25.Truth.

 夜の海はようやく、静けさを取り戻したようだった。

先ほどまでの騒動が嘘のように、波風は穏やかで、上空には澄んだ星空が広がっている。

「お初にお目にかかる、ミスター・カナミ」

大柄な部下一人を従え、日本人のようにばか丁寧なお辞儀をした白人は柔和な笑みを刻んだ。戦時下のような有様になったメイン会場を離れ、使われる予定のなかったサロンにて対面した要海かなみは、愛想笑いもままならずに、長躯の男を硬い表情で見上げた。

「……貴方が、かの有名な『死神』ですか……ミスター・アマデウス」

席を、と促されたのをやはり丁寧に断り、男はニヒルな笑みを刻んで顎を撫でた。

「懐かしい名だが、今の私は一介のビジネスパーソンです。自社の業務と株式市場やデータに目を通す方が忙しいものでね」

「僕を、始末しに来たのですか?」

「Why?はて、何のことやら。この度は謝罪に参ったのですよ。そう――日本では、『お見舞い』とも申しますかな?」

「謝罪……?」

アマデウスはきらびやかなラウンジを舐めるように見渡し、顎を撫で、困ったような笑みを浮かべた。

「実は、最近――我が祖国の政府が、一万以上の海兵隊を一斉解雇しましてね。その一部が、当方の動向をこそこそ探っていたようなのです。いや、“奇遇なことに”私も日本近海で取引が有りまして、こちらの船もすぐ近くに有るのですが」

要海が息を呑んだ。

まさか……この男……――

「まことに残念ですが、我々の活動を好ましく思わない方々は多い。どうやら、貴公の船と私の船を“間違えた”様だ。こちらの方が見目麗しいというのに、暗い海では特定が難しかったのかもしれませんね」

「……あ……貴方という人は……――」

「いや、実に申し訳ない。“貴公のおかげ”で、我が方は被害を被らずに済みました。その上、我が祖国に毒を撒く“海賊”まで処理して頂いた。あの組織には私も迷惑していたのです。まことに素晴らしい。厚く御礼申し上げたい」

いっそ、おぞましいほど礼儀正しい一礼に、要海は返す言葉も無い。

その様子を見て我慢ならなくなったのか、フワッと浮き上がったのは調度品のようにテーブルで大人しくしていたジャンクだ。気付いた加納かのうと要海が声を上げる間もなく、無礼な外国人の横っ面に体をぶつける。

――が、一撃が届く前に、ドローンは甲高い音に貫かれ、ガシャン!と落下した。

「Oh……大きなハエだと思ったが、これは面白い」

煙を立て、異音にむせぶドローンを興味深そうに顎を撫でた男の片手には、ベレッタ84――通称チーターと呼ばれる自動拳銃が握られている。

要海は勿論、加納も唖然として、黒光りする拳銃と、無残な姿になったドローンとを見比べた。

――今、ジャンクは殆どノーモーションで動き、計算済みの攻撃を仕掛けた筈。

十条未春のような規格外の身体能力だからこそ破られたのであって、常人に反応できるような動きではない。

――それに……この男、“たった一発で”落とした。

「いや、つい驚いて発砲してしまった。君のオモチャかね?後で弁償代を支払おう」

拳銃を懐に納め、アマデウスは苦笑いを浮かべた。

――これが、全世界が恐れた『死神』か。

唇を噛んで震え出す要海の双肩に、アマデウスは労わるようにそっと手を掛けると、その耳元に屈みこんで微笑した。

「カナミ――ひとつ、アドバイスしてあげよう。権力を持ち続けるのならば、人間を知ることだ。私は勿論、トオル、マリカ、ギムレット、君が侮り続けた一人の女性、最も遠い部下に至るまで、知り尽くしなさい。知らねば容易く落とされる。今回の、君のように」

とんとん、と細い肩を優しく叩いて、アマデウスは顔を上げた。

自らビジネスパーソンを名乗る男は、図々しいにも程がある笑顔で蒼白な面持ちの要海を見下ろした。

「貴公の社は評判が良いと聞いている。いずれまた、ビジネスの話をしたいが、如何かな?」

「……光栄です。ミスター・アマデウス」

屈辱に顔を歪めながらも、要海は神妙な口調で答えた。腐っても大会社のプライドを捨て去ることのない様に、アマデウスはにこやかに微笑んだ。

「次にお会いするときは是非、良い料亭を教えて頂きたい。そう……趣のある日本庭園など在ると尚望ましいですね」

「……ええ、お任せを。日本を代表する名店にお連れ致しましょう」

「それは素晴らしい。楽しみにしています」

悪意など全く感じない男と握手を交わし、要海は身をもって理解した。

これが、世界屈指の悪党か。驚くほどの速さで蔓延する筈の薬物も、金に物を言わせたつもりの悪事も、圧倒的な才覚と人間で踏み潰す。敵うわけがない。挑むのなら、もっと力を付けねばならない。

――挑む自体、分不相応だと思い知らされたが。

「要海さん――大丈夫ですか……?」

「ああ……」

十条と元部下に挨拶してくると出て行った死神を見送り、要海はソファーに溜息もろとも腰掛けた。不安げな面持ちで傍に立つ部下を見上げ、床で沈黙しているドローンを見た後、要海は疲れた顔で命じた。

「加納、……茉莉花を連れて来てくれ。今後のことを話したい。……それと、ジャンクに伝えろ。『お前はどの部下よりも勇気がある』と」


一方、隣室のラウンジでは、入室したアマデウスが先ほどとは打って変わった陽気な顔で片手を上げた。

「やあ、トオル。御苦労だったね」

隣のさららに紳士的なお辞儀をしてからのアマデウスに、十条は乱れた髪を直そうともせずに不満たらたらの顔を向けた。

「こんばんは~……アマデウスさん。今の一撃必殺ワンショット、何だか懐かしいですね」

「ハハハ……聴こえたかね。心配しなくても、オモチャを壊してしまっただけさ。それにしても、男前が台無しだ、クレイジー・ボーイ。君にしては手こずったようだが、今夜のテーブルに着いた客は強かったかい?」

