呉須色 紫

勇気の対価

 最悪の気分だ。今日はやけに視界が霞む。

 いや、霞むというよりはごちゃついている、という方が表現的には正しいのだろう。まあどちらにしろはっきりと見えていないことには変わりない。

 朝、顔を洗ったあとも何故だか鏡に映る自分の姿をはっきりと捉えることができなかった。

 どこに何があるのか。それはなんとなく分かる。とりあえず日常生活に大きな支障はない。

 恐らく二日ほど前に食べた肉が原因だろう。

 そんなことを考えながら俺はいつも通りの朝食を摂る。

 味気のないパサついたパンに昨晩調理しておいた肉を挟んだものと真っ赤な味の濃いジュース。

 調理をしたと言っても火を通しただけで肉に味付けはしていない。だから味の濃いジュースと一緒に食べる。

 味はそこそこ。悪くはない。

 初めの頃はどうだったか。美味しいと思っていたのか不味いと思っていたのか、もう覚えていない。だが今となってはこの食事以外考えられなくなっている。

 肉を挟んだだけのサンドイッチを頬張り、ジュースと共に胃に流し込む。愉しむための食事ではなく、空腹を満たすためだけの食事。

 十分ほどかけて食べ終えると、ソファにもたれかかり息をつく。

 別にソファはふかふかという訳ではないが、こうなるとしばらく動きたくなくなる。

 だがここで呆けているわけにはいかない。

 ついさっき冷蔵庫を確認した時、パンも肉もジュースも残り少なかったのだから。

 重い体を起こし窓を見ると、カーテンの隙間から陽の光が射し込んでいた。

 天気はいいらしい。出かけるなら今日だろう。別に明日でもいいが、明日の天気がどうなるか分からない。

 着替えを始める。今の汚れた身なりで外に出るわけにはいかないからだ。

 色褪せたシャツとズボン。外行き用の服で俺が持っているのはこの一着だけだ。夏だろうと冬だろうと、外に出る時はこのシャツを着てこのズボンを履く。

 目立った汚れはないが、もう二年近く着ているせいで少しボロボロになっている。

 何着か買い足したいところだが、買えるほどの金は貯まっていない。それに、服よりも欲しいものがある。だから新しい服を買うとしたらまだ先になるだろう。

 ボサボサの髪を整えて消臭スプレーを吹きかけると扉を開けて外に出る。

 眩しい。目を開けられないほどに。

 何日ぶりかの外。いつもカーテンの閉まっていた部屋で過ごしていたせいで、陽の光が眩しい。目元を隠し、下を向いていなければまともに目も開けられないほどだ。

 そのまま振り返って自分の部屋に戻りたい。そんな気持ちを抑えつつ、しばらくその場で外の明るさに目を慣らす。一分近くでようやく目元を隠さなくても目を開けられるようになった。

 だが視界は霞んだままだ。

 初めは、部屋の淀んだ空気のせいで視界が霞んでいるのかと思っていたがそうではないらしい。

 普段とは違う視界。あまりいい気分ではないが表情は普段通りを心掛ける。

 少し歩いたところで声をかけられた。視界が霞んでいるせいで誰だか分からなかったが声と話し方ですぐに分かった。少し先の平屋に住んでいるじいさんだ。

 美化して言えば慕われている、とでもいうのだろうか。まあ、嫌われてはいないし、世話焼きだし、よくじいさんの所に人が集まる。そういったタイプの人間だ。

 正直、あまり関わり合いたくないタイプの人間だ。


 軽く挨拶を交わすと、隣のじいさんがパンを渡してきた。

 じいさんの手作りのパンらしく結構人気らしい。ただ、俺の口には合わない。とはいえタダで貰えるものに文句を言うほど性根は腐っていない。それにこんなものでも俺にとっては必要なものだ。

 礼を言って別れたあと、俺は一度自分の家へと戻る。

 毎回会う度にパンを渡してくるせいで、それを受け取ることが生活の一部に組み込まれてしまっている。

 ただ、この後同じ道を通ってじいさんと会うと、またパン渡してくることがある。もう既にボケてるのだろうか。


 再び外に出て、今度は人通りの少ない道を選び森の奥へと足を踏み入れる。服が汚れないように気をつけながら人気のない森の中にいくつかの大きな罠を仕掛ける。さらに森の外辺りまで小さな罠を仕掛ける。

