メトロ・バロック

古新野 ま~ち

メトロ・バロック

 まるで英語を話せない俺の存在意義を否定されるかのごとき広告から目をそらせば、無駄毛を剃れというメッセージが目につく。連中が放つ言葉は『ボボボーボ・ボーボボ』の悪役と同じだ。そういえばいつか見た広告で、ハローキティが女向けの脱毛の広告に出演していた。てめぇから毛をひん剥いたらどえらい事になるんじゃないだろうか。

 周囲の乗客の目につきたくはないので、灰汁のように浮かびたがる冷笑を噛み殺した。tha BOSSが曲で言っていた状況より時給は高いが時間は早い、7時10分前の地下鉄に乗っている。無心の目をしても内心では苛立っているであろうスーツ姿の男女が俺を包囲している。奴らにはその意識はないだろうが。

 俺は、ほとんど誰も降りない駅で降りる。リーマンどもは3駅先の金融機関が密集する街の駅で降りるだろう。俺だけが降り、俺の革靴の音だけがタンタカ響く構内から職場まで5分も要しない。その間、薬局で最安値の栄養ドリンクを購入して飲み干し、コンビニに立ち寄り空き瓶を捨て、職場であるスーパーマーケットに行く。

 あと2時間で開店する。店内は従業員を囃し立てる音楽が流れている。しかしロッカールームは静寂だ。ここでいつも帰宅してやろうかと思う。思うだけだ。

 朝晩問わず常に居る社員の藤野が鮮魚売り場で陳列作業をしている。パートや職人の連中は魚を切ったり寿司を作ったりだ。空いていた調理場には昨日売れ残った鯵が積まれていた。

 ――俺はその鯵の面を握り拳で潰す。鰓から迸る血が周囲に飛び散る。近くにいた連中は俺を見て絶句する――

 俺は鯵の三枚下ろしを繰り返してパッケージングした。198円だったものが俺の一手間で298円に値上がりだ。

「昨日の夕方に苦情が入っていました」

 朝の挨拶もせぬまま、俺を見た藤野が切り出した。

「三枚下ろしに腹骨がついていたそうです、如月さんは自分がそういうのを買っていい気がしますか」

 笑える。「いい気がしますか」と、形ばかりは問うているが、この女は「しません」と言うのを待っていたに違いない。

「自分は、三枚下ろしを買ったことがありません」

「そんなことこを聞いてはいません、貴方が購入した商品にあからさまな欠点があった場合、再度その店で購入を検討するかどうかを聞いています」

 ――「別に気にしませんよ、腹骨が付いたままならば自分で取ればいい」と俺は言う。すると藤野は口答えされたことに狼狽するものの平静を装い反論する。「私はそんなことを聞いていません、反省して下さい」「それならば最初から、そのように言ってください」――

「以後、気を付けます」

「念のため、今朝の仕込み分は点検してから陳列に出して下さい」

 藤野はそう言って、すぐに回れ右して事務室に向かった。

 振り返ると職人の男は笑っていた。彼に対して藤野は口出ししない。しかし、彼女が年下の連中に対して何か言っているのを聞くと笑う癖がある。

 いつか、彼に煙草をもらった時のことだ。その日も、何かのことで彼女が僕を叱責した。

「藤野の姉ちゃん、めっちゃキレやすいだけやから気にせんことやな」

「いやまぁ、僕が悪いわけですし」

 俺が一体何をしでかしたのかは忘れた。しかし、この言葉で彼が頬を赤黒くさせるまで嗤わせたのは印象に残った。彼は副流煙を俺に吹き掛けて「煙たいか?」と問いかけた。

「もちろん」

「腹はたったか?」

「どちらかといえば」

「どちらかといえば、じゃない。精神病院の問診じゃないんだ。YESかNOだ」

「YESですね」

「そうだ。俺がお前に要らんことをした。お前はそれに腹をたてた。あのケツのデカイ姉ちゃんはお前に要らんことをされた。お前の側からもあの姉ちゃんに要らんことをされた」

 俺は困惑した。なんだこの爺さん酒か何かの喰らいすぎで脳ミソがイカれたのか、と、この時は言わなかったがそう思った。

「俺たちがイギリス人ならシェイクスピアやブレイク辺りを引用してやるんだがな。残念ながら俺たちは日本人だ。かわりに別のをやろう『嫌なことがあった日はお酒を飲んで忘れよう』」

