四色問題
くが
同じ色同士が、隣り合ってはいけない
真夏。彼__参千世廻は一時的な休暇のために、電車に揺られていた。十二歳には生まれた故郷を離れている世廻だが、やはり生まれ育った街には少なからず思い入れもあるからか、次第に懐かしさを覚える。考えてみると、もう十三年近く、それこそ故郷で育った以上の時間を色んな場所で過ごした。時が過ぎるというのは早く、彼も二十五年という長い年月を生きている。
そうしてぼんやりと、窓の外を眺めている内に、列車は停まる。……目的地だ。
長かった列車の旅も終わり。もう誰もいないホームを踏み締めれば、まだ昼間の熱を含んでいる夜気がゆるりと頬を撫でる。
背中から扉の開閉音を聞きつつ、世廻は切符を通して、街へと踏み出した。
久々の故郷。しかし、街の様相が目に見えて変わった、とは思わない。ほんの少し、ちらほらと在ったものがなくなっていたり、なかったりものが増えていたりと、些細な変化を覚えるだけ。ただそれだけ。懐かしさはあるものの、切なくなったり、嬉しさに満ちたり、なんてことはない。遠くになり過ぎれば小さくなり見えなくなってしまうように、生まれ育った故郷もまた、それだけ、世廻には遠い過去の場所になったということだろう。
道を進む。世廻は、ある場所に向かっていた。故郷の中にある、彼にとって最も大切である場所。そこへ向かうため、何を言うわけでもなく、一歩ずつ歩んで行く。
段々と街灯が減り、暗闇の面積は広くなる。建物も見えなくなり、遂には街灯もなくなった頃、立ち入り禁止の札を掛けられた鉄門を、やっと見つけた。
彼が目指した場所は、海辺にある廃墟。元は誰かの邸宅だったであろう場所は、もう長く闇を纏ったままだろう。証拠に、十三年前よりも邸宅の風化が酷い。それもまた、確かな時の流れを感じさせた。
ざあ。ざあ。波音が鼓膜を打つ。
門に足をかけて登っていくと、僅かに童心と悪戯心が奥で揺らめいた。
門を越えて、世廻は邸宅へと行く。扉のドアノブを捻る。十三年前と変わらず、鍵はかかっていないようで何よりだ。軋む蝶番が、埃っぽい匂いが、暗闇に浮かぶ割れたステンドグラスが、古びた記憶の箱を、開けようとしていた。
屋敷の奥へ、世廻は足を動かした。光源は、窓から差し込む淡い月光だけ。周りが見えるほどの明るさではないが、誰に会うわけでもないから、別にそれで困ることはなかった。
そうして辿り着いたのは、観音開きの扉だった。この扉もやはり鍵は閉められておらず、容易に開くことが出来た。
そこは広い部屋だった。部屋の窓をすり抜ける淡い月光が、微かに強まった気がした。
昔は、ここがどういう場所だったのかもわからなかったが、今ならば理解出来る。ここは、ダンスを練習出来る部屋だった。鏡を張った壁、そこに付属する手すり。それらから察するに、バレエを踊る場所だったのだろう。
だがそうとも知らなかった幼い世廻は……、『世廻と彼女』は、ここを秘密基地にした。記憶の中でしか生きていなかった場所は、あの頃と、あの時と何も変わっていない。まるで時計が止まったままのような状態で静止している。
くしゃくしゃの毛布も、乱雑に置かれた本も、倒れた地球儀も、重ねられた座布団も、一人がけのソファも。何一つとして変わっていない。
一歩踏み出す。眠っていたあの頃の記憶が、また目を開く。
一歩踏み出す。あの頃の世廻たち二人の幻影が、笑っている。
一歩踏み出す。そして、幻影は互いにすれ違い、ここの時を止める。
ここに。この場所に、世廻の過去が、今も確かに存在している。
一人がけのソファには、埃が積載されており、世廻が手でゆっくりと払うだけで埃の小さな塊が生まれた。掃除をしてやれば、燻んだ茶色の皮色が浮かび上がる。
ソファにもたれかかって座る。かつて届かなかった足先は、床を踏みしめている。それが何だか新鮮で、世廻は不意に笑みをこぼした。
それに同調するように、記憶が鮮やかな色を伴って吹き出していく。
初めてここを見つけた日は、今と同じ暑い夏だった。二人して自転車を漕いでいたせいで汗まみれだったくせに、この一人がけのソファに二人で座っていたのだ。体が引っ付くのも気にせず、世廻たちはソファで、疲れを発散するように昼寝をした。夕暮れまで寝ていたせいで互いの両親に怒られたことは、あまり思い出したくない内容ではあるが。