『狂った少年』と『狂った給仕ボーイ』の二通りの意味の名付け親に、かつて少年だった男は曖昧に頷いた。

「さすが、我が国の元兵士か。落ち込んで引退しないだろうね、トオル?」

『One Shot One kill』――世界中から、その一撃必殺を恐れられた死神に、十条は苦笑いと共に首を振った。

「ほんと、人が悪いんですから。海賊は“偶然”やって来るし、海上保安庁がやってくる気配もナシ。……あの連中は、貴方の喧嘩相手ですか?」

「さてね。私もこれから調べるところだ。悪いが遺体ごと貰っていくよ」

「お好きにドーゾ……まったく、ハルちゃんを貰って良かったのか、ツケを払わされたのかわかりませんよ」

十条のぼやきに、アマデウスはにやりと笑った。

「ハルは高いと最初に言った筈だよ。私に奢らせる意味を、君は理解していると思うがね」

「ま、それなりにわかってるつもりです」

あっちこっちに跳ねた髪を搔いて、十条は溜息混じりに頷いた。

「彼女が、貴方に返したいものがあるそうですよ」

促されたさららが、バッグから綺麗に折り畳まれ、包装されたハンカチを取り出した。深いブルーのペイズリー柄のをそれを見て、アマデウスは微笑んだ。

「もう必要ないかな?」

「はい。ありがとうございます」

微笑したさららから紳士はハンカチを受け取り、先に胸ポケットに納まっていたハンカチを取り出して部下に手渡すと、ブルーのそれを納め直した。

「どうだい、トオル。結果はオーライだろう?君は長いこと苦慮した件を片付け、私は来日しただけの釣果を得た。ビジネスはウィンウィンが最も良いと思わないかい?」

「はは……“おかげさまで”なんて絶対言いませんからね。うちのスタッフやギムレットは大怪我して、僕は背中が痛いけど、貴方は無傷でしょ」

「フフ……それはトオルの詰めの問題だ。君の甘さは、ハルが清算するかもしれないよ?」

そう言われた十条が振り向くと、ロックアイスをコップに満たしてスナックのようにぼりぼりやっているハルトと、琥珀色の液体を満たしたグラスを持った未春がのこのこやって来た。

「やあ、ハル。災難だったね」

「災難? 背中に一つ入れてやりましょうか」

悪ガキのように氷を摘まむ青年にアマデウスが「夏まで遠慮するよ」と微笑んだ。その笑顔に向けて、ハルトはポケットからスマートフォンを差し出した。

「ロスカの手下が持っていたものです。各国の拠点、連絡先、売人リスト、顧客リスト、物の製造所が入っています」

「ハハハ……悪党の物を盗るのは、すっかりハルの十八番オハコだねえ」

「欲しい癖によく言いますね」

「ふむ。いくらだね?」

「いくらにします?」

アマデウスがピースサインをすると、ハルトが鼻で笑った。

「ビジネス舐めてませんか?」

「うーむ、相変わらずハルは厳しい」

指が二本足される。ハルトは無言で氷を摘まんでがりがり噛む。

アマデウスが手を握り直し、今度は手の甲を向けたピースサインをした。ハルトが仕方なさそうに頷いた。

「いいでしょう。俺の口座に全額ドルで下さい」

「しっかりしてるなあ、ハルは~……ジョン、」

呼ばれた部下がスマートフォンをすらすらと操作し、アマデウスに画面を見せた後、ハルトは自身のそれで確認し、約束のものを部下の方に手渡した。すぐに端末を確認した部下が一瞬、眉を寄せて上司に画面を見せると、アマデウスは彼らしくもない大声を上げた。

「ハル!またロックを変えたろう!」

ハルトは氷をぼりぼりやってから、悪童のようにニヤニヤ笑った。

「アマデウスさんなら簡単な日本語ですよ。答えが欲しいなら、あと1で手を打ちます」

「くうっ……これだからハルは……!ジョン、これは解析に回すように。物を回収する手配も頼むよ」

悔しそうに地団太踏みながら出て行くアマデウスに、さららと共に苦笑した十条は、ハルトを見ながら謎の液体をぐいぐいやっている未春を見た。

「未春はまた、面白いもの飲んでんの?」

「タリスカー18年ってウイスキーです」

「えー……なに普通に良い酒ストレートで飲んでんのお前……?」

「好きなの選んでいいって言われたら、ハルちゃんがこれが良いって」

「はあ……さすが、ハルちゃんは高給取りなんだから~……ちょっと頂戴」

「いいですよ」

てっきり嫌な顔をするかと思ったが、未春はすぐにグラスを差し出した。わーい、と十条がグラスを受け取ったとき、後ろで氷を噛んでいたハルトの視線がスッと動いた。

コン、と――間髪入れず、十条の後頭部に銃口が当てられた。

さららが息を呑む。未春は眉一つ動かない。

十条はグラスを持ったまま、片手だけ挙げて、慌てた様子も無く首を捻る。

「えーと……ハルちゃん? これはどういうドッキリ?」

「ドッキリではないですね」

残念ながら、とクーガーを押し付けて告げたハルトの声は平素より数倍固い。

「優一くんも?」

十条の声掛けに、はっとして振り向いたのはさららだ。怪我の手当てをしていた筈の優一が、上着も纏った状態で出入口に立っている。手元には、シャンデリアの灯りに妖しくきらめく針がある。隣には、片腕を吊っている室月が影のように付き従い、静かな視線で十条を見つめている。

