26.Endless Plan.

 高級ホテルのカフェ・ラウンジは、日向よりも柔らかく華やかな光に包まれていた。一歩外に出れば多忙極まる人々が行き交う午前さえ、ロビーには高原のような緩やかな時とサウンドに満ちている。

その青年は、ロビーに併設されたカフェがオープンする頃、何気なくやって来た。

ラフなジャケットにシャツという装いだが、サマーウールのきめ細かな織りも、全く乱れそうにない真っ白なシャツも上等で、スタッフはにこやかに席へ案内した。

宿泊客と会う約束があるらしく、青年は慣れた様子でコーヒーを注文し、今朝のタイムズ紙をのんびりと眺めている。英字新聞を何気なく読む仕草は少しも気取っていないが、新進気鋭の企業家やアーティストを思わせた。或いはそのマネージャー、ひょっとしたら秘密の恋人かも――幾度か通り過ぎたスタッフが青年をそんな風に見繕う頃、彼は静かに新聞を折り畳み、遠くを見た。

吸い寄せられるようにスタッフも視線の先を見ると、ホテルのエレベーターから颯爽と降りた人物が居た。見るからにハイブランドのスーツを纏った白人系の男と、同じ白人系だが、肩幅が倍は違う軍人めいた大男の二人組だ。

スタッフがやや当てが外れたような顔付きで首を捻っていると、彼らの傍に眼鏡をかけた若い男性が歩み寄り、やや緊張した顔つきで嬉しそうに話し掛け、二、三言交わしてぺこぺこと頭を下げながら立ち去った。サインらしきものをさらさらと書き付けてもらっていたところを見ると、有名人なのかもしれない。

同僚に呼ばれたスタッフの視線が外れる頃、白いスーツの男はにこやかに新聞を見ていた青年の前にやって来た。

「やあ、待たせてすまないね、ハル」

「いいえ。お時間を取って頂いてありがとうございます。ミスター・アマデウス」

青年の礼儀正しいお辞儀に、男はわざとらしく驚いた顔をする。

「なんだい、急に他人行儀じゃないか。我々は家族も同然なのになあ、ジョン?」

隣の大男は返事をせず、ちらりと視線だけ寄越し、時計を見てから青年を見下ろした。

「ハル、ミスターはこのあと――」

低いバリトンが言い掛けたのを、さっと上司の片手が遮った。

そのまま陽気に笑いながら、男の幅広の肩を叩いて座るよう促す。

「取ったといってもね、あまり時間は無いんだ。要件は手短かに頼むよ、ハル」

「わかりました」

同じように腰掛けると、ハルトはがらりと不作法なトーンになった。

「『ベレッタ100丁』は、どうなったんです?」

紳士はにこやかな顔を全く歪めることなく、首を捻った。

「何のことだい、ハル?」

「手短かにって言ったのはそっちですよ、ミスター・アマデウス。

『引きこもり100人』の行方を聞いた方が早いですか?」

如何にも紳士面で微笑んでいたアマデウスが、瞬く間にニヤニヤし始める。青い瞳までもが、悪戯を企む少年のようにきらめいた。

「行き先は」

機械的に尋ねるハルトに、アマデウスは傍らの大男を愉快げに肘で小突いた。

「ジョン、聞いたかい? 今の真剣な声! 久しぶりだねえ。最後に聞いたのは10年前かそこらかな?」

上げた年数に青年の頬がぴくりと動くが、それだけだった。

待っていた時よりも些かぞんざいにソファーにもたれ、視線で答えを促す。

アマデウスは仕方なさそうに苦笑した。

「ハル、君は昔から“わかっていること”を確認するのは嫌いだろう?」

「仰有る通りです。腑に落ちないことがあるから、聞きに来ました」

「ははあ、それだけかい? コールすれば済むことを?」

「済みません。『ベレッタ100丁』の“意味”が推測できる。それだけです。返答次第では、俺は貴方を脅すかもしれない」

「ハルが私を、ねえ……トオルのヒーロー・シックが移ったのかな?」

「あの人は家族や友人が好きなだけですよ。俺とは違う」

素っ気なく答えると、ハルトは次の言葉を待った。アマデウスはやれやれといった具合に表情を曇らせるが、唇はまだ笑っていた。

「ハル、私を脅しても何も変わらない。それとも、私の飼い犬が、私の前でも君に尾を振ると思うのかい?」

「言っておきますが、俺はジョンの助けは期待していません」

「友達が出来たからかね?」

ハルトは目前の笑みに眉を寄せ、腹立たしそうに首を振った。

「先ほど、貴方の直筆サインを貰った。貴方に対する嫌がらせなら、俺は右に出る者は居ないと自負しています」

アマデウスの代わりに、ジョンが目を瞬いた。

――さっきの、新米音楽プロデューサーを名乗った若者は……!

「質問の答えを下さい」

「ネバダ州、マグノリア・ハウス」

唐突に述べられた場所に、氷に亀裂が入るような緊張感が走った。

「本当に、そこに送ったんですか」

「だとしたら、どうだと言うのだね?」

「何のために」

「何のため?ハル、それは愚問だよ。君はあの施設が何なのか、最もよく知る人物の一人だ」

苛立たしげに舌打ちするのを眺め、アマデウスは悠々とソファーにもたれた。

「正当なステップは踏んだよ。私が一人一人と顔を合わせ、日本語で面接し、快諾を得て、彼等に再出発の道と居場所、資金を与えた。それに何の不満があるんだい?彼らはね、この国では息がしづらいそうだ。ある程度の平穏無事と衛生面が完備された、類い稀な環境の国でね。贅沢な事だが――持てる者が生み出すルールは、持てぬ者にはフィットしない。『ある程度』の枠から抜け落ちた人間は山と居るが、彼らに手を伸ばすのを躊躇う人間も山と居るのを、君も幾度も見ただろう」

ハルトは黙って聞いた。

喉の奥が、腹の底から火照る。自分は何に憤っているのだろう。わからないが、氷が欲しくなった喉が唾を呑む。アマデウスは穏やか過ぎる口調で説いた。

「私は悪党だが、彼らを放置するのも、子供じみた犯罪者として這い上がってくるのも反対だ。どうもこの国の人間は一本調子でいけない。堕落を嫌うわりに面倒臭がりでねえ、育てるのは実に下手だ。勿論、大抵の人間は勤勉で親切だと私は思うよ。しかしね、“大衆”の姿になると全く宜しくない。“ノロマ”で“ケチ”な彼らが面倒臭がって要らないという資源を、私が“未使用の施設”に持って行く――『モッタイナイ』というやつではないかね、ハル」

すう、とハルトは息を吸ってから応じた。

「彼らは籠っている間、運動にも勉強にも意欲が無いと聞きましたが」

「ほう。知り合いでも居るのかい?」

「……いえ。別の経験談を参考に。その人物は籠っている時、ネットやゲームに興じる以外は、何をするにも体が重かったそうです。察するに、彼らも同等か、それ以下のレベルでしょう。パソコンに縛り付けて、ウイルス拡散機にでもする気ですか?」

「ハルにしては悪趣味だ。私は彼らにあらゆる可能性を期待する。その活躍が、世界を回すことに貢献できるならば、何でも構わない」

「……貢献できなければ?」

「さて、ハルとは比べられないからねえ」

やや呆れたようにアマデウスは笑った。

「……貴方が本当に、彼らのことを考えているなら、信頼できるんですけどね」

「経験者は語る、というものかな」

「まあ、そうです」

「その点なら安心したまえ、私は無作為に暴れ回るゾンビを作るつもりはない。現に君は、“本分”を抱きながら、良識を以て私に楯突く人間に成長したではないか」

良識と人間の言葉にハルトが少しだけ苦笑した。

「俺は人間というより、作品的な扱いでしょう。思いがけず、高値が付いた粗悪品みたいなもんです」

「彼らもそうなるのが、気に入らないかね?」

「気に入るも何もグロテスクな話じゃないですか。奴隷商人の方がまだわかりやすい。日本に来て、尚更そう思う」

「おやおや。久しい母国で楽しそうだと思っていたが」

「ミスター……俺の上辺がどんな能天気か知りませんけど、日本人の一般人はどうかしてる。多種多様なわりに、一列に並ぶポイントも多いんです。多数が無視や素通りする場面もあれば、一斉に集まる野次馬や買物客も居るんですよ。単純にモラルや主義主張に関わらず、男女や年齢の区別もなく、規則性が薄い。それでいて、多くが大衆ヅラして凝り固まってる。学歴や収入も参考になりません。『普通』というジャンル自体が何種類も有る感じだ。その中に、殺し屋の枠が作られるのは気色悪い。勉強すれば成れると思われるなら、いっそ踏み潰したい程度には腹が立ちます。貴方がやろうとしているのは、ノロマとケチに『ゲス』を加えるようなものですよ」