ここで過ごす夏休みは、例年よりも冒険に満ちていた。屋敷中で遊び回ったことは公園で遊ぶよりも数倍ドキドキしたし、ここで二人で過ごす時間は、何物にも代え難い大切な時間だった。
それに、この場所だけは誰にも教えたことのない、二人だけの秘密だったのだ。秘密は、どちらから言うわけでもなく、自然と決まっていた。言ってはいけないということが、余計に二人へと興奮を与えていたのは、言うまでもないだろう。
だからだろうか。二人の秘密は、この場所だけにはならなかった。
初めてこの場所を見つけた次の年、世廻と『彼女』はキスをした。
……あれはどちらから言い出したことだったか。現在となってはもう分からないが、何かに触発されたのだろう。そうして、世廻たち二人は、また秘密を作った。誰も知らない、二人だけの記憶。それは幼心を痛いくらいに刺激して、互いを強く意識し始めるのに十分過ぎるほどの理由だった。
それをきっかけに余所余所しくなったのを思い出せば、胸の奥に疼痛が巡る。
二人でここに来ることは、目に見えて少なくなった。それどころか二人で話すことすら減り、二人でいる時間は着実に減っていった。
偶然に行った街で、世廻がアイドル事務所にスカウトされたのは、そんな時だった。
世廻は興味を持ち、アイドルとなる。これがアイドルとしての世廻の始まりだった。最初こそ右も左も分からない新米アイドルだったが、すぐに才能を花開かせ、メディアへの露出も多くなっていく。
小学校でも、友人に褒められ、周囲の女子の送る視線も少なからず憧れの対象になっていった。
だが同時に、仕事で住んでいた場所を空けることも目に見えて多くなった。売れていけば当然にそうなることは理解していたが、街を空けるに連れて、この場所も、『彼女』のことも、記憶の隅に追いやられていった。
だから、気付いた頃には後戻り出来なくなっていた。中学校に入学するタイミングで、仕事場の近い場所への引っ越しが決まって『しまった』のだ。
すぐに『彼女』へ伝えようとするが、今更どうやって声を掛けたらいいのか分からない上に、幼さからくる恥ずかしさもあり、いつまでも言えずにいた。そうして無為に時を経たせている間に小学校を卒業する日は、やってくる。
そこで世廻は、みんなの前で引っ越す旨を伝える。
そこで先延ばしにしたことを悔いた。あれだけ大切にしていた『彼女』を、世廻は有象無象の一人にしてしまったことを、理解し、悔いた。
その時の『彼女』はどんな顔をしていたか、見ないようにしていたから、分からない。
だから驚いたし、怖かった。引っ越す日の前日、『彼女』に、この廃墟に来て欲しいと言われたことは。
ここに来ると『彼女』は、過去を語り始めた。世廻と出会った日から、ここで過ごした日々も含めて、語ったのだ。世廻もその語りを聞きながら、相槌や言葉を返す。……そうして語り終えた後に、あの時を思い出させるかの如く、『彼女』は世廻にキスをした。
その時のことを、今でも夢に見る。春の夕陽が部屋に差し込み、埃っぽい空気に、ミントのような『彼女』の香りが混じって、近くに温もりを感じる、美しき夢を。
離れた『彼女』は、俯いた。俯いて、それから叫んだ。
「何で言ってくれなかったの」、と。
泣き叫ぶ『彼女』を見て、漸く気付いた。大切な『彼女』を悲しませていたことにも、『彼女』がキスをした理由にも、世廻が犯してしまった愚行にも。
何も言えなかった。ただ目の前に広がる自分の愚かしさの証明を見て、困惑することしか出来なかった。
そんな世廻を見て、『彼女』は何を思ったのだろう。呆れか。諦めか。それとももっと別の何かか。
『彼女』は去る。そして去り際に、言葉を残した。鮮明に思い出せる。息遣いも、言葉の抑揚も。
「『世廻の、ばか』」
廃墟の部屋に、自分の声が木霊して、世廻は無意識で言葉を発していたことに気がつく。
言葉は重かった。重い想いを思えば、世廻は当然な気がした。
『彼女』はあの言葉にきっと多くの思いを込めて、世廻に伝えたのだろう。だが、言葉を詰まった思いは、世廻には到底分からなかった。何度考えても分からない問いを未だ心に抱きながら、不意に、近くの本に目が行った。
その本は、当時『彼女』が好きだった本だ。
タイトルは、『四色問題』。表紙の図形は線が引かれて四分割され、四色に塗られている、ハードカバーの本。
