変心

グレゴールザムザはある朝突然身体が毒虫に変わっていた。それと同じだと思う。

 物語の登場人物は何か悲しい事や辛い事ががあって落ち込んだりするけれど、発狂というのは脳の故障なのだと僕は理解した。

 眠れない。そのうちベッドにいるのが苦痛でしょうがなくなる。眠れない夜が続き頭がぼんやりしてきて、暗い部屋に鬱々とした気分が満ちていき、叫び出しそうになる。

 食べれない。空腹を忘れた。味わうという事を忘れ、食事はただ喉の奥に物を流し込む行為に変わった。

 学校までの道が遠い。車のエンジン音や、信号機の音や、人々のざわめきが煩くて苦しくて苛々する。時折傷口から膿が滲み出すように脳の奥から恐怖が湧き、嫌な汗がじっとりと出てきて立っていられなくなりそうになり、登校中何度も塀にもたれかかって深呼吸を繰り返した。

 授業が頭に入らない。先生の声は声ではなく音になり、教科書の文字は一文字一文字は読めるがどれだけゆっくり読んでも文章として理解できない。

 部室と十火から逃げる日々が始まった。世界から色が消え、頭は常に怠く、あるのは時折やってくる恐怖だけ。

 変化を悟られないように周りの人間に愛想笑いをして、いつものトーンで話し、いつも通りに振る舞うのがぎりぎりの精一杯だった。

 ただ生きているだけで疲れて疲れてしょうがない。

 人生ってこんなに苦しかったっけ?こんなに虚しかったっけ?

 毎日朝も昼も夜も嫌で、何も考えられない頭には常に嫌な気持ちが靄のようにかかっている。

 くるしい。つらい。たすけてのたの字も言えない。

 世界の全てが醜く感じた。

 全員死ねばいいと思った。

 この世界に綺麗な物なんてないと僕は絶対的に絶望的に証明の必要が無い程に確信した。

 英雄願望?笑ってしまう。記憶の箱にある数々の英雄譚はもう僕にどんな感情も呼び起こさなかった。

 生活を繰り返す意味を失って、生きる支柱も喪って、自分は地獄にいるのだと理解した。

 時間感覚を喪っていたので正確にはわからないが、一ヶ月ほどたったある日。

 放課後、帰る前にトイレに向かう途中知らない女子の甲高い嗤い声が聞こえた。

 その瞬間、物凄い勢いで冷たい汗が吹き出し、叫び声が出ない程の恐怖が頭に、心に、胸に、細胞と内臓の全てに一瞬で満ちた。

 今まで生きてきて感じた事がない程の吐き気を感じ、すぐに喉を貫通して口の中に胃液が吹き出した。手で口を抑え、指の隙間からゲロをこぼしながらトイレに駆け込み、個室に鍵もかけず盛大に嘔吐した。吐いても吐いても恐怖は去ってくれない。その内胃液が出なくなっても吐き気と恐怖は治まらず、指で喉の奥をついて吐いて、吐いて、吐いて、それでも吐けなくなったので蛇口の水をガブガブ飲んで指を喉の奥に3本突っ込んで、まるで泥棒のピッキングの様に水を胃から掻き出した。蛙の鳴き声の様な醜い声が喉から絶えず漏れる。

 ゆっくりと恐怖が引いていき、僕の中に残ったのはただ空白だった。圧倒的な虚無だった。

 死んじゃおうかなあ。

 死んじゃおうかなあ。

 死んじゃおうかなあ。

 死のうかなあ。

 死ぬか。

 手と口をゆすぎ、僕はふらふらと屋上に向かう。周りからは相当体調の悪い人か、異常者に見えただろうがもう死ぬのでどうでもいいのだった。

 屋上の柵を乗り越え、何も考えられなかったので覚悟を決める必要もなかった。

 立つ事はおろか生きるのに限界を迎えた足がふらつき、頭から落ちるつもりが仰向けの姿勢で落ちたが、まあいいことだった。空なんて見えてもしょうがない。

 しょうがない。

 しょうがない、はずだったのに。

 ガクンと足と背中に衝撃を感じ、どこかで嗅いだ花の匂いがして。

 陽光に煌めきたなびく長い黒髪。

 蝙蝠のような大きな羽。

「部活の時間だよ、蓮」

 焔崎十火が笑う。

 その笑い顔には同情なんて欠片も無く、憐憫なんて微塵も無く、哀れみなんて片鱗も無く、ただ僕に会えて嬉しいという純度百パーセントの僕だけの為の笑顔だった。

 花が咲いた様な彼女の笑み。地中の奥深くで眠る宝石の様な黒い瞳。顔の大きさと黄金比を作る小さくてすっと通った鼻筋。薄くて形の良い唇。

 天使達が集まる夜会のドレスを作る為の絹の様な美しい髪が風で揺れていて、どこまでも青い夏空も、壮大な白い雲も、眩しい太陽も、この世界の全ては彼女を彩る為の装飾品だった。

 頭の中に光が灯り、瞼が熱くなり、仰向けになった僕の目の端から涙が流れてきた。

 涙を止める気にはなぜかならなくて、嗚咽も出さずただ泣いていた。

 叔父が初めて失踪した日も、両親や村の人が皆消えた朝も、こんなに泣いたことは無かった。

 誰かが小さく笑ったような気がした。

 それが悔しくて、また涙が出てくる。

 畜生。畜生。くそったれ。

 どうして、こんなに――死にたくないんだ。

 人生はこんなに苦しくて虚しいのに、死にたくて死にたくてしょうがないのに、世界はこうやって信じられない程の美しい煌めきを見せて僕をこの世に繋ぎ止めるのだ。

神様、アンタは最高のクソ野郎だ。

 もう、皆が憧れるヒーローになんてなりたくない。

 それでも、十火のヒーローになりたいと思った。

「十火」

「なに?」

「君は、とっても綺麗だね」

 

 

 

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カイカロク〜異世界では「主人公候補」として生まれた僕が悪魔のお嬢様の下僕にされてます 透瞳佑月 @jgdgtgdt

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