「室ちゃんはともかく……君がドッキリに参加するとは思わなかったなあ……」

「僕がそういう事をすると思いますか?」

「ま、そうだよね。じゃあ、何? 二人で僕とトレーニングでもするっての?」

「ノーサンキューです。そのまま白状してほしいことがある」

「白状?」

ハルトの言葉をオウム返しにしたが、十条は気付いた様子で「そういうことか」と呟いた。

「時期尚早の時期は過ぎたでしょう」

「ハルちゃんのせっかち」

にやにや笑っているらしい上司の後頭部を狙いすましたまま、ハルトも唇だけ笑った。

「この機会を逃したら、面と向かって対峙する他無いので」

そうなったら、恐らくこちらに勝ち目は無い。喋らせるのが目的なのだから、遠距離射撃で殺すわけにもいかない。

何となく――そんな安易な方法は気付かれる気もするが。

「やれやれ……ハルちゃんはせっかちな上に僕より人タラシだね。あっという間に優一くんとも意気投合しちゃうなんてさ」

「殺し屋を何だと思ってるんです? お互いプロなんですよ。利害の一致です」

「おっと、それなら君たちの方がお門違いじゃない? さらちゃんや未春の為に結ぶ協力関係って、殺し屋がするものかなあ?」

「私と……未春?」

ぽつりと呟いたのはさららだ。

「二人とも――私と未春の為にそんなことしてるの? もう終わったのに……?」

「さららさん、終わっていません。十条さんは、貴方と未春に話さなければならないことがあります」

さららは不安そうに十条を見た。未春は黙ってでくの坊宜しく突っ立っているだけだ。

「……十条さん、話して下さい」

冷静だが、どこか辛そうな声で言ったのは優一だ。

「僕の秘密が、残酷でも?」

十条が問う。彼はもう笑ってはいなかった。

「そうです」

「それは、君たちの自己満足じゃないの?」

「……そうでしょうね。彼女の為という世間並みの建前はありますが、貴方が一人で背負い込んで、嘘を貫いているのが苛つくんです。墓場まで持ち込む行為も、自己満足ではありませんか」

「ふーん。でも、君は今まで静観し続けたじゃないか。悪党のフリだけして、意中の彼女が僕と関係してるのも咎めなかった。それも建前で片付けるの?」

「そうです。僕は自分が何者か、よくわかっているつもりです」

視界の端でさららが何か言い掛けたように見えたが、優一はそちらを振り向かなかった。

十条は再び「ふーん」と呟きながら、首を捻る。

「ハルちゃんは? 君たちの友情に、僕の秘密はあまり関係ないんじゃない?」

「……友情はともかく、俺も貴方のやり方には気に入らない所が多々あるんですよ」

なんだろう、と首を傾げる十条に、ハルトはその後頭部と拳銃を見つめたまま言った。

「俺はBGMのミスで拾われ、その教育、庇護、指図を受けてきました。今さら変えられない過去を悲観はしませんが、身近に似た様な人間が居るのは気に入らない。

その点、優一さんとは意気投合できますね」

フフ、と十条は笑ったようだった。

「君たちは……立派なBGMだ」

そう言うと、十条は深い溜息を吐いてから、黙した。次に彼が喋るまでの数十秒が、恐ろしく長く感じられた。

「いっこ、前置きさせて」

「前置き?」

訝しんだハルトだが、その発言が自分たちではなく、さららに――否、さららと未春の両者に向けられていると気付いた。

「僕は、君たちのことを本当に愛している。昔も、今も、これからも。覚えていて」

真摯に述べられたそれは、聞く人によっては――否、多くの人間にとって綺麗事だった。不倫、浮気、姦通、裏切り、虐待、軟禁、調教、虚偽――捉え方次第で、すべて該当する行動を、彼はしてきた。経験者なら尚のこと、腹を立て、気色悪さに吐き気がするだろう綺麗事を、彼は優しい笑みで綴った。

「……何から話そうか。ハルちゃんが選んでよ」

「時系列通りに。何故、さららさんがポイズン・テナーを使えるのか、何故、うららさんが死亡したのか、正しく説明してください」

ふー……と煙草の煙でも息を吐くと、十条はさららを見つめて口を開いた。

「さららは『スプリング』の最初の適合者だから。一方のうららは、半・適合者だ」

微かによろめくさららを、未春がそっと支えた。

「彼女たちに投与を依頼したのは実父の小牧天彦たかひこ。――そもそも、彼は姉妹の母親と交際していたのを、グループの意向で要海くんのお母さんと政略結婚したんだ。彼は自由を渇望するあまり、姉妹の母親を愛人にして姉妹を儲けた。しかし、愛した人はすぐに病死して……姉妹には生まれながら、重い発達障害が有った」

「……わ、私にも……?」

「そうだよ、さらちゃん。君の父親はただただ悲観し、藁にもすがる気持ちで景三が持つ危険薬に手を出した。確かに『スプリング』には機能向上という一面があるけれど、うららさんは中途半端な適合によって精神障害や半身不随が生じ、さらちゃんは脳や体は人並みになったものの、現在も続く重い不眠症を患った」

「……」

さららは押し黙った。恐らく、本人でも感じている部分は有ったに違いない。

ハルトも以前から少々気にはなっていた。彼らの邂逅の中で、スプリングの代表的な効果である優れた聴覚は、さららにも度々見受けられたからだ。身体能力に関しては、使う機会を与えなければ気付きようがない。

「さては、ハルちゃんが気付いたのは……うららさんの話から、かな?」

「ええ。ポイズン・テナーの話が出た時、うららさんは度重なる実験や投薬にて死亡したことになっていましたが、それなら、さららさんが生きているのはおかしい」

もし、機能向上の為に実験をするのなら、格上の扱いになっているうららより、さららの方がより多くの負担を強いられる筈。さららの存命イコール、うららの方がポイズン・テナーが非力であったか、若しくは持っていなかった可能性が示唆される。

「もう一つ。スプリングとパーフェクト・キラーは同じ計画の為にセットで開発されていますが、同じ研究施設を経ているポイズン・テナーはこの二つと合っていない。元の計画を破綻させる恐れもある力を、聖側がわざわざ開発したとは考えにくい……ということは、ポイズン・テナーは突然変異的な別物で、且つどちらかの薬物と関与があると考えました」

「うーん、素晴らしい洞察力。ぐうの音も出ないや」

「優一さんと室月さんからの情報が有っての話です」

そう幾つもSF要素があってたまるか、と思ったのも事実なのだが、十条が研究施設に関わる全てを廃棄したのも、違和感の要因だ。徹底的に消去するということは、大抵、隠したい何かがあるのを示す。

「君たちの推測通り、ポイズン・テナーは、さらちゃん……君だけが使用できた、スプリングによる突然変異的な才能だ。うららさんに、この力は無い」

さららの目元が揺れ、下ろしていた片手でもう片手首をきつく押さえた。未春に支えられていなければ、座り込んでいたかもしれない。この告白の意味するところは、十条を苦しめた録音も、全て自身の声であったことを示す。