 それからいつもの公園へ向かい、誰も使っていないブランコに腰を下ろす。

 なんとなく公園のブランコで遊んでいると子供に戻ったような気持ちになる。相手がいればシーソーでも遊びたいがどうせすぐ飽きるだろう。滑り台は好きだがここの公園のは小さくて大人の俺はあまり楽しめない。鉄棒やうんていは体力を持っていかれるだけだ。なんで公園で疲れなきゃならないのか、と思ってしまう。

 だから俺にとってはブランコで軽く揺られているのが一番だ。

 ぼーっとしたまま、ブランコに揺られ続け、ふと独りぼっちの子供に目が止まった。

 独りで遊ぶのが好き、という訳ではなさそうだ。恐らくは友達の輪に入れずにいるのだろう。

 今ここで声をかけ、楽しそうに遊んでいる三人組の輪の中に入れてあげるのは簡単だ。だが、それをしたところで、気まづい空気にさせてしまう可能性もある。そうなると誰も楽しめない。

 男の子には悪いがそっとしておこう、と心の中で決めた時、男の子がこちらに近付いてきた。


「ねえ、おじさんなんでひとりぼっちなの?」


 独りなのはお前もだろ、と言いたい気持ちを堪え、俺はできる限り圧のない優しい表情を作る。


「おじさんじゃなくてお兄さん、な」


 何故第一声がこれになってしまったのだろう。

 声色なのか表情なのかは分からないが圧があったせいか、男の子は俯き小さな声で「ごめんなさい」と謝った。今にも泣きそうな男の子に、俺は焦りつつ「分かればいいんだ」と言って頭を撫でる。それから、「隣、座りな」と促すと、男の子は小さく頷いて隣のブランコに座った。


「俺……じゃなくて、お兄さんがどうして独りなのか知りたい?」


「……うん」


 別に独りでいることに特に理由はない。話しても大して面白くないことを聞かせて、それで満足するだろうか。いいや、しない。ならば、嘘でも面白おかしくするべきか。

 と思ったが、何を言えば面白いと感じてもらえるか分からない。それに返答にあまり時間をかけても、変に期待値をあげるだけだ。

 適当な嘘でもついておくか。


「天気がいいから散歩ついでに空を眺めてたんだよ」


「……ずっとぼくのほうみてたとおもってたけど、おにいさんはおそらみてたの?」


 予想だにしない答えに、俺は言葉に詰まりかけるが、「まあ、そうだな」と返し、間髪入れずに「そういうお前……君はどうしてお兄さんなんかに声掛けたの?」と話題を変える。


「え、だっておにいさんがずっとぼくのことみてたとおもったから……」


「……」


 …………。


「……?」


「……」


 …………。


「ど、どうしたの?」


「……っ! い、いや、なんでもない」


 切り替えたはずの話題がこんなにもすぐに戻ってきたことに頭が追いつかず思考停止していたが、声をかけられようやく脳が回り始める。


「まあ、なんだ。あれだ。どんな理由であれ、子供が知らない大人に声をかけるのは危ないからな」


 全くもって脈絡のない発言だということは分かっている。だが、どんな手を使ってでも話題を変えたかった。


「どうして?」


「最近ちょいちょい話題になってるだろ? 子供がいなくなったとか、大人でもいなくなった人が出た、だとか」


「うん、しってるけど。でもぼくのようちえんでいなくなったひと、いないよ? だからだいじょうぶだよ」


 いい流れだ。悪くない。このままこの流れで話を進めるか。


「自分の周りで起きてないからって、絶対に安全とは限らない。人間、っていうか他人の考えてることなんてそいつ本人にしか分からないから。優しかった人が豹変、なんてこともあるし」


