額縁中の異世界


クーラーの低い稼働音。野球部の独特な走り込みの掛け声。吹奏楽の音出しが響いている。遠くでは懸命にその命を主張するクマだかアブラだかのセミの声。


外の暑い世界から隔絶された美術室。

時がゆっくりと過ぎていくようなこの場所が、私のお気に入りだった。


「あーぁ、夏休み早く終わらないかなぁ」


頬杖を着いた視線の先には見事な入道雲と澄み渡った青空。窓が額縁のように見えて、漠然と絵画みたいだなぁなんて思った。


「こっちは終わったら困るんだよ

暇なら部活行くか絵の具取って、青」

「このくそ暑い中あの中に戻れって?

むりむり、根性論嫌いだし

第一、今部活来てんじゃんね」


愚痴みたいな言葉に私はへっ、と短い嘲笑と注文の青色絵の具を投げて寄越した。


「ったく、サボるためにあるんじゃないっての美術部ウチは…絵描けよお前」

「ヤダよ私才能ないし…それに、廃部にしないために名前貸せって言ったのそっちだろー」

「ああ言えばこう言う…」



そいつは唯一の美術部員…いや、私を合わせれば美術部員は2人か。そいつの名はあおいといった。

葵(と私)の所属する美術部は現在、部員不足により廃部の危機に瀕していて、葵はこの夏の絵画コンクールでその危機を脱しようと企んでいた。


…まぁ正直廃部秒読みだと思うんだけどね。


先輩が引退したから部員は2人ぽっちだし、まともに絵を描こうとする人間は葵だけになった。そもそも私は兼部だし。


「…もったいないなぁ」


チラリ、と葵が繊細に筆で色を差すカンバスを見やってため息が零れた。

生憎絵を見て善し悪しを精査できる目は無いが、素人目で見てもその絵は美しかった。


数え切れないくらいの星が華々しく散りばめられた空は平面とは思えないくらいに奥行きがあって、その空間を割く爪痕のように描きかけの白く細い月が浮かび、湖面にはそれがそっくりと、しかしどこか溢れんばかりに涙を湛えた瞳のような寂しさを浮かばせる色で描かれている。


まさか誰も、夏の日差しの差し込んだ美術室でクーラーに晒されて描かれたものだとは思えないだろう。

この絵はそれほどまでに夜の匂いがした。


…ずっと美術室にいる友人のような存在だったからこそ、この絵に私は愛着を持っていたのかもしれないけれど。

でも、まぁ、

生まれ変わるなら葵の絵の中がいいな、

なんて思うくらいには、私はこの絵が好きだった。


「…なにが」


私の言葉が何を指すのか思考したのだろう。たっぷりと間を開けてから、その絵から目を離さず葵がそう返してきた。


「ぜぇんぶ」


絵画コンクールで入賞したら廃部を撤廃する、なんて約束、先生は誰もしてくれなかったし。葵は卒業しても絵の道には進めないからもう描くのは辞めるって言ってたし。廃部になれば、この大きな夜の絵は葵の家にも美術室にも飾れなくて帰る場所を無くしたまま燃えるのだろうし。