「この力の出どころは、研究者たちもわからなかったみたいだけど……

君が妹さんと特殊な声で会話をしていたのは本当のことらしい。ただ、ポイズン・テナーに“成った”のは……――君が、赤ん坊の未春を守るために……うららさんを殺した時だ」

室内に、呼吸を憚るような静謐が落ちた。

口元を押さえたさららの胸の内にプレイバックするのは、血濡れた頬と拳で赤子を殴りながら笑った妹と、全身の毛が逆立つような感覚、吐き出された悲鳴に研究員が倒れる様だ。

「うららさんは、自分より弱いと思しき相手を度々、攻撃していた。周囲の子にはない半身不随のハンディに苛立っていた線もあるかもしれない。最たる例が、数少ない赤ん坊の未春に向いた時、さらちゃんは、咄嗟にポイズン・テナーを使って、その命を救ってくれた」

「私が……未春を……」

「うん。……だから本当は、君の声はスプリングやパーフェクト・キラーの接種者以外にも有効なんだ。要海くんたちに使った声と、敵を倒すために使った声は、単に目的が違うだけ。僕は、君が安易に使ってしまうことや、その力が狙われるリスクを減らすために、君を含めた皆に嘘を吐いた。もちろん、薬を接種していた方が強い効果があるのは本当のこと。優一くんや室ちゃん、利一さんと優里さんも共犯だけど、彼らを責めないであげて。みんな僕が考えて、みんなに頼んだんだよ」

さららの肩は、明瞭に震え始めている。だが、十条は言葉を切らなかった。

「さらちゃんは未春を守った後、妹さんを殺したショックで記憶障害を起こしていた。僕はうららさんは実験の負荷で亡くなったと最初の嘘を吐いて、君を施設から連れ出し、哲司さんに預けた」

「どうして……トオルちゃんは……私にそこまでしてくれたの……?」

「君が、僕の唯一の肉親を守ってくれたからさ」

そう答えた十条が穏やかな目で見つめるのは、未春だ。視線に気付いたさららがはっと振り向いた。

未春はさららを支えたまま、真っすぐ十条を見ていた。

「もう気付いてるんだろ、未春?――お前は僕の姉、十条春未の息子。正真正銘、僕の甥だ」

未春は返事をしなかった。ほんの少しだけ、目を伏せるのが見えたが、言葉を発することはなかった。その様子を見届けてか、十条は軽く息を吐いた。

「ハルちゃんがご所望の秘密は、まだあるかい?」

「ええ、勿論。10年前の事件の真相をどうぞ」

「君、そんな怖い声が出せるんだねえ……」

含み笑いに肩を揺らしながら、十条は片手のウイスキーを揺らしてから口を開いた。

「さらちゃん――穂積と実乃里は生きている」

今度こそ、さららは撃たれたように硬直した。

「二人を守ってくれたのも、君だ。――ただ、この内容もあまり気分のいい話じゃない。あの時、君は穂積が『亡霊ファントム』に襲われそうになったところにちょうど来て、ポイズン・テナーではなく、力で相手を攻撃したんだ」

「わ、私が……? そんなこと出来るわけ――……」

細腕に力を籠め、さららは困惑に顔を歪めた。

「これは完全に僕の嘘が裏目に出た。危険に対して、君は有用なポイズン・テナーを使わずに反射的な本能で穂積を庇った。その時、君というよりも、君の体が気付いたんだと思う。自分の力が異常であることに」

十条の目が、蒼白になるさららではなく未春を見た。

「未春、お前は本当に覚えてないのかい? お前が戦った相手は『亡霊』じゃない――」

未春は黙ったままだった。十条は、静かに言った。


「さららだ」



 10年前のその日も、国道16号はいつも通り行き交う車に溢れていた。

学業を終え、穂積のケーキ屋に向かっていたさららは、埃っぽい風と排気ガスに吹かれながら、ベースサイド・ストリートを急いでいた。

店が近くなってくると、穂積の姿が見えた。向こうもこちらを待っていたかのように、大きなほうきを手に、空いた手を大きく振った。さららがにっこり笑って小走りに近寄ると、穂積の後ろから、大きな影が歩いて来るのが見えた。

ふと、嫌な予感がしたのは何故だったのか――もしかしたら、それも自身に備わった薬物の力だったのかもしれない。

黒い巨体は、何かをぶつぶつと呟きながら、ゆらゆらと歩いて来た。決して早くはない速度のそれに、さららの目は釘付けになっていた。

分厚い手に握られた――鉈の刃が、日の光に眩しく輝いた。

「……穂積さん――」

お店に戻って、と言うことができなかった。巨体が唐突に凄まじいスピードで向かってきたからだ。思わず、さららはバッグを投げ捨て、立ちすくんだ穂積のほうきをもぎ取っていた。何故そうしたのか、思い返して尚、さららにはわからない。

まるで、全脳が、全筋肉がそうして動くよう命じるように、襲い掛かった鉈を躱し、竹刀でもぶつけるように巨体に向けて振り抜いている。もし、巨体にまともな意思が備わっていたなら、驚愕に目を見開いたに違いない。巨体の腰がしなる程に打ち据え、倒れないのを見たさららの両手が、握っていた竹に更に力を籠め、ぎちぎちと音を立てた。目は薄気味悪い程に澄み渡り、呼吸をしていないのではと思われるほど集中して、地面を蹴っては巨体に襲い掛かる。

もはやどちらが襲われているのかわからないほど、さららは相手を攻撃し続けた。

無論、穂積はさららのそんな姿は見たことが無い。声を失いつつも、そこは殺し屋の妻か、十条に電話を掛けた。彼が寝起き同然の恰好で飛び出すまでに、さららは相手の腕を折らんばかりに撲り、取り落とされた鉈を拾いあげるや、躊躇うことなく一閃した。

