。肩に落ちたフケを払って再びデスクへ戻る。広いオフィスには横光と日向さんしかいない。二人とも手首より先以外の部位を動かさず、何時間も同じ椅子に座り続けている。タイピングと空調の音が部屋を満たす。空調というのは常時これほど大きい音を出していたのか、と私は妙な感慨を抱いた。昼には気付けないことだ。
職場に泊まるなんて何年ぶりだろう。壁の時計は午前零時を指している。不思議なものだと私は思った。PCの画面にも時刻は表示されているのに、なぜ私は壁の時計を見てしまうのだろう? 窓の外には港湾の夜景が広がっている。強い光を投じられた製鉄所の骨組みと煙が毒々しく暗雲に溶けている。こちらから見ることは出来ないが、どうやら小雨が降り続けているらしい。製鉄所の従業員は今も働いているのだろうか。私は、湿った夜の空気の中で労働に励む第二次産業の男たちの姿を想像した。閃光に縁取られた彼らのシルエットは、高校の国語便覧に掲載されていたハヤマ、コバヤシ、トクナガ等の小説にふさわしい栄誉を帯びていた。そこには苦役があり、休息があり、現実があり、美学があった。ここでふと私は自らを省みた。彼らの労働は小説になるだろう。さて、私の残業は小説になるだろうか? ならないだろう、と私はすぐに結論づけた。私の残業に美学はないが現実もない。休息はないがそこまでの苦役でもない。ただここには倦怠、回転数を落としたカセットテープのような間延びした倦怠のみがあるのだ。そう思いながら私は修正作業をリズミカルに進めていった。
そもそもこのミスが誰に由来しているのか、責任の所在を知っている者はどこにもいなかった。クライアントに渡された統計商品。それは個人と紐付けられたデータを元にしていたが、最終的にはそこから個人に繋がらない全体的なモデルを導出しようとするものであった。しかし誰かの手違いによりその操作は可逆的なものとなってしまっていた。その統計商品は、データから情報を取り出す操作を逆方向で行いさえすれば個人と紐付けられたデータを取り出せるような仕様になってしまっていたのだ。正直、ありえないミスである。データ元の個人に訴えられたらIPTUは負けていただろう。しかし早急にクライアントが連絡をしてくれたことにより、大惨事を生むかもしれなかった統計商品は無事に私たちの元へ回収された。横光の首はクライアントの善意によって繋がれたのである。
「取引先の方がいい人たちで本当によかったですよ。悪い人たちだったら悪用されてたかもしれない」
職場へ戻った私に横光はそう漏らした。突然の出来事に放心状態だったとはいえ、もう少し気の利いた感想はなかったのかと私は思った。
「明石を呼び戻しましょうか?」
私はそう言ってスマートフォンを取り出した。いくらクライアントが寛大に待ってくれているとはいえ、私・横光・日向さんの三人だけで修正作業が進められるか私には不安だったのである。しかし横光は私の提案を断った。
「明石さんは明日有休を取っています。今から四人で残業を進めて日付が変わったら有休を返上させてしまうことになる。あの人が有休を取るのはとても珍しいことです。なので出来るだけ尊重したい、そうぼくは思っています」
私は苦々しい思いを噛み殺しながら「そうですか」と答えた。畜生、なんて良心的な上司なのだろう。
かくして私たち三人は徹夜で作業に追われることとなった。明石としても呼びつけられた方がよかったのではないか、と私は考えた。なんてったって居残り組には日向さんも含まれているのだ。あとでどのような仕打ちを受けてもおかしくないだろう。ひょっとしたら、すでに日向さんの脳内では明石こそがミスの犯人だと断定されているかもしれない。そうだとしたら今後しばらくは明石にとって厄介な日々が続くぞ、と私は予想した。くわばらくわばら。
時計の短針が午前二時を回ったとき、不意に私のスマートフォンが鳴り始めた。小島からの着信だ。二人に悟られてはいけない。そう反射的に身構えた私は、小声でごめんなさいと言いながら携帯を持って女子トイレへと向かっていった。しかしその途中で着信は切れてしまった。画面を見ると、正午に電源をオンにしてから今この瞬間まで小島が送り続けてきたメッセージが数十件にわたって表示されている。
私はさすがに辟易した。なぜ小島はこれほどまでに私を頼っているのだろう。あの夜以降、初期段階において私が彼女の話に興味を示してしまったからだろうか? 私はただ彼女の話をスキャンダラスな暴露として楽しんでいただけだったのだが、その態度が小島には自身への好意に見えていたのだろうか? だとすればそれは全くの誤解だ、と私は思った。悪人だと誤解されるのも嫌だが、善人だと誤解されるのも困ったものである。いかに彼女からの期待をかわそうか……そう考えあぐねていると、再びスマートフォンの液晶は小島からの着信を私に知らせた。しかたがない。出よう。
