ペトリコール
伊統葵
ペトリコール
雨が降ってくると思い出すことがある。僕の場合はしっとりとした空気に混じったコンクリートと雑草の匂い。雨が降ると引き起こされるペトリコールは僕にとって人生の分岐点ともいえるある記憶を呼び出してくる。こう回想していく物語は大体最初の出会いの場面を指すことが多いと思っているのだが、彼女に初めて出会ったのは生憎広々とした青空が映える日の事だった。
「ねえ、少年」
「えっ僕ですか」
僕の背丈と同じくらいの背を丸め、黒色のパーカーのポケットに両手を突っ込んだ彼女はその得体の知れなさを吹き飛ばすくらいの可愛らしいアニメ声で呼びかけてきた。男子校で思春期真っ最中、まともに女子と喋ったことがない僕は返事を返すだけでやっとだった。
まじまじと見る彼女の姿は、僕の女不慣れさに呆れて難癖をつける男も黙るであろうものだった。それもそのはず、パチンコ屋の前で二十代前半の女性が黒色のパーカーを被って、半ズボンの格好で佇んでいたのだ。本人的にはラフな格好だろうと思うのだが、如何せん周りにとってはある種の緊張感を漂わせる。言ってしまえば、目のやり場に困る人だった。
「お金貸してよ」
明らかに学生だと分かる服装をしている僕に対して、詰め寄ってくる艶めかしい姿に目を逸らして無言になっていると、「倍にして返すから。大丈夫」と別の方向で心配された。ギャンブル依存症に片足を突っ込んだ発言に意表を突かれがらも、辛うじて一度首を振った。
彼女がやけに自信満々に「傍で見てみれば分かる」と言うので、結局僕はお金を貸した。正直邪な気持ちがないわけではなかった。年上の女性というと、その当時の僕は母親と教師のおばさんしか知らなかった。姉というものに憧れを抱くこともあった思春期の僕は言われるがままに、彼女についていった。
彼女の腕前はその自信と遜色なかった。CR機と呼ばれる台で、着実に勝っていって、一時間後くらいにはもう渡した金は返ってきた。彼女が言うにはパチスロは確率が大事だと、必勝法はない。訳の分からない単語を並べ立てた後、結論としてそう言う彼女に、僕は妙に納得してしまった。
「凄いですね。努力されたんですね」
依然勝ち続ける彼女に感心してしまった僕を目の前にして、彼女は何か面白かったのか笑いの壺にはまった。そして、その後聞いてもいないのに自身の話をつらつらと話し始めた。曰く彼氏のセックスが物足りないだとか、母親がグチグチ言ってきてうざったいだとか、父親が頭が固すぎて理解してくれないだとか。大体が愚痴で、明らかに男子中学生に聞かせる話ではなかった。
なるほど女性の悪口は醜いものとどこかで聞いていたように、その部分を感じることはあったが、彼女の話は面白かった。意外と彼女自身も反省というか後悔というか踏まえての悪口であるから、気持ち悪さは感じなかった。むしろ、決して悲観的ではなく、どこか楽しんでいるようだった。僕はその雰囲気に飲まれ、いつの間にか自分の話もしていた。
帰りの途につく時、お金は約束通り倍になって返ってきた。その際「名前は何ですか」と質問したが、その答えは覚えていない。「完璧に覚えた」と得意げに言って、僕の名前を復唱していた記憶があるので、彼女も僕の名前を聞いたはずだと思うのだが、以降も呼び方は「少年」と固定のままだった。
「そうだ。お礼に言いことを教えてやる。雨が降った時に立つ独特な匂いがあるだろ。それはな、ペトリコールと言うんだ。多分テストに出るぞ」
その日の最後、彼女は漸く自身が年下の学生を連れまわしたと自覚が芽生えたのか、雲一つない晴天の下で、一生使わなそうな言葉を口から発した。斜陽の日差しを背中に受け、逆光の中にいる彼女にはそんな言葉には似合わないと感じ、その不釣り合いさに私は惹かれたのを覚えている。
「またな少年」
彼女と関係ができたのはその日からだった。下校していると、時々彼女と出会うようになった。大体彼女は金曜日にいた。そうして僕と遊んだ後、決まって男とセックスをするらしかった。
彼女は所謂ヤリマンという人で、セックスフレンドを多数抱えていた。ただ、見境なくする人ではなかった。セフレはセフレ、男友達は男友達でちゃんと切り替えているらしい。性病とか生理とかちゃんと気を使う人だった。彼女は一度「私とセックスをするか」と酒に酔った勢いで言った時があったが、僕が断って以来僕の前で酒を飲むこともお誘いをすることもなかった。
そんなことも開けっ広げて言う人だから、僕も遠慮がなくなって、ふとした瞬間に悩みを打ち明けるなんてこともあった。彼女なりのポリシーなのか、個人情報は一切言わなかったというものことも僕をそうさせた原因の一つだった。
過大に干渉してこない。彼女といると安心感があった。僕にとって彼女はまさしく太陽で姉だった。それは僕が彼女の背丈を頭一個分超しても、ひそかな恋心を抱いていても、互いが互いの事を個人情報として知らなくても、変わらない事実だった。
だが、どんな人間関係も必ず終わりはやってくる。それは僕が中学三年生の秋、彼女と出会って丁度二年が迎えようとしていた時だった。