吹き出た血潮に穂積が声にならない悲鳴を上げ、わずかな躊躇いを払ってさららの腰に抱き着いた。

「さらちゃん……! もういいわ! もうやめて……!」

さららは返事をしなかった。目の前の敵を倒すまで止まれないかのように、猛獣めいた怪力で暴れ、穂積を振り払う。

強かに地面に投げ出された穂積が、よろめく巨体に大声を上げた。

「逃げて……! 逃げなさい!」

その声が果たして、届いたかは誰にもわからない。さららの一撃に薙ぎ倒された男が、ケーキ屋の前の壁にぶつかった。微かに店を揺らした衝撃に、中からちょこんと顔を出したのは実乃里だ。

「ママ……?」

「実乃里……だめ! 中に戻って!」

殆ど悲鳴に近い穂積の声にむしろ驚いて、実乃里が一歩退いたときだ。

さららが、倒れた男の首に向けて鉈を振り落としている。湿った肉を叩きつけるような音がした。

その――返り血を浴び、ひどく乾いた瞳が、恐怖に立ち竦む実乃里を見た。

殆ど無造作に振り上げられた鉈は、幼女の頭など容易く割ってしまったに違いない――その一撃を、重い金属音と共に受けた者が居なければ。

「未春……!」

穂積が掠れた叫びを上げる。未春は小ぶりのナイフ一つで、無表情に押し付けられる鉈をがっちり受け止めていた。刃がガチガチとぶれる中、未春の視線がさららに無言の驚きを示し、穂積に逸れ、すぐにさららに舞い戻る。

「……穂積さん、実乃里ちゃんと、中に行ってください」

ほっそりした少年に過ぎない未春の言葉に、穂積は短い逡巡の後、足をもつれさせながら放心状態の実乃里を抱えて店に飛び込んだ。その間も、さららの攻撃は金槌でも振るうように、未春のナイフを連打した。軽々と振る割に、斧を打ち下ろすような衝撃に、火花が散り、未春が歯を食い縛る。

「さららさん……どうしたんですか……?」

さららの傍らには、巨体が仰向けに倒れている。ざっくり断たれた胸部と首は黒い衣服に紛れて尚赤く、錆びた匂いが辺りに充満する。未春の声を聴いても、さららはぴくりとも反応しない。何かに操られているかのように、目の前の動くものを殺す機械マシーンのようだった。

「さららさん……!」

未春の呼び掛けに、さららは頬を苛立たし気に歪めた。

刹那、未春の腹部にキックが叩き込まれた。十条以外には食らったことも無い一撃に、未春の内臓が悲鳴を上げ、バランスを崩したところに鉈の一閃が襲い掛かる。

辛くも身を引いたが、片足を薙がれた未春は後ろに倒れた。すかさず距離を詰めたさららが、凶器を振りかぶった刹那――未春の後ろから、風をも薙ぐ白光が閃いた。

鉈の刃が、持ち手から切り取られて地に落ち、さららの髪が衝撃にほんの数本切られて舞った。未春が十条を見たと思ったとき、彼は見向きもせずにその後頭部をナイフの柄で殴り付けて気絶させている。一方、さららは十条を見て、わずかながら思案するように眉を寄せて後ろに退いた。どちらかというと、彼の姿に動揺したというより、手強い相手の登場に反応した動きに、十条は悲しげに微笑んだ。

「――……ごめんよ、さらら」

一言告げた両腕がナイフを捨て、瞬く間に距離を詰めてさららを羽交い絞めにすると、腕に噛みつかんばかりに暴れる娘の首に、麻酔銃に良く見るダートを突き刺した。しばらく、じたばたともがいていた手足から力が抜け……

それはやがて、静かになった。



「あとは、概ね……君たちが知っている通りだ」

すぐにやって来た清掃員に、一度はドラマ撮影の体を装わせてやり過ごし、未春が覚えている情報と同じく、穂積と実乃里の遺体を偽装し、十条が『亡霊』を殺す様を未春に目撃させた。

「未春と、さらちゃんには、パーフェクト・キラーを使った。運良く二人とも、お互いが戦ったことは忘れてくれたけど、さらちゃんには薬の量を加減をする間がなくて、かなり精神が混濁してしまった……だから、要海くんとの件の後に与えた偽の経歴を、すっかり本当の記憶と勘違いしていたよ。未春は最初からさらちゃんの素性は『妹さんの仇を取ろうとしてBGMに近づいた復讐者』だと思っていたから、僕さえ黙っていればそれで良かった。でも……穂積と実乃里に薬を使うことは、僕にはどうしてもできなかった。その状態で君たちと一緒に居るのは、二人にはとても難しかったから……こういう手段を取ったんだ。自分勝手でごめんよ」