「ハハ……上手いことを言う。ハルらしいといえば“らしい”意見だ。あからさまな正義を唱えない辺りが、君とトオルの違いかな」

「くどいようですが、俺とあの人は別物です」

「わかっているさ。つまりハルは、この国が重い蓋をしているものを少し覗いて、私がそこから取り出したものが得体の知れない何かに変わるのが気に入らないのだろう? でもね、ハル。私が実行するからにはそれなりの裏付けがあるぐらい、君にはわかる筈だ。価値を感じるものにしか、私は投資しない。あの施設は、廃墟にするにはまだ早い」

青年が長い尾を引く溜息を吐いた。

「……交渉決裂、ですか」

「私の拉致にトライするかい?」

ハルトは面倒臭そうに眉を寄せた。

「いいえ。良識的な人間が、チャリティー・イベント前の音楽会社社長を拉致するわけがない」

「その通り。おまけに君は礼儀正しい好青年だ」

「気色悪い賛辞はやめて下さい。呑んで貰う要件を言いづらくなります」

至極落ち着いたハルトの声に、アマデウスの顔から一瞬、笑みが消えた。

ハルトは微動だにしていない。ソファにきちんと腰掛け、両手は肘掛けの上にある。代わりに、どっしりと座っていたジョンが微かに腰を浮かし――ふっと出たアマデウスの片手に制されて止まった。周囲は相変わらず、優雅な音楽と、品の有るスタッフ達と、富裕層のやり取りが物柔らかに流れる。ロビーの一角に、凍るような緊張感が満ちたことに気付く者は、“彼ら”以外に誰もいない。

「Oh my……」

ハルトを見つめたまま、アマデウスは小さな感嘆を呟いた。

「ミハルだけかと思ったが、ギムレットとムロも手懐けたのかい?」

「そんな言い方したら、俺が怒られます」

軽く肩をすくめたハルトも、アマデウスから視線を逸らしていない。

広野で出会した獅子と獅子の睨み合いのような二人をよそに、厳つい容貌に緊張を滲ませた秘書は、ハルトの斜め後方――正確には、入口に近い席に座していた男を見た。始めから居たのか、途中で入ってきたのか全く覚えがない。

何気無く座っているようだが、豪奢なドラセナの陰に隠れ、注意してようやく視界に入り込む男は、こちらを見向きもせずにノートパソコンに向かい合い、作業に勤しんでいるように見える。一見、ビジネスマンに見えるそれは千間優一に他ならず、更に入口に近い場所に起立した明らかにホテルマンだと思っていた男――いや、本当にホテルマンとして、或いは成り代わって此処に居るのだろう室月むろつきは、隙のない目をこちらに向けていた。どちらも距離があるものの、ホテルを出るためには彼らの方へ向かうしかない。

そして何より。

ジョンは厳しくも恐れを抱いた目を目の前の青年に移した。

――何より、彼を前にして、他者に気を配る余裕はない。

「ミハルは居ないのかい?……おかしいね。我々は彼らにも注意は払っていたのだが。一体、どんな手で買収したのかね?」

依然、悠々と椅子にもたれているアマデウスに、ハルトは緩く首を振った。

「買収はしていませんし、手の内をベラベラ喋る気もありませんよ」

「ふむ。ハルも油断のならない男になったものだ」

アマデウスは呆れた苦笑を浮かべ、青年に向けて片手をひょいと浮かせた。

「仕方がない。要求はなんだね? ベレッタ100丁の返還かい?」

「いいえ」

相変わらず、アマデウスを真っ直ぐ見据えたまま、ハルトはごく事務的に言った。

「彼らの内、殺し屋になるレベルの人間が出たら、俺に試験をさせて下さい。合格者以外に殺しはさせない。それが要求です」

「ほう?」

両の青い瞳はくりりと動き、背格好よりも頑丈そうな指が顎を撫でた。

「本人が希望しても?」

「不合格なら、他の仕事に従事してもらう。それが嫌なら日本に強制送還し、一般人に戻す」

「面白い。しかし、それではまるで私が姑息な奴隷商人のようになってしまう。当事者からクレームが出たらどうするつもりだい?」

「文句を言う奴は殺します」

挨拶よりもあっさりした一言に、アマデウスがにやっと笑った。

「ハルにしては、端的だ」

「そうですか?『殺し屋には厳しい』と、こっちでもよく言われましたよ」

溜息混じりの部下は、不十分と見たのか、控えめに付け加えた。

「殺し屋を志す人間なんて100パーセントまともじゃない。殺し以外で生きるよう説いても構いませんが、恐らく火に油でしょう。不平を唱えた段階で、無害な一般人になれる見込みは薄いですし、殺人鬼になるのも、フリーを気取られるのも迷惑です」

「どうかな。トオルやギムレットの様な人間が出るとも限らない」

「断っておきますが、二人はまともじゃないですよ」

ハルトはきっぱり言ってから、仕方無さそうに首を振った。

「まあ、最低ランク中の上かもしれませんけど――

『ベレッタ100丁』からは、“上”どころか“中”も絶対に出ません。……こんなこと、貴方はお気付きでしょう?」

アマデウスはゆったり頷いた。およそ“殺し屋には厳しい”愛息子の講釈に満足する父親のようでもあった。

「Exactly. トオルもギムレットも、君が言う通り、まともではない。しかし、彼らは心許せる家族や肉親を純粋に愛し、愛されている。『ベレッタ100丁』たちは、目下のところそれがない。反って自ら身近な縁を切り、決別を望んだ。彼らの親たちは、これを単なる海外研修程度に考え、ある者は子が暗闇を出たと喜び、ある者は面倒が減ったことに安堵し、ある者は子が離れる不安に涙し、ある者はどうせすぐに泣き言を言うだろうと嗤っていた。私は親子共々、驚くほど独りよがりだと思ったよ。どちらも、世間体というおぞましいプライドの厚みに阻まれ、当の世間がまるきり見えていない。ネット上に蠢く愚か者とメディアの術中にはまり、自らを貶めるばかりでね。哀れと言えば、哀れだ。己の現在地と時刻を安易に知ることができる時代に、嘆かわしいことだ」

「では、呑んで頂けますね」

アマデウスは唇だけ不敵に笑った。

「Yesを唱えるのが上手い詐欺師は儲かるんだが――ハル、君の交渉には魅力的なカードが足りない。私は時に奉仕をするが、ベース有ってのものだ」

ハルトはちらりと目を逸らしたが、さして間を置かずに答えた。

「『ベレッタ1丁』を”故障させた場合”につき、弾丸一発にチェンジ。種類は問いませんが、俺が扱ったことがあるもの限定。これでどうです?」

「Nice!」

アマデウスは銃を撃つようなポーズでハルトを指差した。

「契約書を書くかね?」

ペンを握る仕草でにんまりと尋ねる紳士にハルトは苦笑いと共にかぶりを振る。

「故障する前に、一人残らずヘバってゲロって帰りたいと喚くのを願います」

「Oh……ハルを教官に雇わなくて正解だった」

おどけてみせるアマデウスに、ハルトはちらりと厳しい視線を向けた。

「嘘は無しですよ」

「嘘か。心外だが、私の得意技でもある」

「念のため言っておきますが、その時は『ベレッタ』を片っ端から故障させます。稼業にできない程度には、ダメージを受けてもらう」

「ハハ……指を飛ばすか、足を穿つか……それも君の得意技だ。いいだろう。君が最終試験とは最難関だろうが、後継とは前を越えられるよう努めなくては。私が契約違反を罵られるとしても、幸いなことに、この件に関する契約書は存在しない」

「ありがとうございます」

殺し屋は座したまま丁寧にお辞儀をした。周囲の人々には何か商談が成立したように見えた場で、殺し屋とその親玉は互いに長閑な笑みを浮かべた。傍らの大男が、微かに胸を撫で下ろすような溜息を漏らす。

「ミスター・アマデウス。最後に、もうひとつだけ教えてくれませんか」

ハルトの問い掛けに、多忙極まる男は容易に頷いた。

「いいとも。何かな?」

「 “貴方”は、BGMをどうするつもりなんですか」

問い掛けに、悪党は微笑んだ。幼い息子か孫に、頑是無い質問を浴びせられたような顔だった。現に、その目許には、笑い皺とは異なるそれが寄っていた。

「 “トオルにとってのミハル”が、私にもあると思うのかい?」

「はい。人物とは限らないと思いますが」

アマデウスは思わせ振りに自身の顎を撫で、思い出話でもするような顔付きで頷いた。

「ハル。BGMの行先はある程度決まっている」

「……そうでしょうね」

「現在のTOP13の内、半分以上の席が代わるか、我々が代替りせぬまま老いると、飽和か腐敗は避けられまい。マフィアやギャングの抗争よりは、物静かに事が進むと思うがね」