その日の彼女は最初からおかしかった。珍しく遅刻(その頃にはある程度時間を決めていた)をしたり、僕側から話を振っても答えだけしか返ってこず妙に口数が少なかったりした。そして、負けが続いていた。その時の台はレスキューキャッチャー。常勝だった彼女が特に気に入っていたものだった。
「今日は大潮らしいです。海が荒れるみたいですね。大潮と言えば――」
ただ落ち込んで、情緒不安定になった時の彼女を知っているから、別に気にしないように一人で喋り続けた。彼女は一人でも立ち直れる強い人だった。案の定徐々に彼女はいつもの調子に戻ってきた。
「私さ、結婚するんだ。今時珍しいお見合い婚ってやつだ。私ももう腹積もりをしようと思ってな。今さら恋愛は無理だし、それならいきなり結婚すればいいんじゃないかって」
安心を覚えていた僕は彼女が僕の知らない顔をしていることに気付かなかった。話途中に、訳の分からない言葉を紡いでいく彼女に「えっ」と言う悲鳴に満ちた驚きが口から零れ落ちた。正面の台を見つめ続け、彼女は続けた。まるでそんな反応を知っていたかのように、僕なんていないかのように。
「男とはそれなりに恋愛してきているし、やることはやっているから必要ないとずっと断っていたんだが、何か唐突に赤ちゃんが欲しくなってよ。母性本能っていうかな。遊び止めるにも丁度いいかなって。少年に言ったことはセフレとか女友達に言ってない。勿論ここに来るのも今日が最後。少年には感謝してるよ」
彼女の顔がどんな表情をしているかは見えなかった。いつもは愚痴愚痴と言う彼女が、さっぱりそう言った。淡々と響く平坦な声が引力として、僕の心の内に寂寥な波を発生させた。
「そうなんですか」
彼女を目の前にして「おめでとう」と気の利いた言葉一つ口にすることはできなかった。彼女の大きく見開いていた瞼は半分の瞳を残して、ゆっくりと閉じていた。上睫毛が一本一本が鋼鉄のような冷たさと硬さで凍り付いて見えた。
「ずっと言いたかったことがあるんだ」
冷笑かのように、口角を少し痙攣させる彼女は軽かった。
彼女は告白した。実は男友達なんていなかったこと。僕が初めて通じ合えた男友達で、弟のように勝手に感じていたということ。そして、僕との関係で救われたことが何度もあるということ。
僕は絶望を知った。今日が最後と言う発言をまだ何処か他人事のように感じていた。本格的に別れを匂わせる彼女が深海の底のように怖くなった。僕は喉を唾で潤したままにした。
沈黙の時間が剥き出しになった。パチンコの音が異様にうるさかった。立っているだけで足裏がじんじんと痛かった。いつもは「急に黙ってどうした、少年」とからかいの言葉をかけてくる彼女は、馬鹿の一つ覚えのように打ち続けていた。
「その、二年間もつき合わせて悪かったな。これは――違うな、これだ。感謝の印。少年も、もうそろそろ受験だろ。頑張れ」
結局何も言えないまま、帰りの途につく時、彼女はそう言って、鞄の中から合格祈願と書かれた御守りを渡してきた。勿論僕の学校は中高一貫なので、受験なんてものはなかった。一応それに準じるものはあるにはあるが、結果的にほぼ全員が高校へと無事進む。僕もその中の一人だった。つまり、御守りなんて意味のなさないものだった。
僕が目線を上げた時、彼女はもう歩み始めていた。出会った頃と比べると、髪は腰付近まで伸びていて、格好は肌の露出がなくなっていた。どこからどう見ても魅力溢れる大人の女性という感じだった。
「バイバイ少年」
まるでまた会える――そんな余韻を残させる優しい声は僕が好きになった一つの要因だった。彼女の姿が消えるまで、ずっとその背中を見ていた。見るものを失って程なくして、小雨が降ってきた。そう言えば、金曜日の放課後は雨が降ったことはなかったなと初めて気づいた。その時の気持ちを何と表したらいいのだろう。僕はもうそれを表す術を失っている。
雨の日の特有の生々しいコンクリートの味が鼻孔を衝いた。降っている間はまだましだった。まだ洗い流されている気がした。僕の心も知らないで、直ぐ雨が止んだ時、それは、地上を領していた湿った空気が衰えた隙を突いて、塵埃を介し、土の苦味を匂わせてきた。
後にそれは”ゲオスミン”という雨上がりの匂いを指す別の言葉で表されるものだと知らないほどには、僕は幼かった。間違っていようといまいと、「これがペトリコールなんだね」と彼女にもう伝えることすらできなかった。僕は日が暮れるまで嘗ての彼女と同じように、パチンコ屋の前で憂さを晴らす為に佇んでいた。
その日から数日間、風邪で寝込むことになった。
僕はその後何人かと付き合って、結婚した。妻との間には四人子供がいるが、四人とも無事成人し、元気でやっている。最近一番下の子が家を出ていき、寂しくなった家庭の中で妻への愛が膨れ上がった。妻とは頻繁に話していて、気の合う可愛らしい女性だとその度に思う。
夫婦の仲は依然順風満帆で、夜の営みを継続しているほどだ。妻への愛は世界一だと自負している。でも、本当に人を好きになる――そんな恋をしたのは最初で最後、名も知らない彼女だった。
ペトリコール 伊統葵 @itomary42
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