「ひょうへんってなに?」


「いきなり悪い人になる、みたいな意味」


「……おにいさんは、そういうけいけんあったの?」


「ない。でも、いつ何が起こるかは分からないからある程度他人との距離は取ってる。まあ、分かりやすく言うと、仲良くなりすぎないようにしてる、ってことね」


「じゃあともだちいないの? だからひとりぼっちなの?」


 ここまで攻めたことを言えるのは子供だからだろう。


「……別にそういうことはない。友達はいたし、お兄さんが独りなのは一人で出掛けたからだ」


「そっか。……あのさ、おにいさん、ともだちいるならさ……その、ともだちのつくりかた、おしえて」


「……まずは勇気を出して自分から声をかける、ってとこからだな」


「そんなのはずかしいよ」


「そうは言っても、お兄さんには声掛けれただろ?」


「それは……その、まいにちあうのじゃないから……その、ようちえんのみんなだと、へんにおもわれるし……ずっとへんにおもわれるのやだから……」


 要領得ない話し方をしているが、恐らくはこうだろう。

 幼稚園のみんなとは毎日顔を合わせる。もし声をかけたとしても受け入れてもらえず変に思われると、それが後々まで尾を引く。それが嫌だ、と。

 だが、俺との関わりは恐らくはこの一回限り。だったら変に思われようがどうだろうが関係ない。旅の恥は掻き捨て、のような感覚なのだろう。


「なら、もしも、お兄さんが君と同じ家に住むことになりました、ってなったら、話するの怖くなるか?」


「ううん」


「それは何故?」


「もうおはなししたもん」


「そうだよな。あ、一応確認なんだが、今いくつだ?」


「ごさい」


「……じゃあ来年は卒園か」


「うん!」


「なら幼稚園のみんなとはもう会わなくなるかもしれないな」


「そうだけど……」


「だったら勇気出して声掛けれるだろ。もう会わないなら怖くないだろうし」


「でもまだたくさんあうし……」


「大丈夫だ。こんな年上のお兄さんに声掛けれたんだから。頑張れ」


「……」


 煮え切らない表情をしている男の子に、俺は「それでもまだ無理だって言うなら、一つ方法はある」と提案をする。


「ほうほう? なに?」


「その前にひとつ聞いていいか?」


「……?」


「遠くのもの、はっきり見えるか?」


「……? とおく? ……わからない」


「目が良いか悪いかって話だ」


「……わからない。けど、たぶんわるくないとおもう」


「……そうか、それは良かった」


 漏れそうになった感情を抑え込むように淡々と返す。

 男の子が不思議そうな表情でこちらを見ているが無視をする。何故視力を聞いたのか、理由など答えてやる義理はない。


「で、どうする? 勇気をつける方法、教えてやってもいいが……正直あまりおすすめはできない」


「……どうして?」


「ここじゃ言えないんだ。つまり着いてきてもらうことになるわけだが……知らない人に着いていくのは危ない、って言うしな」


「……もうおはなししたからしらないひとじゃないよ?」


「おい、それでいいのかよ……」


 呆れたような視線を男の子に向けると、男の子は「ゆうきもらえるならいく!」と決心したような目を向けてきた。その期待に応えないわけにはいかないと思い、俺は立ち上がり男の子の頭を撫でたあと、「来い」と言って公園を出た。


 日が沈んでしばらく、俺はようやく家で落ち着くことができた。

 朝仕掛けた二十箇所以上罠のうち、二箇所に獲物がかかっていた。最近、全くかからないことが多かったから運が良かった。

 一度家に帰り、汚れてもいい服に着替えて簡単に解体してから持ち帰る。まあまあ体力を使うが仕方ない。

 見られてはいけない。こういったことをしていると誰にも話していないから。

 今日はかなりの収穫があった。

 俺は捕らえた獲物を眺める。

 大人の男二人に子供一人。四肢と首は切断してある。ビニール袋の中に若い血と大人の血が混ざっているが気にすることはない。味に大きな変わりはないのだから。

 最優先で所持していた財布から金を抜き取り、その後衣服を剥ぎ取る。

 血を小さな鍋に移し、冷蔵庫に入れる。

 脚、腕、頭、胴を包丁で切り分けて冷凍庫に入れる。

 最後に残った子供の頭を鷲掴みにし、まぶたを引っ張り上げて虚ろな瞳を見ながら薄く笑みを浮かべた。

 視力の良いガキ……恐らくこれでこの霞んだ視界ともおさらばできるだろう。


「だから言ったのに。知らない人についていくな、って」

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呉須色 紫 @gosuiro_murasaki

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