魔女との出会い

第1話 草原

「なんでそんな不満そうな顔をしてるんだ! 怒られてるのお前だぞ!」

 僕はハッと意識を戻した。担任がブチギレている。これまでの説教を全部聞き流して適当に相槌を打っていたのが祟ったらしい。けど謝る気なんてこれっぽちも湧かない。

「だったら先生が僕の疑問に一から十まで答えてくれるんですかできませんよね」

 だからノンブレスではっきり言ってやった。

 担任は一瞬ぽかんとしたけど、すぐに顔を真っ赤にした。ガチギレである。退散しよう。

 僕は、担任が言葉を発する前に席を立つ。貰った教科書と適当に持ってきた道具類でパンパンのカバンを手に取り、戸に手を掛けた。

「失礼します」

 ぴしゃんと閉めた。

 天井を仰いで、音もなくため息を吐き出した。疲れた。

 気が向いたので久しぶりに塾へ来てみればコレだ。出席率が悪いと怒られた。

 担任の言うことをすべて黙って聞きいていた僕偉い。その代わりテストで満点取ってるでしょ、と言わなかった僕本当に偉い。その上、適当なところで相槌を打つなんてもはや生徒の鑑だ。もっとも、本当の生徒の鑑ならば、授業にも出席して、質問だけしてテストで満点を取っているのだろうけど。

 もう一度大きく息を吐き出し、前を向いた。ここに突っ立っていても仕方がない。早く立ち去ろう。担任が出て来る前に。

 僕は階段を目指して、廊下を左に折れた。

 階段を一段一段、ゆっくり降りる。

 なんたって担任はあんなに怒るのだろうか。塾の金額がバカにならないのは知っているが、でも先生としては金が入る上に面倒な生徒が来なくってラッキーなのではないのか。

 いや、クラスの和が……とかが理由だったけ? なんか、そんなことを言われていたような気がする。たぶん。覚えてないけど。

 でも別にいいだろう。クラスメイトも、隣で堂々サボられるより最初からいない方が気にならない。

「まだ明るい」

 踊り場から窓越しにメイン通りが見えた。建物はまだ夕陽に染まっていないし、初級学校に通っていそうな年下の子数人が走り抜けていく。今日の塾が早めに終わる日だったため、説教をされてもまだこの時間らしい。

 いいなあ。僕も、初級学校の低学年ごろはあんな風に楽しそうな顔してた……いや、してないな。あの時もこうやって、楽しそうにするクラスメイトを見て羨ましがっていた。つまらない世界なのに、楽しそうにしているのが心底羨ましかった。

 早くも一階についてしまった。ああ、帰ったら母さんに説明しなきゃいけないのか。また怒られる。悪いとは思ってるけど、でも、しかたないだろ。

 俯くと、靴に点々と硬そうな土がついているのに気づいた。昨日ぬかるんだ土の上を走ったからに違いない。水で落ちるだろうか。

 足元を見つめたまま、左右に延びる廊下を右に曲がる。

 足が止まった。憂鬱だ。父さんにも説明せねばなるまい。殴られることはない。ただ、同じことを二回も言うのは面倒だ。どうか僕が寝た後に帰ってきて、母さんから報告してくれないだろうか。今日何時に帰るのかな。なんなら仕事場で爆睡してくれてもいい。

 ここまで考えて、いや、と首を横に振った。足を止めている場合じゃない。すぐに帰らないと。帰りが遅くなるほど、それだけ説教されたのかと痛くもない腹を探られる。それは良くない。変な勘ぐりは全然良くない。

 背を押すように、一陣の風が背後から吹き抜ける。よし、と目を開け、前を向いた。

「……え」

 一面が草原だった。

「え」

 草の匂いが鼻腔をつく。

 慌てて来た道を振り返ると、そこは草原で、奥には緑の斜面があった。その大きさに釣られるように目線を上げていくと、少しばかり白っぽい空と生命力豊かな緑が美しい境界線を描いていた。つまり、山。塾がきれいさっぱり消えている。

