#9 赤い靴は止まらない
「……また、ドイツで報告された例だと、一度皮質盲と診断された女性がDIDを患い、人格が交代することで視覚が回復するというケースが存在する。これは皮質盲でなくDIDこそが失明の原因ではないかと言われている」
臨床心理学の講義をいつものように聞き流しながら、杏樹は最近姿を見ない友人のことを考えていた。
大学進学とともに上京してきた彼女は、越智 琉生と名乗っていた。妹がみちる。琉生とみちるは二人きりだといつも口ずさんでいた。
けれど、もう随分前だ。偶然彼女の学生証を見てしまった、そこに記されていたのは「越智 みちる」の名前だった。
混乱してしまって、本人に問うにも問えず、なんでもない振りを装いながら、杏樹は彼女の一挙一動を観察した。その中に女性らしさがあまりに少ないことには、すぐに思い当たる。
杏樹の専攻は、仮にも心理学だ。彼女が自らを“琉生”という架空の、恐らく男性だと思い込んでいるのだと、邪推をして、また考える。“越智 琉生”は本当に架空の人物なのだろうか。
その名を軽い気持ちで検索して、杏樹は少なからず後悔した。
越智 琉生、16歳、実の父親により殺害。またその父親は普段より家庭内暴力を振るっており、同日、妻により殺害。妻は自首したとされていた。
5年前の記事である。以来、杏樹の友人の越智はおそらく、自らを琉生だと思い込んで生きているのだ。琉生とみちるは二人きりではない、本当は、みちるは一人きりなのだ。
記憶障害、PTSD、多重人格性、多分どれも正解でどれも違う。“越智 みちる”は非常に複雑な危うさの上に、“越智 琉生”として存在していた。本人が琉生だと言い張るのだから、杏樹は彼女を琉生という青年だと思いながら関わってきた。下手に干渉して、バランスを崩してしまったとき、どうなるのか分からなくて怖かったのだ。
けれどふと、みちるはどうなるのかと思った。凄惨な事件を生き長らえて、現実から目を背けた越智 みちるという少女は、琉生の後ろに隠れて永遠、一人で過ごしていくのかと。それはあまりに寂しすぎやしないかと。
琉生と名乗って青年として過ごしていても、みちるの体は女の子だ。彼女の、多分、唯一の友人である杏樹は、彼女のパートナーにはなれない。
そうして、自分なりに動いてみた結果、空回って勢い余ってバランスをめちゃくちゃに崩してしまったのだけど。どうしたら良かったのだろう。放っておくのが一番だと、それは思うけれど、論理だとかなんて関係ない、友人の幸せを願ってなにが悪いだろう。“越智”は本当に気のいい友人だったのだ。
「エゴだよなあ……」
いずれ、気づきは必要だっただろう。けれど焦った杏樹が干渉して、準備が不十分なままの、今じゃなくても良かったのだ。
後悔、ため息。越智とは連絡を取れていない。チャットも、メールも、電話も応答がなかった。今頃どこでなにをしているのかさえ、知る資格はないのかもしれないと、杏樹は自分を嘲った。
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