「マイナス方面に向かうのは驚きませんが、貴方がそれを眺めているだけなら違和感がありますね」

「見物はしている。君の言うマイナス方面かはわからないが、変化の兆候は各所に見られる。トオルの登場も然りだ。車椅子の女傑の死も影響し、南米には独自の動きがある。トオル達を苦しめた敵も新勢力の可能性が高い」

ふう、と溜息混じりに椅子にもたれ、アマデウスは銀の混じる金髪を撫で付けた。

「ハル――我々は当初、後世を考える間もなく走ってきたんだ。戦争直後というものは慌ただしく、何事も急を要する。無論、額縁こそ有ったが、度々、想定外に見舞われながらここまで来た。例えばトオルの出現は我々を震撼させ、BGMの変化を急速に促した。君の世代に至っては、枠を外れるほどの力と見識を示している。私は恐怖こそ感じるが、嬉しくも思う。そして、これを歓迎しない古株も、新顔も居る――ハル、彼らは景三けいぞうとは違うよ。必ず、我々と対立する時が来る」

「なんか勝手に混ぜてもらってる様ですけど……まあ、俺は貴方側なんでしょうね。十条さんも今のところは」

「流れとはそういうものさ。抗うのは自由だが、上手く乗ることも各自の才だ。頼りにしてるよ、ハル」

「貴方が居るうちは、それでいいと思います」

「心配しなくても私は後のことは考えている。ジョンのお説教を聞いたところで、いつかは死ぬんだ……私ごときが世の行く末を案じることもないのだが――始めた者は、後始末をしなければならない。一人が怠ると、千も万も支障が出る。一本の煙草が家を消炭にするように、私の場合は億や兆の人間の未来に影響しかねない」

自慢にも聞こえる評価だが、間違いではない。

アマデウスは本人のみならず、別名と代理を用いて世界中の経済、或いは取引に関わる人物だ。彼の後身が阿呆では、洒落にならないマネー・ショック、最悪の場合は戦争が起きるかもしれない。世界中の銀行でも牛耳るのかと思ったハルトに、アマデウスはどこか気恥ずかしそうに言った。

「私はね、世界第一主義の団体を創りたいんだ。BGMがそこに到達するのか、或いは別の団体がそうなるための協力者になるのかは不透明だが、私の目標はそこにある」

「……教祖にでもなるんですか?」

「ハハハ……悪くはないが、私は一介の悪党であり、ビジネスパーソンに過ぎない。これは神の為でもなく、祖国の為でもなく、隣人の為でもなく、世界の為に動く団体さ。この星の為と言ってもよろしい。身近な人間関係や社会のごく小さな事象にかかずらうことなく、世界の大きな流れの一部であることを実感し、卑小であることを認め、互いに手を取り合って生きられる人間の集まり。これがねえ……大枚叩いても手に入らない難しいものなんだ」

「少なくとも、悪党の思想ではありませんからね」

肩をすくめたハルトに、アマデウスは彼にしては真剣な顔で首を振った。

「いいや……これは心有る善人だけでは辿り着けなかった思想なのだ。過去の私たちが崇拝し、血と臓物と犠牲を捧げてきた神が、数世紀を以てうそぶき、裏切り続けた境地へ向かう。まさしく、悪の所業だと思わないかね?」

ハルトは苦笑いを返した。

「あんまり崇高な目的に俺を駆り出すのは、やめて下さいよ」

「それはどうかな。君は他者と比べられないと言ったろう?」

「今さら、ヒーローになるのは御免です。俺は自分が殺した分、痛い目を見て死ぬぐらいが丁度いい」

「ハル、君は既に正義でも悪でもない」

「は……?」

ハルトが目を瞬かせたとき、アマデウスは立ち上がっていた。すらりと遠退いた青い視線が、きょとんとした両眼を見下ろす。

「君は、とうの昔に別のステージに進んでいる。無論、中立を気取る能無し評論家でもなければ、当たり障りを避ける傍観者でもない。今日、此処で私に見せた行動も、君が特別である証だ」

ハルトは反論しようとして、出来なかった。異論は有る筈だが、内容が浮かばない。

「君は君を突き動かす感情をまだ知らないようだ。だが、私やジョン、トオルや他の大人に向けた怒りの理由は君の根底に有り、進化し続けている。君は今、その感情を行動に移せるほど成長した。それは我々にとって、毒にも薬にもなる――君の同胞と同じようにね」

ハルトが息を呑んだ。

「……“あいつら”が……見つかったんですか?」

アマデウスは微笑んでかぶりを振った。

「まだわからないよ。そう――片方は“かくれんぼ”が際立って上手かったが、今も変わらないようだ。もう片方も、君が予知能力と言うほどの数学者だからね。おかげで尻尾を掴むにも至らず、困っている」

「でも、貴方は尻尾は見えている。そうですね?十条さんたちが戦った退役軍人は、まさかあいつらの――」

「焦ってはいけないよ、ハル。何事も、可能な限りは焦らずじっくり進めることだ。友情も」

ニヒルに唇を歪めると、アマデウスは辛うじて表情がわかる程度に踵を返した。大柄な秘書もひっそりと応じる。

「では、また会おう。友人を大切にしたまえ」

何か言いたげに眉をひそめたハルトを、秘書が静かな青い目で一瞥する。こちらも何か言いたげに見えたが、すぐに主人の傍らに歩を進めた。

出口に差し掛かる辺りで室月が丁寧な会釈するのへ、アマデウスは陽気に手を挙げながらドアの向こうへと消えた。

「生真面目だな、君は」

唐突に降ってきた声に振り向くと、いつの間にか傍に優一が立っている。こちらを見ることなく、アマデウスらが去った方を眺める男は、独り言のように言った。

「本当に百人見るつもりなのか」

急に現実に戻ったような心地になりながら、ハルトは片手を上げた。

「あ、いいえ……、恐らく……百も残らないから――大丈夫です」

「そうか。君の見立ては?」

「さあ……俺の時とは状況が違いますが、十人残れば奇跡でしょう。あの人はそんなことはわかった上で投資しているでしょうから、何か別の意図がありそうですが……」

語尾を濁したハルトの傍らに、すっと一枚のメモが差し出された。

「室月が、マグノリア・ハウスへの輸送品を調査してきた」

返事よりも目を通して、ハルトは絶句した。

「……室月さんて、こんなとこまで手が回るんですか?」

アマデウスの“こちら側”の仕事を盗み見るのは、恐らく国家機密を一秒覗くよりも手強い。優一がちらりと笑んだ。

「十条さんの使い走りには惜しい男だ」

「同感です」

メモには様々な品目がずらりと書かれていた。ごくありきたりな生活用品や備品が大げさな数字で書かれている一方、食品やトイレットペーパーにも勝る数の品目が目に留まった。似たような英字と数字の組み合わせが何列も続いている。

薬品だ。それも、一般的な風邪薬や消毒薬に紛れて、見慣れぬものが多数。

「彼のドラッグ嫌いは知っているが、念のため身内に確認した。毒薬や麻薬の類いではなく、“その治療に使われる”そうだが、未承認や正体不明が殆どだ」

「……なるほど。確かに悪党の発想ですね、これ」

殺し屋を志す百人。健康大国且つ衛生大国の、概ね、健康体である百人。

“この目的”には、ネズミやサル、追い詰められた貧困層よりも遥かにベターな人材だ。『もったいない』が聞いて呆れる。

「悪党って、後出しが基本なんですかね……」

うんざりと呟くと、優一が――彼にしては珍しいのだろう、声を立てて笑った。

「悪党に誠実さを求めるとは君らしくない。君が彼と取引することは、こちらとしては都合が良いが、この情報を開示すると、君は取引自体に応じない」

仰有る通りの図星なので黙っておいた。

「……なんだかんだ、優一さんは十条さんの派閥なんですね」

ちょっとした意趣返しのつもりだったが、彼は「どうかな」と鼻で笑った。

「さららさんと、会っていないと聞きましたが」

「室月か」

「と、本人から。どうして会わないんですか。余計なお世話でしょうけど、寂しそうでしたよ」

さららの名前を出すと、優一の“悪党”は妙に弱くなる。意識しなければ保てないのか、急に寂しそうな色になる目は前へと逸れた。

「……別に。もう訪ねる理由が無いだけだ」

「優一さんて、思った以上に奥手ですね。あのバラ、面白かったのに」

「君は、思ったより遠慮しない」

小さく笑った優一に、ハルトは苦笑混じりに肩をすくめた。

「仕方ありませんよ。俺はつい最近まで、貴方を“本物の”殺人鬼だと思っていたんですから」

アマデウスにも一杯食わされた件だ。数手先より更に遠い手が見える男は、今日に備えた嘘を撒いておくなど造作も無いのだろう。今更、アマデウスはこの男も以前から高く評価していたのではと気付かされる。