私にとって葵は、間違いなく天才だった。

1年前初めて見た葵の絵は中世ヨーロッパだかの街の絵で、モノクロだったそれは手に触れられそうなくらいに立体的で…らしくもなく興奮してしばらく見入ってしまった。

しかし葵がいるのはこの、2人しかいなくてその片方はほとんど幽霊部員なんていう、つついたら倒れてしまうような美術部なのだ。


「葵、美大入ってさぁ、有名になってよ、そしたらサイン貰いに会いに行くからさ」

「美大に入っただけで有名になる訳ないだろアホか。そもそもお前サイン売るだろ絶対」

「なんだよぉ人を薄情者みたいに言って…」


えーんと顔を覆って泣き真似をしてみても葵はフンッ、と嘲笑しか返してくれなくてノリ悪いなぁと膨れて直ぐにやめた。


「今更大学も行けないしさ」


「…やっぱ変」


いつもの葵からは絶対に飛び出さないだろう言葉に私は思わずそうこぼした。


「葵今日あんま怒ってこないよね、大学だって、行けないなんて言わなかったのに…嫌な事でもあった?」


葵が弱気で人を小馬鹿にしてなくて私にイラついてないのを見ると流石に心配になる。暑さにでもやられたのだろうか。ここクーラーが効きすぎて少し寒いくらいなのに。

何にも反応がない葵がやはり心配で、葵の表情を覗き込もうと体を起こす。すると葵はやっと視線を絵から私に向けてきた。今日、初めて目が合った気がする。


かえで、好きな色は?」


脈絡のない言葉といつもは見せない人を小馬鹿にしてない笑み、あと滅多に呼ばれない名前にいよいよ本当に葵の頭が心配になってくる。


「頭強く打ったんじゃねーの…?」

「うるさい早く」


言葉を遮るくらいに食い気味な言葉がいつもの葵だったので、素直に好きな色を思い浮かべてみる。


「…うーん、灰色?」


浮かんだ色はなんとなくだった。そもそも私にはこれといった好きな色はない。

だから本当になんとなく、答えたのだ。


「分かった」


葵が取った筆は慣れた手つきでパレットの上で白を取り、黒を取り、それをクルクルと混ぜた。私が想像した灰色ができると、「これ?」と尋ねてきて、私はただこくりと頷いた。

あの灰色、なにに使うのだろう。いや作ったのだしそりゃ目の前の絵に……。


「ちょっと待った!!!」


水分を含んだ灰色を吸い、色を茶から灰に変えた筆先の矛先が迷わず細い月に向けられたのを見て、私は大きな音を立ててイスを倒しながら葵の腕を掴んだ。


「なに?邪魔しないでよ」

「あっぶなー!!何してんの本当!

コンクールに出すのに月が灰色とかダメだって!」


これで私が黒とか言ってたらどうしたんだこいつは。

この美しくも寂しい幻想の世界みたいな色彩の中に黒い月が浮かんでいたらと想像するとゾッとした。もしそうであれば果てしなく美しいこの絵画に恐ろしさという異物が混入してしまっていただろう。


「もっとあるでしょー?黄色とか青とか、赤とかでもいいじゃん。

なにも私の好きな色とか参考にしないでよ怖いなぁ」


葵の腕から手を離してはぁとため息を吐くと、急にクーラーの冷気が寒く感じて自信の腕をさすった。


「……いいじゃん、最後なんだし」

「はぁ?やっぱ葵も廃部んなるって思ってんじゃん」

「違う」

「…?」


葵は灰色の筆を下ろすと、体ごと目線を私の方に向けてきた。


「お前の色の才能がこの絵に欲しかった」


私を真っ直ぐに見た葵の顔は酷く悔しそうだった。


「お前が初めて絵描いた時馬鹿にした、だからお前は自分のこと才能ないなんて言うようになった。…あれ、私人生で1番後悔してる」

「…ぇ?」

「お前才能あるよ」


絞り出したみたいな酷い声には真っ黒な後悔が染みていた。


「星月夜、模写しただろ、去年」


去年までいた厳しい美術の先生が出した課題で渋々描いた星月夜。ノートくらいの大きさで決して大きくは無いものの、今もまだ美術室の端に飾られているからよく覚えているし見ている。


「私はあれ、描けない」

「…」


だからか。葵が去年からよく色を使った絵を描くようになったのは。


「あーぁ、お前のせいだ。

ここまで頑張って描いたのに結局月描けないじゃん」


葵はそう言うと、近くの箱椅子にどかりと乱暴に腰掛けた。


「…描けばいーじゃん、まだ終わる時間には早いし」

「まだ気づかないの?」

「なにが」


変なことを言う葵を気にせず私は絵に近づいた。絵は、今日美術室に入った時よりも確かに美しくなっていた。


「…あのさ、私この絵好きだよ」


絵画の中の湖面を目でなぞり、葵がこの絵を描き始めてから初めて感想を呟いた。


「色綺麗だしさ」


震えた息を吐くような音がしたが、葵の方は見ずに絵をじっと見た。


「あのさ、楓」

「なぁに」


葵が立ち上がり、私の隣に並んで名前を呼んできたが、少し震えている声には見ないふりをしてあげた。


「楓がいつかこの絵完成させてよ

作者のいない絵はコンクールになんて出せないからさ」


葵は泣きそうな笑みを浮かべてそう言うと、持っていた筆の柄を私に向けてきた。絵の具にたくさん触れていた葵の手はまだらな夜の色に染まっていて、そこに灰色の絵の具が小さな染みを作った。


「……うん」


筆を握った。



















トラバーチンの天井が見えた。

どうやら椅子から落ちたらしい。

箱椅子が横たわっていて、その前には私が腕を置いていた机が一つだけあり、その奥には細く白い月が浮かんだ夜空と湖のカンバスが寂しく佇んでいた。


「…あーぁ、夏休み早く終わらないかなぁ」


私の手にはしっかりと灰色の絵の具を吸った筆が握られていた。

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夏の残り香 五味 @hakumei75

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