第2話 【その蝶は飛ばされないように】

 なるべく日陰を通ることと無理をしないこと――蝶のくせに提案してきた合理的な条件を断る理由はなく、カヤノは一匹のモンシロチョウと共に冷房の効いたコンビニを後にした。


「蝉は暑くないのか? あんなに鳴いてるけど」


 蝉の声が聞こえてくると夏が始まるようなところがある。干からびていく人間たちとは違い、炎天下でもお構いなしに木々から蝉の合唱が聞こえてくる。


「あれは本能的にやっていることだから、彼らの意思とは違うんだ。蝉でも暑いよ。日影にいるでしょ。お腹が空くと勝手にお腹が鳴るように、条件的に反応しているだけなんだよ。冷房の効いた世界を知らないだけ。みんな気のいい連中なんだ」

「話ができる相手なのか?」

「もう少し近づいてみれば、今の君ならできるはずだよ。だけどさっきも言ったように、僕たちは人間たちと戦争中なんだ。友好的なやつもいるけど、好戦的なやつもいる。君が人間だとバレると攻撃されるかもしれない。話しかける相手は選んだほうがいい」

「自分からわざわざ人間だなんてバラさないけど」

「僕たちからすればバレバレだよ。なんだいその飛び方は」


 先導するように前を飛ぶモンシロチョウを追いかけて、蝶の姿になってしまったカヤノは必死にはねを動かしていた。


「そんなこと言われても、飛ぶのなんて初めてなんだから仕方がないだろ」


 風が少し吹いただけで、蝶の身体はその風にさらわれてしまい、日陰から一転、燃え盛るような灼熱のコンクリートの真上に飛び出してしまう。


「そう。初めてってバレやすいんだ。今の君は鴨がネギを背負い、さらに包丁とまな板を持ち、料理人と一緒にいるようなもの。捕食者に出会ってしまったら終わりだね」

「そんなに酷いのか?」

「酷いなんてものじゃない。味方であるはずの僕たち蝶ですらドン引きだ。見てみなよ、向こうにいる彼女たちを。君を見て笑っているだろ?」


 道路を渡ったところにはモンシロチョウの言う彼女たち――二羽のアゲハチョウが優雅に飛んでいる。


「別に笑ってなんていないように見えるけど」

「見た目はよくてもね、彼女たちは集まると噂話に花を咲かせるんだ。良い噂ならいいんだけどね。噂っていうのは悪いほうが広まりやすい。そのうち君のことが面白おかしく脚色されて、町中に広まるだろう。上手く飛べるようになって彼女たちを見返してやりたくはないかい?」

「まったくないね。元の身体に戻れたらそれで終わり。この身体ともお別れだ。ただ……もう少しゆっくり飛んでもらえたら嬉しいんだけど」


 葉の裏に捕まり身体を休ませていると、風に連れて行かれるように疲れが引いていく。


 通りにある理容室のそばを通りがかったときに、窓に反射してカヤノの身体がモンシロチョウではないことが分かった。はねの大きさも色も異なっていて、真夏日の太陽のような明るい色を帯びていた。


「病院に向かってるわけではないんだな」


 蝶の姿に変わってから時間の経過ははっきりしないが、おそらく昨日の夜のことだ。コンビニに向かう途中で車に轢かれたことまでは覚えていた。


「今は君の家に向かってる。そのためにはあそこの交差点を渡らないといけない」

「蝶なのに信号を守るのか?」

「僕は気にしないけど、君が危ないだろ? 車は蝶が飛んでいるからという理由で止まってはくれない」

「もっと高いところを飛んでみるとか?」

「僕ならできるけど、高く上がるほど風が強く吹いているし、車のすぐ近くの高さだと、走行する車に生み出される気流に巻き込まれる恐れがある。初心者の君は一歩ずつ、確実な道で進んだほうがいい」