思えば、優一の首に未春がつけた傷が残っている話――あれも偽装だ。ごく一部を除いた周囲に、彼がスプリング適合者だとバレないようにする為の一芝居だ。

「……鬼かどうかはともかく、間違いではない。ラスベガスの件も事実だし、僕は僕が嫌うものの死を何とも思わない。それを殺人鬼やサイコパスと呼ぶならそうなのだろう」

――そんな人間は沢山居る、とハルトは思った。

何とも思わない人間の内、直接手を下す人間と、そうではない人間の差は、果たして大きいのか小さいのか。テレビ、ラジオ、ネット、日常のあらゆる場にごみごみしている誹謗中傷は、無神経で成形された大量殺戮兵器だ。誰かが死ぬ可能性を考慮するか否かを論じる前に捲し立てる発信は、サイコパスに等しいと言って難はない。その発信者は著名人でもあり、一般人でもある。只の一言で、人は救われもするが、死ぬこともあると、知っていて尚、愚かに騒げる者たち。

「未春が嫌いなのも、さららさんの影響ですか?」

「いや、あれは生理的に」

言葉の端に微量の蔑みが滲んだが、不思議とそれは未春をけなしているようには聞こえなかった。

「あの座った目を見ていると、昔の僕を思い出す」

「昔の……」

「ああ。一族の連中、実の父母、聖景三、茉莉花、要海――全員にしおらしく頭を下げて、靴を舐めていた頃のな」

苦い口調は、未春が出自を語った時とどこか似ていた。明香がコッソリ……というよりはベラベラと喋った言葉が甦る。

――優一さんね、茉莉花の足にキスしてたんだ。

「俺は頼まなかったけど」と余計なことを言いながら明香は説明した。

「茉莉花と入れ替わる前に、彼女のことはみっちり研究したんです。映像見せてもらったり、関係者や優一さんに話聞いたりね。ハルトさんて『夜のお仕事』って意味ワカル派? いやあ、こういうのって想像は生ぬるいもんでさ、現実は五感で責めてくるから超コワいんだよ。聖のビッグネームに千間家は逆らえないからって、ベッドに引っ張り込むわ、気に入らないとハイヒールで踏むわぶん殴るわ、お茶ぶっかけるわ、盗聴するわ……ひどいっしょ? 優一さんはスプリングのせいで傷はすぐ治っちゃうけど、心の傷は治んないじゃん。優里さんを監視して更に束縛するし、もう通報通報!って感じ。しかもさ、要海も要海で、優一さんがお気になワケ……あ、わかるよね? モテる男は辛いよねー……優一さん何も言わなかったけど……ノンケなんだしさ、大変だったんじゃないかなー。俺もプロ意識あるけどさ、“あんなの”演技中に吐いちゃいそう」

倉子風に言うところのどストレート過ぎる内容は、さすがに嘘ではあるまい。

ハルトは納得した。千間家に死の技が伝承され続けたとしても、それを与えられて喜ぶ子供など居ない。

現に、この男は犠牲者だ。望まぬ技を覚え、望まぬ関係に身をやつした。

何のことはない――未春への憎々しい視線は、さらら以前に同族嫌悪だったのか。

「優一さん、十条さんよりはイイ男ですよ」

何に対してか、唐突に優一がむせた。おかげで「当たり前だろう」とか言いそうな男の印象は、すっかり大人しくなってしまった。最初の感覚が巡ってくる気がした。

……ハッピータウンめ、営業再開後は繁忙期らしい。

「俺、応援してもいいです」

「……アメリカン・ジョークはその辺にしてもらえないか」

「正直、十条さんより未春の方が手強いと思いますね……あいつのシスコン具合は脅威というか、狂気です。仮に結婚できても、家政婦みたいに住み込みそうですし」

優一は言い返さなかったが、苦笑した。イメージとは恐ろしい。ただ一途な男を、殺人鬼に変えてしまう。

「あんな上司に遠慮しないで、会ってあげて下さいよ。たぶん、十条さんは奥さんと子供のところに帰るでしょうから」

「……君には敵わないな」

肯定こそしなかったが、否定もしなかった。

「優一さんは、今後も十条さんに付き合うんですか?」

「ああ……あの人には、間違えた時に背後から刺すよう指示されている。だが、今あの人が最も関心を寄せているのは君だよ」

「やっぱり、銃で脅すのはまずかったですかね」

彼は苦笑と共に軽く片手を振った。

「十条さんは、ミスター・アマデウスと親しいが、思想は異なる。いつ切れてもおかしくはない状況で、君は貴重且つ、最も危険な駒の一つだからだ」

「アマデウスとの接点を残しておきたいのはわかりますが……俺より、貴方や未春の方がよほど危険だと思いますよ」

短機関銃サブマシンガンに潰されたと聞いた肩は、たかが数日で、もはや何の異常も無いようだ。

「賛辞は受け取るが、僕は君とは当たりたくない。もう一人付いてくるのも手痛いしな。あれは今、君と十条さんなら君を選ぶ」

ふと、無表情なハンサム面が浮かんだが、良い返事は浮かばなかった。そうかな、と二通りの意味で思ってから、ハルトは眉を寄せた。

「十条さんは……なんだって未春に友達を作りたかったんでしょう?いや、俺とあいつはそんなのではないですけど……多分、今までのあいつは十条さんに文句は有っても逆らわなかった。それなのに、わざわざ別の人間と引き合わせるのは非効率ですよね?」

「さあな。家族だからじゃないか」

体裁が悪いのだろう、と優一がさも一般人らしく一笑に伏す。つい、ハルトも同じように笑ってしまった。

「あ、そうだ……職場体験の件、ありがとうございました」

アマデウスに気取られるのを恐れ、クルーズの一件以来、優一とは一切の連絡を絶っていたハルトである。室月の怪我を慮り、立役者となってもらったのは、倉子と瑠々子だ。

ちょうど授業の一環で、グループ毎に職場体験をすると言うので、優一の会社を推し、倉子に紹介状と称した手紙を託すというアナログな手段を取った。

「ラッコちゃん、失礼なこと言いませんでした?」

何せ、無類の動物好きだ。革を扱う優一を敵視すまいかと不安だったのだが、意外にも優一は面白そうな顔をした。

「いや。彼女が一番、知識が有った。皮革の為の殺害が禁止されていることも、殆どが畜産副産物や病死したものを使うことも知っていた。皮革に手を合わせていたのは少々驚いたが、友人となかなか独創的なブックカバーを作っていたよ」

剥がれた革に祈るとは、さすが倉子か。

「では、失礼する」

世間話を終えたように立ち去ろうとする優一に、ハルトは立ち上がって軽く頭を下げた。

「今日はありがとうございました」

よしてくれ、と優一はかぶりを振った。

「何もしていない。君の監視でもある」

引き寄せられるように見た先には、立っていた筈の室月の姿は既に無い。

「室月さん……ニンジャじゃなくて、“あれ”っぽいですよね、なんて言うんでしたっけ?日本の歴史にある、あんみつ……みたいなビジネスマン」

「あんみつ?」

面白そうに優一は復唱すると、少し考える顔をしてから、皮肉な笑みと共に言い残した。

「僕は思い当たらない。君の友人に聞いたらどうだ」



隠密おんみつ

帰って来たハンサムな専用辞書は即座に真顔で言った。

幾分、呆れて聴こえたのは気のせいだと思いたい。知らぬふりをした優一に至っては、本当に呆れていたのだろうが。

「ハルちゃん、十条さんみたいにならない方がいいよ」

唐突に顔をしかめて言う未春を、ハルトは胡乱げに見上げた。

「どういう意味だよ?」

「そういうの、おっさんが若い子に弄られたい時に言うことだから」

「……余計なお世話だ」

ラッコちゃんに聞かなくて正解だった、と思いながら答えると、未春は彼にしては最大限の憐れみを含めてこちらを見た。

「気を付けなよ」

「うるせえな。念を押すなよ」

「押すよ。最初から、ハルちゃんは十条さんに似てるんだし」

「……げ……うそだろ……俺、あんなにへらへらしてる……?」

ショックを隠しきれないハルトに、未春は片手を振ってNOを示した。

「顔じゃない」

「じゃあ何だ。面倒くさい?」

「ハルちゃんは、面倒くさいより面白いが勝ってる」

「お前には言われたくねえよ……」

「冗談なんだけど」

突き刺すような返事に、ハルトは本当に刺されたような顔を疲れた調子で覆った。

「じゃ……何?」

「周りに人が集まるところ」

勘弁しろよもう、と呟いて、ハルトは椅子に仰け反った。空いた膝へ、すかさず猫のビビとスズが殺到してもつれた。

「……お前、平然としてるけど、感動の再会になったのか?」

膝上でうろうろする猫たちの向こうから尋ねるハルトに、未春は虚空を見つめてから頷いた。

「俺以外、みんな泣くから大変だった」

食事会の体だったが、乾杯さえままならず、さららに至っては「ごめんなさい」を、一生分言ったのではと思うほど連発し、遂に未春が「もういいです!」と叫んでしまったらしい。涙は有ったが、穂積と実乃里は笑顔を見せてくれたそうだ。トラウマになる方が自然な事件に対して、笑顔で終われるのは、さすがは十条の妻と娘だ。

