第2話 画家
どこに連れて行かれるのかと思ったら、ただ二十メートル先のことだった。山の麓に、その人の小屋もとい家はあった。ログハウスというものだろう。図鑑で見たことがある。
その人に続いて、おずおずと一階の戸をくぐった。
飾りっ気ひとつない内装が僕を迎えた。中央にはテーブルがあって、奥と手前で二脚の椅子が置かれている。
右手には大きな出窓。人が余裕で出入りできそうな大きさだ。小さな鉢植えの植物もそこに並び、ここにだけ色が付けられているような錯覚をする。
そのすぐ奥には急階段。二階へと繋がるようだ。
左を見ると、簡易キッチンと小さな食器棚がある。そばには換気用の小さな窓が。
スンと鼻をすすった瞬間、頭の中でパチリと音が鳴った。パズルの最後のピースが嵌ったかのような音だった。
――目の前のこの人は“魔女”だ。
だから、僕が見知らぬ草原にいたのは当然のことだし、法律のことなんて気にしなくていい。だって、ここは魔女の住まう家だから。
“魔女”はクスリと笑って、僕の横を抜け、奥側の椅子を引いた。悠然とした笑みを湛え、足を組んで座る。麦わら帽子が真っ黒な三角帽子に変化した。
「ようこそ、魔女ハンナの住まう家へ。お前はこの私に何を望む?」
魔女の、弧を描いた真っ赤な唇がやけに印象的だった。
目の前にはソーサー。手にはティーカップ。
出くわして数十分。
気が付くと、僕は出された紅茶を飲みながら様々な話をしていた。自分でも驚くほど、口が滑らかに動く。思考が、止まることを知らない。
僕の名前はソラといって、義務教育機関である初級学校の五年生。
来年には、トップレベルかつ名門魔法使い学校のネイシガン魔法使い学校を受験する。受験勉強は必要ない。ただ、魔法使い学校は一定の成績を修められないと留年するシステムなので、留年回避のために塾に通っている。
教科書は割と好きだ。自分のペースで読み進められるから良い。しかし、学校と塾は嫌いだ。つまらないし、何より、皆と一緒でなければならない。他人を思いやって、質問をしてはいけない。わきまえなければ怒られる。
いつの間にか、そういったことをハンナにしゃべっていた。
ハンナは僕の話を遮らずに聞いてくれた。
薬草の濃い匂いで頭がくらくらする中で、この人は信じていい人なんだと思った。何を話しても僕を怒らない。ただ僕の感情を肯定してくれる。
「そうだな……つまらない、ね」
ハンナはス、と机に目を落とした。目線がふらふらしている。何か考えているのだろうか。……あ。目が止まった。
ハンナの視線の先は、机の上に置いていた僕のスケッチ帳だった。
「絵、描くのは好きか」
「え、はいまあ……嫌いではないけど」
「ふうん。少し、見せてくれるか」
「はい、どうぞ」
おずおずとスケッチ帳を差し出した。
ハンナはティーカップを脇に押しやると、早速表紙をめくった。そして、ページを一気にめくったり、一枚ずつめくったりする。
沈黙が降りる。何となく気まずい。とりあえず紅茶を飲んでみたり、出窓から見える青空を眺めたりするが、落ち着かない。とにかくソワソワしていた。不意に、
「どうして絵を描き始めたんだ」
びくりと肩を揺らした。何か聞かれるとは思っていなかった。描いてきたものを思い出しながら、始まりの記憶を探す。
「授業を聞きたくなかったので手遊びで始めて……。それからずっとやってます」
「楽しくはない?」
「……わかんないです。でも、たぶん、僕は自由が欲しいんだと思います。紙に向かっている時だけは自由で、誰にも怒られたりしないから」
「……」
また部屋が静かになる。
しばらくして、ハンナはスケッチ帳を閉じた。
「風景とか、生き物は描かないのか?」
風景画や生物の絵がなかったのだろう。責めるというより、純粋な疑問のような問いかけだった。
「退屈紛れで描くときにちょうど目の前に動物がいないから」
「そうだなあ、目の前にいないんじゃ描けないな」
ふむ、とハンナは一息つき、紅茶を啜った。
スケッチ帳が手元に返ってくる。何となしにページをめくる。改めて見ると、確かに文具や植物の絵しかない。動物の絵は描かないわけではなかったが、そういうときはだいたい授業中で、教科書の写真の模写だ。つまり、手元の紙といえばノート。このスケッチ帳に描くことはない。だからここにはないのだ。
「よし」
ハンナがパチンと両手を打った。僕は顔を上げた。ハンナは僕を真っ直ぐに見て、不敵に微笑んでいる。
「ソラ、お前、私の画家になれ」
「……は?」
「画家だ。なれ」
ハンナは同じことを繰り返した。
なん、なんだって? 画家? どうしてそうなった。
「いや、あの、聞こえなかったから聞き返したわけじゃないです。ただ意味がわからなかっただけです」
「そうか、つまり『なる』と」
「言ってないです。待ってください、僕の話聞いて」
「聞いてるが?」
聞いてないよ。聞いていたとしたら、どうして僕が了承していると解釈できたんだ。話し方が悪かったのか!?