「なんですか、それ」

「俺の地元のスーパーに流れている店内BGMだ」

 火を消してから、職人はOKOKOKと言いながら立ち去った。

 それからこの男の様子を観察していて分かったことが、藤野が誰かにキレる度にこの男は笑っている。

 もちろん、己が笑われていることを藤野は気がついている。

 藤野も常にキレているわけではない。たとえば休憩場所が重なった時に彼女が女性数人と談笑しているのに出くわす。

 彼女らの話題が職人の話になった時に、「たまにニタァ~ってこっち見てて、怖い」といったことを漏れ聞いたことがあった。

「見てて」と「怖い」の間に空白があった。推測だが彼女は穏当な言葉を選ぶために一拍必要だったのだ。俺なら迷いなく「見ててキモい」と言うだろう。

 そんなキモい男は職人枠で雇われているだけあって、仕事が早い。もとは百貨店で仕事をしていたものの、その百貨店が潰れてこのスーパーに流れてきたのだ。彼にとっては、とても退屈な仕事量であるだろう。もしかすれば、この店で誰よりも経験年数が長い。そして誰よりも煙草休憩を取っている。「紫煙は俺ら世代にとっては酸素やからな」とは彼の弁だ。

 俺だけでなく、この店の人間ならばおそらく、この男が勤務時間の7時から16時までの間の食事休憩で与えられた1時間、彼はどこにも外出せず、喫煙スペースで何かしらの本を読み続けているのをよく見かけることだろう。


「如月くん、早く謝りに行って下さい」

 休憩中に藤野が俺を呼びに来た。

「今朝、鰤の切身を購入された方が鱗が混入していた件でお見えになっておられます」

「いや、鱗くらい入るでしょ」

「そうですね、それでも、早く謝りに行って下さい」

 誰が件の人か一目で解った。籠や他の商品を持たず、従業員出入口を見つめている細身の女性がいた。

 ――「謝る理由がねえよ、鰤の鱗知らねぇのか? 細かいのが入ってたっていいじゃねえの?」――

「申し訳ありませんでした」

「なんで鱗が混入してしまったんですか?」

「ええと、剥がしそこねたか、まな板に残っていたのが付着したのか」

「おそらく後者ですね。ご存知でしょうけれど、貴方方が扱う商品は雑菌が混ざりやすいんですね。たとえばカンピロバクターでしょうか」

 ――いいえ、カンピロバクターは主に鶏肉ですね。我々が扱うものなら腸炎ビブリオあたりが主流では無いでしょうか?――

「おっしゃる通りです、以後、気を付けます」

「清潔なものを提供して頂かないと、ものすごく困るので、その自覚は持って頂きたい」

 一通り彼女の怒りが収まるのを見届けた藤野は、「申し訳ありませんでした。では、その、商品を交換させて頂くということでよろしいでしょうか」と言って、切身のパックを回収した。チラッと、その値札の加工日を見た。俺はその日、休日だった。我々は交換した後、バックヤードに戻った。