「まあ、良かったな」

こくりと頷いた顔は、心なしか、清々しく見えた。

「二人が、ハルちゃんにも会いたいって」

「……そりゃ奇特なことで……こんなもので良ければご自由に」

「十条さんが、日本版007とか、アメリカン・スナイパーとか、だいぶ盛って話してたから、何か勘違いしてるかもしれないけど」

あの上司はいつか混乱に乗じて一発見舞おう――ハルトが胸に誓ったとき、奥の席から声が響いた。

「すいません、センパーイ。質問いいッスかー?」

立ち上がって呼んだのは、力也りきやだ。向かいには国見くにみが居て、二人とも教科書とノートを開いて勉強している。英語だけだぞ、と念を押した上で見てやっているハルトが見に行くと、先に国見がメモ帳を差し出した。

「あの……ハルトさん、これ、やっぱり持っていてくれませんか?」

おずおずと差し出されたメモは正真正銘、ミスター・アマデウスのサインだ。

国見が演じた新米ディレクターは、素人臭さがむしろ本物らしかった様で、世界屈指の悪党をうまいこと騙した。まあ、このサインを役立てることができるのは、彼の個人情報と嫌がらせに精通した人間ぐらいのものなのだが、あの男がこんなものを気軽に書くとは、欧米人は日本で油断する傾向にあるのかもしれない。

国見は国見で、とんでもない人物の物だということは察しているらしく、爆弾でも手放した顔だった。

「ありがとな、助かった。さすが詐欺師」

「う……やめて下さいよ……」

何やら輪を掛けて大人しくなってしまった国見は身を縮めた。室月の教育が厳しいと十条は笑っていたが、一体何をやらされているのだろう。

「そういえば、国見くんをいじめてた奴って、帰って来たのか?」

「あ、いえ……戻ってきませんでした……」

首を振った国見の表情は、やや複雑だった。

〈日本史上最大のフェイク・ニュース〉――この見出しがマスコミを駆け抜けたのは、景三の事件が報道されて間もなくのことで、ちょうどハルトたちが豪華客船で暴れた日には日本中を駆け巡っていた。

〈聖景三氏が目論んだ事件にいち早く気づいた当局が彼を騙し、逮捕する為にフェイク・ニュースを報じた〉という、実にお粗末な内容で報じられた本件は、波紋こそあれ、警察への非難はそれほどでもなかったらしい。

未春曰く、フェイクというよりはヤラセが正しいとのことで、報道陣には怒りを示した者も居たようだが、マスコミとしては自らを『利用された』ではなく『利用されてやった』立場に置きたいが為、必要以上に叩くことはなかったようだ。

何せ、マスコミは稼がせてもらった事件でもある。欧米に比べ、銃が近くにない日本だからこそ、実際はそこそこ音のするサイレンサーの使用を示唆してみたり、元軍人や工作員が関わっただの、新手のテロ事件云々、視聴率をとる為や、目立ちたい一般人の様々な妄想が溢れかえり、連日に渡って人殺しに関する特番が組まれた。これには「誰の為の放送なんだい?」とアマデウスをも大いに笑かした。

戻って来た6名や親族に関する情報は、あまり公開されていない。口外しないよう根回しがされた可能性もあるが、戻って来なかった4名に関しては非公開に等しい。

「リッキーには言いましたけど、俺……突っかかってくるあいつのことは、あんまり気にしてなかったんです。迷惑ではありましたが……居なくなってスッとした、とはならないっていうか……」

十条の実験結果の一つが此処にある。力也もペンを口元に当てながら、難しい顔をした。

「国見より、他の奴が『居なくなって良かった』って言ってたのは、結構聞いたッス……言わなかったけど、ホントはこう思ってた……みたいな話で。俺は直接見てないですけど、SNSじゃ、もっと騒いでたって友達が言ってました」

力也によれば、加害者を中心にしていたグループも緩やかに分かれ、

「本当はイヤだったけど、脅されて仕方なく付き合ってた」という態度で無関係を主張しているらしい。

「仕方なく、ね。誰かさんと同じだな?」

ハルトが悪い笑みで国見の肩を叩いてやると、彼は気まずそうに目を逸らした。

「瑠々子ちゃんの同級生は、戻って来たんスよね……?」

「ああ……戻って来た方が良いとは、限らないみたいだけどな」

力也の問いにハルトが思い返すのは、先日会った倉子の話だ。

「瑠々子、いじめっ子に土下座して謝られたって」

倉子は、職場体験で作ったブックカバーをお披露目してくれた後、猫じゃらしをビビの前で揺らしながら、どこか上の空で報告した。

ハルトが、「COW」の文字とハートの刻印で牛のシルエットを大きく描いたブックカバーを眺めていると、倉子はやや薄気味悪そうに付け加えた。

「高級なお菓子持ってきて頭下げたらしいの。瑠々子が、謝るのはいいけど、お菓子は困るって断ったら、急にパニくって、受け取ってくれないと私の方が困る! って泣き出しちゃったんだって……」

いじめの謝罪に菓子折を持参する高校生、か。ハルトも渋い顔をした。

「しかも、退学するんだよ。引っ越すって噂だけど、やっぱ……あれだけ騒がれちゃうと、ってことなんだろうねー……」

気の毒そうに吐かれる倉子の言葉を聞きながら、ハルトは犯人の一人である明香のお喋りを思い出していた。

「プロセスが違うんだよ」

韻を踏むようにプロテイン飲料片手に明香はそう言った。

「追い出すんじゃなくて、出て行かせたってこと。ハルトさんは馴染みないだろーけど、よくさあ、『いじめられたら逃げりゃいい』とか言うヤツ居んの。俺、あれムカつくんだよねー。被害者側が逃げるんじゃなく、いじめた側を追い出すのが正しいと思わない? 童話とか昔話もそーじゃん?」

童話や昔話とやらもピンと来なかったが、つまり、明香は――もとい十条は、いじめの加害者に反省を促したのではない。強要したのだ。

他者をいじめるなら出ていけ、と。

「瑠々子ちゃんは、どうしてるんだ?」

かつて、死を望むほど加害者を憎んだ瑠々子だが、倉子はぼんやり首を捻った。

「後味悪そうにしてるけど、あんまり気にしてないと思う。いじめ自体は無くなったし、周りも空気読むっていうかさ、事件の話は殆どしなくなったから。あの子らしく、コスメの話とか、ファッションの話題してるよ。趣味だけなら、気が合う子なんて大勢居るもん」

「……そりゃ、良かったな」

そう答えたものの、おかげさまでこちらは後味が悪い。

もし、あのとき……未春が瑠々子の依頼に応じていたら。もし、その程度の殺意で同級生のしかばねがごろんとしたら。それでもやっぱり彼女はホッとして、学校に通い、休み時間にはコスメやファッションの話をするのだろうか?