「こんばんは」
若干の批判を込めて私が小島にそう挨拶すると、小島は
「須磨ちゃんいま大丈夫?」
とかぼそい声で私に尋ねた。私は思わず言い返しそうになった。深夜二時、大丈夫なわけがないだろう。ましてや今の私は非常時態で残業中なのだ。しかし私はそう言い返したくなる感情を抑えた。どれほど私が大丈夫でなくても、声を聞くかぎり小島は私に輪をかけて大丈夫でないように感じられる。そのような状況の人間にこちらの現実を突きつけても状況は何も良くならないだろう。
「まあまあまあまあ」
私は可とも不可ともつかない口調でそう返答した。すると小島は、
「いや、今須磨ちゃんは大丈夫じゃないでしょ」
と電話の向こうで断言した。
「え?」
「こんな時間に電話して大丈夫じゃないことぐらい分かってるよ」
小島は何が言いたいのだろう。私が黙っていると、
「須磨ちゃん、私を叱ってくれない?」
と小島は突然こちらに向かって願い事を投げかけた。
「しかる?」
「うん、叱ってほしい。こんな時間に電話かかってきて、須磨ちゃん迷惑でしょ?」
「まあ、そうだけど」私は当惑した。「それなら電話かけなきゃいいんじゃない?」
「私もそう思ったよ。でも今かけちゃってるでしょ? だから叱ってほしいんだよ」
理屈が通じない。いま小島はどんな顔で電話しているのだろう、と私は不思議に思った。ふざけているようには感じられない。なぜ小島はこれほど真剣な声色でこれほど支離滅裂なことを言っているのだろう。私より頭はいいはずなのに。
「ごめん、叱ることはできない」
私は匙を投げた。
「明石ちゃんに電話したら? 今日明日明石ちゃんは休みらしいよ」
そう私が他人になすりつけようとすると、小島は
「須磨ちゃんは?」
となおもすがるような声で私に問いかけてきた。
「私は仕事」
そう言って私は通話終了の赤いボタンに指を伸ばした。
「じゃあね」
電話は切れた。私は用を足していないのに手を洗うと、トイレを出てオフィスへと戻っていった。オフィスでは横光が椅子の背もたれに身を投げ出して仮眠していた。放置されたPCの画面内を熱帯魚が優雅に泳いでいる。横光は悪くない、と私は思った。作成に直接関わっていなかった以上、横光がミスの犯人である可能性はほぼゼロなのだ。それでも彼は上司として修正作業に尽力してくれている。欠点はいくつも容易に見出されるが、それでも私にとってやはり彼は良い上司だ、と私は思った。
そのとき私の胸に暗いわだかまりが生じた。横光は加害者である。小島は被害者である。そして今、私は被害者である小島よりも加害者である横光の側により強い共感を抱いた。このとき私は加害者の側に加担してしまっているのではないか? 私はちょうど、「私は何言われても被害者ぶったりなんかしない」と言って横光に媚を売る日向さんと同じ位置に立ってしまっているのではないか? しかしそのような自責の念を私は一蹴した。私が小島よりも横光に共感を抱くのは小島が被害者であり横光が加害者であることとは何ら関係がない。私は小島が私にとって有害だから小島から離れ、横光が私にとって有益だから横光に近づくのだ。肥大しすぎた善悪の意識はときとして人をむしばむ。善悪の分別を持ちながらそれを俯瞰できてもいるということこそ、私が健康な女であることの証左なのだ……そう自らに言い聞かせつつ、私は軽やかな足取りで自らのデスクへと向かっていった。疲労の波はとうに越えてしまっていた。
午前四時、一次的な作業はすべて完了した。しかしそれで終わりではない。いちどミスを犯してしまった以上、二次的・三次的なチェックを徹底しなければクライアントからの信頼を回復することは出来ないのだ。私はやや歩いた先のコンビニで買ったエナジードリンクを飲みながら表を睨み続けた。職場ビル一階のコンビニが二十四時間営業をやめていたということを私はその日はじめて知った。日付を越えてから職場の最寄りのコンビニに立ち寄ることなど通常の私の生活ではあり得ないのだ。横光は度の強い眼鏡をかけてキーボードをはじいている。横光が裸眼ではなくコンタクトだったということも、その日はじめて知ったことのひとつだ。
私が項目ごとにチェックをつけていると、ふいに背後から大きな影が視界に差し込んだ。振り向くとそこには日向さんの姿があった。手の上にはお盆があり、紙コップの緑茶と紙皿の羊羹が載せられている。