「なにがそんなに嫌なんだ。私の画家なんて名誉だろ」
「嫌とかそういう次元の話じゃないんですよ! 話聞いてください!? というか、自分で名誉とか言います!?」
思わず立ち上がり、大声で反論した。
ハンナは数秒静止して、なにやら首を傾げた。
「私たちはすれ違いしてるのか?」
「もしかしなくてもね!!」
もしかしなくても僕たちの思考はすれ違っている。それどころか、話している方向性が違うので、すれ違いすら起きていない可能性がある。
なるほどなあ、とハンナは顎を撫でた。視線を上に遣り、考える素振りを見せる。ニタリと嗤った。
「お前のその『才能』を伸ばしてやる。このまま潰れていくなんてもったいない。育てて、磨いて、奴らを噛み千切る立派な牙にしてやる」
「は、はい?」
もっと意味がわからなくなった。さっき考えていたはずなのに、結果この発言って、いかがなものか。この人、説明下手なのかな。それより才能って何だろう。奴らっていったい誰だ。噛み千切るって何? 物騒すぎる。
僕は自分でもわかるくらい眉根を寄せて、首をかしげていた。はた目に見ても、困惑して理解が及んでいないというのがわかる。しかし、魔女は「よし」と満面の笑みを浮かべた。
「はいって言ったな。というわけで、契約は成立。週一回はここに来なさい」
そう言うが早いか、ハンナはどこからともなくメモ帳を出現させて、万年筆で何かを書きつける。
僕はその様をぽかんと眺めていた。脳が処理限界を迎えている。
何か言わなければという思いも空しく、ハンナに手を取られた。小さな紙が乗せられる。
「この紙を持って、角を三回左に曲がって、最後にT字路を右に曲がること。そうすればここに来られる」
「……え。え」
「さあ日暮れだ。保護者を心配させる前にお帰り」
「いや……え」
混乱している内に、ズルズルと背中を押しだされる。どんどん近づく玄関戸。
理解が、理解が追い付いていない。何かとんでもないことをとんでもない感じで流されて言いくるめられている気がする。今すぐこの状況を打破しないととんでもないことになる気がする。
「あ……」
早く何か言え!
「あ」
早く! 戸が開く!
「あの……!」
「ん?」
声が裏返った。恥ずかしい。でもそんなこと言っている場合じゃない。ハンナの意識が僕に向いた。今しかない。今しかない……けど何を言えばいい!? どれを言えば正解なんだ。
「どうやって家に帰るんですか!」
あ、違う。違った! これは違う。もっと言うべきことが他にあった。
あ、だの、う、だの発する僕。ハンナはハンナで、そのまま出ればいい、とか意味不明な事をさも当然のことのように宣っている。出ても大草原でしょうが。
開いた戸から、爽やかな風が室内に吹き込んだ。見えた空は、確かにうっすらと赤い。日没はもうすぐそこだ。ほらほらと押される背中が痛い。
僕は一歩前に踏み出して、ハンナの手から逃れた。振り返り、キッと目に力を入れてハンナを見上げた。抗議を試みる。
「――いいか、ソラ」
しかしハンナが強い口調で遮った。思わず口を閉じる。
「世界の見方を知れ。お前の持つ『好奇心』は決して悪いものなんかじゃない。つまらない世界は、お前のやり方次第で如何様にも楽しく、美しく輝く」
息を呑んだ。
今までの誰よりも真摯な眼差しをしていた。
「私を信じて」
言葉が、真っ直ぐ心に刺さる。
直感的に、この人を信じなければ、と思った。この人といれば『何か』ある。ここを逃せば、もうチャンスは訪れない。そんな予知めいた考えが、頭の中を支配する。口を切った。
僕はこの人を逃しちゃだめだ。
僕は気が付いたら見慣れた玄関に立っていた。自分の家の玄関だ。
あの後、何か口走ったはずだが、内容をまったく覚えていない。夢でも見ていたのだろうか。そうだとしたら何だか、残念だ。
ふと、手の中で何かカサリと音がした。緩い拳を開くと、小さな紙片がある。白くて、手の平に収まる程度の紙だ。そこには文字が三行つづられていた。
『オディーム村
魔女の家
ハンナ』
自分の字でも、両親や先生の字でもない。初めて見た字だ。僕はホッと息を吐き出した。さっきまでのことは夢じゃない。
僕は、ハンナのどこか安堵したような顔を思い浮かべながら、ただいま、と声を上げた。
この時の僕はまだ知らなかった。
数週間後にはこの魔女のウッカリで画家から弟子になることも、一年と半年後には名門の魔法使い学校で寮暮らしをしていることも。
僕はまだ、知らなかった。
つまらない世界を面白くするただ一つの方法 和山静香 @szkcode
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