周囲はどうだろう。

今回は、十条が定めたBGMに従い、彼らは「いじめの加害者を排除した世界」の背景に並んだ。善悪を精査した上ではなく、より安全と思われる多数派を選んだ結果だ。大多数の無関心。これもまた、BGMと呼ばれて良い姿かもしれない。

「『良かった』で思い出したけど、瑠々子も『いじめられて良かったかも』って言ったんだよね」

怪訝な顔をするハルトに、倉子は例の若者らしい軽やかな笑顔を浮かべた。

「周りの人が何考えてるか、わかった気がするんだって。言い方が悪いかもだけど、本性が見えたんだってさ」

瑠々子曰く、真の友達は今のところ倉子だけだという。趣味は合わず、大抵の意見は相違するが、気軽な話題を楽しめる友人には大事な相談や頼みごとはできないし、受け取る側にもなれないとはっきり宣言したらしい。

倉子はむずがゆそうな顔をしつつ、嬉しそうだった。

……できれば、その調子でイケメン詐欺の本性も見抜いた方がいいのだが、とハルトが思っていると、倉子はニヤニヤ笑った。

「ハルちゃんにも失礼なこと言ったなあ、って後悔してるよ。今度ちゃんと謝りたいって。こないだの職場体験のお礼も」

職場体験はこちらが利用させて頂いたので、お気に召したのならアマデウスが言うところのウィンウィンだ。

「瑠々子も他の子もすごく喜んでたよ。あのデザイナーさん、スズ様がアタックしたときも怒らなかったし、カッコイイだけじゃなくて良い人だね」

「伝えとくよ。瑠々子ちゃんには気にしなくていいって伝えて。あの時は、こっちも遠慮なく言わせてもらったから」

そう、お構いなく言わせてもらった。下手をすると、彼女を追い詰める程度には。

「うん。みーちゃんにも聞いた。ハルちゃんが怒ってたって」

わかるよ、と真摯な顔つきで倉子は言った。未春のことだから、状況をそっくりそのまま喋ったのだろう。何やら気まずい気分になるが、倉子は気にしなかったらしい。

「瑠々子さあ、ノー天気だけど、ハルちゃんが怒った理由はそれなりにわかってたみたい。よくさ、あたし達くらいの年齢を“多感な時期”とか言うでしょ? あたし達はわかってない事の方が多いけど、わかる力はものすごくあるんだって。大事なことがわかる度、忘れたり、諦めたり、無視しないように、勉強したり、経験を積んだり、人と繋がりを持つのが大切なんだって」

「十条さんか」

「うん。十条さん風に言えば、瑠々子はハルちゃんが怒ったとこを見て、良かったと思う」

「殺し屋の尺度は当てにならないからなあ」

「だからあたしに『やめろ』って言うんでしょー」

倉子は猫じゃらしをひょいひょいっと振り、唇を尖らせた。

「俺はラッコちゃんみたいなタイプが殺し屋始めると、戦争になると思うんだよな」

「それはイヤだなあ」

どうして、と聞き返さないところが、この少女の聡いところだ。ひょっとすると、「わかる力」とやらでは、倉子はそこらの知識人が到底及ばないポテンシャルかもしれない。

「とりあえず、保留にしとく。だって、ズルいじゃん」

「ずるい?」

「あっくんも関係者なのに、あたしが部外者なのは納得できないんだよね。それに、ハルちゃんのことは、もうちょっと観察したいの」

生物学的な観察日記を付けそうな倉子の言葉を思い出しながら、ハルトはまた頭が痛くなる気がした。大体、殺し屋を殺し屋と知って接するのもどうかと思う。

せめて付き合うのは清掃員クリーナーまでに留めてほしいものだが……

「ん? そういや……この支部の、多忙で居ないもう一人の清掃員ってどうしてるんだ?」

力也たちの質問から解放されたハルトが尋ねると、カウンターを拭いていた未春があっけらかんと答えた。

「ハルちゃん、会ったことあるよ」

「は……!? だ、誰……!?」

「ガヤちゃん」

ハルトの脳は一瞬迷い、パッと浮かんだB系ファッションの黒白金銀に埋められた。

初対面でぶん殴ってしまった保土ヶ谷ほどがやが、清掃員?

ここ最近で一番驚いた一言が更新されたが、彼は見た目のわりに優秀な略歴らしい。大型車免許を所持し、仕事柄、顔も利く上、危機管理にも優れるという。

ハルトの一打のせいで印象が変わってしまったが、並みの清掃員に比べたら剛腕、器用さなら、室月に並ぶ。確かに、大抵の清掃員は表の顔として別の仕事を持っていることが多いが――

「仕事忙しいって……害獣駆除業者だろ? この街、そんなに害獣多いのか?」

「今年は暑かったから、他の市内でもスズメバチが大量発生してたんだって」

……なるほど、こちらが女王蜂を見ていた頃、彼は本物の殺人蜂の相手をしていたらしい。

「……なんかやっぱ、この支部ヤバいな……」

あのファッショナブルな格好を思い出して、苦笑いになってしまったのは致し方ない。



 十条が「引っ越します」と言い出したのは、小牧との一件から一週間後のことだ。

実はあの日、十条は船を降りるや否や、外出しっぱなしだった。戻って来たかと思うと、指示を残して出て行き、また戻ってきたら何かを持って出て行くという落ち着かない日々を過ごしていた。

久しぶりにさららと共に夕食の席に顔を出した男の宣言に、ハルトと未春はちらりと顔を見合わせてから、「そうすか」と一言告げた。

「……なんって、冷たい反応……」

切なそうに頭を垂れた十条だが、無視されなかっただけ有難いと思ってほしい。

「おスズは僕が居ないと寂しいよねえ……」

テーブルの一角をどっしり占めている猫に顔を寄せた男だが、彼女はブシュンッとくしゃみを吹きかけて撃退した。悶絶する男に、さららがティッシュを手渡すのを眺めながら、ハルトは呆れ顔だ。

「寂しいも何も、二重生活が公になるだけじゃないですか」

何のことはない。既に十条は、午前中を睡眠に用い、午後はDOUBLE・CROSSで仕事、さららが不安定ではない夜以外は度々、穂積と実乃里の元に帰っていたのだから、生活サイクル自体はそれほど変わらない。

「そうだけどさあ……もうちょっとこう……まあ、いいや。とにかく、僕は此処を出て、穂積たちと住むことにするから宜しく」

「仕事には来るんですよね」

「もちろん」

「じゃあ、結局、寝るところが変わるだけですよね?」

ハルトの言葉に、十条はぐうの音も出ない顔をし、さららはくすりと笑った。

「さららさんは、どうするんですか」

問い掛けたのは未春だ。十条とさららが視線を見交わし、さららが遠慮がちに口を開いた。

「そこで、二人に相談なんだけど……私、此処に住んでもいいかしら?」

えっと思わず言ってしまったのはハルトだ。

「俺の立場で言うことじゃないと思いますが――……それは、まずくないですか?」

「じゃあハルちゃんが出ればいいじゃない」

狼狽するハルトに笑い返したさららは、少しだけふっきれたようだった。

「……でも、できれば一緒に居てほしい。ダメでも、一緒にご飯を食べてほしいわ」

そう言われてしまうと返す言葉が無い。ハルトは未春を見、お前はどうなんだという顔をしたが、未春は俯きがちにもそもそと米を噛んだ。

「それに私、優里に手伝ってもらって“色々”と検証したんだけど、スプリングの効果はそれなりに有るみたいなの。力持ち程度で済むぐらいには、パワフルみたい」

「トレーニングしていなかった分、僕たちよりは非力だけど……非力とは言い辛いよねえ……男性ボクサーの平均に届くか程度にパンチ力あったし……」

十条のぼやきに対し、ハルトは少々ひやりとしたが、さららは他人事のように苦笑した。

「使う機会がないのを祈るわ」

「うんうん、そういう点含めて、僕としてはハルちゃん込みでお願いしたいね。未春と二人にするとほら、お互い過保護が過ぎて、どっちも婚期逃しそうでしょ?」

暗に気を遣う役を押し付けられているようだが、確かにそれは大いに有り得る。

未春はともかく、せっかく良い相手が居るさららが行き遅れては気の毒だ。

「……実は、優一さんにも勧められたの」

未春がぴくりと頬を動かすが、ハルトは見なかったことにした。

優一は船を降りる前、演技中の無礼を改めて詫び、今後一切関わらないことを提示したらしい。

さららは、この申し出を断ったそうだ。謝罪も値しないと、受けなかった。

「お互い、これからは素直な気持ちで会いましょうって、伝えたんだけど」

それでも、優一はBGMと離別するべきだと説いて、訪ねて来なくなった。

ここまで来ると彼も相当な頑固者だが、最終的に室月が取りなし、条件付きで承諾したという。

「その条件が、貴方たちとの同居」

「あの人、ホントに見た目より慎重派なんですね」

「優里は、実家のことを気にしてるって言ってたわ。でも……それなら私も一緒よ。犯した罪も、重さも、数は違っていても、同じなの。私は兄を見捨ててしまったから、もっと重いのかもしれない」

