チョコレートは血のお味
豚園
ねえ先生。黙っててくれますよね。
力強い赤に染まる夕方の家庭科室で、二年生の清羅純菜がぐじゅ、ぐじゅ、と血液をかき混ぜていた。もっと正確に言うと、血液とチョコレートを混ぜ合わせながら俺を振り返り、にっこりと笑っていた。
スミレの花が綻ぶような、どこまでも可憐な笑顔。俺はつい、自分の立場も、異常な状況も忘れて魅入ってしまった。
「あっれ~? 鈴木先生だ。おかしいなぁ、この時間は職員会議だと思ったんですけど」
清羅が微笑んだまま言う。授業中にうたた寝している彼女を起こした時と変わらない、奇妙に間延びした喋り方で。
「ト、トイレに行こうとしただけだ」
「え~、若手教師が中座とか大丈夫なんです? 印象悪そ~」
「ガキがんなこと気にしてんじゃねぇ」
お前いま、何をしていた?
言うべきはこっちなのに。言葉が喉の粘膜に張り付いて出てこない。
けろけろと一頻り笑った清羅は目尻に溜まった涙を拭いながら口を開いた。
「で、どこから見てたんですか?」
可愛らしく首を傾げた彼女の顔に、ウェーブがかった長い黒髪がぱらぱらと落ちる。茶色く大きな瞳には星がきらきら瞬いていた。
持っていたゴムベラをボウルの中に置き、一歩、また一歩と清羅が近付いてくる。
ひゅっ、と絞められた鶏のように喉が鳴る。彼女が足を踏み出す度、内臓が端からピキピキと凍り付いていく。動けない。
本気を出せば容易く殴り飛ばせてしまうであろう年下の女の子相手に、俺は。
心の底から恐怖していた。
「何で黙ってるんです? 言ってくれないと分かりませんよぉ~」
「く……っ」
いつの間にか、清羅の顔がすぐ目の前まで来ていた。同年代の中では一等整った顔。せっけんの匂いがふわりと鼻をかすめる。
俺は末期の痙攣のようにぱくぱくと口を空振りさせてから、四回目でようやく声帯を震わせることに成功した。
「全部……だと思う。甘い匂いがしたから教室を覗いて……そうしたらお前がいて……声をかけようとした瞬間、何かドロドロしたものを入れ始めて……レバーみたいな生臭い匂いがして……血だと、気付いて」
「あはっ、本当に全部ですねぇ」
綺麗に整えられた細眉が下がる。その表情は叱られた犬のように可愛く、少し間抜けだ。彼女のとぼけた顔と異常な行動のギャップが俺のうなじを粟立たせた。
「ねえ、秘密にしてくれますよね?」
「それはできない」
教師としての責任感がむくむくと頭をもたげ、喉奥から言葉を押し出す。
「悪いが職員室に戻り次第、報告させてもらう。お前のやったことは一線を超えているからな。清羅の将来のためにも見て見ぬふりをするわけにはいかない」
「そんなぁ。別にこれ、うちの高校の人に渡すわけじゃないですよ? 南高バレー部の小田森くんに渡すんです。彼、すっごく優しくて。えへへ、半年くらい片想い中なんです」
確か清羅もバレー部だ。練習試合かなにかで会ったのだろうか。
俺の非難めいた視線を受けた清羅は、むん、と力こぶを作るようなポーズを取って自信満々に胸を張った。
「入れた血液だって新鮮ですから大丈夫です。だって私、まだ三日目だし」
「……は?」
血液……三日目?
「まさかお前が入れてた血って、経け」
「そういうわけですから、黙っててね。先生」
スカートの丈を注意された程度のノリでこともなげに言う。
「いや、逆に何で黙っててもらえると思うんだよ、お前。どう考えてもおかしいって。とにかく俺と一緒に職員室に来い」
「え~、トイレは?」
「んなもんもう引っ込んだわ。ほら、行くぞ」
ぐっと腕を引いてみるが、清羅は頑として動かない。白い頬を焼き餅みたいに膨らませて不満を示している。
「も~、こうなったら……!」
「え」
一瞬だった。
彼女は俺の腕を掴み返して引き寄せ、その顔についた薔薇の花弁のような唇を俺の唇に押し付けた。そのままスカートのポケットを漁ってスマホを取り出すと、視線も遣らずにカメラを起動させ、シャッターボタンを押す。
どるるるるるるるるる。
早送りしたみたいなシャッター音の後、俺はようやく解放された。
「おお、上手く撮れてる撮れてる」
画面を確認した清羅が嬉々とした声を上げる。
「先生も見ます?」
ぐ、と目の前に差し出されたスマホには、驚いて目を瞑った俺の顔、そして目を見開いたまま接吻を受け入れているように見える清羅の顔が映っていた。
なんだこれは。これではまるで俺からキスしたみたいではないか。
固まる俺を見て、目の前の悪魔は一際高い声で嗤った。
「これがバレたら、先生、終わるね」
返事の代わりにこめかみから冷汗が流れて鎖骨に溜まる。
蛇のように長い舌をちろりと出し、唇を湿らせた清羅の顔を夏の夕焼けが赤紫に染めた。
「ねえ先生。黙っててくれますよね」
俺は力なく頷いた。
チョコレートは血のお味 豚園 @butano-sono
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