#8 青い鳥を探して
暗い、夢を見ていた。
「いや、やめて」
聞こえてきた悲鳴は、母の声じゃなかった。
「怖いわ、助けて、兄さん!」
ああ、わたしの声だ。金切りに兄を呼んで、そのとき初めて、父はわたしを殴った。最初は訳が分からなかった。そうしてじわりと口の中に唾液じゃないものが広がって、ようやく痛みを覚えた。
あの日、父はいつもよりかなり早く、夕方に帰ってきて、久しぶりにわたしと対面したのだ。いつもなら父が帰ってくる前に部屋に逃げ込んでしまうのだけど、そんな知らせは受けていなかったから、リビングに入ってきたのが兄か母のどちらかだと疑わなかった。
父はわたしを見て少し驚いて、けれどすぐに表情を消してつかつかと歩み寄って来て、竦み上がるわたしの、セーラーの襟元を引っ掴んだ。
「……随分あいつに似てきたんだな」
外面の良いその男の、記憶にあるよりいくらも穏やかで優しげな声に、わたしは瞬時騙された。父はそのままわたしをソファに押しつけて、圧し掛かってきて、ぞっとして叫んだ。兄を呼んで、殴られた。
兄はすぐにリビングに飛び込んできて、わたしの上から父を引き剥がした。そうしてわたしを目一杯体で隠すように立つ、その姿が、父は大層気にくわなかったらしい。拳の矛先はいっぺんに兄へと向かう。
母と父は駆け落ちして一緒になったのだと、聞いたことがあった。父は元来そういう質なのだ。自分の思い通りにならないことが嫌いで嫌いで嫌いで、なにもかも強引に手に入れる人だった。邪魔するものは、徹底的に排除して。
何度も何度も殴られて、それでもなお兄はわたしの前から退こうとはしなかった。やがて父は殴るのをやめて、学ランの首もとに手を掛ける。見ているだけなのに、なにもできずに見ているだけなのに、ひどく苦しい。気道を潰していくのは、スカーフではなくて紛れもなく父の腕だ。苦しいのはわたしではなくて、琉生だ。
「兄さん」
呆然と、呟く。
「兄さん」
うすら開いた目が、わたしを見た。
「兄さん」
ヘーゼルの瞳が、逃げろと、言う。
やがて、兄は動かなくなる。しばらく、父の荒い息遣いだけがリビングを支配した。
ああ。ああ、嫌だな。一人は怖い。生まれたときからわたしと兄は二人きりだったから。ひとりで、この父の元で、ずっと。
「……そんなの堪えられない」
ふらりと、わたしはキッチンへ向かっていた。そうして戻ってきた頃、父は我に帰ったように兄から飛び退く。自分の両手を見つめて、がたがたと震え始める、その背に、わたしは体当たりをする。両手で握った包丁の柄が伝える衝撃に、なんの感慨もなかった。
ひどく、静かだった。目の前に広がる赤色がベージュのカーペットを染め上げる。カーペットの上、視線を滑らせて、兄と、目があった。
「……兄さん」
ヘーゼルの瞳は、もうわたしを映さない。
「……ち、越智」
呼びかける声に意識が浮上する。目を少し開いて、眩しいなとぼんやり思った。そうして、こちらを覗き込んでいる存在に気がつく。爽やかな風貌を心配で歪ませた男の顔に、父の顔がオーバーラップして、ひっと悲鳴をあげながら飛び退く。
彼は驚いた様だったけど、すぐに気がついて良かったと微笑み、重心を後ろへと戻していく。とりあえず水を、だとか、終電の時間が、だとか言う、彼は、赤城 悠平だ。琉生の、最近知り合った友人。そう、琉生が言っていたじゃないか。けれどどうして、わたしが彼の顔を知っている、いや、それより以前に、わたしは、みちるは、なにを、どうやって見ている?
嗚咽、絶叫。悠平がびくりと体を揺らして駆け寄ってくれる、その体を突き放して、みちるは靴も履かずに部屋を──ビジネスホテルの一室を飛び出した。
「兄さん」
無我夢中に走りながら、呼んだ。
「兄さん」
呼び掛ければいつだってすぐに応じてくれたあの優しい声を探した。
「兄さん……!」
そうして、もうどうやって家に帰り着いたのかも分からないけれど、ふと気がついた自宅の、ワンルームで、崩れ落ちる。
頭のどこかではとうに気がついていた。それでも、信じていたのだ。琉生とみちるは二人きりだと。狭いワンルームで、一人で暮らしながら、琉生とみちるは二人きりだと。
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