本当は、表の手段で贖いたいのだろう苦笑に、ハルトは未春を指した。

「こいつの監視に困るなら言ってください」

「ハルちゃんもね」

「……二人とも、俺のことなんだと思ってるの?」

ようやく口を開いた未春が十条のようなことを言う。くすぐったそうにさららは微笑んだ。

今後、BGMに関わるのを避けてほしいのは優一と同じ意見だが、そう安易にいかないことは彼女自身が知っている。

意思の如何に関わらず、人間を殺した事実は消えない。彼女を思いやるあまり、キリング・ショックをパーフェクト・キラーで誤魔化し続けた男も、これ以上、嘘を上塗りする気はないのだろう。ぼさぼさ頭を、深々と下げた。

「宜しく頼むよ、二人とも」

頼まれはしたが、ふと――この男が手を離すということは、彼女はもう大丈夫な気もした。

「あのね、ハルちゃん」

「あ、はい」

「私に、本当のことを知る機会をくれて、ありがとう」

“どういたしまして”なんて言えなくて、苦笑した。

「で、十条さんはいつ出て行くんすか?」

「うわあ……もう、未春は何なの? 血縁ってわかってから、敵意が凄いんだけど」

自業自得を棚に上げた男は、こほん、と妙な咳払いをした。

「バス旅行が終わったらね」



 それは、思った以上にやばい状況だった。

異様な高揚感に包まれた大きなバス内は、入ってすぐに見たことのない菓子をおばちゃんたちから手に山ほど盛られた。小包装の柿ピー、砂糖にくるまれたゼリー、甘い粉が掛かった煎餅、乾いた昆布、しょっぱい羊羹などなど……アメリカ帰りには謎の菓子を前に圧倒されていると、既に赤い顔でゴキゲンの知らないおっさんが缶ビールをどん!と置いて去っていった。

十条はお酌をしたりされたりに忙しく、さららは年の離れたミセス達と楽しそうに会話をしている。

隣に座っている未春も慣れた顔つきで、ナチュラルに缶ビールを開けた。

「これが、Bus tour……」

地方の異様な祭りを見たような気になっている帰国子女の肩を、未春がつん、と押した。

「なんだよ」

「あのさ……ハルちゃん」

未春にしては、躊躇いがちな声で言った。

「俺……あの日……アマデウスさんが店に来た日、聞いたんだ」

「何を」

「ハルちゃんの、友達のこと」

スッと胸が冷える心地がした。――あの、お喋りめ。

「ごめん。怒らないで」

「……お前に怒る理由はない。でも、十条さんに言ったの覚えてるだろ?その話は、」

「わかってる。そうじゃなくて――聞いてほしい」

真剣な声に、二の句を封じられて耳を貸した。

未春は悩みを打ち明けるようにぽつぽつと話した。

あれは、歓迎会の翌朝だ。彼、アマデウスは国道16号線を高級車で流れてくると、運転手がサッと開けたドアから颯爽と降りてきた。違和感があるほどきっちりしたスーツの外国人は、数年ぶりの知己に会ったような顔つきで未春に近付いた。

「やあ! 君がミハルだね?」

Nice to meet you.と片手を差し出した男に、未春はぼんやりした表情で握手をした。

不思議なことに、警戒心は湧かなかった。

「どなたですか」

「アマデウス。ハルの元上司だ。ハルは居るかな?」

「寝てると思いますけど」

起こして来ましょうか、と未春が尋ねると、アマデウスはにこにこ笑って断った。

「それならいいんだ。ハルがこんな時間に寝ているのは珍しい。今日、私が会いに来たのは君だしね」

「……俺に?」

「うむ。それと、トオルに聞いたドーナッツを食べられれば最高だ」

ドーナッツ? 未春は自問自答した。殺し屋の親玉は皆、ドーナッツが好きなのか?

「じゃあ、中にどうぞ」

アマデウスはにこやかに首を振った。

「少し、君と話がしたい」

未春はなんだかわからぬまま、妙な外国人と並んで立った。

アマデウスは背が高く恰幅が良い為、横に並ぶと顔はあまり見えなかった。未春も、この陽気な金髪碧眼の外国人をじろじろ見たりはしなかった。ほうきを片手に、国道を見つめたまま、何気ない質問に応じる。普段は何をしているのか、仕事は楽しいか、趣味はあるか、好きな音楽やスポーツはあるか、など――いずれも未春の解答は無に近く、若者らしさはおろか、面白みのカケラも無かったが、アマデウスは逐一、興味深そうに耳を傾けた。

「ミハル。君、ハルは好きかね?」

その質問は唐突で、未春はちらとアマデウスを見た。にこにこ笑っている男に、可も不可も無い表情で首を振る。

「わかりません」

「ふむ? ハルと暮らす居心地はどうだい?」

「ハルちゃんは、何でもやってくれるんで楽です」

「ハハハ、そうかい。実に彼らしい。ハルの印象はどうだね?」

「殺し屋っぽくないです」

頷いたアマデウスは、もっと吹き出しそうな顔をしていた。

率直に、そう思っていた。

野々ハルトという人間は、殺し屋教育を経て尚、真逆の印象を纏う奇妙な男だ。

殺し屋というものは本来、どんなに温和を装っていても、目の奥には歩んできた暗くじめったい道や、ほんの一瞬で狂ってしまいそうな憤り、選んできた血生臭い選択肢の片鱗が見えてしまう。ハルトはこの何れの感情も抱く筈だが、普段の目にそうしたものは見えなかった。

声や言葉、生活習慣についても同様だった。たかが数日、ハルトと共に過ごしただけの人間が、もう何年も付き合ったように親しみを覚えるのはよくあることだったし、見知らぬコミュニティにストレスを与えずに入り込める性質は天才的な才能がある。

「ハルは生まれつき、敵を作らないタイプの人間だからね」

「そうみたいすね」

未春は何も考えていないような顔付きで、国道の激流を見ながら答えた。

アマデウスはのんびりした調子で同じように立ちながら、別の質問をした。

「ミハル、友達は居るかい?」

「居ません」

ひとつの迷いもない返答に、アマデウスは欧米人らしくおどけた仕草で首を捻った。

「なぜ」

「さあ」

国道を見つめる相貌の中、少し困っているように眉がひそめられた。

「君と友達になりたい人間は多いと思うが」

世辞ではない。端正な顔立ちや、すらりと引き締まった体格、物怖じせぬマイペースな雰囲気が引き寄せるのは女性だけではない筈だ。ゲイや男色など極端な話ではなく、この青年もまた、ハルトとは異なる性質で好まれるタイプと言える。ワイワイと騒ぐばかりが友達付き合いではないし、静かで聡明な関係を好む若者は決して少なくはない。また、友情を築くのが同世代であるとは限らず、年齢差がある方がうまく行くこともよくある話だ。ところが、未春は思い当たる人間が居ないらしい。アマデウスの指摘にほんのわずかに首を捻り、ぼんやりした目で国道を見たまま答えた。

「わかりません」

「わからないか」

「はい。友達という関係が、俺にはよくわかりません」

実に明快な回答だったが、同時に奇怪な疑問でもあった。友人関係に悩むなら殆どの人間が経験するだろうし、友達ができないことに苦しむ人間も、友達など不要であると捉える人間も珍しくはない。今居る友達との絆が、真の友情かと問われて自信満々に頷ける人間もそう多くは無いだろう。しかし、この青年は「友達」が理解できないという。幼子さえ、自然に生み出す人間関係を、だ。

アマデウスは顕微鏡を覗き込む科学者のような目で青年を見た。

「大変興味深い。君はハルに似て非なる者だが、否定して尚似ているとも言わざるを得ない」

回りくどい表現に、未春は理解が追い付かぬ様子で小首を傾げた。アマデウスは内なる顕微鏡を見つめたまま続けた。

「ハルも友達は居ないんだ。好かれるのに、おかしいだろう。何故だと思う?」

「さあ」

考える様子もなく首を捻った青年に、アマデウスは秘密を喋るように言った。

「ハルは性根がプロの殺し屋だからだ。我々は彼をそう育てた――いや、“育ててしまった”。友情を築いた相手を殺すかもしれない時、障害になると踏まえ、ハルは友達を作らない」

また、青年は首を捻った。

「それでも昔、一人だけ居たんだ」

アマデウスの言葉に、未春はそれらしい反応を見せなかったが、微かに思案を巡らせていた。過去形。つまり、今は居ない。なぜ?