「日向さん、お疲れ様です」
私がやや緊張してそう挨拶すると、日向さんは
「おつかれさん」
と言って私に羊羹を見せた。
「甘いもの好き?」
「ええ、好きですけど……」
「けど?」
そう日向さんに聞き返され、私は言葉に詰まった。するとすぐ日向さんは笑みをこぼした。
「ごめんなさいね意地悪な聞き方しちゃって。これまだ差し上げてなかったでしょ? あげる」
そう言うと日向さんは私のデスクに緑茶と羊羹を置いた。
「いいんですか! ありがとうございます!」
私はまるで初めてその羊羹を目にしたかのような笑顔でそれを受け取った。横光さんから既に頂きましたと答えたら面白かったかもしれないが、実際に言うわけにもいかないだろう。
「ご褒美ご褒美」
日向さんはそう言うと自らのデスクへと帰っていった。私はまだ温かい緑茶を飲むと、分厚く切られた練り羊羹を手に取って少しだけ囓ってみた。
そのとき私は、これは本当に以前横光から貰ったものと同じ羊羹なのだろうかと疑念を覚えた。そう疑ってしまうほどその羊羹は美味しかったのだ。私は藤色の塊を少しずつ囓っては緑茶を飲み、再び囓っては緑茶を飲み、日向さんからのご褒美を味わい尽くした。しばらくして私は美味の理由に気付いた。当たり前のことだ。疲労が私に糖分を求めさせていたのだ。私は乳粥を得たゴータマのように羊羹をむさぼり尽くし、しばし多幸感にまどろんだ。そしてそのまどろみのうちに、私は五体を浸すような眠気の海底へと沈んでいった。
目が覚めた。反射的に視線が壁の時計へ向かう。朝の八時だ。通勤ラッシュの列車の音が遠くに響いている。未だデスクに人影は少ない。しまった、と私は思った。徹夜を覚悟していたのに。
そのとき私は、廊下から横光が向かってきていることに気付いた。私は咄嗟に顔面を隠してキーボードに伏せると、すぐ隣まで来た横光に対して
「ごめんなさい、寝てました」
といささか略礼的に謝罪の意を示した。
「ええ、分かってます」
横光はそう穏やかな声で言うと、
「謝らなくていいですよ」
と私に声をかけた。私は未だ顔を隠しながらも少しだけ頭を上げた。おそらく横光から見て今の私は塹壕戦の兵士とモグラを足して二で割ったような姿をしているだろう。
「おかげさまで修正作業は全て終わりました。今クライアントのもとにデータを送信している最中です。とても重くなってしまったので、あと十数分はかかりますが」
そう言って横光は腕時計に目をやった。私は安堵しながらも奇妙な感慨を抱いた。私が寝ているうちに、横光と日向さんは二人ですべての作業を終わらせてしまったのか。そして二人は私を起こさず眠ったままにしておいたのか……自分が彼らの善意に甘んじて熟睡していたということを私は恥ずかしく思った。そして同時に私は、自分が作業終了の瞬間を二人と分かち合えなかったということに掴み所のないもどかしさを覚えた。
「今日はお疲れ様でした。こちらで加算しておきますので、もう上がっても構いませんよ」
私は騙されたような気分で荷物をまとめ始めた。明石どころか私まで三連休だなんて。
ともかく仕事は終わった。外は朝だ。早く家に帰ってシャワーを浴びよう。そう私が思いながらオフィスを出ようとしたとき、
「あ、須磨さん」
と言って後ろから横光が私を呼び止めた。
「はい?」
私が横光の方を振り向くと、反対に横光は気まずそうに目をそらした。
「あのですね須磨さん。今回のねぎらいと言ってはなんですが、土日のどちらかでランチぃ、なんてこと出来ますでしょうか。須磨さんさえよければ今日でも全然いいんですけど」
ランチ? 上司からの提案であるにもかかわらず、私は思わず眉をひそめてしまった。そんな誘いを横光から受けたことなんて今まで一度もない。
「ランチですか? はい、行きます、行きますけど、ランチ?」
普段私が身にまとっている社交辞令の殻は長時間の疲労のせいで破れかけていた。私がそう疑いの念をあらわにすると、横光は「ああ」と言ってやや表情を暗くした。
「須磨さんに報告しておきたいことがあるんです」
報告。横光の口から漏れたその単語には、やや鈍重な響きが込められていた。あまり楽しくはなさそうだが、聞かないわけにもいかないだろう。
「分かりました。それでは今日のお昼、職場の人が来ないお店で。私はこの辺で時間をつぶしてるので場所が決まったら連絡ください」
私はそれだけ伝えるとエレベーターへ向かっていった。扉が閉まる。それまで横光が私の後ろ姿を見続けていたかは、分からない。
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