懐かしくなった。当時の世廻は、この本に書かれていることを理解することは出来なかったが、この本の内容を楽しそうに語る『彼女』が、少なくとも嫌いではなかった。
本は埃にまみれていた。それがやるせなくなって、世廻が本の埃を払う。
「__世廻?」
心臓が、大きく跳ねた。
声の主は、世廻からすれば思考するまでもなく分かる。ここを知っているのは、世廻を除けば一人しかいない。ただ驚きを隠しきれず、声の方向にすぐに振り向いた。
赤黒いセミロングの髪。夕陽色の双眸。大人っぽい、今時の女性らしい服装をしているが、顔立ちはまだ幼さを残している。
震える唇で、世廻は名を呼ぶのだ。
「__繭子」
紛れもなく、『彼女』__椎名繭子だった。
何で、というよりも思ったのは、綺麗だという純粋な気持ちだった。先ほどより強まった月光を浴びて輝く髪色も、世廻を見つめる夕陽色の目も、まだどこか幼い顔立ちも、あの頃より幾分も大人っぽさを増して、綺麗になった。
そうして繭子が目の前にいることを一拍遅れて理解した世廻だったが、事実は随分と胸の奥を痛ませる。心から血が滴っているような鈍い痛みは、久しく感じていないものだった。加えて、訪れた沈黙が、余計にその痛みの存在を露わにするものだから、何を話せばいいのかも分からなくなって閉口する。沈黙が連鎖していた。
連鎖する沈黙の渦を断ち切ったのは、繭子だった。
「帰って、来てたんだね」
簡素な言葉に世廻は、彼女との距離を感じた。帰ってくることを知らなかった彼女と、帰ることを知らせなかった世廻自身には、それだけの距離があるように感じた。仕方のないことではあるが、やはり後悔が浮かび上がるのは止められない。
迫り上がる後悔を奥歯で噛み殺して、世廻も言葉を紡いだ。
「……一応。短いけど、休みが取れたから」
「そっか……」
お互いに距離を測りかねるのか、折角始まった会話はすぐに途切れる。部屋は何も言わず、ただ二人を見守っているだけだ。
十三年前は、沈黙も苦ではなかったのに、時を経た間に広がった距離のせいで、いつの間にか沈黙が息を詰まらせる。
「な……なんで、ここに来たんだ?」
当然の問いを会話の梯子にして、世廻は繭子に目をやった。
夕陽色の目を軽く伏せた繭子は、数秒考えてから、答える。
「世廻が引っ越した後も、ずっと定期的に来てたの。……大切な、場所だから」。繭子が言った。
世廻の思考が飛んだ。驚くというより、呆然に近かった。繭子は十三年前から、定期的にここに来ていた。そして今彼女は、「大切な場所」と言った。それが心に落ちたとき、壊れそうなくらいに世廻の心臓が躍った。
__嬉しかった。
だがそれと同時に、彼女に対する罪悪感と後悔は、さらに強まっていく。
だから次の言葉に、心臓が停止した。
「それに、来月結婚するしさ。『最後』に見ておきたかったの」
嬉しさが、瞬く間に悲しみへと形を変えた。気を抜けば無様に泣き叫びそうになるほどの悲しみは、体の震えという形で表層に現出する。
だがそれを取り繕うのも、世廻には簡単に出来た。演技力だけなら誰にも負けない自信があったし、取り繕うということに従事しないと、心が瓦解してしまいそうだったから。
でも、心と表層が違うという演技がいつまで続くかは、世廻自身にも分からなかった。
一拍の間。
「……そうか、結婚するのか。まぁでも、俺たちもいい歳だからな。結婚しても不思議じゃないか」
違う。
「お前もいい奴を見つけられたんだったら良かったよ。おめでとう」
そんなことが言いたいんじゃない。
「結婚式には呼んでくれ。お祝いしたいし、お前の旦那になる奴も見てみたいしな。それに__」
……繭子。
心で名を呼んだとき、幻影が泣いた。
『世廻の、ばか』
それは、現在の繭子が言った言葉だではなかった。かつての幻影が落とした言葉でしかなかった。今更になってこの言葉が出て来た理由など、世廻には到底分からなかったが、それは現実から目を逸らしかけていた心を、確かに我に帰らせる言葉だった。
「なぁ、繭子」
「……なに」
「俺って今もばかかな」
「……うん」
「そっか」
「……ねぇ世廻、私__」
「__俺、繭子が好きだわ」
その時の繭子は、随分と素っ頓狂な顔をしていたように思う。唖然、呆然、困惑、色んなものを混ぜ込んで生まれたような不思議な表情。