 カヤノが轢かれたはずの交差点には黄色い花が手向けられてあった。夜に通ったときにも供えてあったもので、その花を見ていると、吸い込まれるような感覚が襲ってくる。


「だいじょうぶ? もう少し休んでいく?」


 モンシロチョウがカヤノの顔を覗き込んでいる。


「考え事をしてたみたいだ。あの花を見ていて、俺はこの交差点で車に轢かれたんだと思う」

「あんまり見ないほうがいいよ。また結ばれちゃうから」

「結ばれる?」

「まぁね。詳しいことは後で話すことにして……君の身体が今どこにいるか知ってるかい?」

「さっぱり分からないな。病院じゃないんだろ?」


 信号が青になり、カヤノたちは横断歩道を渡り始める。真下を子供たちが駆け抜けていき、空気の流れが変わって、身体がふらりと流されそうになった。


「幸運なことに君の身体は無事だった。その衝撃で君の魂は吹き飛ばされ、ふらふらと思念体になってコンビニまでやってきたみたいだけどね」

「そこでこの身体になったわけか……? 分からないことだらけだな。俺はどれくらいあのコンビニにいたんだろう?」

「君が休んでるときにこの辺の仲間に聞いてきただけだから、そこまで詳しいことは分からないけど、今日は月曜日だよ」


 カヤノがコンビニに向かった日は土曜日だった。月曜日が祝日で土曜日に発売されるジャンプを買いに行ったのだ。


「丸一日、あのコンビニにいたってことか。従業員に見つからなくて良かった」

「普通の人間には僕たちの姿は見えないからね」


 交差点を渡り終えると、身体が軽くなり、思いがけず高く舞い上がってしまった。


「そろそろ大丈夫だね。危ないところだった。君の身体は無事なんだけど、君の魂はこうして蝶になって今ここにいる。君の身体には代わりに何が入ってると思う?」


 あの夜、交差点に添えられた花を見ていると吸い込まれるような感覚がして、そのまま体勢を崩し、道路に倒れ込んでしまった。自分の影が脈動をするようにノイズが走った。


「もしかして……」

「君の身体にはこの交差点で朽ち果ててゆく想いが乗り移っている」

「つまり幽霊ってことか」

「僕たちの世界ではそれを『ならざるもの』――ノットと呼んでいる。人間でもなく、虫でもなく、そして幽霊でもない存在だ」

「幽霊でもない存在……」

「進化を妨げる存在は人間の世界ではこう呼ばれているね……悪霊と」


 交差点を振り返ってみる勇気はなかった。この交差点の周囲だけ蝉が鳴いておらず、涼しい風がはねを撫でていく。


「乗っ取られた君の身体は今さっき、あっちの公園にいると聞いた。理由は分からないけど、これはチャンスだ」

「乗り移られた俺が市民を襲ったりしない?」

「それは大丈夫。大きな身体と小さな魂が馴染むまでは時間があるからね。君が不在の城に乗り込んで待ち伏せすることにしよう」

「それで元の身体に戻ることができるってことだね」

「そう、君は自分の身体に思いっきりぶつかるだけでいい。自分の身体と魂の結びつきは、他人なんかよりもずっと強いからね」

「もう少しか……」


 人間の身体だと大したことのない距離でも、蝶になってみると風の影響をまともに受けてしまう。ほとんど見えない糸を張る蜘蛛の巣や、草花に擬態するカマキリなど障害が多かった。

 長かった道のりも、もう少しで終わる。


「それがね……そうでもないかもしれない。君は自分自身には見つかってはいけない」

「どういうこと?」

「言ったでしょ。戦争はすでに始まっている。ノットが入り込んだ身体はおそらく僕たちの姿が見えるし、人間側、それに身体を取り戻されたくない。つまり君は見つかったら最後、間違いなく殺されてしまう。……最後に言い残すことはあるかい?」


 カヤノにはやり残したことがある。それはコンビニに向かっていた目的――


「今週のジャンプを読む前に死んでたまるか」



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蝶々に結ばれて オオツキ ナツキ @otsuki_live

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