十条は、寂しそうな溜息を吐いた。

「店に戻ってからも、穂積は僕が来るまでそっと成り行きを見ていたから、間違っていないと思う。彼女は君たちに何もできなかったことを、今も悔いている」

恐らく、最も悔いているのはこの男だ。あの時こうしていれば、なんて無駄な考えだと理解して尚、彼らの為に一芝居も二芝居も打って過去を改ざんした。

涙に頬を濡らすさららが、弱々しく首を振り、顔を覆って静かにしゃくりあげた。それを隣で、どこか労わるように未春が見つめた。

「さて……僕は洗いざらい吐いたと思うけど、どうだい……ハルちゃん? 君の同胞についても、吐いた方がいいかな?」

――転んでもタダでは起きない男だ。ハルトは苦笑いを浮かべて銃を下ろした。

「あいつの件は、二人には関係ありません。『亡霊』は結局のところ……『亡霊』だったんです。俺と同じ、いつか誰かに殺される存在だったんですから」

「君はホントに、殺し屋に厳しいね」

振り向いた十条は微笑んで、持ったままだったウイスキーを一息に呷った。空のそれをテーブルに置き、泣いているさららの元に歩み寄った。

「さらちゃん……恨むのは、僕だけにして。君のお父さんは愚かだけれど……君たちを愛していた。その気持ちだけは、忘れないであげて」

さららが、涙に濡れた顔をキッと上げた。溢れ出て止まらない涙を拭うこともなく、十条の胸に飛び込み、弱い拳を打ち付けた。

「 “トオルさん”は――ひどいです……! なんでも……なんでも全部、自分だけで考えて、一人でやるんだから……!ひどい……ひどいわ……!」

顔を上げたさららの細い指が、十条の両頬を包む。

「……今日だって、ずっと、……ずっと、さびしい顔してるじゃない……ねえ、

”トオルちゃん”……そのぐらい、私だってわかるの……! わかるんだから……!」

「……うん、ごめんね、さらちゃん」

「……二人は、生きてるのね……? ほんとに、穂積さんも、実乃里ちゃんも……」

「うん……元気にしてる」

遠慮がちに答えた十条に、さららは再び泣いてしまった。

瞬く間に涙は目尻からこぼれて、頬を濡らしてゆく。どうすることもできない男はいよいよ申し訳なさそうに屈み込んだ。

「わ……、ごめん――ごめんね……やっぱりショックだよね? 僕が……君のこと、ずっと弄んでたみたいで……」

その通りではないかという顔をしていたハルトだが、さららは泣きながら――微笑した。不思議だが、それはこれまでの彼女が見せていた寂しい笑顔ではなかった。

「バカね……違うわ……嬉しいの――良かった……ほんと、……良かった……」

語尾は滲んだ。それきり、さららははらはらと涙を零すばかりだったが、悲しい嗚咽ではなかった。ちらと見た優一が和んだ目許をしていたが、瞬き一つでいつもの表情に戻り、踵を返して出て行ってしまった。その後を追うように従った室月が、去り際、ハルトの方に深々と一礼した。

彼に会釈を返したハルトは、未春を見た。

こちらは、終始フリーズ状態で、涙するさららを見つめていた。肩口をつついてやると、夢遊病者のような顔つきが振り向いた。

「ショックなんだろ?」

ハルトが苦笑いで問い掛けると、未春はのろのろと頷いた。

「あんまりだ」

未春にしては、明瞭な不服が述べられた。

「十条さんと、血が繋がってるなんて」



 散々なクルーズが、それでも定刻通りに港に引き返す中、ハルトは未春と共にアマデウスを見送ったデッキの上で夜風に吹かれていた。

別に感傷に浸っていたわけではない。

互いにキリングショックを解消するよう命じられ、ハルトは氷、未春は、さっきのウイスキーを十条に取られた為、今度は『山崎の55年』というバケモノじみた価格の酒をするする飲んでいた。

「お前の解消法、便利か不便かよくわからんな……」

ちっとも酔った様子のない未春は視線だけこちらを見て、すぐに夜の海に戻った。

そう、未春がよく飲んでいる謎の飲み物……あれが、彼の解消法だ。

「ハルちゃんに言われるまで、気付かなかったよ」

本人さえ気付かなかった、人間である証を示す『飲んだことのないもの』――今は高級ウイスキーであるそれを見つめて、未春は不思議そうだった。

ハルトは手すりに頬杖ついて、その横顔を見てから、同じように海に視線を戻した。

「変だと思ってた。殺人鬼じゃないのに、キリング・ショックが無いわけがない。最初は真面目にやってる店の掃除かと思ったけど、お前は殺しの後に、店に戻ろうとしなかったからな」

最初の違和感は、初めて一緒に仕事をした時だ。

店を手伝わされるから、メシ食って帰ろう――あのセリフが出るということは、キリング・ショック解消法は、店にも自宅にも無いことになる。

十条は気付いてはいただろう。しかし、キリングショックは自身で自覚してこそ成立する。

どうやら、未春の「一番最初」がBGMの仕事ではなかったのも影響したようだ。

最初に、変なものを飲みたくなった瞬間を尋ねたところ、未春が告白したのは胸糞悪い出来事だった。

それはまだ未春が児童養護施設に居た頃、質の悪い保護者が施設の職員に当たり散らした時だ。その男は普段から酒臭い状態でやってきては「子供を返せ」と喚き立てる、保護者とは名ばかりの人間で、職員は毅然とした態度で追い返していた。

ところがある日、男は何を思ってか、文句を言うだけでは足りず、帰宅の徒についた職員を待ち伏せして襲い掛かったのだ。未春はその類まれな聴力で、職員の悲鳴を聞き付け、心配というよりは反射的に様子を見に行った。彼が見た光景は、頬や腹部を殴られて気を失った女性職員のスカートを捲り上げ、跨ろうとする男の姿だった。

「俺、なんだかその時――……すごく腹が疼いて、体中ぞわぞわって毛が逆立つ感じがして……あいつを殴らずにはいられなかったんだ」

つまり、いつかの救急車騒ぎと同様、キレたということだ。

十条は後に「打ち所が悪かった」と言ったそうだが、子供とはいえ、むしろ加減を知らぬ未春の怪力が規格外だったのは言うまでもない。男はコンクリート地に叩き付けられ、声を上げることも、反撃の機会も、何ならズボンを上げる猶予もなく、頭部をばっくり割られて動かなくなった。相手が気絶ではないと気付いた時の未春は、それなりに動揺したようだ。気を失ったままの職員と、突っ伏した男とを見比べ、どうすべきか迷い――躊躇の瞬間、男が持っていたビニール袋から転がり出た缶ビールに目が留まった。何がどうしてかなど、わからない。

とにかく、思わず掴んで一気飲みした。

「その後は覚えてない。目が覚めた時は自分のベッドの上で、頭がガンガンしてて……十条さんが、何も無かったみたいに処理してた」

ハルトは笑ってやりたかったが、笑えなかった。

極限状態で命綱のように酒を掴んだ手が見える気がする。よくまあそんな人間らしい反応をしておいて、自分をキラー・マシーンなどと思い込めたものだ。

「アルコールで、記憶も飛んだってとこかな……お前が未成年じゃなければ、そのまま酒を解消法にした可能性が高いが……」

知らぬところでキリング・ショック解消が行われてしまったわけだ。未春は酒の力を借りて最初の殺人のショックは解決したが、当時は急性アルコール中毒を起こした為、体の方が解消法を少しばかり方向転換したらしい。

それが『飲んだことのない飲み物』や『珍しい飲み物』だったわけだが、本人は解消法になる筈の飲料でぶっ倒れたし、体が決めた変更点を擦り合わせる方法など無い為、気付かなかった。