世廻は、そんな繭子も、堪らなく愛しいと感じていた。
「ここでお前とキスをした時から、ずっとそうだった」
そうだ。あの刹那の時間で、世廻は繭子に恋をした。だが幼い彼はそれを正しく理解出来ず、恐怖した。理解出来ないということが幼い心には恐ろしくて、恐怖から逃げるように、繭子から遠ざかったのだ。
アイドルだって、心のどこかで繭子から遠ざかる言い訳にしたかったのかもしれないと、今なら思える。
そして最後の日に、繭子に与えた悲しみを理解し、罪悪感と後悔を胸中で飼うことになる。
遠ざかり、胸中に巣食う者たちと向き合う度に、繭子への恋心を自覚していった。いらないから、と繭子を切り捨てたくせに、遠くなって、足りなくなってから彼女が欲しいと言うなど、餓鬼以下の屑でしかない。
でも、屑が恋心を抱いてはいけない理由など、どこにもないだろう。
だから、
「繭子が、好きだ」
何度でも思いを伝えたい。
言葉を少しずつ理解していったらしい繭子は、困ったように眉を下げて目を伏せる。
「……なんで今なのよ」
「ごめん」
「遅すぎ」
「ごめん」
「都合良すぎ」
「ごめん」
「だから世廻は、ばかのままなんだよ」
「ばかでも、お前が好きなことに変わりはない」
一歩ずつ、繭子に歩み寄る。失った時間を埋めるように、開いてしまった距離を詰めるように、世廻は繭子に歩み寄った。
例え今、繭子を触れることが出来る距離にいても、心の距離はきっと埋まっていない。
だけど進むことでしか、距離は埋められない。
「繭子」
「なに」
「愛してる」
「……せ、せか__」
名前を呼んでくれようとした繭子に、キスをした。触れ合うだけの簡単なそれ。
キスをした時、時間が止まればいいのに、なんてことを小説では書かれていたりする。世廻も、そんなことを思いかけたが、唇を離した。
だってそれでは、繭子と言葉を交わせなくなってしまう。開いた距離をキスだけで埋めることなんてきっと出来ない。だから、繭子へとまた言うのだ。
「好きだよ、繭子」
そうして返ってきた言葉は、いつかと同じもの。ただ含まれる意味は、同じではないはずだ。
「世廻の、ばか」
そうして、とある真夏の一夜に隠された、二人だけの秘密が始まった。
求め合った。
捧げ合った。
語り合った。
感じ合った。
愛し合った。
だが時間は有限だ。
秘密もまた、終わるのだ。
世廻に背を向けて、扉から出でる時、繭子は幾つか言葉を部屋に残していった。
「ねえ世廻。もう、私のことは忘れてね」
息が止まった。その世廻の反応は想定内だったのか、彼からの言葉を待たずに、繭子はまた告げる。
「私結婚するし。それに、世廻も私を忘れた方が、次の人見つけれるじゃん? まぁ私が初めての人っていうのは消えないけどねっ」
悪戯っぽいその笑顔が、余計に世廻の心を苛んだ。二人が別たれることを、彼女が笑顔で終わらせようとしていることが、世廻には痛かった。
彼女が扉を開ける。咄嗟に背中に手を伸ばした。届かない場所に行く彼女を止めたくて、手を伸ばす。
そこで告げられた言葉が、廃墟に残された繭子の、最後の言葉だった。
「私たちはきっと、同じ色なんだよ」
闇の中に消えて行く彼女の姿を追うことは、果たして出来なかった。代わりとでも言うように世廻は、落とされた言葉を、彼女に届かなかった手の中に入れて、眺めてみた。
答えは、考える時間も不要に、すぐ側にあった。
かつて彼女が好きだったハードカバーの本。『四色問題』。
この問題に課せられたルールは、
『同じ色同士は、隣り合ってはいけない』。
繭子が言わんとしたことは、これだろう。二人が同じ色なのだとしたら、二人は隣り合ってはいけない。隣り合うことは出来ない。
だから離れるしかない。どんなに近くとも、違う色を、誰かを挟まないと彼らは近くに居られない。
くそ、と思わず吐きそうになった悪態を、ぐっと飲み込んだ世廻は、埃が落ちた床に腰を下ろした。
夜色のキャンバスに浮かぶ月はもう頂へと昇り、月光を強く降らせている。
刹那、部屋が鮮やかに照らされた。月明かりすらも越える光量を放って、闇が色に塗られる。
光の方向に首を向けると、そこには花があった。大輪の花が、夜空に咲く。
花火。
そういえば、今日は花火大会だった。なんて他人事のような思考をしてみれば、彼女もきっと見上げているだろう夜空に、短くない時間、目を奪われた。