「藤野さん、加工日をもう一度確認していいですか」

「どうぞ。おそらく、この日は如月さんは出勤していませんね」

「なら、どうして僕が謝らねばならないんですか」

「犯人探しはしたくありません。それに如月さんがやったとは言ってませんよ?」

「なら、貴女だけで謝れば良かったじゃないですか」

「いや、他人のミスで謝罪するなんて接客業では日常茶飯事でしょう?」

「だから、貴女だけで謝ればよかったんですよ」

「ああ、そんなことでしたか。すみませんでした」

 結局、なぜ藤野が俺に謝罪させたのかを知ることはなかった。

 振り返ると喫煙所から帰ってきた職人が薄ら笑いを浮かべていた。

 17時、定時上がりをすると、改札口の壁に凭れチューハイを飲みつつ読書をする職人がいた。

「今日のお前とは良い酒が飲める気がしてな」

 レジ袋から取り出したのは少量ボトルの赤ワインだった。

「飲めよ」

「いえ、これは、ご自分でどうぞ」

「いやぁ俺の分は別であるんだ」

 そう言って750ml瓶の赤ワインを取り出した。

「まま、かんぱーいっと」

 ずじゅるじゅじゅっ、と彼が赤ワインを啜る音はきっと寄生虫が宿主の体液を貪る音に似ているだろう。口の端から赤い涎を垂らしていた。

「一時間もずっとそこにいたんですか」

「寂しかったぞぉ。でもまぁ、今日のお前みたいた面した奴と飲む酒が旨いからなあ」

「こんなのが一番良い飲み方なんて趣味が悪いですよ」

「一番とは言ってない、ないよな、うんない。俺の一番は、なんだろうな」

 そして彼は俺の顔を見てゲラゲラ笑った。

 帰宅ラッシュの中でも彼は平然とワインを飲み続けていた。

 酔った頭でつい言わなくていいことも呟いてしまった。

「俺は、藤野が大っ嫌いですよ」

「あいにく俺は、あのケツデカ姉ちゃんが嫌いじゃないんだ。あいつとその周りを見ていると面白くてしゃあない」

「俺ばかりが標的になってるじゃないですか」

「いんやぁ、なに勘違いしてるんだ? あの姉ちゃん、お前だけにじゃないぞ、もっと周りをみような」

「そうかもしれないが、俺が糞な目にあう理由になってない」

「そうかそうか。ぶっふっふ」

「クソ、酒で脳ミソがイカれてるのか」

「あぁ? 何が死んでるって?」

 職人は笑うのをやめた。そして残っていたワインを溢すように喉に流しこんだ。

「誰の? 何が? 死んでるって?」

 そして、職人はワインボトルで俺の頬を殴打した。ちょうど駅に停まった。彼は俺を押し出して壁際につめよった。

「なめた口効いてんじゃねぇぞ? 負け犬クセェ根性のヘタレ野郎の分際で俺を評しようなんて許さねえかんな、糞が、蛆虫が」

 職人は俺の腹に膝蹴りを何度も入れた。飲んでいたワインが口から溢れ出た。

 倒れた俺にワインボトルを投げた。そして電車に乗り込んだ。

「ほいじゃあ、また明日ね~」


 まるで転職をしてキャリアを積み重ねていかない俺の存在意義を否定するかのような広告から目を背ければ、顔面を手術して不細工を完治せよというメッセージが目につく。そんな彼らに対して浮かぶ反論は、『魔人探偵脳噛ネウロ』に登場した自由自在に己の姿を変化させる怪盗X《サイ》の台詞「今の姿も俺の正体ではない」だ。

 転職しても整形しても、到底、俺の正体にはならないだろう。

 腫れた顔面はいやでも周囲の目を集めるだろう。じっ、と小学生が怯えつつ俺の顔を見つめていた。俺が視線をやると、目を背けた。その子の目には俺がどう映ったかは知りようがない。「そんな目で俺を見るな」SIMON達や般若が曲で言っていた。

 いつも立ち寄る薬局を素通りした。迷いない足取りでコンビニに入った。

 昨日、職人から貰ったのと同じ銘柄の小瓶の赤ワインを購入した。栄養ドリンクよりも素早く飲み干した。

 空き瓶を尻の後ろポケットに入れてバックヤードに着いた。彼は俺を見てゲラゲラ笑った。

「おはよう、ちゃんと来て偉いな」

 俺は空き瓶を投げた。爺のペニスに命中した。痛みに顔を歪めつつ大笑いし始めた。

「お、お、女の子投げじゃねぇか、ハハハ」


「如月さん、さすがに度が過ぎませんか?」

「申し訳ありません」

 ――あの爺が俺にクソなことをするからだ――

「バイトとはいえ20代後半なんですよね? いくらなんでも社会性が欠如していませんか?」

 ――欠如ねぇ、俺もてめえも爺も欠如してるな――

 欠如の字は分解すると、欠女口で、爺は藤野のことをケツデカ姉ちゃんと言ってたこととあいまって、「ケツじょ」という語が浮かんだ。

「すみませんでした。彼に殴られて気が立っていました」

「昨日の、それも外で起きたことをここに持ち込まないで下さい」

「あの人には何も言わないんですか」

「はぁ? お二人のことになぜ私が口出ししなければならないんですか?」

 彼女はいつものように回れ右をして事務室に向かおうとした。

 その瞬間、ふと疑問が生じた。

 なぜ藤野は俺になめた口を効いて許されると思い込んでいるのか?

 すると、俺の思考は下半身に奪われたかのようだった。勝手に脚をひき、そして勢いよく、まるで少年だった頃に遊んだサッカーのように、藤野の尻を蹴りあげた。

 思考が上半身に戻った時には、なぜ蹴ったのか解らなかった。頭は爺が再三言っていた事を爪先からの感触で理解していた。ケツのデカイ姉ちゃんの柔らかな脂肪。

 朝の電車内で転職の広告を見たのは必然だったのかもしれない。だが、解雇はキャリアアップに繋がるのだろうか。さっぱり解らない。

 脳ミソが酒でイカれている俺の頭では解り得ないことばかりだ。

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