「え、え! 夢!?」

 頬をつねると痛い。夢じゃないらしい。

「なん……え!?」

 何だこれ。どうしよう。どこだろう、ここは。まったく見覚えがない。塾にこんな場所はない。塾は建物から出てるとすぐに大通りに面する。野原なんて出現しようがない。いや、そもそも建物から出た記憶がない。もしかして先生がやったのか。そんなに僕のこと嫌いだったのか。でも、こんな見知らぬ場所に人を一瞬で飛ばせるような力を持つ先生は聞いたことがない。ってことは? は? なにこれ。どうしよう。どうしたらいい。

 途方に暮れた。手からそこそこ重いカバンが滑り落ちる。

 右を見ても左を見ても、草、草、草。

 風が吹いて、膝丈の草が波打つ。さあさあと涼しい音を立てる。

「……」

 息を吐き出した。

 幻想的だ。よくわからないけど、ここは綺麗な場所だ。

 天を仰げば、少しくすんだ青色にぽつぽつと白い雲が浮かんでいる。

 息を吸えば、草の青臭さと花の甘い香りがする。そこには湿気も感じられる。だからといって、肌がべたつく感覚はない。

 風がどこまでも爽やかで、日差しも気温もちょうどいい。穏やかで、ただただ過ごしやすい。

「……きれいだ」

 僕はいつの間にか、寝転がって空を眺めていた。雲が少しずつ、左から右に流れていく。

 自然の音だけが聞こえる。街の喧騒も人の声もしない。ささくれだった心が凪いでいく。

 ふと顔を横に倒すと、小さな黄色い花が咲いていた。その花は爪先の高さしかない。見たことのない花だ。

 僕はその花から目が離せなくて、手探りでカバンを手繰り寄せた。中身をまき散らしながら、スケッチ帳と鉛筆を取り出す。

 とりあえず後ろのページを開いた。前から順に使っているので、最後のページ、かつその裏には何もないはずなのだ。

 花の輪郭に視線を滑らせると同時に、同じ方向へ鉛筆も滑らせていく。練習していてよかった。おかげで手元を見ないまま花の輪郭をなぞることだけに集中できる。

 四つの花弁で構成される花。地面に置かれたように咲いている。葉っぱも地面にくっついているかのようだ。茎は見えないけれど、きっと花の下に隠れているんだろう。

 すぐに描き終わった。後ろ髪を引かれつつも、花から目を離して出来を確認する。まあいいだろう。

 描いたものを参考にしつつ、必要な線を修正し、簡単なスケッチを完成させていく。

 台形の角を取ったような花弁の形。繊細でかわいい、中央にある花芯。葉はギザギザで、網のような葉脈を持っている。葉の真ん中を貫く、生成り色の太い筋。

 茎も見たい。

 僕は、顔を地面にのめり込む勢いで押し付け、物差しの先を花弁の下に差し込んだ。ゆっくり、丁寧にめくって……。

「うわっ、生きてたのか」

「え?」

 驚いて、後ろを振り返った。中途半端に寝ころんだ体勢も、右ひじが上半身の全体重を支えていて、しかも石が若干のめり込んで痛いことも気にしている場合ではなかった。

 人だ。黒くて、地面を擦るほど長いワンピースを着た人。鍔の大きい麦わら帽子がミスマッチだ。というか、ここは無人の大草原じゃなかったのか。

「ここは私の庭だ」

「え。声に出てましたか」

「顔に書いてある」

 お互い、しばらく呆けた顔をしていた。僕は、その人が大きな笊を持っているのに気が付いた。青々しくて細い葉がはみ出している。そういえばここって庭……!

「す、すいません庭って知らなくて……あっでも侵入したわけじゃないんです! 信じられないかも知れないけど、僕、いつの間にかここに居て!」

 慌てて起き上がり、早口に捲し立てる。

 その人は無言だった。まずい。信じられていない。このままだと警察に突き出される。それだけは回避しないと。

「あ、あのっ!」

「いや、わかった」

 いや絶対わかってない。その真顔なところ、絶対理解してない。冤罪が生まれようとしている。

「おいで。茶を馳走しよう」

 そう言って、その人は僕の横をすり抜けた。あまりの展開の速さに僕が何をしたかったのか忘れてしまった。みるみる遠ざかっていくその人の背をただ眺めるしかできない。

 ふとその人が振り返った。ちょいちょいと手招きされる。

「ほら、おいで。そこの荷物も持ってきなさい」

 僕は零れていたものを適当にカバンに入れ、スケッチ帳と鉛筆は手に持って、その人の後ろを追った。

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