#10 春を捨てた渡り鳥

 空っぽの体を持て余しながら、越智は浜辺を歩いていた。


 先ほど、母に会ってきた。一言二言交わして、母は今自分が対面しているのが“琉生”でないことに気がつき、そうして同時に“みちる”でないことにも気がついたのだろう。母は疲れ切った顔で、けれどほんの少し笑った。


「なんて……呼べば良いかしら」

「……越智」

「そう、越智。琉生とみちるは、どうしている?」


 母は、どこまでも母だった。琉生でもみちるでもない“越智”に迷うことなく慈愛をかけ、微笑みかけてくれた。


 越智は、自分がすべて覚えていることを訥々と母に語った。5年前のあの日のこと。みちるが琉生の死に気づいたこと。みちるの中の琉生は消えてしまったこと。みちるは視覚を取り戻したけれど、意識の浮上すら拒んで、眠り続けていること。


 語り終えて、越智は母に深く頭を下げた。


「酷い子供たちですみませんでした。勝手に記憶を閉ざして、なんの罪もないあなたを、人殺し呼ばわりして」


 母は緩く首を振った。それ以上はなにも言わなかった。


 越智はすべてを覚えていた。5年前のあの日あのとき、母は買い出しに行っていて、戻ってきた頃にはことは起きてしまっていたのだ。リビングで呆然と座り込むみちるに、母は駆け寄り、目を伏せさせ囁いた。




「あなたはなにも知らない。なにも見ていない」




 何度も何度も、洗脳するように言って聞かせて、母はみちるを寝かせて。気がついたときにはみちるは“琉生”で、母はとうに出頭していた。みちるの罪をすべて背負って。






 冬の気配が滲む冷たい潮風に当たりながら、越智はできるだけ早く母をあそこから出せるよう動き出そうと考えていた。本来あの透明な板の向こうにいるのは、みちるだったのだから。“みちる”なら罪悪感に潰されて、また気を違えたかもしれない。けれど“越智”なら大丈夫だ、自分は特別気が長くて、我慢が得意のようだから。


 越智の頭上、秋の高い青空を渡り鳥が横切っていく。


 すべてを見てきた越智は思う。琉生はみちるの幸福を約束する青い鳥でありたかったようだけれど、きっと彼は青い鳥ではなく、燕だったのだ。美しく寂しい像にそっと寄り添い死んでいった黒い小鳥。メーテルリンクの喜劇ではなくて、オスカー・ワイルドの悲劇の鳥。


 みちるは深く眠っている。目を開くことを拒んでいる。意識の深層で、彼女は兄の幻と二人、終わらない平穏の夢を見るのだろうか。そこに“越智”は入り込めない。琉生とみちるは二人きりだから。

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青い鳥は幸福な王子の夢を見るか? 里河 慧 @310key

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