当初、変な飲料を前に「そそられないか」と尋ねてきただけに、菓子やコーラをやめられない一般人さながらの欲求ぐらいにしか考えていなかったようだ。

「そういうものなの?」

「……そういうもんだよ。少なくとも、俺はそう解釈してる。実際お前、ああいうの飲んでどうなんだよ? 美味いのか?」

「大体は」

何に遠慮してか言葉を濁し、まずい時もある、と付け加えた。ハルトは苦笑した。

「不味い時も、全部飲むのをやめられないんだろ?」

「うん。ハルちゃんも?」

「ああ。一番酷いときは、ドクターストップがかかっても氷食ってた」

「そう……」

未春は頷いて、何かを確かめるように片手を見つめた。

「ハルちゃんは、俺が人間に見えたんだね」

「……そうでもない。自分を棚に上げて否定しただろ」

今でも、その気持ちは半ば変わらない。未春の殺人に関わる行動は、常に危険な境界線にあると思う。たとえそれが、誰かを思いやる気持ちだとしても、彼がその境界線を越えるのは、あまりにも容易く、あまりにも守られている。

「ハルちゃん、なんで十条さんに喋らせたの」

「あ、もしかして……お前、怒ってる?」

「怒ってはいない」

「そいつは何より……俺は正直、お前には一発殴られても仕方ないと思ってた」

「……そういうリスク、ハルちゃんは嫌いだと思うんだけど」

「はあ……お前もわかってきたじゃねーか……」

大まかには、十条に言った通りだ。盤上の駒や操り人形にされるのが気に入らないし、そういう人間を見るのも嫌だ。これはもはや生理的な嗜好という意外、説明がつかない。

だが、何よりも。

「『亡霊』の件があったからだ。――気付いてるか知らんが、こいつは俺の同胞だった男だ。ジョン……アマデウスの部下を逆さに吊るしてわかった」

ブラックジョークを理解しているのかいないのか不明瞭な顔で、未春は首を捻った。

「BGMの施設に、一緒に居た人?」

「そうだ、ネバダに在ったBGMの殺し屋育成施設『マグノリア・ハウス』。奴の本名はヘンリー・マーチ。俺らの中で、最初に狂った一人だ」

「狂った……?」

「俺の同胞は施設を“卒業”した後、BGMの殺し屋として活動する筈が、脱走した二人と、俺を除いた全員が、依頼とは別の殺人をやり始め、シリアルキラー化したんだ。俺はアマデウスの指示で、脱走者と最初の一人として捕獲されたヘンリー以外の全員を殺した」

寒風をものともせず、ハルトは氷を含んでがりがりと噛んだ。

「偉そうな言い分だが、俺はヘンリーに関しては死んだと思ってた。今はさっさと殺してやれば良かったと後悔してる……アマデウスは、俺を欲しがっていた聖景三けいぞうを大人しくさせる為に、死んだと偽って奴をくれてやったんだ。あの人がうまいこと面倒事を一気に厄介払いしたが為に、お前らはその厄介に巻き込まれた」

「だからハルちゃんは、責任を感じたってこと?」

「そんな大層なもんじゃない……俺が殺す筈だった同胞の中で、本当の死に様を知らない奴が一人居るのは、気持ち悪いと思っただけだ」

凍った息を吐いたハルトの横顔を見て、未春はやや躊躇いがちに言った。

「その人……友達、だった?」

「まさか」

ハルトは暗い海に視線を落としたまま、乾いた苦笑いと共に首を振った。

「俺たちは互いにイカれてたからな。隣に寝てる奴も、同じテーブルでメシを食ってる奴も、殺す瞬間をシミュレーションして育った。同胞だと思うが、仲間でもなければ隣人ですらない。何より、俺は同胞を殺したとき、キリングショックを発症していない。そういう意味じゃ、俺もシリアルキラーだったんだろうな……ただ単に、あいつらより欲求が無かっただけで」

溜息混じりの語尾を風が攫う。

未春はハルトの横顔を見つめてから、ぼそりと言った。

「……ありがと、ハルちゃん」

「は? なんだよ、急に……」

胡乱げなハルトの手前、未春はグラスに残ったウイスキーを海に放った。甘くスモーキーな香りが風と潮に弾け、喘ぐような気配を残して消えた。

「勿体ねえな」

呟いたハルトが笑った。空のグラスを手に未春は潮風に呟いた。

「さららさん、大丈夫かな……」

「……大丈夫じゃねえの。お前は、これからも居てやるんだろ」

「うん。十条さんなんかやめて、他の男にしてほしいけど」

「お前にしちゃ、まともなこと言うな」

その相手はもう決まっている気がするが、まだ未春の前で言うのはタブーな気がして、ハルトは苦笑いに留め置いた。

「ハルちゃんどう?」

急に振られた一言に、氷の粒を吹いたハルトは少々むせ返った。

「馬鹿言え。そんな器用に見えんのか?」

「見えない。ハルちゃんは良い男だと思うけど、俺と同じ」

「そうだよ、お前と同じだ」

人間だが。殺し屋で、同じ穴の狢だ。いつか誰かに殺されるだろう。

自分たちが奪った命の分、或いはそれより遥かに多い痛みと苦しみを伴って。

いつか。絶対に。

氷なんて誤魔化しがきかないぐらい、体の芯まで、冷たくなる。

「ね、ハルちゃん」

「ん?」

「本当の名前、どう書くの?」

「……なんでそんなこと聞くんだよ」

「教えてよ」

ハルトはなんだか嫌そうに答えた。

「――暖房の『暖かい』に『人』で、暖人はると

苗字も含めて、殺し屋っぽくないから嫌なんだと言った青年に、

でも、と未春は言った。

「ハルちゃんにぴったりだと思う」

「……お前もいい名前だよ。未来は春なんだろ」

未春は何も言わなかったが、何を考えているかはわかる気がした。

暗いばかりの海に、星のような灯りが見え始めた。やたら滅多に明るくて、バカみたいに大勢がひしめき合って、ぞっとするほど感情が溢れた街が見える。



 要海は、さららの件から手を引くことを十条に告げた。

「使用価値が無い。ポイズン・テナーが使い物にならないばかりか、男を殴り殺すかもしれない女など、取引先に紹介できるものか」

一部始終を聞いた彼の言い分はこうだが、十条とアマデウスにすっかり肝を潰されたのは間違いないだろうと室月が教えてくれた。

さららのポイズン・テナーがすっかり弱っていたことは、ロスカの手下が証明してくれたが、理由はさらら自身にもわからなかった。彼女が『BGMの仕事』と称していたのは、小牧グループの定例会に秘密裏に潜り込み、機をみて以前使った記憶消去の声を発するものだったそうだが、最初は一年近く効果が持続したものが、徐々に間隔を狭めていたという。怪しいのは優里が処方し続けた睡眠導入剤だが、十条が口を割ることはなかった。