青年の顔にうっすら浮かんだ疑問に気付いて、アマデウスはにこやかに微笑んだ。

「ミハル、君はハルの友達に少し似ている」

意外な言葉だったのか、青年のアンバーの双眸がすっと振り向いた。白人紳士の愉快げな碧眼をしばし見つめ、ゆっくりと目を瞬かせた。

「顔が、ですか?」

その質問は、質問自体が無意味であるのを知っている風だった。アマデウスもわかった上で首を振った。

「顔は似ていない。その友達は日本人ではなく、東洋人でもなかったからね。リビアで暮らしていた少数民族とアラブ人とのハーフだ。ベルベル人――いや、アマーズィーグの多くは目鼻立ちがはっきりとした美しい民族だが、彼はその特徴が非常に顕著な若者だった」

「もう友達じゃないんですか」

「そうだね。少なくとも、ハルはそう思っている。その少年は、ハルと物別れした後に亡くなった。喧嘩と言うほど、生易しいものではない。絶縁と呼ぶか、拒絶と呼ぶか悩ましいところだ」

「事故か何かですか」

そう尋ねながら、未春はどこか直感していた。こういう勘が働くときは、何が関わるのかも決まっていた。アマデウスは思った通りの解答を口にした。

「ハルが殺した」

友達を、殺した。ハルトが。なぜ?

「理由を知りたいかい?ミハル」

「……さあ……」

よくわからないと首を振ったが、アマデウスは何故か微笑して何度か頷いた。

「では、私が勝手に喋るとしよう。ハルは十年前、リビアで活動していたテロリストの指導者を殺す仕事を担当した」

「わざわざ、住んで?」

レスポンスが有ったからか、アマデウスは嬉しそうに頷いた。

「そうとも。本来は腰を落ち着けずにターゲットを狙うだけだが、それが現地到着間際に行方不明になった。仕方なく潜伏した間に親しくなったのが、その少年だった。彼は祖国や家族、隣人を愛するが故に、テロ組織に協力していたよ。妹を亡くしていてね……当時の政権を強く憎んでいた」

ちょうど通りかかったバイクが、ヒステリックな轟音を立てて行き過ぎた。

「時間は掛かったが、ハルは仕事をした。その後はただ帰還すればよかった。

が、ハルは少年に出国を持ち掛けた。頭を失ったテロ組織がどうなるか知っていたから、彼を助けてやろうと思ったんだろう」

普通じゃない、と未春は思った。警察やスパイ映画のミッションじゃあるまいし、殺し屋の仕事に人命救助が含まれないことはハルトの方が肯定的だ。

「結果、ハルは自分が何をしたか彼に知られ、拒絶された。いくら国家を案じるといっても相手は少年――逆上した彼はハルに武器を向け、逆にハルに殺された」

「それは……ハルちゃんらしくないすね」

「そう思うかね?」

アマデウスは眩しそうに目を細め、私もだよ、と頷いた。

「ハルは射殺した瞬間を殆ど覚えていないそうだ。撃った後、倒れた友人を前に放心状態になってしまってね……清掃員に引き摺られてその場を脱した。始終、真っ青になって震えていたようだが、休憩に立ち寄った場所で氷を見るなり血相変えて欲しがったそうだ。この時から、ハルは氷が必要になった」

「じゃあ、ハルちゃんはそれまでキリング・ショックが無かったんですか」

「そう。彼の少年が、ハルを人間にしたのさ」

「……人間に?」

もともと、ハルトは人間では?未春がその疑問を口にする前に、アマデウスは口元だけ微笑して踵を返した。

「さて、話し続けたら喉が渇いてしまった。トオルが愛するコーヒーとドーナッツを頂いてくるとしよう」

一方的に話を切り上げると、アマデウスは店の方へ去っていった。

「……ほんっと、あのオッサンはお喋りだな……」

悪態ついたハルトは、忌々しそうに自分も缶ビールを開けた。景気よく呷る様子を横目に見て、未春はぼそりと言った。

「……俺は、ハルちゃんに会えてよかったよ」

ハルトが振り向いた。無表情な顔を見て、何か言い掛けた時、その両肩に大きな手がどんと寄りかかった。

「ちょっとちょっとー、君たち、何を二人だけで仲良くしてんの~? おじさんは嬉しいけど、こういうトコでは接待しないと!」

「うお、酒くっさ……! ちょっと、十条さん……!」

「未春ゥ~……ハルちゃんを独り占めはズルい! 叔父上と代わりんさい!」

未春はゴミを見るような目で、ばきゃん、とビール缶を握り潰し、もそもそとさららの方に移っていく。ひっひっひと怪しい笑いを続ける男が隣にどさっと座り、持っていた一升瓶――殆ど空のそれをテーブルに置いた。

「あ~~……昼から酔うって幸せだねえ……」

そのまま椅子と同化しそうな上司を呆れ顔で見たハルトは、イケメンの登場に湧く座席を眺めてから口を開いた。

「十条さん、聞いていいですか」

「なーに?」

「未春に本当の叔父だと黙っていたのは、何故なんです」

「人格形成に影響を与えない様に」

「ウソですね」

「ハルちゃんもツボを心得てきたねえ」

楽しそうに微笑んでから、一転、難しい顔になる。なんでかなあ、と彼は窓の外を仰いで首を捻った。

「……実を言うと、よくわからないんだ」

その呟きは、蛇口からぽとりと落ちる水に似ていた。

「僕が、怖かったのかもしれないな……」

「怖かった、ですか」

「うん。血が繋がった家族だと認めたら……居なくなっちゃう気がしてたのかもね」

僕の家族は、一度――みんな居なくなってしまったと思ったから。

そう言って微笑んだ彼は、皮肉なほど、頬に掛かる柔らかい陽光が似合っていた。

「だから……ありがと、ハルちゃん」

最近よく礼を言われる――そう思いながら、ハルトが無言で缶ビールを啜る。

バス内は皆、大盛り上がりだ。聞いたことも無い歌謡曲とかいうジャンルのカラオケが始まっている。ほろ酔いの衆が打ち鳴らす、合っているのか不明の手拍子が響く。

“この計画”の出足も好調のようだ。

「こんなに不便なキリング・ショック解消法があるとは思いませんでした」

バス内を見つめながらのハルトの呟きに、十条は目尻に皺を寄せてフフフと笑った。

「僕も……東京支部の清算に、28年掛かるなんて思わなかったよ」

企画。イベント。ボランティア。悪事。呼び名は様々あるが――

死のショックに『計画』を必要とする男は、正気を保つためにすべてを利用したのだ。

「……どうしてわかったの、ハルちゃん。アマデウスさんとか、ジョン?」

「いいえ。検証結果です。正解が明かされた今、貴方の行動で最大の謎は、さららさんと結婚しなかった、或いは優一さんとさせなかった件だ。このどちらかが、“時期尚早”の段階で達成されていた場合、貴方の負担も、さららさんの心も、もう少しは軽くなる。でも、しなかった。何故、敢えて回りくどい道を選んだのかを考えていました。この後は、二人をくっつける算段でもするつもりなんですか」

「さすが、うちのジェームズ・ボンド君……ま、重いお布団で寝た方が、人はよく眠れるってことさ」

不敵に呟いて、十条は唐突に立ち上がった。

「よっし! 僕も歌おうっと! 未春! マイク!」

「おおっ! いいぞ、トオル君!」

「十条さん、がんばってえー」

誰からともなく拍手と黄色い歓声が沸き、面倒臭そうに振り返った甥が、それでも素直にごそごそと備え付けのマイクを引っ張って来た。


「はい、トオルさん」


呼び掛けに、十条は時間が止まったように、固まった。

早く取れ、といった調子で促す甥を、十条は阿呆みたいに見た。

のろのろとマイクを見て、未確認生物に触るような緩慢さで手に取った。

「……ありがとう、未春」

視界の内で、さららが微笑んでいた。

きゃあきゃあ喚くおばちゃん達の声に辟易しつつ、ハルトが苦笑混じりにビールを呷ろうとすると、ずい、ともう一本のマイクが突き出された。

「ハルちゃんも」

「……いや、そういうジョークはやめろ。俺はいい……」

げんなりしてかぶりを振る青年を未春は胡乱げに見た。

「歌わないの? 何しに来たの」

「バス旅行だろーが」

「ふーん」

無表情だった顔がニヤッと笑った気がして――ハルトは絶句した。

その隙に、素早く別のマイクが握らされる。

「ちょ……歌わねえよ!」

悲鳴を上げたハルトの傍でハウリングが響くが、構わず曲がスタートしている。

知りもしないポップスのBGMの中、楽しそうな手拍子が始まる。十条の正解か不明の歌声が響き渡り、通路を挟んだ席で、さららが心底可笑しそうに笑っている。

未春がぼそりと言った。

「ハルちゃん、歌えよ」

「だから歌わねえよ……!」

陽気なBGMと共に、やかましいバスが、騒がしい国道を駆け抜けた。


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