昔、この場所を見つけるよりもずっと前に、一緒に花火大会に行こうという話をしていたのを世廻は思い出す。その時は、乙女心が分かってないと繭子に怒られたものだったが、乙女心を分かれるくらいに、今の世廻は成長したのだろうか。まだ子供のままなんて格好のつかないのは勘弁したいものだ。
また、幻影が顔を出す。
『そうだよ、おれ。カッコいいのが一番だぜ』
「わかってるよ。かっこよくなくちゃ、参千世廻じゃない」
『せかいはいつもカッコいいから大丈夫だよ!』
「そうか? そこにいるおれはともかく、俺自身はどうか分からないもんだよ」
『じゃあおれの思う、カッコいいようにやればいいじゃん』
「俺の思うかっこいい、か」
『……ねえせかい』
「なんだ?」
『わたし、せかいが好きだよ』
「そうか」
『せかいは?』
「好きだよ」
『じゃあ告白しちゃいなよ!』
「振られる覚悟で?」
『そりゃそうだろ、おれ。振られるのがこわくて告白出来るか?』
「正論だな」
『せかい』
「今度はなんだよ」
『未来のわたしを__』
振り返っても、あの頃の幻影はない。あったとしても、それは世廻の心が作り出した、記憶の残滓だろう。
残滓にどれほどの価値があるのか、そんなものは分からない。
だから世廻は、思うのだ。
思い出は、思い出だから、綺麗で、美しいのだと。
その日、一軒の廃墟が火災にあった。
そして火災の数日後、参千世廻の行方不明が、ニュースとして伝えられた。
九月の晴れは、まだ夏の熱気を孕んでいて、蒸し暑さを感じさせる。開いた窓から海風が吹いて、赤黒い髪が揺れた。
時計を見れば、結婚式が始まる一時間前。だがドレスを着る気にはまるでなることが出来ず、繭子は小さな椅子で膝を抱えていた。
結婚式前だというのに、伴侶となる男ではなく、別の人物、それも男のことを考えていた。
参千世廻。アイドルである彼は、今、行方不明になっている。
加えてあの廃墟が火災にあったと聞いたとき、繭子の頭には最悪な考えしか浮かばなかった。
世廻が死んでしまったのではないか。そう考えるだけで心が圧迫されたように痛み、他のことに頭が働かなくなる。吐き気すら催すほどの恐怖に、怯えるしかなかった。
世廻を一人にしなければ、彼を死なせずに済んだのではないか。いや、まだ死んだと決まったわけではない。だから、大丈夫。言い聞かせて、繭子は膝に顔を埋めた。
そうやって言い聞かせることでもしていないと、頭がおかしくなってしまいそうだった。
まだ、世廻の温もりを思い出せる。それだけじゃない。抱き締めてくれた強さも、囁いてくれた言葉の意味も、彼の心臓の律動も、何もかも思い出すことが出来る。
だけど、思い出せるということは、そこにいないと理解しているということだ。だからこそ、彼がいないという事実は現実味を帯びていて、行方不明にも、納得してしまった。
呻く。
「……世廻」
また、名を呼んでしまう。特に今は結婚式の前だというのに、他の男の名前を呼ぶなんて、本当に、
「どうかしてる……」
溜め息。落ちていくそれは、もう幾つも底に留まっている。
溜め息は何度目かも分からないまま、結婚式に出るのが本当に嫌になったときだった。
「繭子」
声は開いた窓の外から聞こえた。ちょうどここが一階だったからだろう。
海を背後に、『彼』は言った。
「俺さ、考えたんだけど、同じ色だって言うんなら、俺が違う色になるよ」
笑っていた。
「だってそうしたら、隣に居られるだろ?」
あの時と変わらぬ笑顔で。
「お前はどう? 繭子。俺と隣り合うのは、嫌か?」
問われて、繭子の目には大粒の涙が浮かんでいた。溢れ始めるそれを拭うこともせず、繭子は『彼』に問いを渡すのだ。
「なんで、そこまで」
そう言うと、彼は微笑んで、
「お前が好きだからな」
当たり前だろ? と言った。
本当にばかだ、と繭子は泣きながら笑いそうになった。でもそのばかなところに、繭子は。
そして『彼』は言った。
「繭子。俺と逃げてくれますか?」
答える前に、『彼』に悪態の一つでもつかないと気が済まなかった。
「ばーか」
その日、とある結婚式場から、新婦が消えた。
四色問題 くが @rentarou17
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