ただ、この薬に「MGB」こと「ミッドナイト・グランド・ブルー」の試作品が含まれていた可能性は大いに有り得る。さららは、BGMの仕事中、自身が何をしているのかよくわかっていなかったようだが、漠然と「悪いこと」をしている認識や、曖昧に思い出す過去の記憶で、自殺を考えるような鬱状態に陥ることはあったという。

千間優里ゆりが、さららに涙ながらに謝罪したのは、パーフェクト・キラーを使ったことや、製法を小牧に流したことよりも、友人であるさららでMGBの実証実験を行ったことではないだろうか?

――……その結果もまた、さららの為ではあるが、悪魔の研究と言っても難は無い。

……まあ、小牧が潔く手を引いた今、その努力は報われたことになるのだろうが。


「要海チャンは、あれで良いトコあんだぜ」と、後日DOUBLE・CROSSに現れた矢尾によると、彼とその仲間は解雇されることもなく、グループ会社を巡るバイク便を任され、ジャンクも同様に存在を秘匿された状態のまま、もともとやっていた社のシステム管理に戻ったという。ジャンクは要海が侮辱されたことを怒り、アマデウスを攻撃した際、彼の銃弾を浴び、言い表せない衝撃を受けたそうだ。

何やら馬が合ったとみえる未春と“彼女”は連絡先を交換していた為、発砲音しか聞いていない未春に、後日その話をしてくれたという。

尤も、彼女は怒ったり怯えたりする様子はなく、その射撃がドローンの急所を一撃で射抜いたことに驚いていたようだ。

「みはるくんが、アンノウンの股間を蹴ったのと、おんなじかな?」

ジャンクの素朴な疑問に、未春は迷うことなくイエスと答えていた。

……全く、イケメン詐欺という奴は留まるところを知らない。

「ジャンクもお嬢の正体には、要海チャンや俺らと同じで目が回っちまったみてェだけどな」

ヒヒヒと笑った矢尾の言葉に、イーヒヒヒ同じような笑い声を返したのは明香あすかだ。

十条が未春とさららを連れて外出した為、ヘルプにやってきたのだが、手が空くと何やら気が合いそうな矢尾と共に、ハルトを挟んでのお喋りに興じている。

「なんか吹っ切れたみたいだよね、要海さん」

ハルトが十条を脅迫していた頃、茉莉花として要海の相手をしていた男は、今はごく普通のカジュアルな大学生だ。が、にやにや笑う顔は、まるで札束を数える悪党だ。

「さてはお前、何か吹き込んだな?」

「やだなーハルトさん、俺はただ、『うるさい身内はクビにして、堂々と加納サンと付き合えばいいじゃん』って言っただけ」

「お前の手のひらの返し方は、非常にわかりやすい。幾ら貰った?」

「うえ、さすがフライクーゲル……鋭い……でも、ひ・み・つ。お仕事なんで」

要海に正体をバラす際、ちゃっかり名刺を渡して自己紹介した明香は、まんまと顧客を獲得したようだ。アマデウスにも同じように接近し、さっそくお墨付きのあだ名『トリックスター』を頂いていた辺り、今後、最も注意すべき悪党はこいつになるかもしれない。

『トリックスター』とはアマデウスもよく言ったものだ。

シェイクスピアの「真夏の夜の夢」の妖精パックや、北欧神話のロキ、神話のルシファーに見られる、悪戯好きをベースに善悪や賢者と愚者などの二面性を持つキャラクターを示す言葉である。

「さららさんの件だけ見れば要海さんはゲスでクズだけどさ、トオルさんが殺さなかったのって、やっぱ表がちゃんとした経営者だからでしょ。これから要海さんがガンガン改革していけば、小牧はすごいホワイト企業になるかもって室ちゃんも言ってたし」

当の室月は、奥のキッチンで見事にさららの代わりをしてくれていた。

クルーズ後の二日後に会った時はもう腕を吊っていなかった為、つい、スプリングの疑いを抱いたハルトに対し、「昔から、強がりなんです」と笑った。

「任せちゃって、すみません」

ハルトがキッチンを覗くと、エプロン姿もきちんとしている室月は、綺麗に揚がったドーナッツにグレーズをかけながら微笑した。

「いえ、気分転換になります。さららも、そういう気持ちでやっていると思いますよ」

「ハイレベルな気分転換ですね」

「今日も、そのぐらい気楽に楽しめれば良いと思います」

今日、二人は死に別れたと思っていた二人と再会している。死が横たわる過去を経て、そう容易くいくとは思えないが……穂積と実乃里が生きていたことを「嬉しい」と言って涙したさららの言葉も、「良かった」と言った未春の言葉も、嘘ではない。それが伝わればいい。相手は仮にも、“あの”十条の妻子だ。

「あいつらぐらい、気楽ならいいんですが」

何を意気投合したのか知らないが、カウンターの所で妙なハイタッチをしている矢尾と明香を指すハルトに、室月は小さく声を立てて笑った。

「ハルトさん、例の件ですが、手配しておきました」

「ああ、本人からも返事は頂いてます。お忙しいのにすみません」

「いえ、お安い御用です。貴方には、お世話になりましたので」

「逆だと思いますけどね……」

ハルトは肩をすくめて、物思いにふけるように店内を眺めた。


――正確には、机を盤にした思考を。

異例の異動。ベレッタ百丁。ソフィア。銃殺事件。ドラッグ。偽の女王蜂。例の施設。フェイク・ニュース。


アマデウスは、言った。


『両方』と。

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